あなただけの宝箱を⑦
椎名が添乗員に合図をすると、生徒たちが次々に会場になだれ込んできた。教師たちが整列させようと大声を出しているが、結局整列したのかしていないのかわからない仕上がりになった。
正面から見たらよくわかるものだ。
教師の一人、学年主任らしき男性が手持ちマイクを受け取った。
「みなさん、修学旅行も今日で終わりです。新潟は普段暮らしている東京と、まったく違うところです。スキーをしたり手作り活動をしたり、学校じゃできないことを経験して、気づきはありましたか? これからの学生生活に、ぜひ生かしていってください。それでは、修学旅行の最後に、お世話になったスキー場とホテルの方より、お話をいただきたいと思います」
教師が話しているあいだはざわつきがおさまらなかった会場内は、大柄なスキー場スタッフが演台に立つと、徐々に静まっていった。教師には良くも悪くも慣れているが、よその人間だとそうはいかないのだろう。
「みなさん、こんにちは。スキー合宿お疲れ様でした。スキー場の整備やパトロールをしている、茅野です。スキーが初めてだったという人もたくさんいたと思いますが、楽しんでもらえましたか?」
茅野は低く穏やかな声で、ゆっくりと話し始めた。彼の視線は生徒たちを順に見渡している。
「私の仕事は、朝、空が明るくなる前から始まります。スキー場がオープンする朝八時までに、コースを整備しないといけないからです。その仕事も、雪がたくさん降った時や、逆に何日も降らなかった時は大変です。スキー場に来てくれる人たちが安全に楽しめるように、雪の状態をしっかり確認しなくてはなりません」
自分たちが何気なく滑っていたスキー場の裏側を覗き、興味を惹かれた生徒がいるようで、静かにしつつも下を向いたり手遊びをしたりでまともに聞いていないようだった聴衆の視線は、少しずつ上向いてきた。
その様子に手応えを感じたようで、茅野は浮かべていた笑みをさらに深めた。
「スキー場をオープンさせるまでにやらなくてはならないことは他にもたくさんあります。例えばリフト。運行中にトラブルが起こらないように点検をして、もしも不具合があればその時点で直したり、必要に応じてリフトを停めたりします。そうやってたくさんのことをチェックして、今日も問題なく、安全にやれるぞ、となったら、いよいよオープンです」
茅野の話は、そのままスキー場のオープンしてからの話に移っていった。優しく語りかけるような彼の話し方は、どこかこわばっていた生徒たちの表情を少し柔らかくしたようだった。
「私がスキー場で働こうと思ったきっかけは、ここが地元だからです。雪が降ってスキーをするのが当たり前のこの町で、それがない生活なんて考えられませんでした。子どもの頃の自分は、悪いことは思いつくけど勉強はできなくて、でも体を動かすのは好きだったし、雪で遊ぶのも大好きでした。だったらスキー場で仕事してみようかな、と思ってアルバイトを始めて、そのまま社員にしてもらえて。ありがたいことに部下もたくさん入りました。もちろん、体力勝負の仕事なので、いつまでもできる仕事ではないかもしれません。でも働く中でたくさんの人と会って、得たものはずっと自分の中に残ります。だからこの先のことにも不安はありません。今の自分なら、どんなことだって挑戦できるし頑張れる。そう信じています」
最後にそう締めくくって、茅野は一礼して演台を離れた。
拍手の音がぱらぱらと鳴った。
莉奈にとってはあっという間の十分ほどだったが、彼らは何を感じたのだろうか。
スキー場コーチと桜庭の順番が終わり、いよいよ莉奈の番になった。緊張で大きく波打つ鼓動をおさめるために、深く息を吸い込んだ。
「みなさんこんにちは。ホテル雪椿でフロント係をしている、桐島と申します。まずは、フロント係の仕事からお話しします」
一度言葉を区切って、場内をぐるりと見渡す。左から二番目の列の中ほどに、芹沢が並んでいるのを知っている。その方向に視線を向けると、彼女はそれに気付いたのか気まずそうに下を向いた。
やはり、先ほどロビーに訪れていたのは何かあったのだろうか。
「ホテルのフロントの仕事というと、チェックインやチェックアウトが思い浮かぶのではないでしょうか。もちろんそれらも大事な仕事ですが、フロントはとても奥の深い仕事です。チェックインやチェックアウトをスムーズに行うために、やらなければならないこともたくさんあるのです」
中学生たちの並ぶ後ろに、椎名が立っている。遠いので表情まではわからないが、随分と期待されているような雰囲気は否めない。
真っ直ぐ見ている椎名の顔をなるべく気にしないように心がけて、莉奈は視線を生徒たちに戻した。
「朝、出勤したら、夜のうちにあったことを夜勤から引き継いでもらいます。これから自分が接するであろうお客様の情報は、一つ残らず把握しておかなければなりません。夜間に体調を崩してしまったり、何かトラブルが起こっていたり、予約していた内容と異なることがあったりしたら、それをきちんと知っておかないといけないのです。そして、それからチェックアウトが始まります。その後はその日にチェックインするお客様を受け入れる準備です」
なるべくわかりやすい言葉と流れを考えてきたつもりだが、うまく伝わっているのか自信はない。三人分の様子を見てはいたものの、いざ自分が話者となって立つと、暖簾に腕押し状態であることをまざまざと見せつけられている気がしてならない。
「準備というのは、具体的には特別なリクエストのあるお客様がいらっしゃるか、またその内容がちゃんと用意されているか確認したり、お部屋の清掃がちゃんと進んでいるかチェックしたり、お客様にお渡しするカードや特典がきちんと揃っているかを確認したり、などです。前の日のうちに準備はもちろんしていますが、当日も時間のある限りチェックします。間違いがあれば、そのお客様のせっかくのご旅行を台無しにしてしまうので、絶対に許されません」
莉奈には実際に経験があった。
一年目の冬、到着手続きの際に部屋タイプの変更希望を受けたのだが、それをホテルシステムと客室係に連絡し忘れてしまい、チェックインのアテンド時にゲストから指摘を受けたのだ。
幸い部屋の空きはあったのでその場で謝罪し、変更をかけたので、ゲストもそれ以上のクレームをつけることはなかったが、家族旅行に水を差してしまったことは明白だった。
具体的にその話をしていると、じっと見つめる視線に気がついた。
振り向いてその主を辿ると、芹沢がこちらを見ている。
そのまっすぐな視線にどきりとして、思わず唾を飲み込んだ。
「……ホテルのフロントは、お客様に一番最初にお会いでき、また一番最後にお見送りができる仕事です。移動や観光での疲れを癒して、また次の日にホテルを出発したらたくさん楽しい思い出を作ってほしい。ホテルでゆっくりしていただくことも、旅行の大切な一ページになるのです。お客様には気兼ねなくくつろいでいただきたい、そう心から願っています」
芹沢の視線が刺さるような強さを帯びた。
自身が足を怪我して思うように過ごせなかったことを、改めて思い出したのだろう。
二日前にフロントカウンターで見たような表情に、莉奈はもう驚かなかった。
その視線に正面からぶつかって、莉奈は言葉をつづけた。
「もちろんうまくいかないこともあります。全てのお客様にご満足いただくというのはとても難しいことで、同じサービスをしても喜んでいただけるとは限りません。それでも、ホテル雪椿として、お越しいただいたすべてのお客様へ最大限のおもてなしをするという心構えは変わりません」
生徒たちの後ろで、椎名が大きく頷いたのが見えた。その姿に安堵を覚える。
自分が信じていることを、ただ言葉にしよう。莉奈はそう決めていた。
「お客様は、このホテルに貴重な時間とお金を使って来てくださっています。たくさんある観光地、宿泊施設の中から選んで、お越しいただきます。だから私たちは、精一杯のおもてなしの気持ちを持って、お客様をお出迎えし、接客サービスを行います。サービス業は慈善事業やボランティアではありませんが、私たちの仕事は一言で言い表すならば、お客様が快適に旅の休息をとれるよう尽くすこと、です」
息継ぎをしながら、莉奈は再び芹沢の視線を探った。
先ほどはらんでいた鋭さが抜け、感情がうまく整理できていないような表情をして、彼女は莉奈を見つめていた。
「私がホテルで働きたいと思ったきっかけは単純で、旅行が好きだからそれにかかわる仕事がしたい、というものでした。当時の私は単純で、ホテルってキラキラしていて楽しそうだな、と考えていましたが、いざ働いてみると楽しいだけではないとすぐにわかりました。地味な仕事も汚れる仕事もきつい仕事もあるし、精神的につらいと思ったことだってあります。でもそれはきっとどんなことでも同じです。好きなことをしていても壁にぶつかることだってあるし、笑顔で輝いているアイドルだって裏では辛酸を舐めている。でも、やりたいこと、好きなことだったら、そういうつらさも乗り越えられるのではないでしょうか。……私もホテルで働いて、たくさんつらいことを経験したけれど、ホテルの仕事が好きだから、まだまだ頑張ろうと思っています。中学生のみなさんは、まだ将来自分が何をして働くか、想像できないかもしれませんが、今自分の中にある好きなことややりたいことは、忘れないでいてほしいなと思います」
以上です、と締めくくって、莉奈は一歩下がって深くお辞儀をした。ぱらぱらと起こる拍手を背に受けながら待機場所の椅子に座る。思っていたよりも生徒たちはちゃんと静かに聴いてくれていたな、と、内心彼らに抱いていた評価を反省する。
学年主任の教師が再びマイクを口元にあてて、進行を始めた。
「ありがとうございました。以上で四名の方の講演が終わりましたので、ここからは質問の時間となります。五分取ります、近くの人と相談しても構わないので質問を考えてみてください」
話す時間を設けられた生徒たちは、それぞれ近くにいる者どうしで喋り始めた。本当に相談しているのかは疑わしいが、ひとつふたつでも何か出ればいいな、と思いながら待つ。
生徒たちの様子を眺めていると、ふと芹沢の姿が視界に入った。
「……」
彼女は誰とも話していなかった。修学旅行のしおりらしき冊子に黙々と何かを書きながら、真剣な表情をしている。昨日の夕食時に一緒にいた友人らしき女子生徒たちとそれほど離れて整列しているわけではないようだが、一人で考え込んでいる様子が気になった。
「どうした?」
「あ、いえ」
列の一部を見つめる莉奈の様子が気になったのか、桜庭が声をかけてきたが、濁して返答する。そうしているうちにタイムアップになった。
「じゃあ、質問がある人、挙手してください」
意外にも多くの手が挙がった。教師が指名して、生徒は誰宛なのかを述べた上で質問を投げかけてきた。
多くがスキー場側の二人に宛てたものだったのは、やはり直接話す機会が多かった彼らの方が訊きやすいのだろうか。
「それじゃあ、時間がもうないので、まだ訊きたいだろうけど次で最後にしますよ。最後、――芹沢さん」
「はい」
どきりと心臓が疼いた。莉奈が少し身構えたのと同時に彼女は立ち上がり、マイクを受け取った。
「ホテルのフロントの、桐島さんに質問です」
「は……はい」
指名されたので立ち上がる。自分より少し低い顔から、真っ直ぐな感情が向けられた。
「働いていて、自分は無力だなと思うことはありますか」
「……無力?」
予想していなかった言葉を聞き返すと、彼女はこっくりと頷いた。
だが、それ以上の言葉は紡がれない。莉奈は慌ててマイクのスイッチを入れた。
「無力……そうですね。ないと言ったら嘘になります。先ほども少しお話ししましたが、来てくださるお客様全てにご満足いただくというのは非常に難しいことです。もちろん理想ではありますが、実際にそれを行うというのは、不可能に近いです」
芹沢の視線が刺さる。だがその強さに負けないように、莉奈は見つめ返した。
「興味がある人は帰ったら調べてみてほしいのですが、先日ご宿泊いただいたお客様から、とある予約サイトに最低評価のクチコミが書き込まれていました。もちろんそれはサイト利用者の正当な権利ですので、我々がそれを止めることはできませんし、内容も完全に的外れ、言いがかりというわけではありませんでした。でもそういうことがあると、自分が悪かったのかな、もっとうまくできたんじゃないのかな、というふうに思うことはあります」
あのクチコミを見つけた時に抱いたのは、怒りよりも虚しさだった。
自分たちの心尽くしは伝わらず、むしろ不快にさせてしまったのだという、悲しさ。
でも、ホテルマンはそこでは終われない。
「ですが、それは同時にステップアップの良い機会でした。その内容をもとに、私たちはこのホテルをより良くするための方法を考えました。すぐに変われるところは変えましたし、時間がかかることもありますが確かに進んでいます。自分が力不足だなと思うことはたくさんあるけれど、そんな時にどうしたらいいのかを考えることができたら、それが成長に繋がると思います」
マイクを持つ手に、ぎゅっと力がこもった。
「……完璧な人なんていません。誰しもが虚しい気持ちになったり、自分は無力だと感じることはあります。私はみなさんより十年以上長く生きていますが、今でもそう思うことはいくらでもあるし、私より長く生きている人もそうだと思います。好きなことややりたいことをやっていても、そういう時は訪れると思います。でもそこで開き直ったり諦めたりしなければ、その先にいる未来の自分は、ちょっとだけ強く大きくなれるのだと思います」
ちょっと説教じみたかな、と反省しつつ、いかがですかと芹沢に問いかける。
彼女は掠れた声で、ありがとうございますと応えた。
マイクを教師に返して座った彼女は、どこか一点をずっと見つめていた。
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