年末年始の喧騒の中で⑦
疲労を感じていたので、寮に帰る前に風呂に入ろうと、莉奈はロッカールームに置いていたお風呂セットの籠を取り出した。寮の自室に置いてあるものを持ってきていたのだが、正解だったと自画自賛した。
業務用エレベーターで最上階へ上がる。フロアへ出るドアを開けて出ると、大浴場帰りと思われる若い男性客とすれ違った。伏目でそのまま通り過ぎようとした時、お姉さん、と呼び止められた。
「また会いましたね」
「あっ……」
柘植御一行のオレンジパーカーの少年だった。とはいえ、今は浴衣姿だが。
「奇遇ですね」
「そ……そうですね」
なんでまた呼び止められたのだろうと訝しく思って腰がひけていると、少年は人懐こく笑った。
「じいちゃんに、花火の写真見せたら、褒めてくれたんです」
「花火……あ、あの日の」
「はい。……あの日、俺の泊まる部屋に叔父さんと叔母さんが集まって、父さんたちと一緒にじいちゃんのこと話してて。子どもはみんな置き去りにされてるんです。じいちゃんが具合悪くなった時、子どもたちは二階で遊んでて、たまたまトイレに行くのに一階に降りてた俺以外はそのことに気づいてません。出発が遅くなったことは叔母さんが適当な理由でごまかしてました。そりゃいつかは話してくれるだろうけど、ほっとかれてんのが嫌で。でも聞いてたなんて言える空気じゃないから……俺は他の子たちを連れて、風呂に行ったり縁日見たりしてました」
年長の子どもとして、つらい立場だっただろう。何も知らない歳下の従兄弟や親戚を連れて大人の声が聞こえないように気遣うのはハードな話だ。
「じいちゃんも部屋から花火を見てたんです。で、今日の夕飯の時に写真を見せたら、センスがあるって褒めてくれて……俺、写真好きだからめっちゃ嬉しくて」
じいちゃん、ビュッフェ楽しいって言ってました。少年は前のめりになりながらそう教えてくれた。
「何を食べるか、目の前にたくさん並ぶ料理から自分で好きに選べるのが楽しいって言ってました。一応、飯の制限があるっぽくて、だいぶ悩んでましたけど。じいちゃん、ビュッフェなんてほとんど行ったことなかったらしくて、これもいいなって言ってました」
「ありがとう……ございます」
饒舌に話すその姿は、先日とは大違いだ。暗く思い悩んでいた彼の姿は、今はもうどこにもない。
「俺、悔しかったんです。じいちゃんとは年に二回くらいしか会えないし、それなのにじいちゃんの大事な話をするのに置いてけぼりにされてて。本人は勝手に行く末を決めちゃってるし、そんなのさすがに受け入れられなかったんですけど、でもここで美味しいものをみんなで囲んで、たくさん遊んで楽しいことして、ゆっくり風呂に入って、そうしたらちょっと大人たちの気持ちもわかって。父さんたちも受け入れられなかったんですよね。ちゃんと自分たちが覚悟を決めてから、子どもたちに伝えようとしてくれてるのかなって思えたんです」
「……きっと、その通りですよ」
柘植和也の赤くなった目を思い出した。それだけ言葉を返すのが精一杯だった。
「でも、心残りがあって」
「どうされたんですか」
「抽選会。結局二回とも、参加できなかったんですよね」
せっかくチケットをもらったのになあ、とぼやく彼に、莉奈はにっこりと微笑んでみせた。
「当日会場にいらっしゃったのはごく一部の方だけなので、実は当選者がその場にいなかった景品がいくつかあるんです。だから、縁日の会場とホテルの公式サイトで当選番号をご覧いただけるようになっています。よかったら見てみてください」
「え、そうなんですか! よかったあ、お姉さんに聞いといて。後で見てみます。ありがとうございます!」
彼はそう言って、エレベーターのほうへと小走りで向かっていった。
*
翌朝のチェックアウトラッシュはめまぐるしいものだった。繁忙期の忙しさは知っていても、いざその中に放り込まれると息をつく暇もない。それでもそのめまぐるしさは嫌いではない。むしろ、忙しいほど燃えると言ってもいい。
「お待たせいたしました、お次にお待ちのお客様、こちらでお伺いいたします」
呼びかけると、目の前にやってきたのは男性の二人連れだった。どちらの顔にも見覚えがある。
「柘植様」
莉奈は名乗られる前にその名前を読んだ。柘植和也が柔らかく微笑む。
「たいへんお世話になりました。ありがとうございました」
「ごゆっくりお過ごしいただけましたか」
「年越しにかまけてのんびりしすぎましたよ」
柘植敏樹がけらけらと笑った。その手から鍵を七つ受け取って、莉奈は利用明細の準備にかかった。さすがに七部屋もあるとややこしい。漏れがないかチェックして、明細を柘植和也の前に提示した。
「お待たせいたしました。お食事の際のお飲み物と売店のご利用分、あとはカフェラウンジのご利用がお部屋付になっておりますので、合計でこちらの金額でございます」
「じゃあ、カードで」
柘植和也は重厚な雰囲気を纏うクレジットカードを差し出してきた。莉奈では逆立ちしても持つことができないようなランクのものだ。カードリーダーに差し込んで暗証番号の操作を待つ間に、柘植敏樹が口を開いた。
「実はね、抽選が当たったんですよ」
「そうなんですか。おめでとうございます」
「何が当たったと思います?」
「え……当ホテルのお菓子とかでしょうか」
訊かれると思っていなかったので、間抜けな答えになってしまった。ホテルマンで遊ぶ父親をたしなめるように、柘植和也はその脇腹を肘でつついた。
「まったくもう、父さんは」
「いいじゃないか。宿泊券が当たるなんて嬉しいよ」
「しゅ……宿泊券だったんですか」
抽選会の景品には、宿泊券がいくつか組み込まれていたのは覚えている。ホテル雪椿だけでなく、系列の他のホテルにも協力してもらっての企画なのだ。
「だから、また来ますよ。くたばってはいられないね」
「……お待ちしております」
胸が詰まって、それ以上言えなかった。それをごまかすように、莉奈は俯いて明細を三つ折りにした。
柘植敏樹本人も不安と絶望で仕方なかったのだろう。それならば早く終わりを受け入れてしまったほうが楽だと考えたのかもしれない。
周りには前向きな決断だと思わせるような言動をしつつも、まだ生への執着は捨てきれていないのではないかと、願うような気持ちになる。
折りたたんだ明細を封筒に入れて差し出す。彼は長い指先でそれを受け取った。
「ありがとうございました。また来ます」
「ぜひお待ちしております。寒いですので、どうぞお身体にはお気をつけて」
荷物を積んだ台車の音と、いくつも重なる明るい笑い声が、陽の差し込むロビーに響いていた。
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