年末年始の喧騒の中で⑤
*
翌日の夕方、莉奈はフロントカウンターではなく宴会場にいた。正月イベントの日本酒バーの担当に入っており、六時まではここで法被を着て立っていなくてはならない。
イベント関係は主に企画課の担当だが、当日の運営に関しては部署の関係はなく采配されている。昨日は総支配人の若杉が縁日の輪投げコーナーで、子どもと一緒に本気で盛り上がっていたらしい。
その他にも、普段はベルスタッフの一時ヘルプくらいでしか表に出ない総務や経理のメンバーも、揃いの赤い法被を着て忙しなく動き回っている。あとは誘導員として短期のアルバイトスタッフを配置して、賑わう会場を整理しているのだ。
莉奈は企画課の主任、植松繭子とともに、日本酒バーを任されていた。
「桐島さん、カップと紙ナフキンの補充に行ってくるから、ちょっと外すね」
「わかりました」
植松は軽快な足取りでバック通路へ続くドアの方へ歩いて行った。ちょうどゲストの並びが途切れたところだった。
受付台帳の用紙をバインダーにセットして、次の来客にそなえていると、すみませんと声がした。顔を上げると年配の男女と、その後ろに四十代くらいの夫婦が二組、計六人の男女が立っていた。
「ちょっと大人数ですけど、いいですかね」
話しかけてきたのは年配の男性だった。見覚えがあるような気がするがすぐには思い出せない。大丈夫ですよ、と笑顔で答えて、莉奈はセットしたばかりの台帳を男性客に渡した。
「こちらにご記入をお願いいたします」
アルコールを扱っているので、体調不良者が出たり未成年に飲ませてしまうようなことがあったりすれば一大事だ。代表者の名前と利用希望者全員の年齢を記入する受付台帳は、そういった事故の抑止策として用意している。男性客はその意図を汲んだように頷いて、バインダーを受け取った。同行者に年齢を訊ねることもなく、すらすらと記入していく。
「これでよろしいですか」
差し出された台帳に記入された名前を見て、はっとした。代表者氏名の欄に書かれていたのは、柘植敏樹、という名前だった。
チェックインの時、一人だけずいぶんと落ち着いた表情をしていた。その人だ。後ろの男女は彼の子ども夫婦なのだろう。
「柘植様、あけましておめでとうございます。では六名様、飲み比べコーナーへご案内いたします。おひとつずつカップをお持ちください」
飲み比べ用の小さなプラカップを六つ差し出すと、柘植敏樹はそこから五つとって、同行者たちに配った。残るひとつは莉奈の手元に残ったままだ。
「私は飲まないので。みんなに酒の蘊蓄を垂れるためについてきただけですよ」
「あ……かしこまりました」
柘植敏樹は会釈して、飲み比べコーナーへ進んでいった。彼の妻が最後に残って、困ったように笑う。
「病気をする前は酒豪だったの。新潟はうまい酒が多いからって、ここに来るのも毎年楽しみにしてたんだけど、もう飲めないから今回は雰囲気だけ味わいに来ているのよ。ごめんなさいね」
「ご病気……なんですか」
そうは見えなかったので、素直に疑問符がこぼれた。彼の妻は微笑んだまま、頷いた。
「少し前に見つかったのよ。それから、生物とお酒、タバコは禁止になってね。はじめはつまらないって嘆いてたけど、もう慣れちゃったみたい」
少し先から、お母さん、と呼ぶ声がして、彼女は早足で歩いていってしまった。取り残された莉奈は、植松が戻ってくるまで呆然としていた。
「どうしたの?」
「あ、いえ……ちょっと」
莉奈は彼女から紙ナフキンの束を受け取って、ナフキンスタンドに補充した。ちらりと目線を向けると、六人は楽しげに笑い合いながら飲み比べを楽しんでいるようだ。カウンターの上には、既に魚沼で候と麒麟山の一升瓶が並んでいる。柘植敏樹に指示されてサーブを担当しているアルバイトスタッフが次に取り出したのは想天坊の瓶だ。一滴も飲まずに同行者に飲ませる酒を指名しているようだ。酒好きというのは本物らしい。
「よかったら、お酒ばっかりだとすぐ酔ってしまいますので、こちらもお召し上がりください」
植松がたくあんや蕪の漬物の盛り合わせを差し出すと、彼らはわあっと表情を輝かせた。良い具合にアルコールが回って、気持ちが弾んでいるらしい。
「気が利きますね」
「お水もありますので、遠慮なくご利用くださいね」
息子らしい男性――おそらく柘植和也の兄だろうか、少し目尻の皺が彼より深いがそっくりな男性が、父親と同じ顔で笑った。一昨日は険しい表情をしていたので、その温度差に心臓がぎゅっと苦しくなった。
「あの方は飲まないの?」
彼らから離れ、受付デスクの位置に戻ってから、植松が小声で訊ねてきた。莉奈は声を出さずに頷いた。
「ずいぶんお酒にも詳しいみたいだけれど」
「ご病気で飲めないんだそうです」
「そっか」
植松はそれ以上は何も言わなかった。
莉奈はチェックインの時のことを思い出していた。そういえば、一人分の食事の申し送りがあった。あれはきっと、彼のぶんだったのだろう。一行が暗い顔をしていたのも、病気のことが関係しているのだろうか。
――やめよう。考えたってしょうがないことだ。それに、少なくとも今この場では、彼らは楽しそうにしている。せっかくホテルに来ているのだから、お客様には笑っていてほしい。
やがて六時になり、交代要員に法被を引き継いで、莉奈はイベントで賑わう宴会場を後にした。あの後も日本酒バーはゲストが途切れずに盛況が続き、気がつけば柘植御一行はいなくなっていた。
宴会場からフロントに戻る途中、何の気はなしにディナービュッフェ会場を覗いてみた。正月だけの特別メニューでラインナップされた料理卓は、場内の飾りのためだけでなく華やかだ。
「お疲れ様です」
バック通路から顔を出したところにちょうどいたのは、桜庭だった。今日はビュッフェ会場のインチャージらしい。
「おう、お疲れ。どした?」
桜庭は耳元をいじりながら近寄ってきた。インカムがうまくはまっていないようで、耳掛けの位置をずっと探っている。
「いや、イベントの帰りにちょっと寄っただけです」
「そう。今日はまあまあいいペースだよ。人数多いとこも早めに来てくれたから、通すの楽だったし。それにしても、さすがに二十人でビュッフェに来るゲストは一般客だと初めてだな、俺」
「ああ、柘植様ですか?」
「そうそう。正月のビュッフェに来るのは今年が初めてっぽいけど」
確かに、昨年まではレストランの個室を予約してのディナーだけだった。年末年始は毎日メニューが少しずつ変わるから楽しみなのだと聞いたこともある。
春や夏に柘植和也とその妻子だけで来る時はビュッフェでの予約のことも少なくないが、この時期は覚えがないのは莉奈も同じだった。
会場内を見渡すと、料理卓にほど近いところに大所帯のグループがいた。見覚えのある顔が並んでいて、そこが柘植御一行の席だとわかった。テーブルの上には各々で取ってきたらしい料理が載った皿がいくつも並んでいる。
「……楽しそう」
「ん?」
桜庭の疑問符には答えなかった。
はたから見るぶんには、和やかな食事風景に思える。声までは聞こえないが、食事を囲んで話が弾んでいるような空気感だ。それを見て、莉奈は安堵を覚えた。
「戻ります。お邪魔しました」
「はいよ」
莉奈はフロントへと足を向けた。戻ったらきりのいいところで仕事を切り上げて帰ろうと思った。八時に出社している莉奈の定時はとうに過ぎている。明日はチェックアウトが混み合うだろうと想像してしまい、げんなりしながらフロントのバックオフィスへと入った。
だがそういう時に限って何かが起こるものだ。オフィスでは椎名がばたばたと慌ただしく動いている。何があったのか訊ねると、今日チェックインしたゲストが客室にアテンドされた際にほとんど難癖のようなクレームを言い出したらしく、短期のベルスタッフが泣かされて来たらしい。
「悪い、俺が行って対応してくるから、もうちょっといてくれないか」
「大丈夫ですよ。椎名さんが戻るまでいますんで」
「定時過ぎてるのに悪いな」
言うだけ言って、椎名はいつもの倍近い速さの足取りでバックオフィスを出ていった。今日はマネージャーの佐竹が夜間の責任者シフト明けで休みな上、フロントの支配人は食事会場のテーブルアテンドに入っていて不在だ。夜勤インチャージの椎名が行く以外の選択肢はない。
「まあ、椎名さんならうまいことおさめてくれそうですけどね」
カウンターに顔を出すと、そこに残っていた栗原と桃井はなんともない顔をしている。支配人を呼び戻したり他部署の役職者を引っ張り出したりするほどでもないのであれば、心配は全くいらないだろう。
「いろって言われたからいるけど、仕事残ってる?」
「笹川が明日の準備をやってるけど、もうほぼ終わりじゃないかな」
「さっき中入ったらもう片付けてたよ。彼女も定時でしょ? 上げちゃうよ」
バックオフィスに戻ると、笹川は明日のカード準備のためにデスクに出していた道具をちょうど片付け終わったところだった。まもなく定時を迎える彼女に上がりの指示を出して、莉奈はパソコンの前に座った。せっかくなので年末年始期間の反省事項をまとめておこうと思ったのだ。どうせ来週くらいにはフィードバックのためのアンケートが回ってくるはずなので、今のうちにメモにリストアップしておけば楽だ。
思い出しながらいくつか書いていると、疲れた顔で椎名が戻ってきた。そのまま椅子に腰掛けて、傍らにあったペットボトルのお茶を一気飲みした。
「参ったよ。なにもこんな新年早々から、あんなことで怒らなくてもいいと思うけどなあ」
「何だったんですか」
「ネットで見た部屋の写真と内装が違うって」
「ああ……」
定期的に入るクレームの一つだ。ホテルの公式サイトや各予約サイトなどには客室の写真をいくつか掲載しているが、ホテル雪椿の客室の内装は統一ではない。フロアや客室タイプで概ねまとめてはいるが、ブラウンを基調にした部屋もあればホワイト、ブルーなどで雰囲気の異なる部屋もあり、またクッションや壁の装飾品も部屋ごとに少しずつ異なっている。それは家具の調達の都合や補修にともなうなどの理由があり、もちろんサイトに断りも入れているのだが、ネットで見たホワイトの部屋だと思って来たのに! といったような具合で気に入らないと口にするゲストは、これが初めてではない。
「納得してくれました?」
「満室だから頭下げるしかなかったけど、替われる部屋がないから仕方ないって言ってなんとか話は終わったよ。あー、これまたシステムに書いとかなきゃなあ。チェックアウトまでにまた何か起こらないとも言い切れないし」
「お疲れ様です。じゃ、椎名さんも戻ってきたことだし、わたしは帰りますね」
「悪かったな。お疲れさん」
タイムカードを切ってバックオフィスを後にする。椎名は右手を軽くあげて挨拶を返してくれた。
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