忘れてしまわないように繋ぎ止めて③
宴会そのものは順調に進んでいた。
乾杯の挨拶を担った会長は年相応に体が弱っているらしく、長丁場の研究交流会終わりで疲れたと言って、ほとんど話さずに乾杯の音頭をとった。
食事内容こそフルコースではあるものの、会食自体は席を立ち歩いたり談笑したりがそこかしこで繰り広げられているカジュアルなものだった。
若手の参加者は挨拶回りで忙しくしており、空かない皿でテーブルが埋まっていく。
「せめてちょっとくらい食べてほしいですね。せっかくのお料理なのに冷めちゃう」
「どっちかって言うと、サービスしづらいっていうほうが大きいでしょ」
「……否定はしません」
それでも、年齢の垣根を超えて和気藹々と盛り上がる会場の様子は、見ていて悪い気はしない。
設立からそれなりの年数が経過しており、ジャンルとしても若手の参入が大きな課題になっていると、会長は乾杯の短い挨拶の中で言っていた。ホテルも似たようなところがあるので、その焦りはわからなくもない。
莉奈自身は入社してまだ片手の指が半分折れる程度の若造だが、後輩の入社人数や中途採用の応募者が減っているというのは聞いている。今のところ自分は辞めるつもりはないが、同期の中には転職を決めた人もいる。入っては出ていく、長く続ける人が少ないこの業界がいつか変わる時は来るのだろうか。
「それじゃあ最後、デザート持っていってくれー。これ出したら終わりだから、ヘルプ組は戻っていいよ」
時間通りにサービスが進んでいることに機嫌が良いらしい料飲マネージャーは、能天気な声で指示を飛ばしている。
戻っていいよと言われても、戻る以外の選択肢などない。もともと良い印象がないせいか、心の中で余計なことを考えてしまう。
邪念を振り払うように、莉奈はデザートのパンナコッタが盛り付けられたグラスをトレーに載せた。雪を思わせる白いパンナコッタには、綺麗な赤をしたベリーのソースといちごが添えられている。
「失礼いたします。こちら、デザートでございます」
莉奈が担当していたのは、四十代から五十代くらいの男性が七名で配置されているテーブルだった。先ほどまでは立ち歩いていたが、今はみな席について、談笑しながら料理を楽しんでくれている。
「ありがとうございます。これ、とても美味しいですね」
一人の男性客が、メインの牛フィレを頬張りながら満面の笑みを向けてくれた。隣にいたもう一人の男性客も、うんうんと頷いている。
二人とも、眼鏡の奥の目元が柔らかく緩んでいる。茜色と瑠璃色で色違いのネクタイをお揃いでつけているのを見るに、よほど仲が良いのだろう。
「ありがとうございます。料理長が腕によりをかけてご用意させていただきましたので、お気に召していただけたのなら幸いです」
こういう時は、意識せずとも笑顔になる。あとで料理長に伝えてあげよう、と思いながら、莉奈はパンナコッタをサービスし終えてバック通路に戻った。
トレーを片付けて、桜庭に声をかけた。
「お疲れ様です。じゃあ、戻りますね」
「ああ、ありがとう」
残るメンバーは、閉会までの間にできる片付けをしなくてはならないので、ばたばたと忙しそうだ。莉奈はその隙間を抜けてロッカールームに向かった。
ベストも白シャツも汗に濡れていた。会場内はゲストの体感温度に合わせて暖房が入っているので、動き回っていると熱くて仕方がない。
ほかの男性スタッフなど、バック通路に戻るたびに汗を拭っていた。それらを脱いでフロントの制服に着替え、料飲の制服は制服貸与室に返却する。
トイレに寄って一息ついてからフロントに戻る。定時まではあと三十分ほどあるので、カウンターに出ていた夜勤の椎名に変わって表に出た。
この時間のロビーはほとんど人が通ることはないが、まだ未着のゲストが数件ある。
すると、電話が鳴った。内線だ。
「はい、フロン……」
「救急車呼んでくれ! ゲストが倒れた!」
一瞬、頭ごと吹っ飛ばされたかと思った。そのくらい、何を言われたのかわからなかった。
「桐島だよな? 聞こえてるか?」
「は、はい」
声の主が桜庭であるとようやく気づいた。しっかりしろ、と、電話越しの声が張り詰める。
「ゲストの名前と年齢聞き出せたからメモって。急に胸が痛いと言って倒れたんだ。意識も朦朧としているし、早くしないとまずい」
心臓が聞いたことのない音で波打つ。
手の震えを抑えながら、莉奈はメモ用紙を用意した。
柿崎正人、五十五歳。
いつもなら普通に書ける簡単な文字のはずなのに、線がまともに引けない。
「救急車呼んだら内線くれ。人数いるから誰か出られるはずだ」
「わかりました」
電話が切れた。隣に立っていた栗原がどうしたんですかと訊ねてきたのは耳に入らなかった。ほとんど反射で、番号をプッシュした。
「はい、火事ですか、救急ですか」
「救急です」
オペレーターの無機質な声は、かえって莉奈を落ち着かせた。
経験したことのない焦りに冒されていた脳みそが、すっと冷えていく。促されるがままにホテルを名乗り、住所を伝えた。
「お客様が胸の痛みを訴えて倒れました」
先ほど聞いたゲストの情報を伝える。最後にフロント係であることを名乗って、電話は終わった。
「どうした?」
受話器を置いたのと同時に、ただならぬ空気を感じ取った椎名がカウンターに出てきた。今起こっていることを説明すると、椎名は顔色を変えた。
「わかった。俺は救急車の誘導に出る。正面玄関じゃなくて、搬入口のほうに回ってもらうようにするから、桜庭にそう伝えろ。他のゲストを混乱させるのは避けたいし、何より会場からならそっちが近い。業務エレベーターならストレッチャーも乗るだろ」
「了解です」
「栗原はカウンターを頼む。他のゲストから何か訊かれても、具合の悪いお客様が出たとだけ言うようにな。それと業務エレベーターは一基手動運転にするから、施設課と客室係に連絡入れておいてくれ」
「わかりました」
入社してまだ二年目の栗原は、不安を隠しきれないながらも強く頷いた。
椎名はバックオフィスに戻っていった。今日の夜間責任者は予約係の高桑マネージャーなので、彼に伝えに行ったようだ。
莉奈は再び受話器を手に取った。宴会場のバック通路にある内線を鳴らすと、三コール目で呼び出し音が途切れた。
「はい」
「フロントの桐島です。桜庭さんは」
「今それどころじゃねえよ」
電話に出たのは料飲マネージャーだった。
迷惑そうな声で吐き捨てられて、かっと怒りが沸騰した。
「桜庭さんが手を離せないなら伝えてください。救急車は手配しました、椎名さんが搬入口経由で救急隊員の誘導をかけるので現場の準備お願いします、と。たぶんすぐ着きますから」
桜庭が倒れたゲストの介抱をしていることなどわかっている。電話を代われないことなど想定済みだ。
それを誇示するように、語気は荒くなった。
「柿崎様の救急対応が最優先ですが、無用な混乱は避けたいと思います。ちゃんと伝えて、料飲メンバーに現場の整理を指示してください」
「……わかった」
がちゃん、と乱暴な音が鼓膜を貫いた。
外から救急車のサイレンが聞こえてきた。徐々に大きくなるその音は、あまり心臓に優しくない。落ち着いたと思った動揺がぶり返してくるのがわかった。
救急車は予定通り、正面玄関ではなく、横に入った搬入口につけられたようだ。
業者の出入りに使われるところだが、大きなトラックが使う場所なので広さには余裕があるうえ、業務用エレベーターが目の前だ。宴会場からは一度フロアに出て、隣にある洋食レストランの横を通って別のドアでバック通路に入り直す必要があるが、トータル的な効率は正面玄関を通るルートに比べたら圧倒的だ。
「レストランには連絡しておきましたよ。ゲストの出入りのある時間じゃないですけど、騒がしくなると思うので」
栗原がぽつりと言った。
それを聞いて、ああその必要があったなと今更気づく。気の利く後輩で助かった。
莉奈は団体の手配書をめくって、名簿を確認した。
柿崎正人という名前は、もう一人の参加者とともにツインルームに宿泊することになっていた。客室ごとに番号が振られている、部屋付にした料金の明細を入れるファイルには、その名前がサインされた売店の明細が入っている。
どうか、どうか、助かりますように。
会場にいたどの人が柿崎なのかはわからないままに、願う気持ちだけが強くなる。
目頭の熱をごまかすように再び手配書をめくると、宴会場のレイアウト図が挟まっていた。それを見てはっとする。
柿崎が配置されていたのは、先ほど莉奈がサービスに入ったテーブルだった。
だからと言って、誰が誰なのかなど、サービスの最中に調べることなどできない。
それでも、料理を運んだ際に話した何人かのうちの一人だったのだろうかと考えると、それだけで胸が苦しくなる。
しばらくして、救急車のサイレンが再び鳴り響いた。その音は徐々に遠ざかっていく。誘導を終えた椎名が戻ってきたが、顔色はあまり良くなかった。
それだけで、察することができるほどに。
「祈るしかないな」
何か言葉にせずにはいられないが、何を言ったらいいのかわからない。
椎名の低いつぶやきには、そんな重さがあった。
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