あなただけの宝箱を⑤
翌朝、八時半に出勤すると、椎名は既に朝食会場に行っていた。夜勤シフトに入っていた桃井によると、六時半頃には来ていたらしい。
「昨日、大変だったみたいだよ」
「何かあったんですか?」
桃井は椅子をくるりと回して、ラフに向き直った。人の動きがまだ激しくない時間帯なので、カウンターには夜勤のペアと早番の日勤を立たせている。
「足を怪我した生徒がいたでしょ。その子とその友達がごたごた言ってたらしくてさ」
聞くところによると、昨日の夕食会場に向かう際に、怪我をした生徒が教師の付き添いでエレベーターを使って移動したことで、ずるいだのなんだのという話になったそうだ。本人は本人で、自分だけ友達と一緒に移動できないのは不平等だと、教師と話をしていた椎名に噛み付いたそうだ。
「先生も必死に宥めようとしたらしいけど、むくれて話にならなかったってさ。他の生徒もその様子を見ていたから、ちょっと気まずいみたいな、変な雰囲気になっちゃったらしくて」
「でも、消灯時間までの部屋の行き来は自由でしたよね?」
「思春期だもの。いろいろあるんでしょうよ」
二十代も後半に突入した莉奈からすれば些細な話だが、自分が彼女らと同じ年代だった頃を思い出すと、学校と友達は絶対的な存在だった。
少しでも断絶されると不安になるのは、十代の女子にはそう珍しくない傾向だろう。
「気持ちはわからんでもないけどな。ただ、ちょっと中学生とは思えないくらい強情っぱりな感じらしくてびっくりしたって言ってたよ」
「そうなんですか……」
昨日、フロントカウンターに立ち寄った彼女の表情を思い出す。付き添いは先生で、と言われた時、あからさまに不満げだった。
小さい子どものような拗ねた表情は、確かに十代半ばというには幼く感じられた。
「ま、仕方ないことだけどね。スキーは難しいだろうけど、今日は体験活動でしょ。足の捻挫程度なら普通にできるだろうし、食事や自由時間にはいくらでも友達と一緒にいられるんだから」
「そうですね。そこはわたしたちが変に同情するところじゃないと思います」
本人にとっては不本意この上ないことかもしれないが、長い人生、そういうこともある。いつだって自分の思い通りになるわけではない。先生だってそれをわかっているからこそ、あの場で二つ返事で受け入れたのだ。
莉奈は引き継ぎ内容を確認しようと、専用のバインダーを手に取った。その時、電話が鳴った。
「……ん?」
ディスプレイの番号に見覚えがあるような感覚を覚えながら、莉奈はその電話を取った。受話器から聞こえてきたのは佐竹の声だった。
「ああ、桐島か。おはよう」
「おはようございます。どうしたんですか? 今日はお休みですよね」
「ああ。だけど急遽伝えないといけないことができてな」
佐竹は自身の焦りを落ち着けるように、ふうっと一呼吸おいた。
「妻の父親が亡くなったんだ。悪いが忌引をとることになる。明日からも休むので、その連絡だ」
「あ……承知しました」
「それでな、桐島」
「はい」
「明日、修学旅行の講演会があるだろう。あれに出ることになっていたんだが、代わりを頼めるか」
「え? わたしが、ですか」
驚きのあまり、声がひっくり返った。佐竹は少しだけ笑って話を続けた。
「椎名は修旅担当でそこまでの余裕はないだろうし、日勤でインチャージを任せられる桐島なら大丈夫だろう。話す内容は……ああ、悪い、もう行かないといけないから、椎名に確認してくれ。明日からのシフトだけあとで少し調整して支配人から回覧してもらうようにするから、確認頼むな」
途中から一方的に言い置いて、佐竹はさっさと電話を切ってしまった。莉奈は受話器を持ったまま、数秒の間呆然としていた。
「どしたの」
「佐竹マネージャー、忌引でしばらく休むらしくて。その、明日の講演、わたしに代わりに行けって……どうしよう、そんな器じゃないのに」
桃井は少しの間、莉奈の目を見つめた後、あははと大きく口を開けて笑った。
「いいじゃん、かっこいいじゃないの」
「勘弁してください。そういうの苦手なんですよ」
莉奈は受話器を置いて、修学旅行の手配書のコピーを取り出した。予定では明日の午後一時半からとなっている。
「お、桐島来てたのか。おはよう」
朝食会場からタイミングよく戻ってきた椎名は、莉奈の顔を見て早速話しかけてきた。どうやら佐竹は、個人的に椎名のスマホにも連絡を入れていたらしい。
「聞いたか」
「聞きました……けど、わたしで良いんですか」
「ま、背に腹だわな」
「それはそれでちょっとへこむ評価なんですが」
唇を尖らせた莉奈を意に介すことなく、椎名は無造作に冊子を手渡してきた。手作り感溢れるホチキス留めのその表紙には、「修学旅行のしおり」と書いてある。
「時間見つけて目を通しておいたらいいよ。明日の講演会のスケジュールとか題目も入ってるから。話す内容は大きく二つ。ひとつはホテルマンの仕事内容そのもの、もうひとつはそれに対する自分の意識や考え。講演会の目的としては、中学生が将来を考えるための手がかりだと考えてくれればいい」
「将来……」
「桐島は新卒入社だろ。将来のことを考えるときに何がきっかけになったのか、そのあたりを絡めて話したらいいんじゃないか」
助け舟を出したのは桃井だった。その言葉に、椎名も大きく頷いている。
「桐島の出番は後半だから。講演会の前半はスキー場の人が話すから、最終的な温度感はそこで適当に調整して」
「て、適当って」
「任せたぞ」
「ちょっと!」
言うだけ言って、椎名は再びバックオフィスを出ていった。佐竹の連絡を受けて、隙間時間で立ち寄っただけだったのだろう。出がけにキーボックスから取り出していったのは、更衣室用の宴会場の鍵だ。
勢いよく閉められたキーボックスが、がちゃがちゃと音を立てた。
「……ほんと、雑」
「信頼されてるってことじゃないの」
「だとしても、もっとこう……手心ってもんがあってもよくないですかね」
恨みがましい気持ちを顔から溢れさせながら、莉奈はしおりをぱらぱらとめくった。タイムスケジュールや持ち物、注意事項などが細かく書き込まれているのを見て、懐かしさを覚える。
そのしおりの最後のほうに、講演会のページがあった。名前は載っていないが、簡単に講演の内容が記載されている。隣のページはメモ用なのか、真っ白だ。
「今日はそんなに忙しい日じゃないので別に仕事がひとつ増えるのは構わないんですけど、単純に人前で話すのが上手くないので憂鬱なんですよね」
「なんとかなるって。そんな悩まなくて大丈夫だよ」
桃井は他人事だと平然とした顔をしている。
そんなやりとりをしているうちに九時が近づいていたことに気づいて、莉奈はいったんしおりを置いて、朝のミーティングへ行く支度を始めた。
*
その日の夕方、莉奈は既に残業となる時間帯に宴会場にいた。
佐竹の代打で、修学旅行用の夕食会場のヘルプに来たのだ。スープを注いで渡すだけなので簡単だが、百人が一度に並ぶので効率よくやらなければならないというのはある。
もう一人ヘルプに呼ばれていたのは植松だった。
「お疲れ様です」
「あ、桐島さんもここのヘルプだったんだね」
「はい、佐竹マネージャーの代わりで。たまにこういう仕事があると気分転換になっていいですね」
植松は莉奈の隣でサラダを配る役割らしい。スープと違ってその場での作業がなく、本当にただ配るだけなので、いちばん気楽な仕事だ。
「じゃあ、準備できたし時間もちょうどなので、オープンしますね」
椎名がドアを開けると、学校指定のジャージ姿の生徒たちが次々に入ってきた。競うように小走りになる生徒もいて、それには教師たちが走るなと声をかけている。
もっとも、本人たちは聞いてはいないが。
怪我をした女子生徒は列の途中にいた。多少良くなったようで、足を引きずってはいるものの、松葉杖はついていない。友達だろうか、三人ほどで連れ立って会話をしながら歩いてくる。その生徒は、莉奈が差し出したスープを見て、あからさまに嫌そうな顔をした。
「何、これ。野菜ばっかじゃん」
談笑していたそれとは打って変わった低い声。正面から莉奈の顔を捉えたうえでかけられたその言葉に、この子はこんなふうに話すのか、と面食らった。
その表情の歪さも合わさって、ドラマに出てくる悪役のように感じられる。
「チキンと野菜のコンソメスープでございます」
若干の動揺を抑えつつ、莉奈が淡々とそう言うと、今度は生徒のほうが驚いたような表情をした。
何かおかしなことを言っただろうか、と疑問に思いながらも、莉奈は構わずトレーにスープを載せた。
「熱いですので、お気をつけてお持ちくださいね」
「……ホテルの仕事って大変だね。こんなガキにも丁寧な言葉を使わなきゃいけないんだ」
彼女はそう言って、身を翻した。先に歩いていた友達を追いかけて、奥の方の席に向かっていく。
次に並んでいる生徒に同じようにスープをサーブしながら、莉奈は女子生徒の横顔を探った。
友達と会話をしながら食事開始の合図を待つ彼女は、ごく普通の中学生にしか見えない。だが、先ほどの棘のあるセリフは、間違いなく彼女から放たれたものだった。
相手を真っ向から攻撃しようと狙った言葉。莉奈がそれでダメージを受けることはないが、その言葉を発した意図は何だったのだろう。
ぼんやりしているうちに、全員に食事は行き渡ったらしい。気がつけば教師の合図でいただきますが聞こえ、和やかなディナータイムが始まっていた。
莉奈と植松の役目はここで完了なので、バック通路に繋がるドアを開けて退散する。フロントへ戻ろうと歩き出したのと同時に、植松に呼び止められた。
「フロント、逆だよ。そっちに行ったら調理場しかないよ」
「え、あ、……本当だ」
「どうしたの、何か考え事?」
莉奈は植松に、女子生徒の発言のことを話した。植松はからっと笑って言う。
「そんなの気にしなくたっていいよ。思春期ってやつでしょ。もしくは厨二病?」
「その定義もいまや曖昧になりつつありますけど……別に言われたことがショックとかではないんですけど、なんか引っかかるように思えちゃって。ま、中学生のことだし、そういう子もいますよね」
「そうよ。桐島さんが気にすることじゃないわ。それより聞いてほしいことがあるの」
植松は莉奈にずいっと近寄ってきた。その瞳はきらきらと光っている。
「混雑状況が確認できるシステムを導入することが決まったの。部長に打診したら、これを導入してマイナスになることはないって言ってくれて、総支配人にすぐ上申してくれてね。総支配人も二つ返事よ」
「良かったじゃないですか。一歩前進ですね」
「完全な解決にはまだまだ課題はあるし、あのクチコミはそれだけが低評価の理由じゃないけど、それがゲストのストレスであることは事実だからね。他のサイトでも、混雑を理由に評価が下げられていることはいくつもあったから」
システムとしては、レストランや大浴場の入り口に入退場の人数を検知できる専用のカメラを取り付けて、ウェブ上の表示に連携させるようなかたちらしい。業者に依頼も済んでおり、近いうちにカメラの取り付けが行われることまで決まっているようだ。
「混んでるのがわかってたら時間をずらすのに、って言われることは何度かありましたから、それが減るのであれば現場としても嬉しいですよ」
「冬が来る前に導入したら良かったなってところは、反省ポイントだけど。あと今日、公式サイトと予約サイトでそれぞれ、客室や料理のサンプル写真種類を増やして、わかりやすいように更新してあるから、時間のある時に見てみて。もっとこういうのがあったらいいのに、っていうことがあったら教えてね」
「わかりました。ありがとうございます」
植松は弾むような足どりで、マーケティング部の事務所へ向かう階段へと消えていった。莉奈はその階段に背を向けて、フロントの最寄りの階段へ向かった。
植松は気にしなくていいと言ってくれたが、それで忘れられるほど人の脳は単純ではない。莉奈の脳内には、女子生徒の言葉がいまだに渦巻いている。
――ホテルの仕事って大変だね。こんなガキにも丁寧な言葉を使わなきゃいけないんだ。
ホテルの仕事を鼻で笑うような声音だったが、自身のことを指してガキと言うところに妙なアンバランスさをはらんでいる。そのことに気がついて、莉奈は彼女が抱える不満の可能性を想像した。
あくまで想像だ。だがきっと、彼女は学校ではない場所――おそらく家庭の中で、もがいているのではないか。中学校の校区の特長として、家庭に事情がある生徒が多いと、椎名が言っていた。
事情はそれぞれだろうが、それがきっかけで人格形成に大きな影響があったり、道を踏み外すことになる子どもは決して少ないとは言えない。
勝手な想像だが、何かあるのだろう、と莉奈は思った。生来のものとして攻撃的な性格を持っている人物だっているだろうが、彼女はそれとは違うように見える。
さっきの発言も、わざと憎たらしさをつくったようだった。
「……だから何だって話だよなあ」
想像したって莉奈にできることなどない。気持ちだけは切り替えようと、頬を軽く叩いて階段のドアを開けた。
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