あなただけの宝箱を④
修学旅行のスキー組一行が戻ってきたのは夕方の五時半すぎだった。揃いのレンタルウェアに身を包んだ彼らが正面玄関から入ってくるのを、莉奈はカウンターの中から出迎えた。
その中に、朝とは違う気配があった。
「あれ?」
女子生徒が一人、教師に支えられながら松葉杖をついている。慣れない不自由さに四苦八苦している姿が見えた。
「あの、すみません」
「はい」
女子生徒に寄り添う教師が椎名に声をかけた。
「五一二号室の生徒なんですが、スキー中に足を怪我しまして。捻挫のようなんですがなるべく動かさないようにと診察時に言われたのですが、彼女についてはエレベーターを使用してもいいでしょうか」
修学旅行は一度に大勢の人数が移動する上、移動回数も多い。
そのため、他のゲストへの影響を鑑みて、移動は階段でおこなってもらうように依頼していた。
「そうですね。五階までその状態で階段を使っていただくのは難しいでしょうから、大丈夫です。ただ他の生徒さんは階段を使うようにお願いします。付き添いには極力先生が付いてくださるようにしていただければと思います」
椎名は淀みなくそう答えた。女子生徒は不服そうな顔をしたが、教師はわかりましたとお辞儀をして、彼女の背中を押した。
「椎名さん、聞いてたんですか?」
「三時頃に添乗員から連絡があったんだ。それでさっき遠藤部長と佐竹さんに相談してた。他の生徒の便乗が発生すると混乱を引き起こしかねないから、あくまで怪我や体調不良の生徒とその付き添いの先生だけでってことで決まったんだよ」
「そうだったんですね」
初日から怪我をした生徒には気の毒だが、彼女の友人として他の生徒が同乗するのを認めてしまうとややこしい話になる。
あくまでイレギュラー措置であることを強調したということなのだろう。
「俺は食事会場に行ってくる。何かあったらスマホ鳴らしてくれ」
「わかりました」
莉奈は椎名の背中を見送ってから、食事から戻ってきた夜勤者と交代するかたちでバックオフィスに入った。
デスクでは既に、漆間と笹川が明日のチェックイン準備を進めている。数は多くないのでもうじき終わるだろう。
空いているデスクに座って、インターネットを立ち上げた。フロントで在庫管理している特典やチケット類が残り少ないので、そろそろ発注をかけなければならない。
変更がなければウェブサイトからすぐに注文できるので、便利な世の中である。
「……」
ふと、ブックマークにある予約サイトの名前が目についた。
サイトを開いてクチコミのタブに移動すると、その一番最初に例の低評価コメントが表示される。サイトの仕様上、他のクチコミが投稿されたり一定時間が経過したりするまでは、表示順が変わったり非表示にしたりすることはできないので、ずっとこのクチコミが閲覧者の目に晒されることになる。
それが憂鬱の理由のひとつでもあった。
「ああ、そのクチコミな」
不意に後ろから声をかけられて、莉奈の肩はびくっとはねた。振り向くと、佐竹が苦笑いしている。
「さ、佐竹マネージャー」
「悪い悪い、そんなに驚くとは思ってなかったんだよ」
佐竹は顎をかいて、ため息をひとつついた。
「この間の会議でもそれが話題に上がったよ。まあ、低評価がつくこと自体はこれまでも何度かあったが、ここまでコメントの内容自体も強いものはあんまりなかったからな。久しぶりにここまで書かれたなという感じだ」
「返信はしないんですか」
「マーケティングの部長が返信するって言ってたけどな。まだ纏まってないんだろう」
「いつもは佐竹マネージャーが書いてませんでした?」
そうなんだけどな、と、佐竹の歯切れが悪くなった。
「今回のクチコミ、我々スタッフ側が悪いものだと言い切れるものではないけど、改善の余地がある内容だっていう総支配人からのツッコミが入ってなあ。クレーム対応した椎名の話に悪いところはなかったし、正月の混雑はそう簡単に緩和できるものじゃないけど、何かしらの対策は打てるはずだからってな具合にな。それで、そのへんを具体的に詰めて見通しがたったら、そのあたりを踏まえて返信をしようってことになったんだ」
「はあ……」
いち消費者としては、文句を言うくらいなら次から来なければいいと思ってしまう。莉奈自身はそういうタイプだ。
だが、世の中の全ての人がそうではない。しかもこれはクチコミで、これから宿泊を検討している人が見るものだ。
価格のわりに程度の低いホテルだと思われてしまえば、結局損をするのはホテル側だ。
「誠意のある回答をしないと、ホテルのブランドに傷をつけることになりかねない。社長からお叱りを受けるのは総支配人だからな」
「噂の本社会議の時ですね……」
月に一度、加賀市にある本社で各ホテルの総支配人が集まって行われる会議は、素人が出席したら胃に穴が開く程度では済まないと噂されている。
若杉は平然とした顔で帰ってきてはその内容を報告してくれるが、会議の場がどのような雰囲気なのかは想像がつかない。
そして、数ヶ月前のその会議で、以前クチコミで酷評された月岡温泉にあるホテルあやめの総支配人は、かなり厳しい追及を社長から受けたという。
内容としてもホテル側の落ち度があったことは事実であり、改善を図る他ないというのは紛れもない事実だったが、その会議の後の飲み会はとんでもない空気だったと、若杉はその時ばかりは苦い顔をしていた。
若杉にそんな思いはさせられない。
きっとマーケティング部長は、必死に対応策を練っているのだろう。先日の植松の話から想像するに、何かしらシステムの改善や新規導入が決まるのではないかと予想がつく。
「全ての人に気に入ってもらえるなんていうのは難しい話ですけど、お客様のストレスが緩和されたり、事前情報でしっかり吟味してから選択できたりっていうふうになれば、少なくとも今回みたいなクチコミがつくことはなくなると思います」
「その通りだな。無理だってはじめから諦めるわけにはいかない。せっかくホテルで働くなら、少しでもたくさんのゲストに来てもらって、その人たちに楽しんでもらいたいもんな」
「はい」
その返事に、佐竹は満足したように頷いて自席に戻っていった。
莉奈はもう一度、クチコミを読み始めた。星の評価が高いものでも、よく読んでみると指摘内容が書かれていることも少なくない。
佐竹はそれらに一つひとつ、丁寧な返信を送っている。
働いていると案外気づかないこともある。泊まるゲストの目線と働くスタッフの目線は、全く違うのだ。
「こういうの、もっとみんなで共有できたらなあ……」
一ページ目のコメントを全て読み終わってから、莉奈は無意識に呟いていた。社内会議に出席する管理職だけでなく、現場の若いスタッフでも話し合う場があればいいのに、と感じたのだった。
ちょっと考えて、誰かに相談しよう。莉奈は静かに心の引き出しにその気持ちをしまって、今度こそ発注サイトを開いた。
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