あなただけの宝箱を⑥


 一夜明けて、莉奈は憂鬱な気持ちを拭えないまま出勤していた。講演会に気乗りしないこともそうだが、本来であれば今日は休日の予定だったのだ。

 予定では視聴を溜めているドラマやアニメをひたすら観る一日になるはずが、まったくの誤算だ。


「おはようございます」

「おう」


 椎名は相変わらず早い出勤だったようだ。いつもはぱっちりと開いている目は、少し眠そうに垂れている。朝早くに出勤しても定時で帰れるわけもなく、昨日も一昨日も遅い時間まで居たようなので無理もない。


「お疲れですね」

「いやあ、思ったよりきついわ。クイーンズとかはひと冬に何件も受け入れてるらしいけど、すげえよ」

「多分、規模からなにから違うだけですよ。それに慣れてきて手順がシステム化されたら楽になりますよ、きっと」

「自分が担当じゃないからって気楽だなあ」


 椎名は呆れたように笑って言って、手元の手配書をぱらぱらとめくった。


「今日の講演会は一時半開始だけど、スキー場側の出席者を含めた最終打ち合わせがあるから、一時には会場に来ておいて欲しいんだ。昼休憩はうまく調整して」

「わかりました」

「話す内容はまとまったか」

「一応……軸は決めてきたので、あとは会場の様子をみながら肉付けします」

「そんなに緊張するこたないぞ。持ち時間は十分くらいで、四人喋ったあとは質疑応答があるだけだ。トータルで一時間ちょっとってところだ」


 そう言って、椎名は右手を差し出してきた。指先にあるのはキャンディーだ。ありがたく頂戴すると、それじゃ、と彼はバックオフィスを出ていった。


 一般客の稼働も多くないので、莉奈はミーティングまでの三十分間はカウンターに出ず、デスクで今日話す内容をまとめることにした。パソコンでテキストソフトを立ち上げて、文章を練っていく。


 その間に思い浮かべていたのは、昨日の女子生徒の顔だった。


 改めて確認した宿泊者名簿と怪我の報告書によると、彼女の名前は芹沢実侑というようだ。同じクラスの女子五人と一緒に、五階の五一二号室に宿泊している。


 彼女の人格の背景に何があるのかはわからないし、知りたいわけでもない。だが、きっと何か他人には分かり得ないことを抱えている彼女に、ひと言でも届けばいい。


「んー……まあ、とりあえずはこんなもんか」


 時刻はまもなく九時だ。莉奈はテキストを自分の個人フォルダに保存して、ミーティングへ向かうことにした。


 ミーティングでは、出席していた営業部長が混雑状況確認システムを導入するという報告をし、料飲部が喜びの声を上げていた。

 レストランの混み具合についてしばしば苦言を呈される料飲部としてはありがたいことだろう。事前に知ってはいたが、莉奈も導入の日を心待ちにしていることは事実だった。


 フロントに戻り、夜勤を退勤させてからいつものように仕事をこなしていると、あっという間に正午を過ぎていた。細かい仕事も片付いたので、莉奈は桃井に断りを入れて食事休憩に向かった。


「あ、桐ちゃん。お疲れー」

「お疲れ、柳」


 社食のメニューを眺めていると、柳がやってきた。同じようにメニュー表を覗き込む。今日のメニューはエビフライ定食と天津飯、醤油ラーメンらしい。


「あ。背脂あります、だって」

「うわ、じゃあラーメン一択」


 柳はメニュー横のポップアップを見て、即決でラーメンを注文した。結局迷ってエビフライにした莉奈の隣で、彼女は背脂の載ったラーメンを受け取った。


「あるなら食べちゃうよねぇ」

「好きだねえ」


 向かい合って席をとる。湯気の立つラーメンに息を吹きかけながら、柳は口を開いた。


「今日、桐ちゃん講演会に出るんでしょ」

「うん」

「大変だね」


 柳は背脂の絡まる麺を、おいしそうに啜った。


「あのね、ひとつ教えてあげる」

「何?」


 口の中でさくさくと音を立てていたエビフライを飲み込んで、莉奈は少しだけ身を乗り出した。柳は声のトーンを大きく落として言う。


「今回の修学旅行の生徒、結構訳あり感がすごいと思うの」

「ああ……それはなんか、聞いた」

「そう? まあわたしも聞きかじりでいろいろあるってのは知ってたんだけどさ、さもありなんって感じだなと思って」

「何かあったの?」

「お風呂」


 修学旅行の中学生は入浴の時間が決まっている。貸切というわけではないが、午後七時からの四十分間に入ることになっている。他のゲストにはそのことをアナウンスしているので、あえてその時間に入りにいくゲストは多くないはずだが、


「時間を守らないとか、使い方が汚いとか、あるのよ」

「え、でも先生がついてるんでしょ」

「そうなんだけど、誰か一人が悪いことするとまずその子にかかりっきりになっちゃうわけでしょ。その間に監視が薄い状態で使うのは必ずしもきちんとした子ばっかりじゃないってこと。男子も女子も、だよ」


 柳の話によると、使わない決まりになっているはずの、洗面台備え付けの化粧水や乳液を大量に使ったり、脱衣場や備え付けの籠がひどい濡れ方をしていたりなど、その後に入るゲストに支障があるような状態なのだという。

 初日にその状況が判明したので二日目は客室係も整備のためとして付くことになり、場合によっては生徒に注意をすることもあったそうだ。だがそれでもおさまらず、うっかりすると化粧水を持参したボトルに詰めて持って帰ろうとした生徒もいたらしい。


「そこまでだとは思わなかったな」

「素行が良くないことで、地域的にも知られている学校みたいだよ。そういうところで偏見は持ちたくないけど、今まで来てた一般ゲストの普通の利用であんなふうになったことはなかったから、ちょっとびっくりしたかなあ」


 言葉を選んではいるが、その光景を目の当たりにしたら確かに驚くだろう。

 この時期、安くても一人当たり一万円以上の料金を掲げているホテル雪椿に来る一般のゲストの中に、そのような使い方をする人はそうそういない。


「客室のアメニティは最低限にするようにって言われたから、部屋の洗面にはタオルくらいしかセットしてないんだけどさ。今日の講演だって、ちゃんと聞いてくれるかは五分五分だったらいいほうって感じじゃない?」

「それを聞くと、自信無くなってくるなあ……百人もいるから、一人でも真面目に聞いてくれればいいって気持ちでいたほうが良さそうだね」

「そのくらいでいいと思うよー。そもそも全員に響くような話をするのは難しいよ。わたしだって、学生の頃は先生の話なんて半分も聞いてなかったもん」


 柳はそう言って、スープを飲み干した。塩分とか脂質とか、そういうことを一切気にしていないその潔さはいっそ気持ちがいい。

 二本目のエビフライを平らげて、莉奈はこぼれそうになるため息を一緒に飲み込むように味噌汁に口をつけた。


「ま、何はともあれ頑張ってね、桐ちゃん」

「ん、ありがと」


 まったく他人事のように軽い応援を置いて、柳はさっさと食器を片付けて社食を出ていった。混みあう時間なので、空いた席にすぐ次の人が座る。

 それが見覚えのない顔の、料飲部の短期アルバイトらしい男性スタッフだったので、莉奈は気まずさに負けて早々に席を立った。


 ロッカールームで歯磨きをして、莉奈は足早にフロントに戻った。カウンターから抜ける一時までまだ少しあるので、もう一人食事休憩に行かせることにして、莉奈は漆間に声をかけた。


「食事行っておいで。わたしは一時に抜けちゃうけど、桃井さんもいるし、急がなくていいよ」

「ありがとうございます、行ってきます」


 時間が半端に空いたな、と思い、莉奈は何をするでもなくホテルシステムを開いた。今日のチェックインは残り七十件ほどだ。特に煩雑な手配のあるゲストはいないので、気楽な日だ。

 この後の用事がなければどれほど良いだろうか、と、眉根に力が入りそうになるのをぐっと堪えた。


 ロビーはあまり人がいなかった。人が通れば気配ですぐにわかる。だからその時も気がついて、ぱっと顔を上げた。そこにいたのはジャージ姿の中学生だった。唯一、顔と名前が一致している。


「あ……」


 彼女は気まずそうに、一瞬莉奈とぶつかった目線を逸らした。


「こんにちは」

「……ちは」


 カウンターからにこやかに挨拶をしても、芹沢実侑は低い声でぼそぼそと返事をするだけだった。何も言わずに無視して行ってしまうよりは可愛げがあるが、その居心地の悪そうな表情は何か言いたげだ。

 だが結局、彼女は何も言わないまま、踵を返して行ってしまった。捻挫した足をもどかしそうに引きずって、エレベーターに乗り込む。その様子を見ていた桃井が怪訝そうに話しかけてきた。


「あの子、修学旅行の生徒さんだよね」

「そうですよ。初日にスキーで怪我しちゃった子」

「何しに来たのかな。わざわざ足引きずってまで」

「さあ……」


 莉奈としても、さっぱり見当がつかない。

 そもそも、修学旅行の生徒が直接フロントカウンターに来る必要などないのだ。何かあればまず教師に相談し、教師の判断で添乗員やフロントに話がまわる仕組みになっているので、莉奈たちが直接話す相手は大人にほぼ限られている。


「……そろそろ行かないと」

「うん、行ってらっしゃい」


 疑問に思う気持ちを拭えないまま、莉奈はカウンターを出て宴会場へ向かった。フロアを上がった先にある、シャンパンゴールドの扉は、今は閉じられている。中にゲストがいないことを知っているので、莉奈はバック通路に回らずにその扉を開いた。


「お疲れ様です」

「お疲れ。あと桜庭が来るから、ちょっと待っててな」

「はい」


 椎名の隣には営業部長の遠藤が、その隣にはスキー場のスタッフらしい人物が二人立っている。

 一人は大きな体を作業服に近いジャンパーで包んでおり、もう一人は鮮やかな蛍光色のスキーウェアを細身の体に纏っている、いずれも男性だった。胸元にスキー場のロゴが入っているが、それを見る限り、修学旅行の生徒たちが行っていたスキー場のスタッフのようだ。


「スキー場の整備やパトロールをしているスタッフさんと、スキースクールのコーチをしている方だよ」


 椎名がそう紹介したのを合図に、背の高い男性二人はぎこちなく頭を下げた。莉奈も慌てて挨拶をする。


「雪椿さんは若い方が多くて、華があっていいですね」

「スキー場としては、お二人のようなガタイのいい方がいらっしゃれば安心感があるじゃないですか」


 大柄なスキー場スタッフと営業部長が、大きな口をあけて豪快に笑う。コーチの男性はその様子に苦笑した。


「すみません、うちのマネージャーがテンション上がっちゃって。普段は整備やパトロールばっかりであんまりこういう機会がないから、張り切ってるんですよ。部長さんのお願いでもありますし」

「あれ、知り合いなんですか」

「昔の同級生らしいです。この講演会の打診は、部長さんから直々にうちのマネージャーに話があったんです。子どもたちのために力を貸してくれ、って」

「へえ……」

「この中学校、去年までずっと修学旅行が中止されてたらしいじゃないですか」

「え?」


 コーチの男性の発言に、莉奈は目を丸くした。素行がけして良いとは言えない生徒たちであることはわかっていたが、そんな事実のある学校だったとは。


「知らなかったんですか。十年以上前に生徒が修学旅行先の関西のホテルでトラブルを起こしたのがきっかけで、取りやめになったんですって。当時を知る先生たちも異動して行って、今年ようやく、再開することになったみたいですよ」

「初めて聞きました。……だから定番の関西方面への修学旅行ではないんですね」

「当時の件は、そのホテルだけじゃなくて近隣の施設にも噂が広まったらしいですからね。具体的な内容は知らないですけど、よっぽどだったんでしょう」


 彼がそこまで話したところで桜庭が合流し、講演会の最終ミーティングが始まった。

 段取りの流れを確認し、ホテルスタッフで機材の調整を行う。演台とマイクの位置を少し調整して準備完了だ。



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