忘れてしまわないように繋ぎ止めて⑤
*
その翌日、葛西明里が来館したのは比較的早い時間帯だった。
午後三時よりも少し早くチェックインを開始してすぐ、アッシュブラウンのコートに身を包んだ女性が、ボストンバッグと紙袋を左手に提げて入館してきた。
「すみません、一人で予約している葛西と申します」
「葛西様……葛西明里様でいらっしゃいますか」
「はい」
莉奈は接客用の表情を作りつつ、密かに衝撃を受けていた。
――今目の前にいるのは、間違いなく声優の葛西明里だ。
昨日、帰ってから自分のスマホで葛西明里を調べていたのだ。彼女がSNSに投稿していた二日前の自撮り写真と同じであると、さほど詳しくない莉奈でもわかった。マスクはしているが、髪色や目元の雰囲気が同じだ。
だが、莉奈にはもうひとつ、拭い切れない疑念があった。
「あの、これで大丈夫でしょうか」
チェックイン手続きで渡すカードの準備をしながらそのことを考えているうちに、葛西は宿泊カードを書き終えていた。それを受け取って案内を始める。
部屋や食事の際の手配について、希望通りのアサインができたことを伝えると、彼女はほっとしたように目元を緩ませた。
「ありがとうございます。無理を言ってすみません。予約のご担当の方にも、よろしくお伝えください」
どうしても、と食い下がったという割に腰が低い。
ベルスタッフにアテンドを変わるまで、彼女は何度も頭を下げていた。
その様子を見て、莉奈の疑念はほとんど確信に変わっていた。
「桐島?」
桃井が声をかけるまで、宿泊カードをじっと見つめていた。
はっと顔を上げると、怪訝そうに首を傾げてこちらを見つめている。
「どうかしたの」
「……桃井さん、三年前に亡くなったゲストがいたの、覚えてますか」
「ああ……そんなこともあったな」
「彼女、その方の娘さんだと思うんです」
あの日、深夜にやってきた柿崎の家族が書いた宿泊カードのサインは、可西という苗字だった。カサイと振り仮名が振られていたが、珍しい漢字表記なのだなと記憶に残っている。
昨日笹川と話をしたせいか、読みが一致する苗字であることが気になっていたのだ。
理由はそれだけではない。
「桃井さん、これ、見てください」
莉奈はパソコンの画面にとあるウェブサイトを表示させた。半年ほど前の、葛西のインタビュー記事だ。
ちょうどその頃に彼女が主演を務めたアニメが大ヒットしたことで、それなりのロングインタビューとなったようだ。
「ここ。お父様が二年前の冬に亡くなったって書いてあります」
――両親はわたしが小学生の時に離婚しましたが、だからといって仲が悪かったわけではありませんでした。母は「結婚には向かなかったけど、大事な人なのよ」と笑っていましたし、父とは頻繁に会っていました。学費の支援もしてくれたし、声優の夢も応援してくれました。
――ですが、今から二年と少し前、わたしが声優として少しずつお仕事をいただけるようになった矢先、父は急死しました。仕事の関係で遠方に出かけていた時に倒れたため、最期には立ち会えませんでした。その場所は見たことがないほど雪が積もっていたのですが、こんなに寒い街で父は独りで、苦しんで旅立ってしまったのかと思うと、わたしも母も悲しいどころの話ではありませんでした。翌日からしばらく、お仕事もキャンセルして、力が抜けてしまった母と二人、過ごしていました。
「……本当だ」
「早とちりかもしれませんが、条件が揃いすぎだとも思うんです。時期も、場所も、状況も。もちろん、まったくの他人であるかもしれないですけど、もしかしたら――」
「いや、やめよう。こんな話」
莉奈の言葉を遮って、桃井は低い声で言った。
「詮索するのはよくないよ。憶測であれこれ言うのも。篠塚さんも言ってたでしょ」
「それは……わかってます。けど」
桃井の視線は冷たい。強く咎めるような口調で、桃井はさらに畳み掛けた。
「仮にそうだったとして、どうするの? 何も求められてないのに余計な配慮やサービスをするわけでもないでしょ。いいじゃん、ちょっとこだわりの強いお客様ってことでさ」
「……」
正論だ。彼女の正体を暴いたとして、だからなんだというのか。
葛西が求めてもいない行動は、かえって彼女を不快にさせる結果にしかならない。ホテルのスタッフが自分のことをあれこれ探っているなんて、たとえ著名人だとしても良い気分になる人はいないだろう。
何も言い返すことができず、莉奈は俯いた。
「落ち着きなって。ゲストのことを考えるのは悪いことじゃないけど、そこまで詮索するのは違うよ。葛西様が何か言ってきたら、真摯に対応すれば良いだけなんだから」
「……はい」
話はそこで打ち切りとなった。チェックインのゲストがやってきて、桃井が対応を始めたのを横目に、莉奈はパソコンのブラウザを閉じた。
夕方になって、夜勤の椎名と栗原が出勤してきた。
彼らと入れ替わりに、朝一番の出勤だった桃井が退勤していく。遅番スタッフにカウンターを任せて、細かい事務作業のためにバックオフィスに入っていた莉奈は、ふと仕事の手を止めた。ソフトを最小化して、ホテルシステムを開く。
葛西明里の予約画面を表示させた。
予約内容の特記事項の欄を見る。
客室の部屋番号と、レストランの座席の位置について、要望が入ったという記載がある。日付はインターネットからの予約を受信した翌日だ。
客室の指定は八〇三号室。レストランの座席は窓際。
食事席で窓側希望というのはそこまで珍しいリクエストではないが、この客室を指定するのは何かよほどの理由があるに違いない。
八〇三号室は、ごく普通のツインルームだ。角部屋というわけでも、縁起のいい数字であるわけでも、取り立てて眺望がいいというわけでもない。
数あるツインルームのうちのひとつにすぎないこの部屋番号を、あえて指定した理由が気になって仕方ない。
「何、一人変顔大会してるんですか」
「……別に大会を開催しているつもりはないよ、栗原くん」
食事から戻ったらしい栗原が、莉奈の隣の椅子を引いた。
「ああ、引き継ぎのあったゲストですね」
「うん。声優さんなんでしょ?」
「ですね」
栗原は肯定しながら予約画面を覗き込んできた。
「よく見てませんでしたけど、確かにちょっと不思議な感じはしますね」
「やっぱりそう思う?」
「さっき、フロントに来たんですよ。それで思ったんですけど――この人の父親って、前にうちで宴会中に倒れた人ですよね、たぶん」
ずっと疑念として胸の中に抱いていた気持ちをあっさりと言葉にした栗原に、莉奈は目を丸くした。
「……同じこと考えてたんだね。何で気づいたの? やっぱり、インタビュー記事?」
「それもありますけど、最初に気づいたのはあの時ですよ。深夜に飛んできた二人のうち、若い女性の顔や声に心当たりがありすぎて」
ファンなんですよ、と、栗原は急に恥じるような表情になった。
彼の趣味を聞くことはほとんどなかったので新鮮だ。
「だからすぐわかりました。あの時はそれどころじゃなかったから、誰にも言いませんでしたけど。それで、一昨年の冬だったかな、ファンイベントのライブのときに、お父さんが亡くなって一年経ちました、っていう話をしてたんですよ。ずっと夢を応援してくれていたお父さんに、って、MCで話して、一曲歌ってました」
思ったよりも、栗原は葛西明里の熱心なファンらしい。
莉奈はいままで、そんなイベントがあったことすら知らなかった。
栗原は予約画面をじっと見つめながら、言葉を続けた。
「本当にあの男性の娘さんなのだとしたら、この部屋やレストランの席の希望もそれに関わることなんじゃないでしょうか」
貸してください、と言って、栗原は莉奈の手元のマウスとキーボードを手元に引き寄せた。そして、過去の予約を検索する画面で、団体の名前を入力した。
「確かこんな感じの団体名でしたよね」
「たぶん」
「検索……あ、出てきた」
三年前の日付で、その団体名で予約されていた部屋がずらりと出てくる。ほとんどが八階や九階の洋室だ。
ツインルームはエキストラベッドを設置すれば三人まで入れるが、この時はツインは全て二名利用だったようだ。
「今回の葛西様の部屋は八〇三号室でしたっけ」
「うん、そう」
一覧の中から部屋番号を探して、内容を表示させる。団体の予約は、システムの名前欄に団体名と宿泊者のフルネームを記入するのがルールだ。その履歴の名前欄には、
「柿崎正人、と、麻宮宏也……」
「亡くなったのは柿崎様だよ、確か」
新潟県の上越市に、柿崎という地名がある。莉奈の母親の出身地なので、同じ苗字だったとよく覚えていた。
「やっぱり、そうだと思いますよ。彼女、おそらく父親の最期の場所として、ここを訪れているんだと思います」
「……でも、やっぱよくないよ。こんなふうに探るようなこと」
「なんでですか」
「お客様が大事に抱えているものを、無理やり暴こうとするのはあんまり良いことじゃないでしょ」
数時間前に桃井に言われた言葉が、胸の奥に貼りついてはがれない。
葛西のことが気になる気持ちに蓋をしていたのに、まるでそれをこじあけるような栗原の言動に、もはや苛立ちを覚えるようになっていた。
「まあ、確かに褒められたことじゃないですね。お行儀よくはないですから」
悪びれる様子もなく、栗原はパソコンのモニターを見ながらそう言った。
伸びかけの髪をジェルでオールバックに整えている横顔は、まったく表情が変わらない。
彼は目線だけを莉奈のほうにちらりと動かした。
「でも桐島さんも気になってたんですよね? どうしてこの方が、あんなリクエストをしていたのか」
「それは……そうだけど」
「その気持ち自体は別に咎められるようなものじゃないと思うんですよ。そりゃ、こっちから、あの時の方ですよね? って声をかけるのは出過ぎた真似ですけど、ゲストの心の奥底にあるものを想像して最善のサービスをするのは、俺たちの仕事のひとつじゃないですか」
迷いのないその言葉は、桃井に言われた忠告の上に重く重なった。
どちらもきっと間違いではない。二人とも、ホテルマンとしての立場を自分なりに解釈して、その上でゲストとの距離感を考えているだけだ。
自分はどうなのだろう。どのように、ゲストと関わりたいのだろうか。
「ゲストのことを思う気持ちそのものは、間違いにはならないんじゃないですか」
栗原はトイレに行くと言って、席を立った。
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