第5章 特別な瞬間をあなたとともに
特別な瞬間をあなたとともに①
三月に入ったが、越後湯沢の冬はまだまだ続いている。少しずつ降雪は落ち着きを見せつつあるが、スキー場はどこも元気に営業中だ。
そんなある日、莉奈は軽井沢に来ていた。
越後湯沢と変わらない寒さを全身で感じつつ、車から降りる。椎名の所有しているミニバンは中が広くていい。
「いやあ、ひっさしぶりに来たなあ」
マフラーに顔を半分埋めながら、椎名は懐かしげに景色を見渡した。軽井沢は椎名の故郷だが、仕事にかまけてほとんど帰っていないらしい。
今日も二年ぶりだと話していた。
「軽井沢は初めて来ました」
「わたしも」
ひとり郷愁に浸る椎名の背中を眺めながら、莉奈は栗原と顔を見合わせた。
話は一ヶ月ほど前に遡る。
*
「椎名さん、聞きましたか」
「おう、昨日連絡があった」
その日、莉奈は出勤と同時に椎名に声をかけた。
挨拶もそこそこの問いかけは、具体名を出さなくとも伝わるものがある。
「ついに、ですね」
昂る感情が抑えられない。それは椎名も同じようで、いつもの人の良い笑顔が単に締まりのない表情に成り果てている。
引き継ぎのバインダーは手に持っているが、まったくそれを見るそぶりもない。
「篠塚さんのペンション、ついに開業ですね」
昨日の夕方、一通のメッセージが届いた。
開いてみると、準備をしていたペンションが三月からオープンするのでぜひ遊びに来てほしい、という内容で、めでたい知らせに寮の部屋で声を上げて喜んでしまった。
篠塚早苗は半年ほど前にホテル雪椿を退職している。
その後は夫とともに軽井沢に移り住み、ペンション開業の準備を進めていた。
もともと彼女は自分で宿泊施設をつくりたいという夢を持っており、その準備やキャリア形成のためにホテルでずっと働いていたというのは、退職前に本人から聞いた話だ。
日勤のプレイヤーとしてお世話になった彼女がついに夢を叶えたのだ。
嬉しさに舞い上がったまま、近いうち行きます、と返事をした。
だがさすがにペンションに一人で行くというのはハードルが高い。
公式サイトを見ると明らかにおしゃれな空間で、家族やグループで訪れるのには適しているものの、一人旅向きではない。彼女の顔写真に添えられたオーナーコメントにも、ぜひ大切な人との思い出づくりに、などと書かれている。
「梅本とか柳を誘って行こうかと思ったんですけど、二人とも忙しそうで」
そう、昨日、既に二人には打診していた。だが返事は芳しくなかった。
しばらく前に彼氏からプロポーズを受けたという梅本は、莉奈の誘いに対して申し訳なさを幸せにひとつまみだけ足したような声で言った。
「ごめん、入籍の準備で忙しくて、三月は無理そう」
一方の柳は、何日か前から十日町の実家に帰っている。
仕事のシフトも調整しているようだ。
「親の体調が良くなくてさ。犬の面倒も見なくちゃだし、しばらくは難しいかなー」
その経緯を伝えると、じゃあ一緒に行くか、と椎名が誘ったのだ。
「さっき、栗原と一緒に行く話をしてたんだ。野郎二人と一緒に行くのが嫌なら遠慮なく断ってくれて構わないけど」
「いや、そこは気にしてないですけど……フロント、一気に三人休んで大丈夫ですか」
「日勤一人と夜勤二人だろ。シフトの調整くらいいくらでもできるんじゃないか。三月の平日なら稼働も落ち着くし」
それもそうかと納得し、最終的には彼らと共に軽井沢を訪れることが、なし崩しに決定していた。そして今日に至るというわけである。
見慣れた雪も、違う土地に降り積もれば異なる景色になる。
軽井沢の駅からは少し離れたところにある篠塚のペンションは、周辺の自然溢れる雰囲気を堪能できるロケーションの良さが売りの一つでもある。
「あ、無事に着いたのね。長旅お疲れ様」
車から荷物を下ろしていると、篠塚が出迎えてくれた。
夫の龍太も現れて、荷物を預かってくれる。
「来ました。素敵なところですね」
莉奈がそう言うと、彼女は心底嬉しそうに微笑んだ。
「でしょう? 場所をどこにするかずっと悩んでたんだけど、運命ってあるのよね。わたしも夫も一目惚れして、ほとんど即決したの」
まるで少女のようににこにこと話す篠塚を見守る龍太の表情もやわらかい。
その様子を見られるだけでも、来た甲斐があったというものだ。
「さあさあ、寒いから入って。温かい飲み物を用意してあるから」
「僕は部屋に荷物を運んでくるよ」
二人に促されるように玄関をくぐると、中は暖色の照明に明るく照らされていた。
壁や窓際には、篠塚の趣味らしい装飾がバランスよく並んでおり、初めて訪れる場所なのにほっとする居心地の良さがある。座ったソファもふかふかで、ほどよく体が沈み込む感覚が気持ちいい。
篠塚は木製のトレーにマグカップを載せて、ソファで寛ぐ莉奈たちのもとへ近づいてきた。
「はちみつ入りのミルクティーだよ。飲んでって」
「わあ、いい香り」
龍太は紅茶に詳しいのだという。日によって使う茶葉を選び、淹れ方にもこだわっているそうだ。
はちみつは篠塚が地元のショップで厳選してきたものなのだと、彼女は楽しそうに話してくれた。
「椎名くんはよく知っている場所だと思うけど、いいところでしょ」
からし色の模様が入ったマグカップを手に、篠塚は目を細めた。彼女の後ろに置かれているストーブの紅い火が、ゆらゆらと揺れている。
「空気が良いですよね。明日、椎名さんに案内してもらうつもりですけど、今から楽しみです」
「住むとなると便利ではない場所かもしれないけど、それは湯沢も一緒だしな。でも俺はこのくらいの町が好きなんだよなあ」
「わたしもよ。出身は横浜だけど、なんでもあって便利な都会よりも、わたしにはこういう場所が合ってると思うのよね」
龍太は自分のマグカップと、綺麗な花柄の描かれた皿を手にスツールに腰掛けた。
テーブルに置かれた皿には、アイシングクッキーが並んでいる。
「最近はまって、趣味で作ってるんです。ちょうどさっきできあがったところなので、よかったら」
龍太はそう言ってはにかんだ。笑った顔は、篠塚とよく似ている。
「みんな元気にしてる? 今年はたくさん雪も降って順調そうだけど」
「フロントは相変わらずですよ。漆間もかなり慣れて、基本的なことはもうまったく心配いらないですし。あ、今年も桃井さん来てますよ。篠塚さんによろしくって」
話しながら、栗原は猫の絵柄のクッキーをつまんだ。うま、とつぶやいたのを聞いて、龍太が嬉しそうに彼を見つめた。
「じゃあ、今年もいつものメンバーね」
「新しい子もいますよ。桃井の後輩の女の子で」
近況報告でひとしきり盛り上がった後、莉奈たちは空になったマグカップを返して立ち上がった。
「長話になっちゃったね。でも、みんなが変わらず元気にしてるってわかってよかったわ。特別に広めの部屋を用意しておいたから、ゆっくりしてね」
「そんな、いいんですか。ありがとうございます」
「当たり前よ」
カランカラン、と軽快な音が鳴った。
別の宿泊客が到着したらしい。じゃあごゆっくり、と言って、篠塚夫妻は出迎えに立ち上がった。
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