年末年始の喧騒の中で⑥

 ロビーに出ると、あらあなた、と声をかけられた。声の主を確認すると、先ほど日本酒バーで少し話した婦人――柘植敏樹の妻だった。鮮やかなサーモンピンクのニットがよく似合っている、目元の柔らかい表情が印象的だ。


「さっき、日本酒バーのところにいた方よね」

「はい。柘植様、楽しんでいただけましたか」

「もちろんよ。新潟のお酒っておいしいわね。旦那に勧められて初めて飲んでみたの。飲みやすくてよかったわ」

「それならよかったです」


 会話をしながら、彼女が声をかけてきた理由は何なのだろうという疑問が湧いてくる。それを見透かしたように、彼女は声をワントーン落とした。


「さっきは変な話を聞かせちゃって、ごめんなさいね」


 どきりとした。だが、それを悟られないように表情を保つ。


「いえ」

「あの人ね、息子たちにはずっと黙っていたの。みんな離れて暮らしていて、それぞれの家族があって生活しているから、今更どうしようもないことで悩ませたくないって。病気がわかったのはしばらく前だけど、わたし以外の身内には話していなかったのよ」


 でもね、と、彼女は目を伏せた。


「ここに来る日の朝ね、みんなに知られてしまったの」

「ここに……大晦日、ですか」

「ええ。子どもたち三人とその家族と夫の弟夫婦、その子どもたち夫婦が一旦我が家に集まったの。それで、さあ出発しましょうってなった時に、あの人、具合が悪くなっちゃってね。咄嗟に薬を飲んでよくなったけど、その準備の良さに和也が気づいてしまって」


 ――親父、どっか悪いのか。


「しかも娘は薬剤師をしていてね。薬を見て、察するものがあったみたい。いつからなのよ、って涙目で言われて、義弟夫婦もその子どもたちもなんで言ってくれなかったんだってすごい剣幕で……あの人、すまんって謝ってた」

「で……でも、治療されているのではないんですか」


 ならばそんな悲観的な流れにはならないだろうという、ある種わかりきった質問だった。病魔に抗えない男の妻は、正面玄関の大きなガラスのドアから外に視線を向けた。


「しないって、言ったの」

「え……」

「病気はかなり進行していて、手術や治療をしても多少の延命にしかならないって言われてね。あの人、だったら痛みや苦しさだけ緩和してくれたらいい、ずっと入院して治療するよりも、最低限の治療と薬で家にいたり出かけたりできる状態を保てるなら、残された時間を好きなように楽しみたい、って言ったの。病状の宣告を受けたその場でね」


 だから誰にも言わなかったのだ。病気のことを自分も相手も考えないで、残りの人生を楽しむために。


「きっとね、これが最後の旅行になるわ」


 治療しても完治の見込みがない状態で病気が発覚して数ヶ月。積極的な治療をしていないのだから、本当は遠出することに不安もあるはずだ。しかし、柘植敏樹の表情や立ち振る舞いからはそんな様子は微塵も感じられなかった。


「息子たちも義弟夫婦もみんな、その話を聞かされて戸惑っていたの。だから大晦日は到着が遅れてしまってごめんなさいね。本当は連絡を入れなきゃいけなかったんでしょう? すっかりそんなことは頭から抜けてしまっていたわ」

「いえ、でも無事にお越しいただけて安心しました」

「ありがとう。こんな話まで聞かせてしまって申し訳なかったわ。さっき言いかけてしまったのが気になっていたから、今会えてよかったわ」

「申し訳ありません、個人的なお話を聞いてしまって」

「いいの。わたしが話したかっただけだから。それに、最初はみんな暗かったけれど、ここで年越しする間にたくさんコミュニケーションがとれて、少し前向きになれている気がするのよ。いつも楽しませていただいているけれど、今年はいっそう特別ね」


 と、そこに柘植和也が通りかかった。売店で土産物を買い込んだ帰りらしく、大きな紙袋を両手に抱えている。彼は母親に声をかけようとして、ホテルのスタッフがいることに気づき会釈をしてきた。


「母さん、何してるの、こんなところで」

「少しお話ししていたのよ」

「ホテルの人と? 仕事中なんだから迷惑かけたらだめじゃないか」

「あ、ちょうど退勤したところですので、大丈夫ですよ」

「尚更お邪魔じゃないですか。母さんったら……」


 柘植夫人はふふふと笑って、それからごめんなさいねと言った。


 柘植和也の顔色は、確かにチェックインの時と比べて明るくなっていた。あの時は、彼自身が今にも倒れてしまうのではないかと思うほど、精神的な疲労や不安感が滲んでいたが、今はそうではない。その気持ちが消えたわけではないだろうが、父親の決断を受け入れる覚悟ができたということなのだろう。


「父さんが探してたよ。お土産を見に行きたいけど、母さんが来ないから部屋を留守にできないって。鍵持ってないだろ」

「ああ、そうなの。じゃあ戻らなきゃね」

「俺は買ったものを車に積んでくるから」


 親子のやりとりのあと、柘植夫人はゆったりとした足取りで客室へ向かうエレベーターに歩いて行った。


「すみません、母が邪魔してしまって」

「そんなことはございません。どうかお気になさらず」

「何かお聞きになりましたか」

「あ……ええと」


 言い淀んだ莉奈の表情を見て、彼は察したようだった。


「すみません、余計なことを聞かせてしまったようで」

「いえ、その……こちらこそ、申し訳ありません」

「母はきっと、誰かに聞いて欲しかったんでしょうね」


 柘植和也は、若造のホテルマンに対して紳士的な笑みを浮かべた。


「数日前に我々が問い詰めるまで、父と母の二人だけの秘密でしたから。本人の覚悟がわかっているからこそ、隣にいる母は悩んでいた部分があったと思います。叔父たちですら知らなかったんですから」


 考えてみればそうだろう。本人が受け入れていても、寄り添う身としては長く生きていてほしいと思うのは自然なことだ。それを一人でずっと抱えていた彼女は、いったいどんな思いでいたのだろうか。

 あの笑顔が浮かぶようになるまで、どれほど泣き暮らしたか、想像に難くない。


 柘植和也もその痛みを思い浮かべているのか、大きく息を吐いて俯いた。


「もっと頻繁に、実家の両親と連絡を取ったり会いに行ったりしていればよかったかもしれません。でも、自分も含めて子ども三人はそれぞれの家庭のことに気をとられて、親がそんなふうになっているなんて誰も想像すらしていませんでした。だからここに来る前、父が具合が悪いと言った時驚きました。――よく見たら、父は以前よりも痩せていましたし、歩くのもゆっくりになっていて」


 そこで声を詰まらせて、彼はすみませんと小さくこぼした。ここまで話を聞くつもりでなかった莉奈は、しかし身動きひとつできずにいた。


「我が子が成長するにつれて自分は老けたなあと思っていましたが、両親にも同じだけの時間が流れていたんですよね。それならいつかこんな日が来るのだって簡単に予測できたはずなのに、馬鹿みたいにみんなで驚いて、ショックを受けてしまいました。そんな我々を見て、父はずっと笑っていました」


 ――そんな顔をするな。子どもたちは立派に育って、それぞれ良きパートナーと出会えて、たくさんの孫にも恵まれて、さらにはみんなで遊びに行くこともできて、今更やり残したことなんてないさ。


 柘植敏樹は、そんなふうに言っていたという。


「今まで、風邪もほとんどひかないような人でした。それなのにこんな病気になってしまうなんて……と思います。でも、父も母もそれを受け入れているならば、あとは我々がその気持ちを受け止めるだけですから。まだ時間はかかりそうですけど、とにかく父が安心して楽しく暮らせるようにしようって、決めました。子どもたちにもちゃんと話してやれる気がします。感情が揺れるままで教えても、彼らも戸惑うでしょうから」


 個人的なことを話し過ぎてしまいましたね、と、彼は自嘲した。


「ホテルの方に話すようなことじゃなかったですね。足止めしてしまってすみません」

「大丈夫ですよ。わたしは……そんな経験がないので、おかけする言葉がうまく見つけられないのですが」


 莉奈は言葉に迷いながら、柘植和也の顔を見上げた。赤く潤んだ目が揺れていた。


「昨日、日本酒バーにいらしていたお父様はとても楽しそうでした。ご自身は飲めないからとおっしゃっておられましたが、奥様や息子さん、娘さんご夫婦におすすめの日本酒を紹介していて……ご本人としての思いは複雑な部分もおありでしょうけど、でも、とても楽しんでいただいているように思えました。柘植様……お父様にとって、良き思い出を作っていただけたのであれば、これより嬉しいことはございません」

「……ありがとうございます」


 目もとの揺らぎを隠すように、柘植和也は深く頭を下げて、正面玄関の自動ドアを抜けていった。


 自分の頬が一筋濡れていることに気がついたのは、その後ろ姿が見えなくなってからだった。




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