忘れてしまわないように繋ぎ止めて⑦


 翌日は朝一番の出勤だった。平日の朝八時はまだあまり動きがない。

 ゆったりと椎名から引き継ぎを受けて、莉奈はフロントカウンターに出た。その真ん中に、背の高い人影がある。


「おはよう、栗原くん」

「おはようございます」


 名前を呼ぶと、彼はいつものようにほとんど表情を動かさないまま振り向いた。

 隣に立って、真っ直ぐフロアを見つめる。胸の中はすっきりしていた。


「昨日、ありがとうね」

「何がですか」

「……ううん。なんでもない」


 とぼけた声に、莉奈は言おうとしたことを飲み込んだ。


「……あ」


 ふいに、栗原が小さく声をあげた。視線はエレベーターホールを向いている。

 同じ方向を見ると、アッシュブラウンのコートが目に入った。昨日と同じようにマスクで顔の半分が隠れている。

 右手にはボストンバッグと紙袋。昨日、到着した時と同じ荷物だ。


 早番のベルスタッフとしてロビーにいたのは李だった。さりげない仕草で彼女からバッグを受け取る。

 紙袋も預かろうとしたが、葛西は小さく首を振ってそれを断った。


「チェックアウトをお願いします」

「おはようございます。承知いたしました」


 鍵を受け取りながら栗原が微笑んだ。

 内心浮き足立っているだろうが、それをおくびにも出さないあたり、プロのホテルマンらしさが身についている。


 明細を確認し、クレジットカードでの精算をあっさりと済ませ、葛西は財布をハンドバッグにしまった。

 三つ折りにした明細の入った封筒を受け取り、――カウンターを離れるかと挨拶の準備をしていたのに、彼女はもじもじと何かを迷うようなそぶりを見せた。


「葛西様?」

「……あの」


 葛西は俯いたまま、持っていた紙袋をカウンターの上に乗せて、こちらへ差し出してきた。

 突然の展開に、栗原は目を丸くしている。


「ええと、これは……」

「父が、お世話になりました」


 彼女は深く腰を折った。カウンターの中で、莉奈は栗原と顔を見合わせた。


 予感が、的中したのだろうか。


 二人の胸に浮かんだ疑問符の答え合わせをするように、葛西はマスクを外して口を開いた。


「三年前、父はこのホテルを訪れた際に亡くなりました。持病はありましたが、あまりに急なことで……母は、婚姻関係を解消こそしたものの、父のことはとても大事に思っていましたので、なかなか立ち直れずにいました。わたしも……夢を応援してくれていた父がいなくなってしまったことが、ずっと信じられなくて」

「……」


 莉奈も栗原も、じっと黙って彼女の話を聞いていた。

 意図的にではなく、どんな言葉を紡げばいいのかわからなかった。


「実は、ずっと越後湯沢という場所が怖かったんです。その名前を聞けば、父のことを思い出してしまって。その時のことを想像してしまうから、わたしも母も、ずっと考えないようにしていました。でも、三回忌の時に麻宮さんという方とお会いして、あの日のことを伺ったんです」


 ――柿崎さん、あの日のホテルや食事がとっても気に入ったみたいだったんです。ディナー中に何度も、また来たいなあ、と言っていました。その時には、お二人と一緒に、なんて……


「麻宮さんは、父の部下にあたる方で、父が勤め先でもっとも仲良くしていた方でした。あの日も救急車に同乗してずっと一緒にいてくださったんです。父がそんなことを言っていたなんて思いもしませんでした。仲は良かったけど、三人でどこかに出かけようなんて、そんな話をしたことは一度もなかったので……でも、父がそんなふうに思ってくれていたのなら、一度くらい行ってみようと思って、今回予約させていただきました。母は……今回は行かない、と言っていましたが」


 元妻という立場だとしても、気持ちの整理をつけるには時間がかかるだろう。

 ましてや、状況が状況だ。そう簡単に訪れる気持ちにならないのも理解できる。


「どうせなら、父が泊まった……泊まる予定だった部屋に泊まりたくて、お部屋のわがままを言ってしまいました。それに、父が最後の食事をした宴会場が洋食レストランの隣にあると知って……ディナーの時、父は窓際の席で、そこからの雪景色を綺麗だと言っていたそうなので、できる限り近い景色を見たかったんです。本当にすみません」

「謝らないでください。お気持ちはお察しいたします」


 心底申し訳ないというように何度も頭を下げる葛西に、莉奈は思わず声をかけた。

 事情を知った今、彼女と彼女の母親の、どうにもならない思いが痛い。


「帰ったら、母にここで撮った写真を見せてみます。嫌だと駄々をこねるかもしれませんが、わたしは……ここに来て良かったと、心の底から思っているので。ようやく、父の死と向き合えると思います。いつかわたしの声優としてのイベントをやれる時がきたら、この場所がいいなと思えるくらいには、今、前向きになれました」


 潤んだ瞳が、柔らかく弧を描く。

 さまざまなメディア越しに見るものとは違う、心の中に押し殺した思いが溢れるようなその表情に、差し込む朝日がきらめいた。


「こちらはみなさんで召し上がってください。わたしの予約で、たくさんお手間をとらせてしまったでしょうから、予約のご担当の方にもよろしくお伝えください。本当は直接お礼を申し上げたかったんですけど、東京に戻らないといけなくて」

「こちらこそ、お気遣いいただきありがとうございます。葛西様の心の内をお聞かせいただけて、とても嬉しく思っております。おつらいことだったと存じますが、今回のご滞在が葛西様にとって良いものとなったのであれば、私どもとしましても幸いでございます。どうぞお帰りもお気をつけて」


 ベルカウンターに待機していた李が近寄っていく。

 彼女に預けていたボストンバッグを受け取り、一礼して去っていく葛西の背中を見送りながら、莉奈は栗原の脇腹をつついた。


「お見送りしておいで。ファンなんでしょ」

「え、でも」

「何を話すかは栗原くん次第だよ。行ってきな」


 まだあわあわと戸惑う彼の背中を押してカウンターから追い出す。

 呼び出しベルを置いて、莉奈は葛西からもらった土産の紙袋を持ってバックオフィスに入った。デスクでは椎名がくつろいでいる。


「椎名さん」

「ん」

「こちら、葛西様からです。――三年前、お世話になりました、とのことで」


 その言葉だけで、椎名は何のことかわかったらしい。

 きっと莉奈や栗原と同じように、察していたのだろう。椅子がひっくり返るかという勢いで立ち上がって歩き出す。


「お見送り、お願いします」


 その言葉が椎名に聞こえたのかはわからない。


 再びフロントカウンターに出ると、雪景色に反射した朝の光がロビーを明るく照らしていて、冬の朝も悪くないなと思った。




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