年末年始の喧騒の中で④


「……あけましておめでとうございます」

 新年を迎え、景気良く晴れた元日の空気を全身で感じながら出かけようと、寮の玄関に降りたと同時に外からやってきたのは栗原だった。夜勤明けのくたびれた顔から発された新年の挨拶があまりにミスマッチで、つい吹き出してしまう。


「あけましておめでとう」

「どっか行くんですか。混んでますよ」

「そうだけど、新年の初売りは次の休みじゃ間に合わないから」


 長岡市にあるショッピングモールへ行ってみようかと考えていた莉奈は、栗原の言葉にそう返した。次の休みはしばらく先だ。数年ぶりに自由に過ごせる正月に浮かれる気持ちは否定できない。


「まあ、それはそうですけど。桐島さん、電車で行くんですか」

「車持ってないからね」


 湯沢町に住んで数年経つが、莉奈は車を買うつもりはなかった。寮には駐車場があるが台数が少なく、車の維持費に加えて近くで場所を借りる必要があるとなれば面倒くささの方が勝る。

 駅までは近い上、越後湯沢駅からは本数は少ないものの電車もバスも使えるので、さほど苦労はしていない。今どきは通販という便利なものもあるのだ。


「でも、初売りに行くんでしょ。車出しますよ、俺」

「え、でも今帰ってきたばかりでしょ。寝なくていいの」


「夜勤中にがっつり仮眠したんで。俺も明日はまた夜勤だし、せっかくだから数年ぶりの初売りに行ってみようかなって」


 報酬は昼飯でいいですよ、と勝手に言い置いて、栗原は身支度のために部屋に戻っていった。年越しの夜勤にがっつり仮眠するよゆうがあるものなのかは甚だ疑問だが、車で行けるのはありがたい。ショッピングモールは長岡駅から歩くには遠すぎるので、いつも電車とバスを乗り継いでいるのだが、帰りに荷物を持って乗るのはいつも行きの三倍は疲れた気分になる。

 空から地面までは、灰色と白のグラデーションになっていた。新潟の冬のいつもの景色だ。寮の玄関脇に積み重なった白のミルフィーユを眺めていると、ものの十五分ほどで栗原が玄関へやってきた。


「早いね」

「退勤してから、会社で風呂ってきたんで」


 車持ってくるんで待っててくださいと言って、栗原はごついブーツで軽やかに雪を踏みしめながら駆けて行った。借りている駐車場は裏手に少し入ったところにあるらしい。


 少しして、栗原はミッドナイトブルーの車に乗って現れた。遠慮なく助手席に乗り込んでドアを閉めると、車はゆっくりと走り出す。国道十七号に抜けて、左手に石打のスキー場を見送りながら、正月にしてはさほど混んでいない道を順調に進んでいった。


「昨日、何かありました?」

「え?」


 知らないバンドの知らない音楽が流れ続けるだけだった車内に、唐突に会話が生まれた。その急さに驚いて変な声が出てしまう。


「夜、充電器を取りに来た時にちょっと焦ってるみたいでしたけど」

「あ……いや、あの直前にお客様に会って、しかも声をかけられたから、びっくりしてね」

「お客様にですか? あの時、風呂上がりでしたよね」


 化粧をしてなかったのにわかったのか、という、捉え方によっては失礼な感想だ。莉奈はその言葉をスルーして続けた。


「柘植様の、おそらく息子さんだったかな」

「ああ……高校生くらいの男の子、いましたね。わざわざ外に出て花火を見てたみたいで、戻り際に会いました」

「そうなの?」


 右隣を振り向くと、栗原は慣れた手つきで運転しながらも少し考え込むような表情をした。


「ちょっと思い詰めてるような、何かわだかまりを抱えているような、そんな感じの雰囲気がありました」

「栗原くんもそう思ったんだ」


 莉奈は昨日の出来事を話した。ほとんど相槌も打たずに静かに聞いていた栗原は、聴き終わってから「なるほどね」と小さくつぶやいた。


「何かわかるの」

「わかるわけないじゃないですか。俺は探偵じゃないですから。でも、少なくとも柘植家に何か起こってるのは事実で、大人たちはそれを強く憂いているってことですよね。で、子どもたちはまだよくわかっていなくて、その狭間にいるオレンジパーカー君は板挟みになって困惑しているって感じで」

「そういうことになるね。……わたしたちが気にしたってしょうがない話ではあるんだけど」


 車は六日町の市街を走り抜けていく。道の両脇の建物の奥に見える空は広い。数色のライトグレーが織り重なる隙間から、陽の光がうっすらとこぼれていた。


「泣いても笑っても所詮はホテルマンですからね、俺らは。でもまあ、いつもにこにこして穏やかな柘植様がそんなふうになっちゃってるのは気になりますけど」

「今はただ、このお正月を楽しく過ごして、また春や夏にみんなで来てほしいって願うしかできないよね」


 例えば目の前に何かを探している風情の人がいれば、ホテルマンは「何かお探しでしょうか?」と声をかけることができる。こんなことがあって困っているからどうにかしてほしいと言われれば、お詫びして代替品を用意するなども可能だ。

 だが、今勝手に莉奈が気にかけていることについては、むしろホテルマンという立場では手の出しようがない。ただ淡々と滞在中は接客し、明後日の朝に笑顔で見送ることしかできることなどないということは、よくわかっている。


「昨日の夜、花火を見てきたんですって戻ってきた時も、オレンジパーカー君はどこか憂いのある表情をしてました。なんか、部屋に戻りたくなさそうな、このままふらっとまたどこかに行ってしまいそうな、そんな感じ」


 栗原は無意識にか、声のトーンを落としていた。彼も同じように感じていたのだとわかって、少しだけ安堵した。


「この正月の思い出が、悲しいものにならなきゃいいですけどね」

「嫌なこと言わないでよ」

「単純に思い出として、楽しいものであってほしいってことですよ」

「それならわかるけど……ワードチョイスが危なすぎるよ」

「気をつけます。言霊ってのもありますしね」


 大真面目な目をしてそう言った栗原に、莉奈はえっと小さく声を上げた。なんですか、と不本意そうに彼は眉根を寄せる。


「そういうの、信じるタイプなの? ちょっと意外」

「嫌な言葉を聞いたら気持ちは沈むじゃないですか。だったら逆もあるかなという程度の感覚は持ち合わせています」

「いや……あんまり言葉ひとつで感情を左右されないタイプだと思ってたから」

「そんなことはないですよ」


 人間ですからね、と栗原は言うが、その口調は淡々としている。普段の仕事中やみんなで飲んでいる時もそうだが、彼の表情は大きく変わることはない。何かトラブルがあっても、子どもにニコニコしながら話しかけられても、いつもクールな瞳は揺らがない。


「まあ、顔に感情が出ないとはよく言われます。何を考えてるかわからない、とか」

「うん、同じことを思ってるよ」

「桐島さんもですか……」

「別に悪いことではないと思うけどさ。そう思っていたから、今の言霊発言はちょっと意外だったの」


 莉奈がそう言うと、栗原ははあ、と気の抜けた返事をよこした。




 昼には少し早めに着いたので、ショッピングモールのレストランはまだ空いていた。せっかく二人で来たのだからビュッフェレストランにしようと言ったのは莉奈だ。


「一人だと、ビュッフェはさすがに入りにくいじゃない?」

「そうですね、仕事じゃ毎日のようにビュッフェの案内をしてますけど、自分が食べるのはいつぶりかなあ」


 家族連れで賑わっているが、まだ料理卓にも余裕がある。六つ切りの皿を手に、それぞれ好きなものを好きなだけ盛り付けて席に戻った。もう少ししたらピークタイムになるだろうから、あまり長居するつもりはない。


「ビュッフェって、わくわくするよねえ。目の前で作ってくれるメニューがあると絶対頼んじゃう」


 莉奈は握り寿司をいくつか持ってきていた。好きなネタを頼めばその場で握ってくれるものだ。一方の栗原は、小ぶりのお椀にラーメンを盛っている。具として乗せられたわかめが大量だ。


「俺はこういう、自分で好きにトッピングが選べるメニューが好きですね。昔泊まったホテルの朝食で、好きな具を入れてオムレツを作ってくれたことがあって、ハムとチーズとコーンを入れてもらいました」

「ああ、そういうのあるよね。焼き加減とかソースとかも選べたりしてね」


 子どもの頃の自分にとって、ビュッフェは非日常のキラキラした空間だった。ホテルで働き始めてからは身近すぎて意識することもほとんどないが、たまに仕事でビュッフェ会場に入るとやはり心が躍る。おいしいものがたくさん並んで、好きなものを自分で選んで食べることができるというのは、まさに夢のような体験だった。


 店内が混み合って入店待ちの列ができ始めた頃に二人は食事を終えて退店した。予定通り、莉奈の奢りだ。


「じゃあ、三時にフードコートで集合ね」

「了解です」


 ここからは別行動だ。さすがにお互いの買い物に付き合うような距離感ではない。

 莉奈はお気に入りのショップからいくつか覗いて、福袋やセール品を吟味し始めた。気に入ったものを全て買えるほど潤った生活をしているわけではないので、どれを買うかは真剣に悩む。ショッピングモールの中を三周ほどして、どうしても諦めがつかなかったアウターと常連と化しているショップの福袋を購入することに決めた。


 そうこうしているうちに合流の時間が近づいていた。約束の五分前にフードコートに入ると、クレープ屋の前に栗原が席を取っていた。テーブルの上には既にドリンクが二つ置かれている。


「お待たせ」

「時間ジャストですね。俺もちょっと前に来たところなんで、たいして待ってないですよ」

「そう? それにしては荷物があんまり多くないね」

「買ったものは少ないので。かさばるのは新しい靴くらいです」


 ポーカーフェイスに近い表情に、うっすらと満足げな感情が透けている後輩がおもしろい。よっぽど納得のいく買い物ができたのだろう。


「黒糖ラテとほうじ茶ミルクティーですけど、どっちがいいですか」


 栗原が二つのカップを示す。よく見るとタピオカドリンクだ。


「栗原くん、タピオカ好きなの?」

「食感が好きなんですよ。……なんですか、その顔」

「いや、ちょっと意外だなって思っただけ。じゃあほうじ茶のほうをもらおうかな。ありがとね」


 ドリンクを飲みながらひとしきり戦利品自慢をした。栗原が購入したブーツは雪道でもかなり役立ちそうな品で、品のいいブラウンカラーとアクセントの臙脂色が彼にぴったりだ。そのブーツに合わせたのか、これまた洒落た形の腕時計も手に入れたらしく、弾んだ声で紹介された。


「ずっとこういう感じのが欲しかったんですよねえ。ほんと、今日来て正解でした」

「それならよかったじゃん」

「ああでも、初詣には行ってないですね」

「三が日はどこも混んでるよ。そのうち空いた頃に行けばいいんじゃない」


 就職する前は毎年、家族と元日に初詣に行っていた。莉奈の実家は新潟市内なので、行き先は市内にある白山神社と決まっている。ただ、毎年ひどい混み具合なので、気疲れがひどかったのが本音だ。

 その頃から一転して就職後は初詣そのものに行っていない。年末年始は忙しいうえ、出かける余裕ができるほど落ち着いた頃には七草粥すら過ぎ去っている。一年のうちに最初に詣でることを初詣と呼んでいいのであれば、旅行先のどこかで行っているだろうが、そんなつもりもなく観光気分で訪れているのでカウントしていいものなのかは疑問だ。


 そんな思いもあって、栗原の発言に対する返事はぞんざいになった。彼はもの悲しい表情を滲ませて莉奈に視線を返した。


「日本人とは思えない信心のなさですね」

「いいじゃん、気持ちとしては毎日のように神様にお祈りしてるよ。いいお客様がたくさん来てくれますようにって」

「強欲ですね」


 うるさいな、と莉奈は唇を尖らせた。


 空になったカップをゴミ箱に捨てて、フードコートを後にした。そこかしこに家族連れが歩いている。普段と比べて、三世代で連れ立っている比率が高く思える。

 その隙間をすり抜けていくように歩いて外に出た。今日は雪は降っていない。駐車場に降り積もったであろう雪は綺麗に整備されていて、利用にあたっての支障は全くなかった。


 後部座席に荷物を積み込んで、莉奈は助手席に乗り込んだ。栗原の車の座席にはヒーターがついているので、お尻からじんわりと暖かくなってくる。


「帰りは高速に乗りますよ。人混みでちょっと疲れました」


 高速代は出すよ、と答えて、莉奈は微睡みに意識を任せた。





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