忘れてしまわないように繋ぎ止めて⑥



 その夜、莉奈は一人で「ゆきうさぎ」にいた。

 沈んだままうまく戻らない自分の気持ちを宥めようと、少しだけ飲みたい気分になったのだ。梅本も柳も遅番でまだ仕事なので、誰もつかまらないままカウンターに座った。


「一人なんて、珍しいね」


 顔馴染みの店員が、熱いおしぼりとコースターをセットしながら話しかけてきた。

 ホテル雪椿に入社して引っ越し、先輩や上司に連れられて初めてこの店に来た時から、ほとんどいつもいる店員だ。スポーツ好きらしく、黒く日焼けした肌に白い歯が眩しい。


「どうかしたの」

「いやあ、まあ……接客って難しいなって」


 わだかまりを一般的な言葉に翻訳すると、途端につまらない話のようになった。

 莉奈はレモンサワーと軟骨の唐揚げ、だし巻き玉子を注文した。だし巻き玉子は一人なのでハーフサイズだ。


「椎名さんとかに相談したらいいじゃん」

「んー……いや、ほかの人から、それぞれ違うことを言われて。それで自分はどうしたらいいのか、ちょっと迷いが出たというか」

「でも、桐島さんももう入ってけっこう経つでしょ。今更そんな青いこと考えるんだね」


 店員はレモンサワーとお通しの小鉢を手に近寄ってきた。今日はきりざいらしい。

 この地域の郷土料理で、野菜と納豆のみじん切りを和えたものだ。


 それをつつきながら、莉奈はうーんと唸った。


「自分がやろうとしていることはただのお節介なのかなって。ホテルマンであることを超えてしまうのかなと思って、ちょっと考えてるんです」

「ふうん?」


 疑問符のついた相槌を打って、店員はカウンターの中に戻っていく。

 女将は手際よく、莉奈が注文した料理を準備している。合間にほかの客の料理も作っているので、忙しそうだ。ちょうど注文が集中したようで申し訳ない気持ちになる。


「お客様の心に秘める思いを見せてもらえると、嬉しくなるんです。うちでゆっくり過ごして、楽しかった、来てよかったって思ってもらいたいのはもちろんですけど、お客様のもっと心の奥深いところに響くサービスができたらなあ、って思ってて」

「なるほどねえ」


 女将が軟骨の唐揚げとだし巻き玉子をカウンター越しに差し出してきた。

 ありがとうございますと受け取ると同時に、がらりと店の入り口の引き戸が開く音がした。


「二人いけます?」


 何の気なしに振り向くと、見慣れた顔だった。入ってきた人物と同時に目を見開く。


「桐島」

「桃井さん」


 彼の後ろには笹川がいた。背中越しにひょこっと顔を出して、あっと無邪気な声を上げた。休みだったせいか、いつもと化粧の雰囲気が違う。


「桐島さん、いたんですね」

「うん、笹川さんもお疲れ様」


 座敷は満席だった。二人は莉奈の隣のカウンター席に並んで座った。生ビールを二杯と肴をいくつか注文して、桃井はおしぼりで手を拭った。


「一人なの」

「誰もつかまらなくて。偶然ですね」


 笑ったつもりだが、うまくできた自信がない。

 桃井も微妙な顔でそうだねと言うだけだ。昼間の微妙な空気をまだ引きずっているのは、どうやら自分だけではないようだ。


 その空気を悟って気配を潜めたのは笹川で、まったく気にしないのが店員だった。

 彼は運んできたジョッキを二つ、桃井と笹川の間に置きながら、顔だけ莉奈のほうを向いた。


「いいんじゃん、桐島さんはそのままでさ。俺たちだってお客さんにお節介かましてばっかだし、その厚意をどう受け取るかはお客さんの自由じゃん。少々出しゃばったって別に大丈夫でしょ」

「……」


 このタイミングで、と、莉奈は内心がっくりした。これこそまさにお節介だ。

 案の定、桃井の表情は険しくなっている。


「桐島さ、まだ昼間の話、引きずってるの」

「……引きずってるというか、考えてるんです、ずっと」

「考えるまでもなくわかりきってることじゃないの」

「わたしには!」


 思ったよりも大きな声が出た。笹川がびくりと肩をすくめたのを見て、申し訳ない気持ちになる。

 だが口は止まらなかった。


「わたしには、わからないことなんです。桃井さんの言うこともわかりますし、篠塚さんの教えに背くつもりもないです。でも、それだけじゃないっていうか、踏み込まないことと、想うことは、両立できないのかなって……」


 桃井は黙って聞いている。斜めから火種を投げ込んだ格好になった店員は、そそくさと厨房に戻って女将の手伝いをしている。


「確かに、わたしたちホテルマンに、お客様のプライベートに無遠慮に踏み込む権利なんてありません。お客様が要望を仰られたら、それを可能な限り叶えるのがホテルの仕事です。ですが、お客様のことをせいいっぱいもてなしたい、幸せな気持ちになってチェックアウトしてほしい、って考えて、お客様のことを知りたいって思うのは悪いことですか」

「……」

「もしもあの方がうちのホテルでの悲しい思い出を持つゲストなら、せめてそれを癒やして帰ってほしいんです。あれから時間が経って、その場所に足を運んで良かったって、前を向いていただけたらって思うんです。赤の他人の身勝手な願いなのはわかってますが、ただいつものように対応するだけじゃよくないって、思ったんです。だから、そのために知りたくて……」


 固有名詞は出さなかったが、笹川はこの話が葛西のことだと気づいただろう。縮こまっていた肩が降りて、莉奈をじっと見つめている。

 桃井はそんな彼女と対照的に、莉奈から視線を逸らした。


「桐島」

「はい」


 運ばれてきたビールの泡は、もうほとんどなくなっていた。かすかに残っているジョッキの中の白をじっと見つめたまま、桃井はそれから数秒、黙ったままでいた。


「……別に、俺も、わからないよ」

「え?」

「俺はさ、この仕事は自分に向いてると思ってる。でもそれは条件的なこと……わかりやすく言えば、接客業、ホテルの仕事っていう業務内容が自分に向いてて、無理なく働けるって話なんだ。桐島みたいにお客様のことをそこまで深く考えられるような働き方じゃないって、自分で思ってる」


 莉奈のことを否定するような口ぶりではなかった。

 むしろ、桃井自身の中にあるものと対話するような、吐き出すような、そんな声音だ。


「ゲストに踏み込むのはよくないってただ思っていたし、それは今も変わらないけど、……もしかしたら、俺はそうするのが怖いのかもな」

「怖い……」


 桃井は小さく頷いた。


「踏み込んだら、感情ごと持っていかれてしまいそうでさ。そうなった時に、ホテルマンとして冷静でいられる自信がない。感情が昂って、泣いたり笑ったり、怒ったり、してしまいそうで」


 全然大人じゃないんだよ、と、桃井は自嘲した。ジョッキの外側についた水滴が滑り落ちて、少しずつ水たまりになっていく。


「でも、今日、桐島にきつく言いすぎたなと思ってさ。それで思ったんだけど、桐島はゲストのことをたくさん知ろうとするし、俺からしたらすごく踏み込むなって思う時もあるけど、失礼なことはしてないんだよな。対面して接する時は、ちゃんと距離感を弁えてる。だからこそ、ゲストも桐島にいろいろ話しかけたくなるんだろうな。俺よりよっぽどできたホテルマンだよ」


 買い被りすぎだと思った。莉奈はぶんぶんと首を左右に降って、桃井を見つめた。


「いろんなホテルマンがいるべきだと思います。わたしみたいなお節介ばっかりじゃ嫌な人だっている。桃井さんのスタンスを心地いいと思う人だってたくさんいます。そんなこと言わないでください」

「そんなこと、わかってるよ」


 桃井は呆れたように笑った。


「ごめんね。桐島に嫉妬してたのかもな、俺。ゲストのためを思って、どんどん進んでいけるところは、俺にはない部分だから」


 目の奥がぶわっと熱くなるのを感じて、莉奈は俯いた。


 そこまで言ってもらえるほど、自分のやりかたに自信があったわけではない。

 実際、桃井に止められた時は、やはりよくないのだろうかと本気で考えもした。ただの野次馬根性なんじゃないかと自問自答して、自身を失いかけた。


 それでも、自分のこのスタンスで、ゲストの心に響くサービスができているのなら。

 それなら、無理に変わる必要はない。それは莉奈も、桃井もそうだ。


「泡、抜けちゃいましたけど、乾杯しません?」


 桃井の肩越しに、笹川がジョッキを掲げた。

 氷が溶けてとっくに薄まったレモンサワーのグラスを持ち上げて、莉奈は笑った。

 桃井も同じように自分のジョッキを手にする。


 かちん、と、軽い音が鳴った。



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