あなただけの宝箱を⑧




「いやあ、桐島先生の講演は心に沁みたよ」


 その日の夜、そう言って景気のいい音を立てて缶ビールを開けたのは椎名だ。恒例の部屋飲みには、いつもと変わらないメンバーが集まっている。


 莉奈は椎名の言葉に顔を顰めて、持参した缶チューハイのプルタブに指をかけた。


「ちょっと、からかわないでくださいよ。必死だったんですからね、こっちは」

「俺も見たかったなあ、桐島のかっこいい姿」

「桃井さんまでそんなこと言う……」


 がっくりとうなだれた莉奈を労わるのは漆間と笹川だ。後輩にあたるので、思うことがあっても口に出せない立場ではあるだろうが、今はその優しさがありがたい。


 椎名とともに出発する修学旅行生のバスを見送ってフロントに戻ると、彼はさっそく莉奈の話しぶりを言いふらしてまわったのだ。

 時間が経って客観的に自分の話を振り返っていた莉奈としては顔から火どころではすまないほどの辱めに感じられて、仕事中にも関わらず大声で止めに入ったほどだった。


「それにしても、なかなか濃い三日間でしたね。担当としてはどうだったんですか」


 桃井が訊ねると、椎名はううんと苦い顔をした。


「おもしろい経験ではあったな。でも、もっと改善の余地はあるかなと思ったよ」

「今回の学校が特別、インパクトあるところだったってわけじゃなくて?」

「それもあるかもしれないけどな。ただ、やっぱ子どもの集団ってのは、家族とか大人の集まりとは全然違う。中学生なんて図体だけ見りゃ大人と変わらない子もいるけど、中身は全然違う。そういう意味で、もっと備えられることはあったかもな、って感じだ」

「なるほどねえ」


 大袈裟に頷く桃井は、自分で振った話題なのに興味はあまりなさそうだ。気の抜けた相槌に椎名は苦笑した。


「なんで今回の修学旅行がうちに決まったのかは謎だったけど、いろいろあったみたいだな」

「ああ、そういえば。遠藤部長とスキー場の方が話してましたね」

「え、どういうことですか?」


 漆間が興味を示したので、椎名はビールをぐいと煽ってから話し始めた。


「もともとあの中学校は、十年以上修学旅行をしてなかった。理由は過去のトラブル。だけど時間が経って、改めて修学旅行を再開させようという風向きになった。でも過去のことは足枷になって、定番の関西方面は行きにくい。また地域柄の事情もある。そこで、中学校の先生がいろんな伝手を辿った結果、スキー場にたどり着いて、修学旅行にスキーを組み込もう、ってことになった。そしてスキー場のマネージャーと遠藤部長が仲が良いから、宿泊先がうちになったって話だったんだ」

「費用も抑えられて、非日常を体験できるっていう条件では、まあまあな場所だからね。先生と添乗員、添乗員とスキー場、スキー場とホテルがそれぞれ懇意だから、いろんな融通も効かせられたみたいだし」


 莉奈が付け加えると、漆間はへえ、と心底感心したような声を出した。


「生徒さんたちの良い思い出になっていたらいいですね。せっかく三日間も過ごしてくれたんだし」

「うん、みんながみんな、同じ感想じゃないだろうけど、ひとつでも自分の人生に響くものが見つかっていたらいいなって思うよ」


 心の底からそう感じる三日間だった。ホテルで働くことについて、自分にはやっぱりこれしかないかもしれない、という気持ちにさせられた。


 だが、心に引っかかっていることはまだある。あのクチコミだ。


 植松と話したあと、今後の対策を踏まえてクチコミへの返信が書き込まれた。だが、返信の後に当事者のゲストからアクションが来ることはない。予約サイト自体にそのようなチャットの機能はなく、クチコミに対して一度返信されたらそれ以上のやり取りは続かない。


 判断材料としては、そのゲストが次にまた来館するかどうか、しかないのだ。


 生徒たちには明るい展望を語ったが、実のところ気持ちが晴れたわけではない。

 書き込まれた電子の文字の奥に透けて見える、そのゲストの感情は、莉奈にとっては思った以上にインパクトの強いものだった。


 ぼんやりと燻る、不安とも悲観とも形容できない心の内を明かすと、椎名がビールを飲み干して口を開いた。


「桐島、次の会議出るか」

「え、会議ですか」

「その様子だと、腹に抱えてるものはほかにもありそうだしな。前に出席したのはもうだいぶ前だろ」

「そうですね。十月くらいだったかと」

「せっかくだから、現場目線でいろいろ話してみたらどうだ」


 莉奈は唾を飲み込んで考えた。確かに、上司たちに直接意見を言える機会がもらえるのはありがたい。だが、


「もっと、広く現場の声を汲み上げてもらえる場所があったらいいなと思うんですよ」

「というと?」


 チューハイで喉を湿らせてから、莉奈は話を続けた。


「たとえば今回のクチコミの件ですけど、わたしたちみたいに意見の場がないけど思っていることがある、っていう社員はもmっといるんじゃないかと思うんです。でも今回、上司たちの話し合いで片づいちゃったじゃないですか。大事にならずに済んだのは良いことですけど、そういうちょっとした社員の意見とか、会議の場以外でも発言の場があったらいいなって思ってて……もちろん、やみくもに集めてもとっ散らかって余計な手間になっちゃいそうですけど」

「ああ、でも気持ちはわかるかも。こうしたらいいのにとか、思っても誰にどう言ったらいいのかわからないし。マネージャーや支配人たちもいつも忙しそうだし、そもそも俺らも仕事中にゆっくり話をする余裕があるほど、人員は潤沢じゃないしね」


 桃井が同意を示した。椎名も否定せずに話を聞いてくれている。


「一例ですけど、意見箱みたいなものとかあったら気軽に書けるかなあ、とか。そういうのでなくてもいいんですけど、何か社員たちが意見を言い合えるような手段があったらいいなっていうのは、ちょっと思ってるんです」

「いいんじゃないか。実現するかはともかく、そういう現場の目線って大事だからな。総支配人も、若手からそう言ってもらえたら喜ぶんじゃないか」


 いつかは自分たちがこのホテルを担うことになる。ビジネスである以上、理想論だけではうまくいかないことのほうが多いのはわかっているつもりだ。


 それでも今こうして、ゲストと直接接しながら感じている多くのことは、いつになっても決して無駄にならないはずだと信じている。


 今日話した中学生たちに恥じないホテルマンになろう。莉奈は言葉にせず、胸の奥で思いを新たにした。





 修学旅行生の受け入れから十日ほど経ち、一月も終わる頃、宅配便で小包が届いた。送り主は森倉中学校となっている。


「佐竹マネージャー、何か届いたみたいですけど」

「ん? この間修学旅行で来てた学校か。開けてみたら」


 持ち重りのするその袋を開けると、中に入っていたのは大量の封筒だった。規格は全て同じだが、裏側に個人の名前が書いてある。

 そして、それとは別に一枚の便箋が入っていた。


〈先日は大変お世話になりました。滞在中は大変ご迷惑をおかけしたことと存じます。大変申し訳ありませんでした。

 しかしながら、生徒たちは越後湯沢の三日間で、東京にいるのでは得ることのできない経験や思い出を作ることができました。この度、大変お世話になったホテル雪椿の皆様へ、感謝の気持ちを込めてお礼状を書かせていただいております。子どもたちの拙い言葉ではありますが、お受け取りいただけますと光栄です〉


 署名は学年主任の名前だった。


「いくつかの束に分けて、部署ごとに回覧するか。桐島、あとでいいから回覧用のチェック表を出しておいてくれるか」

「わかりました」

「頼むな」


 佐竹はそう言って、封筒のひとつを手に取って開封した。


「……お、桐島」

「なんでしょうか」

「これ。読んだほうがいい」


 まだ開けたばかりだというのに、佐竹はその封筒を莉奈に向けて差し出してきた。

 詳しいことは知らされないまま、それを受け取る。


 封筒を裏返すと、そこには芹沢実侑の署名があった。


「これって、怪我した子……」

「だな。まあ、読んでみろ」


 莉奈は便箋を取り出して開いた。署名もそうだが、文字は整然としている。

 筆致に乱れのない美しい文字だが、読んでみるとそれとはちぐはぐに思えるほど、言葉は拙い。


〈ホテル雪椿の皆さまへ

 修学旅行の三日間、お世話になりました。わたしは一日目のスキーでけがをしてしまったので、正直つまらないなと思いました。二日目のそば打ち体験も足がいたかったし、三日目も治らなかったのでスキーはできませんでした。ホテルでも、友達といっしょに行動できなくて、なんで自分ばっかりこんな思いをしなくちゃいけないのかなって思いました。

でも、最後の講演会でホテルの人の話を聞けたのはおもしろかったです。ホテルの人って、ていねいでキラキラしていて、わたしたちのような子どもなんて相手にされないんじゃないかと思っていたけど、そうじゃなくて、わたしたちもちゃんと一人の客として見てくれているんだなって思えました。それと、ずっとにこにこしていたホテルの人もつらいこととかあるんだとわかりました。

ホテルの桐島さんが話していたクチコミを、帰ってから見てみました。わたしにはあまり共感できない内容だったけど、もし修学旅行の前にこれを見ていたらいやな気持ちになっていたかもしれないと思いました。だけど、ホテルの人たちはそれを見て良くしようと頑張っているんだとわかったので、応援しています。

今は、やりたいこととか将来の夢とかまだ全然わからないけど、いつか見つかったらいいなと思います。

ありがとうございました。〉


 彼女が何を抱えているのか、どんな思いで日々過ごしているのか、そんなことはわからない。でも、修学旅行の三日間にあった良いことも悪いことも思い出として書いているその言葉に、余計な偽りはないのだろう。そうはっきりと思えるほど、文字に迷いはなかった。


「そっか……」


 ほうっと安堵を吐いた莉奈に、佐竹はふっと笑いかけた。


「さすが、桐島先生だな」

「ちょっ……佐竹マネージャーまで」

「いいじゃないか。実際、こうして生徒さんには響いたんだから」

「もしかして、これずっといじられ続ける感じでしょうか……」


 がっくりと肩を落としたと同時に、今日の夜勤に入る椎名と栗原が出勤してきた。佐竹がさっそく二人に手紙の話をし始めたので、莉奈は再びからかわれるはめになった。



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