年末年始の喧騒の中で③


 鳴り響く内線や外線を取りながら細々した作業を片付けていると、定時などとうに過ぎてしまっていた。とはいえ明日は休みなので、今日のうちに片付けておきたい気持ちがある。佐竹もフロントサービスの支配人もしばらく前に退勤してしまっており、夜八時を迎えたオフィスには、遅番の予約係と夜勤のフロントスタッフしかいない。


「桐島、まだ終わらないのか」

「あと少しなんですけど、……お腹が空いたので諦めようかと」


 タイミングよくぐう、と鳴ったお腹を押さえると、椎名は大きな口をあけて笑った。


「それがいいよ。明日は休みなんだろ? せっかくの正月休み、満喫しなよ」

「就職してから、元日にお休みが回ってくるのは初めてです」


 良いお年を、と、勤務の二人に声をかけてバックオフィスを後にする。ロッカールームで着替えて外に出ると、つんと冷えた空気に包まれた。雪は降っていないがかなり寒い。


 駅前のコンビニでおにぎりと豚汁を買って寮に戻り、食べてしまうと、時刻は九時を過ぎていた。今なら大浴場は空いているだろうと思い立ち、風呂道具を抱えて再び外に出る。化粧は落としてしまったので、眼鏡とマスクは必須だ。どうせ風呂では外すのだが。


 予想通り、大浴場はほとんど貸切状態だった。宿泊客は抽選会に参加したり部屋でテレビ番組を観たりしているのだろう。広い浴場に立ち込める湯気を眺めながら、莉奈はぼんやりと日中のことを思い出していた。


 普段では考えられない時間のチェックイン。遅れることの連絡はなく、到着時には疲れ切った暗い表情をしていた柘植和也本人。年末年始とは思えない異様な雰囲気の大人たち。そして、やたらにイベントのことを訊ねてきた少年。


 家族親戚一同で旅行に来ているのだから、大した事情があるわけではないだろう。それならばこの旅行そのものを取りやめているはずだ。だから大したことじゃない。ただのホテルマンが気にすることじゃない。


 ばしゃり、と顔に湯を打ち付けた。

 何度も同じことを考えては同じ結論になって、でも心が吹っ切れない。

 ただ、せめて滞在中に柘植が少しでも元気になってくれたらいいと――せめて、帰る時にはいつもの笑顔を見たいと、願うだけだ。


 勢いよく立ち上がると、湯船の中でお湯がざばっと大きな音を立てた。シャワーを浴びて脱衣場に戻り、着替えてドライヤーとスキンケアを済ませる。

 そろそろ抽選会も佳境に入る頃だろう。館内に人の動きが出る前に帰らなければ、と、莉奈は風呂道具の入った鞄を持って大浴場を後にした。

 そのまま通用口に回ろうとして、バックオフィスに忘れ物をしたことに気づいた。


「あー……充電器、忘れてた」


 モバイルバッテリーを置き去りにしてしまっていたのだ。明日が仕事なら構わなかったのだが休みだ。せっかくなので初売りに行くつもりだったので、できれば今日のうちに回収したい。莉奈は進行方向を変えて、フロントへと向かった。


 夜のホテル館内はしんと静まり返っている。二階で行われている抽選会はきっと賑わっているのだろうが、ここはそんな気配もない。


 階段からロビーに出ると、数人の人影が目の前を通り過ぎた。その人物は莉奈に気づくことなく、正面玄関のほうへと歩いていく。後ろ姿を見るに、まだ小学生から中学生くらいだろうか。


「あっ……」


 小さく聞こえた声に振り返ると、見覚えのあるオレンジのパーカーに黒のコートを引っ掛けた少年が立っていた。


「……っ」


 咄嗟に、声に出しそうになったその名前を飲み込んだ。

 今の莉奈は普段着ですっぴんだ。どう見てもホテルのスタッフではない。ただの挙動不審な女になってしまっている。だが、うまく動けずにその場で立ち尽くしてしまう。


 石化の魔法が解けたのは、その少年が口を開いたからだった。


「フロントのお姉さん、ですよね」


 ばれてる、と愕然とした。

 仕事の時に顔が変わるほど手の込んだメイクはしないので見慣れた人ならわかるだろうが、さすがにゲストに見抜かれて声をかけられたのは初めてだ。どう反応したらいいのかわからずにいると、彼は構わず話し始めた。


「すみません。顔を覚えるの、得意なので」

「い……いや……申し訳ありません、こんな姿で」

「僕が勝手に声をかけたので、気にしないでください。こちらこそ失礼しました」


 縁日、楽しかったです。彼は柔らかく笑って言った。


「あの子たち、めっちゃ楽しんでました。小さい子向けの遊びも多いけど、高学年とか中学生でも楽しめるから夢中になってて」

「それならよかったです。……抽選会は参加されましたか?」


 訊ねると、彼はまた憂いを帯びた表情になって首を横に振った。


「あの子たち、縁日から帰ったら寝ちゃってて。今起きてきて、そろそろ花火が見えるかもって言ったらはしゃぎ出して」


 年齢はばらばらでも仲のいい親戚どうしなのだろう。その中でも一人だけ年齢が上なようで、彼は保護者の代わりのようになっているのかもしれない。実際、まだ幼さの残る顔立ちではあるが、話し方は随分と落ち着いていた。


「あれ、でも、お部屋から見えると思いますけれど」

「――部屋には、いられなくて。外から見えたら見ようって言って、降りてきたんです」


 声のトーンが落ちた。これ以上は聞いたらいけないことだとわかった。


「あの……風邪など、ひかれないように、暖かくしてくださいね」


 少年は何か言いたげに口を開いたが、莉奈はそれを見ないふりで頭を下げた。踵を返し、先ほど通った階段まで早足で戻る。一息ついてちらりとロビーを覗くと、そこにはもう人影は無くなっていた。


 ゆっくりとフロントのバックオフィスへ入り、モバイルバッテリーを拾ってすぐに退散する。通用口から外にでると、ホテルやマンションの建物の隙間から、菊の花が咲いた夜空が見えた。



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