忘れてしまわないように繋ぎ止めて④
続報は夜遅く、莉奈が退勤してからしばらく後に入ったらしい。
翌朝に出勤すると、悄然とした様子の高桑が、珍しくだらしない姿勢でデスクの椅子にもたれていた。
スーツのジャケットは隣のデスクに投げ捨てられ、シャツの胸元もネクタイも緩んだままだ。
「おはようございます」
挨拶をすると、ぎっと椅子を軋ませて高桑が立ち上がった。
「桐島さんか。おはよう」
「あの、……その」
何かあったんですかと言おうとして、違うなととどまった。もう察しはついている。
「桐島さん、昨日いたよね」
「はい」
「間に合わなかった」
絞り出すような高桑の声。仮眠する時間はあったはずなのに、目が真っ赤だ。
高桑はフロントの引き継ぎバインダーを探りながら、小さな声で言う。
「ご家族の方が、昨日の夜に到着してる。部屋は……どこだったかな。椎名さんがまとめてくれているはずなんだけど」
「あ……引き継ぎ見ておきます」
「他のお客様には関係のない話だから、柿崎様の関係の方以外にはあくまで普通にね。団体の方たちにも、こちらから何か言う必要はないから。ただ、過剰なお礼や笑顔だけ控えるようにして」
「はい。肝に銘じておきます」
莉奈は自分を奮い立たせるように、強く声を出した。
そう、自分たちが過剰に反応する必要はない。
椎名の報告書を読む限りでは突発的な出来事で、ホテルの瑕疵ではない。ホテルとその客という関係だが、根本的には赤の他人で、たまたま泊まりに来ていたタイミングであったというだけだ。
運が悪いと言ってしまえばそれまでだが、そういうことだ。
仕方のないことは、思ったよりも多い。やり切れない思いを抱くことも。
命が持つ力は強い。その存在の有無だけで、多くの人の感情をこれほどにも揺さぶってしまう。
その強さに足元を奪われてしまわないように深く深呼吸をして、莉奈はフロントカウンターに出た。椎名と栗原が並んで立っている。
声をかけると二人は力なく振り向いた。
「ああ、もう八時か。引き継ぎするか」
「お願いします」
椎名に引き継ぎバインダーを手渡して、莉奈は一日の予定表を開いた。例の団体は、予定では今日の日中にも交流会を行なって、昼食の後に解散ということになっている。
「まず今日チェックアウトのゲストで、レイトチェックアウト希望が三部屋ある。もうシステムにつけてあるから、精算時確認してから明細出して」
「はい」
それからチェックイン予定のゲストについての引き継ぎを行って、椎名は言いにくそうに口ごもった。
「……研究会は、今日は朝十時で集まって、そのまま閉会することになったそうだ。メインの研究報告会は昨日のうちに終わっていたし、今日は比較的ラフな会の予定だったから、取りやめるらしい。昼食もなしになったから」
「わかりました」
目の前で倒れて亡くなった仲間。その家族まで駆けつけている状況で、予定通りに進めることなどできるはずもない。予想はついていたことだ。
莉奈は極力何も考えないよう、事務的に事実を処理した。
団体は予定変更で昼は無し、と、予定表に書き込む。
「団体の部屋のチェックアウトは、事務局の担当者が鍵を集めて九時半過ぎに持ってきてくれるらしいから、回収したら揃っているか確認してくれ」
「はい」
「あと、高桑マネージャーから言われたかもしれないけど、他のゲストには無縁の話だから、質問されても具体的な話はしないように。団体のゲストにも、こちらからは話しかける必要はない。俺たちはホテルマンだ。……何もできないし、する必要もない立場だ」
「……はい」
自分たちに何か影響がある話ではない。別に気にせず、普通にしていたらいい。
悼む気持ちが不要なわけではないが、わざわざその部分に触れていいような関係性ではないのだ。
そこを履き違えてはいけない。自分はホテルマンなのだ。ゲストは彼らだけではない。
「じゃあ、俺はバックにいるから、カウンターは頼むな」
「了解です」
朝八時のロビーはまだ静かだ。栗原と並んで立つと、しんとした空気がやけに冷たく感じられた。
「……昨日」
その静けさに水滴を落とすように、栗原が口を開いた。
波打つ水面のように、胸の奥が揺らぐ。
「新幹線でご家族が病院に着いた頃には、もう……最期の言葉もかわせないままだったみたいです」
「……」
東京駅から一時間半。直後に連絡を受けて急いで飛び出しても、移動や乗り換えを考えたら、運び込まれたであろう基幹病院に到着できるのは十一時を過ぎる。いったいどんな思いでここまで来たのだろうか。
「ご家族が病院から戻られて、俺はフロントにいて……話しかけられたんです」
ご迷惑をおかけしました。
柿崎と同年代の女性と、二十代くらいの女性の二人連れだという。妻らしき女性のほうは、蚊の鳴くような声で栗原に頭を下げたらしい。
「憔悴しきった表情で、明言される前に気づきました。若い女性のほうも、泣き腫らした顔で、ずっとどこか遠くを見つめているような感じで。俺、何を言ったらいいかわからなくて」
何も答えられずにいると、もう一度二人は深くお辞儀をして、エレベーターホールへ向かっていったそうだ。
「俺の祖父が亡くなった時は、もともと病気をしていたので、心構えができていました。でも今回の柿崎様はそれとは違う、急なことで……ご本人も想定してなかったでしょうから、もう……」
「考え過ぎたらよくないよ。深呼吸して、ちゃんとホテルマンの顔にならなきゃ」
その言葉は、栗原だけでなく、自分にも言い聞かせるものだった。
うっかりすると気持ちを持っていかれてしまう。それではいけないのだ。気持ちを切り替えなければならない。
栗原は唇を真一文字に結んで頷いた。
家族である女性二人は、その日の昼前に出発して行った。チェックアウトする前に団体客と会ったらしく、柿崎の荷物を引き取って行ったようだった。
九時半に鍵を集めてフロントに持ってきてくれたのは、昨日宴会の時に言葉を交わした眼鏡の男性だった。彼の目元にも、泣き腫らしたような痛々しい跡がある。
「お世話に……なりました」
うまく言葉が出ないまま頷いて、鍵を受け取る。
部屋番号と数を確認する。間違いはない。
「はい。確かに受け取りました」
男性は頭を下げた。その反動で上がった目線がぶつかる。
「あ……お姉さん、昨日の」
「はい。ご夕食の際、担当させていただきました」
「……柿崎さん、お肉もデザートも全部おいしかったって、言ってました」
その言葉ではっとした。
もしや、昨日彼の隣にいた、瑠璃色のネクタイの男性が柿崎だったのだろうか。
おいしいと料理を褒める同僚の隣で、同じように幸せそうな表情で料理を楽しんでいた柿崎の姿は、少なくとも今のロビーには見えず、茜色のネクタイの男性は一人でフロントまでやって来ている。
でも、だからといって彼が柿崎であると断定するのは早計だ。既に会場に行っているだけかもしれない。
「恐れ入ります」
「ありがとうございました」
彼は場違いに見えるほど綺麗な茜色のネクタイを揺らして、もう一度深く頭を下げた。
そのまま視線があうこともないまま、まっすぐにエレベーターホールへ歩いていく。
その後ろ姿がロビーに降りてくるゲストの波に紛れたところで、莉奈は並んでいたゲストのチェックアウトに切り替えた。
それから小一時間ほど経って、ロビーのざわめきはようやく落ち着いた。
その間に団体も閉会し、ばらばらと帰っていった。ほとんどの参加者が俯きがちに、早足で歩いていくのを、無言で頭を下げて、カウンターから見送った。その中に、瑠璃色のネクタイの男性を見つけることはできなかった。
「そういえば、ご家族ですけど、苗字は違うんですね」
宿泊カードを片付けていると、彼女たちのカードが目に入った。女性らしい丸みのある小さな文字で書かれているのは、柿崎と異なる苗字だった。
そのことを何の気なしにつぶやくと、その日に日勤インチャージをしていた篠塚がしっと唇に人差し指を立てた。
「カウンターであまりそういう話をしたらだめよ」
「あ……そうですね。失礼しました」
「気持ちはわかるけど。でもいろんな形があるものよ、家族って――人の関係って。他人にはわからないことばっかりよ」
ホテルにはさまざまなゲストが来る。
場所柄、家族連れが多いが、一人で来るゲストやカップル、友人どうしでの来館もけして少ないわけではない。そして、男女で来たからといって必ずしもカップルや夫婦ではなく、中には後ろめたい関係の場合もある。
ゲストの関係性を必要以上に詮索しないというのは、ホテルマンとして当然の姿勢であり、余計なトラブルを避けるための大事な心がけでもあるのだ。
篠塚は数えていたレジ金をしまいながら、ふっと遠くを見た。
「わからないものよね。わたしの友人は学生時代から何年も付き合って結婚したけれど、浮気されたって言ってたし。性格が合わないって言いながらも、なんだかんだと夫婦関係を続けている人もいるし。わたしは夫と仲良しで他の人なんて考える暇もないけど」
さりげなく幸せを披露されて、莉奈は自然に笑顔になった。
昨日の夜からうまく笑えていなかったが、篠塚の言葉には心をほぐしてくれる力がある。
「命にはパワーがあるから。昨日、居合わせた桐島さんはつらい気持ちから離れられないかもしれないけど、うまく距離を取るのよ」
「はい。肝に銘じます」
レジ金の両替に行くと言って、篠塚は軽やかな足取りでカウンターを出ていった。
*
「そんなことがあったんですね」
笹川の瞳は潤んでいる。当時のことを想像して感情がリンクしてしまったようだ。
顔拭いておいで、とバックオフィスへ向かわせる。少しして、笹川は目元を整えて戻ってきた。
「あれから、救急対応のオペレーションが整備されて、定期的に社内講習会もやるようになったんだ。どうにもならないこともあるけど、少しでも可能性を繋げられるようにって」
勤務中に私用の携帯電話を持ち歩くことは禁止されていたが、この一件をきっかけに、レストランや宴会の責任者は業務専用の携帯電話を持つように通達された。バック通路に内線電話はあるが外には繋がらなく、着用しているインカムも内部連絡にしか使えないので、緊急時の通報をスムーズにするための策だ。
わざわざフロントを経由して通報するよりも、現場から呼べるならそれに越したことはない。
そして、館内に設置しているAEDの使い方や救命講習も強化された。
インチャージ以下の社員も全てが定期的な講習を受けられるよう、総支配人が動いてくれた。
花咲グループの中でも初めての事態だった三年前の出来事は、グループ全体にも影響を及ぼした。緊急時のフローは定められてはいたが、机上の空論だった部分も多く、より現場に即した内容が整備された。
月に一度の会議で、社長が各ホテルの総支配人に強く指導したらしい。
「建物として曰くつきになるとか、ホテルに対して責任の追及があるとか、そういうことはないけどね。でも、もっと良いやり方ができたんじゃないかって、最善の方法が他にあったんじゃないかっていう後悔を生まないために、できることは全てやろうって話。何かあった時にはスピードが命だからさ」
「そうですよね。わたしも、親戚が急に具合悪くなって救急車で運ばれた時、あと五分遅かったら助からなかったと言われました」
旅は楽しい。非日常の場所で過ごす時間はかけがえのないもので、大きな価値がある。しかし人間、いつ何が起こるかなど、誰にもわからない。
楽しいはずの思い出が、悲しいものにはなってほしくない。
今朝のニュースは、あまりにも悲しい話で。
きっとあのホテルのスタッフたちも、悔やむことになってしまうだろう。既にネットニュースのコメント欄では、「ホテルはなんで気づかなかったんだ」というような、批判的な言葉がいくつも散見される。
ニュースではホテル名は出ていないが、今の時代、特定されてしまうのも時間の問題だ。
「スキー場だと、病気だけじゃなくて怪我とか事故とかも多そうですよね」
「救急車を呼ぶのはそんなに珍しいことじゃないって聞いたな。同期が今、クイーンズホテルのスキー場で働いているけど、捻挫や骨折はよくあるって。転んで頭を打ったり、出血が酷かったりしたら、素人判断で動けないしね」
以前、蓮見が言っていた。怪我をしたゲストの対応はスキー場側ですぐに済ませて、宿泊者の場合は落ち着いてからホテルフロントに連絡するというフローになっているそうだ。
「特にここは、機能の揃った病院からは離れている場所だからね。一瞬が、文字通り命とりになりかねない」
「雪の中だし、遠方から来ているゲストは寒さや雪に慣れていない方も少なくないですしね。不慣れなドライバーが安直な判断で車を運転して事故になるとかも、よく聞く話ですし」
雪や寒さというものは思っているよりも危険なものだ。
新潟に限らず全国各地で、それにともなう事故のニュースが毎年絶えない。
また事故にならずとも、道路の除雪の影響などで足止めをくらうこともある。国道十七号と高速道路が通行止めになると、町から出ることすらできなくなってしまう。道中で雪により進めなくなり、南魚沼市から通勤しているスタッフが急遽出勤できなくなることもあった。
「雪も寒さも楽しんでほしいし、不便であるからこその魅力もある。でも、それは同時にリスクにもなるから、それを忘れないようにすなくちゃいけないんだよね。ずっと住んでいると忘れそうになるけど」
「わたしもここでの生活に慣れましたし、地元も似たような環境ですけど……そうですね。慣れてない方も多いですもんね」
笹川は真剣な表情で、何度も頷いた。
そして、莉奈が眺めていたホテルシステムの画面を見て、あっと声を上げた。
「葛西明里、って、声優さんですか?」
「え?」
違う話をずっとしていたせいで、一瞬何の話かわからなかった。自分が開いていた予約画面を見て、そういえば梅本に教えられた謎の多い予約を見ていたのだと思い出す。
笹川は隣のパソコンでインターネットを立ち上げ、その予約の名前を検索してみせた。
検索結果のトップに、顔写真がいくつも並んでいる。目尻がきゅっと上がっているが、眉や髪型で全体的にフェミニンな印象で、数の多い若手女性芸能人の中でも埋もれにくい魅力がある。
「最近いろんなアニメとかゲームに出てますよね。ここ二、三年で一気に売れたなーって感じです」
「あー……聞いたことあるかも」
多少はアニメなどをたしなむ莉奈は、名前に対して抱いていた既視感の正体に納得した。何かの作品で見かけたのかもしれない。
「あ、でも同姓同名の全く別人の可能性もありますよね。そこまで珍しい名前でもないし」
「そうね、半々ってとこかな。売れっ子の声優さんが一人で来るってのは考えにくいし」
声優であったとしてもそうでなくても、違和感のある予約であることに変わりはない。
厄介なゲストではありませんように、と、胸の中でひっそり願った。
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