年末年始の喧騒の中で②

 柘植は夕方の四時半になっても訪れていなかった。


「チェックインはあと十件か」


 二時半からずっと続いていたチェックイン手続きの長蛇の列はようやく落ち着き、フロント周りは年越しに向けてそわそわとした雰囲気が満ちている。


 ふわふわとした、浮き足立つような空気。華やかに彩られたロビーに並ぶイベントの案内。近くのスキー場では開業からの周年記念も兼ねて、年越しに合わせた花火の打ち上げが大々的におこなわれる予定になっており、その案内も貼り出している。非日常を楽しむ人々のさざめきが心地いい。だが、胸のざわつきは消えていなかった。

 隣に立つ桃井も、どことなく不安な表情をしている。


「来てない、ねえ」

「来てないですね」


 春や夏に来る時でも、ここまで遅いチェックインになることはない。たいていは三時前後にやってきて、夕食の前に貸切風呂を家族で利用したり、屋内プールで遊んだりしている。莉奈が知る限り四時半を過ぎても到着しないのは、柘植の全ての利用履歴を合わせても初めてだ。


「途中で何かあったわけじゃなければいいけど」


 明言はしないが、事故や病気などを想定した発言だ。桃井は自分で言った言葉を振り切るように目をぎゅっと瞑った。


 急なトラブルで、当日になってキャンセルされたり到着予定が大幅に遅れたりすることはそれなりにある。救急搬送されて旅行どころではなくなったとか、身内に不幸があったとか、道中の事故や公共交通機関のトラブルで遅延しているとか。

 ただそういった場合、ゲストはどうにかこうにかホテルに連絡を入れてくれることがほとんどだ。生きている予約のはずなのにゲストが来ない、いわゆるノーショーになるのは、たいていが予約日間違いかキャンセル忘れによるものだ。


 今回の柘植の予約は間違いようのない日付だし、そもそも毎年同じ日程で予約している。同行者も多いので何かあってもそのうちの誰かが連絡を入れるだろう。柘植自身も几帳面な人柄であることは知っている。

 だからこそ、不安なのだ。何の音沙汰もなく、大晦日のこの時間までチェックインに来ていないことが。


 パソコンでネットニュースを見ていた漆間も、不安げな声を出した。


「特に事故とかの情報は出てないです。高速道路も電車も」

「まだ四時半だし、心配する必要がないのはわかってるんだけど……」


 気になるよね、と、言葉の続きを桃井が引き継いだ。


 そう、言ってしまえばまったく心配するような話ではない。これが夜中になっても音沙汰なく来館しないようであれば話は別だが、大晦日とはいえこの時間に来ない宿泊客がいてもおかしくない。それでも気になるのは、柘植和也の予約だからだ。


 最初に予約をする時から、その変更が必要になった時、来館してからチェックアウトするまで、柘植はホテルのスタッフにも気遣いを欠かさない。余計な話はしないが、ホテルに相談や報告が必要なことは必ず伝えてくれる。予約係の梅本も、「柘植様の予約は大人数で部屋数も多いけど面倒なことはほとんどないのよね」と言っていた。


 まもなく五時になる。

 柘植の申告している到着予定時刻はシステム上は午後一時。予約されている夕食は年末特別メニューの和食懐石であり、その時間は五時半となっている。

 五時を過ぎてもチェックインに来なければ、一度連絡するしかないだろう――そう思っていた時、正面玄関の自動ドアが開いて、見覚えのあるモスグリーンのスーツケースを携えた人物がこちらへ向かってゆっくりと歩いてきた。


「柘植です。遅くなってしまって申し訳ありません」


 品のいい形と質感の眼鏡に、仕立ての良さが見てわかるキャメルのチェスターコート。すらりとした長身から紡がれる低く心地のいい声と丁寧な口調は、柘植本人で間違いない。だがその表情は、これから新年を迎えるにはあまりふさわしくないものだった。


「いらっしゃいませ。お待ちしておりました」


 困惑と動揺が溢れそうになるのを抑えて、莉奈は冷静に迎え入れた。宿泊カードを差し出して、記入するよう促す。手袋を外してペンを取ったその手は、いつものようによく手入れされていた。


「ありがとうございます。ではご予約内容の確認をさせていただきます。本日から三泊、計七部屋のご予約ですね」

「はい」


 掠れた返事だった。


「大人二名様のお部屋がおふたつ、大人三名様のお部屋がおふたつ、大人三名様とお子様一名様のお部屋がおひとつ、大人四名様の部屋がおふたつでお間違いないでしょうか」

「大丈夫です」


 小学生までは子どもとして、中学生以上は大人として人数をカウントする。柘植に続いて入館してきた中にはまだ少年少女と呼べるような子どもたちも数人いた。――彼らは溌剌とした表情で、会話を楽しんでいるようだ。


「ありがとうございます。では本日のご夕食ですが、和食懐石にて五時半より、個室にてお席をご用意しております。明日は同じお時間で洋食フルコース、明後日はビュッフェにて承っております」


 柘植御一行の中には、食べ盛りの中高生男子がいたはずだ。彼らにとってはビュッフェはまるで夢のような場所だろう。はい、と単調に頷く柘植和也と後ろで控えている子どもたちの無邪気さがあまりに対照的で、心が落ち着かない。


 莉奈はもう一度ゆっくり息を吸いながら、ホテルシステムの食事に関する項目を確認した。アレルギーではないが、若干の個別手配が入っている。


「本日と明日のご夕食は、大人の方一名様分のメニュー変更を承っております。生物は別のメニューにて、また明日のメインについては小さくカットしたかたちでご用意いたします」

「お願いします」

「お部屋はすべて同じフロアでご用意しております。係よりこの後ご案内させていただきますが、カードにお部屋ごとのご宿泊人数とお部屋番号を記載しておりますので、ご確認ください」

「ありがとうございます」


 八階は洋室フロアとなっており、ツインルームとフォースルームが向かい合って並んでいる。その中ほどに一行の部屋はアサインされていた。七枚のカードは後で案内するベルスタッフに直接渡すため、一旦傍によけて、莉奈はカウンター奥からバインダーを手に取った。


「柘植様、本日は貸切風呂はご利用されますか? 今でしたら、夜八時半以降の時間帯が空いております」

「ああ……そうか、いつも来る前に予約してたけど、今回はすっかり忘れてたな。いや、今日はいいです」


 やっと返事以外の――とはいってもほとんど独り言のような呟きだが――言葉を聞くことができて、莉奈は自分の勝手な不安感が和らいだのを感じた。その声には覇気がなく、ぐったり疲れているようだが、少しでも早く客室に案内して休んでもらうほかないだろう。


 分かりきっていると思われる館内案内は簡単な確認だけで済ませて、莉奈は片手を上げて待機していたベルスタッフを呼んだ。


「梨田さん、柘植様七部屋のご案内、お願いいたします」

「承知しました」


 梨田勇介はベテランのベルスタッフだ。開業時に他社からオープニングスタッフとして転職してきており、ベルスタッフを統括する立場でもある。


 彼も柘植のいつもと違う様子に気づいているようだった。莉奈とアイコンタクトをとったのちに、ロビーの端から一番大きな台車を持ってきて、優しい声音で柘植に声をかけている。


「柘植様、道中大変お疲れ様でございました。どうぞお荷物はこちらにお乗せください。お預かりしてよろしいですか」

「ああ、すみません。ありがとうございます」


 柘植が自分で大きなキャリーケースを持ち上げようとするのを制し、梨田は白い手袋をはめた大きな手で軽々とそれを持ち上げた。その様子に気づいた子どもたちが、それぞれの傍らにある、おそらく各家族のものであろうキャリーケースを運んでくる。

 計七つの大小のキャリーケースを積んだ台車を押しながら、梨田は柘植と並んで歩き始め、その後ろに子どもたちが続いていく。――大人たちは、その後ろを静かに歩いている。


 今回の柘植御一行は、予約者本人の他にその両親と兄、妹、そして二人の従兄弟とその両親(予約者にとっては叔父夫婦にあたる)という、七家族での予約となっている。成人した大人だけでも十四人いるが、その誰もが思い詰めるような表情をしている。


 ――否、一人だけ、穏やかに微笑む人がいる。もっとも年配の、モカブラウンのジャケットを着た男性だ。


 莉奈の記憶によればそれは、柘植和也の父親のはずだ。彼だけが、同行者と比べて落ち着いている。


「あまりじろじろ見るものじゃないよ」


 横から唐突に声をかけられて、飛び上がりそうになる。桃井が苦笑いの表情で立っていた。


「す、すみません」

「気持ちはわかるけどね。俺が毎年見ている柘植様じゃないみたいだ」

「やっぱりそう思いますか」

「さすがに気づくよ。そもそも、年末にリゾートホテルに泊まりに来る表情じゃないからね。ましてやあんなに家族一同で予約してるっていうのに」


 桃井は柘植の宿泊カードを手に取った。形の整った綺麗な文字に、その人柄が現れている。


「でも、俺らができることは限られている。余計な詮索や気遣いは良くないと思うよ。あくまで自然体でいないと」

「それはそうですけど」


 本当は莉奈自身もよくわかっている。勝手な想像で気を回したり声をかけたりするのは悪手だ。何か頼まれたら、その時に誠心誠意心を尽くしたらいい。


「顔色がずいぶんと悪かったですよね」


 漆間がぽつりと言った。


「この時期だから、救急対応が必要な事態にならないといいけれど」


 湯沢町には大きな病院はない。国道沿いにある医療センターの他は開業医ばかりなので、診療や検査の内容によっては隣の南魚沼市の市民病院やその先にある基幹病院にかかる必要があるが、そこまでは高速道路を使っても十五分以上要する。ましてや今日は十二月三十一日、大晦日だ。万が一が起これば大事である。


「さすがにそんなことはないと思うけどね。ただ、心労が酷いのだろうなという感じはあるけど」


 俺たちが気にしたってしょうがないよ、と言って、桃井はバックオフィスに入っていった。明日の準備がまだ残っているのだろう。

 莉奈は夜勤の二人が食事から戻ったら月末の雑務をやろうと考えながら、フロントカウンターに立っていた。チェックインが残っているのはもともと到着が遅い予定になっているゲストだけで、彼らが来るのは六時前後になるはずだ。その頃には夜勤と漆間にカウンターを任せて問題ないだろう。


 ホテルシステムで残りのチェックインの予約内容を確認していると、視界の端に明るい色がちらりと見えた。顔を上げると、高校生くらいの背の高い少年がロビーに掲示したイベントの案内を眺めている。蛍光色に近いオレンジのパーカーが目を惹いた。


 その横顔には見覚えがある。つい先ほどチェックインの手続きをした、柘植御一行のうちの一人だ。というか、おそらく柘植和也の息子で間違いない。さっきは黒っぽいコートを着ていたのであまり印象にないが。


 彼は掲示板を真剣に見ている……というわけではないようだった。なにかを憂いて、そこから逃げてきたような不安をのぞかせている。その表情は、先ほどロビーで兄弟や親戚たちと笑いあっていた時とは全く違っており、父親によく似ていた。


「あの」

「はい、いかがされましたか」


 そのオレンジパーカーが不意に近づいてきて声をかけられたので、莉奈はどきりとした。応えた声は上ずってなかっただろうかと心配になるが、彼は全く気にしていないようだ。


「あの花火って、部屋からも見えますか」

「花火ですか。お部屋は何号室でしょうか」

「八〇八です。その向かいにも従兄弟たちが泊まってるんですけど」

「かしこまりました。方角としてはお客様のお部屋、八〇八号室からであれば見えるとは思いますよ。建物があるので、角度によっては少し見にくいかもしれませんが」

「やっぱそうですよね。この花火の会場ってここからだと遠いですか」

「ええと……お車でしたら五分少々かと。ただ歩いていくには坂道ですので、かなり大変かと思われますし、現地はホテル併設のスキー場なので、ホテルご宿泊のお客様でかなり混雑するようです」


 高校生にとって、花火とはそれほどに気になるものなのだろうか。恋人と行くわけでもないだろうに――などと、また余計なことを考えてしまう。


「そう、ですか……あ、そうだ。今日、抽選会があるんですよね? 何時からでしたっけ」

「抽選会は夜九時からでございます。場所は二階の秋桜という会場です」

「九時か。わかりました。あと、縁日って何時までやってますか?」

「夜八時半まで行っております。明日も明後日も開催いたしますので、いつでもお越しください」


 少年は、ありがとうございますと丁寧に頭を下げてフロントから離れていった。


「三十周年だったかで例年より派手にやるみたいだけど、町のイベントとかじゃなくて、いち施設の企画なだけなんだけどね。この花火って。節目の年だからか、町内にポスターも配ってるけど」


 莉奈はカウンター内からポスターを見ながら呟いた。音も響くしここからも見えるのでアナウンスしているが、そもそもがスキー場としてのイベントだ。それも夜遅い時間にゲレンデで打ち上げられる。現地で見る分には見応えがあるらしいが、よそに宿泊している観光客に向けたものではない。


「花火、好きなんですかね」


 シンプルで安直な感想を表明した漆間に思わず笑ってしまう。


「何か考えてることがありそうだったけど、まあ、私たちが気にすることではないしね」


 莉奈は自分に言い聞かせるように言葉にした。そうしないと、ずっと考えてしまいそうだからだ。


 やがて年越し夜勤に選出された椎名と栗原が食事休憩から戻ってきたので、莉奈はバックオフィスに入って月末の事務処理をすることにした。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る