大切な一ページ③

 ひんやりとした廊下を進み、突き当たりのドアを開けると、そこはもうホテルの表側だ。お昼時で、ゲストの多くは外出しているか館内のレストランにいるためか、ロビーは空いている。

 フロントのバックオフィスに入り、後輩の漆間栞に声をかけた。


「漆間さん、お昼休憩どうぞ」

「あ、了解です。行ってきます」


 デスクの上に広げていたチケットやカードを手早く片付けて、彼女は立ち上がった。明日のチェックインの準備を進めてくれていたらしい。進捗は三分の一程度だろうか。悪くないペースだ。


 カウンターに出て、チェックイン手続き待ちのカードが入った箱を確認する。既に手続きが終わっているゲストには渡してあるので、これを数えれば未着があとどれだけあるかがすぐにわかる。残りは半分弱といったところだ。平日なので、学校や仕事が終わってから夜に到着するゲストが多くなりそうだ。


 チェックアウトは終わっているので、一旦レジを締めようと真ん中のカウンターに入った。両脇はカウンターの清掃をしている桃井と、もう一人雑務中のスタッフが立っているので、誰かゲストが来てもすぐに対応してくれるだろう。この間に手早く済ませようと、莉奈は売上を確認して常備金のカウントを始めた。


 そうこうしている間に漆間が休憩から戻り、他のスタッフも順に休憩を回していると、気づけば二時を迎えていた。一円の狂いもなくレジ締めが終わった達成感に束の間浸って、莉奈は客室の準備状況を確認し始めた。


「どう? 清掃は順調そうなの」


 桃井が客室の状態を確認できるインジケーターを眺めながら、莉奈に声をかけた。今日使う客室は、すでにそのほとんどが最終チェック待ちの状態になっている。ホテル雪椿では清掃は専門の会社に委託しており、ひどい汚損などの対応と最終チェックで社員が動いている。チェック待ちで点滅しているランプが多いので、三時のチェックイン開始にはじゅうぶん間に合うだろう。


「まあ、今日のアウトインはさほど多くないので問題ないかと。ただ、さっき七一〇号室のクローゼットの建て付けが悪くなってるって連絡来たんですよね。手続き済みの部屋なので、できればルームチェンジしたくないんですけど」

「それ、さっき施設課の人が直しに行くって連絡ありましたけど、まだ完了報告来てないんですよね」


 横から漆間が言う。まだ焦る必要はないが、時間がかかるようなら先に知っておきたい気持ちもある。莉奈は施設課の事務所に内線をかけた。


「お疲れさまです、フロントの桐島です。さっきお願いした七一〇号室の修繕ってどんな感じですか?」

「ああごめん、連絡忘れてた」


 施設課のスタッフは思い出したように言って、ちょっと待ってねとなにやらごそごそし始めた。どうやら何かメモを探していたらしい。おそらく、現場から事務所には連絡が入っていたのだろう。

 チェックアウトからチェックインまでの時間帯は客室を含め館内が落ち着くので、修繕や清掃作業が一気に行われる。慌ただしい中で埋もれていたことは想像できた。


「ああ、うん、ちょっとレールの直しと部品交換があるらしいんだけど、あと十五分くらいで終わるかな。二時半になっても目処つかなかったら連絡させるよ」

「わかりました。ありがとうございます」


 電話を切って、カウンターのスタッフに聞いた内容をそのまま伝達した。基本的なカウンター業務は各メンバーに任せて、莉奈自身はそろそろ全体のコントロールを算段しなくてはならない。


 チェックイン――客室への案内がスタートすると、朝のうちに手続きをしていたゲストが一気に押し寄せる。特に小さい子どもを連れたファミリー客に多く、朝から遊んでお昼寝モードになりかかった我が子を連れてやってくるのだ。荷物も多いので、部屋まで館内案内を兼ねてアテンドするベルスタッフは必須だ。


 そしてその波をうまく流すのは、この時間帯の日勤インチャージの大事な役割の一つでもある。フロントカウンターとベルスタッフをうまく橋渡しし、ゲストを待たせないよう流していくのは、簡単そうで案外難しい。

 専属のベルスタッフだけでは間に合わないので、一時的に他の部署からもヘルプを頼むことも少なくないのだが、その数を読み誤ると「こんなにいるならわたしいらなくない?」か「いつまで案内待たせるの?」のどちらかを投げかけられることになる。


「……今日はそこまで多くないし、ヘルプは少しで間に合いそうだなあ。予約係と総務から借りられればいけそう」

「ベルの人たちも冬期スタッフですよね?」


 心配そうに疑問を投げかけたのは漆間だ。彼女は新卒二年目だが、昨年の冬は料飲部にいた。そのため、まだ冬期のスタッフについてあまり詳しくない。


「大丈夫だよ。元のホテルでもベルやフロントをやってる人もいるし、今スタンバイしてるメンバーはみんな何年も繰り返し来てくれてる経験者だから」

「そうなんですね。わたしなんかより全然、頼りになりますね」

「漆間さんはずっとうちのホテルにいるんだから、知ってることも顔見知りのお客様もたくさんでしょ。自信持ってないと、顔に出ちゃうよ」


 そう言って背中をひとつ叩いてやると、しょげていた漆間の表情が明るくなった。彼女のこういう素直なところはいい武器だな、と改めて思う。慎重派で自分に自信がないような言動は日常茶飯事だが、褒めたりお礼を言うと心の底からといった顔で笑ってくれる。もっと自分に自信を持ってもいいのにな、とは感じるのだが、それらは全てひっくるめて漆間の良さなのだろう。


 インジケーターを確認しつつフロントカウンターに来るゲストの対応をしていると、内線が鳴った。施設課から修繕が終わったと報告が入り一安心する。あとは客室係のチェックが済めば完了だ。

 莉奈は客室係の無線を手に取った。


「柳さん、無線取れますか」

「はい、柳です」


 客室係の日勤リーダーである柳穂乃香は、莉奈にとっては同期の一人だ。気心知れた間柄ではあるが、仕事中の無線では丁寧な話し方にするのはお互い暗黙の了解だ。


「インスペの調子はどうですか」

「悪くないですねえ。この調子でなにも問題なければあと十分でいけますよ」


 客室の最終チェックのことをインスペクションという。実際は長いので、こうしてインスペと略称のほうが馴染み深い。初めはどういう意味なのかわからなかったが、今では他に言い方がわからないほど当然のように口にしている。


「了解です。じゃあ一応、チェックイン開始は少し早めの二時四十分目処で開始予定にします。インスペ終わったら内線ください」

「了解しましたー」


 柳ののんびりした明るい声が無線から聞こえたのを確認して、莉奈は無線機を置いた。常に館内を動き回っている客室係はそれぞれ無線を携帯しており、フロントから呼びかける時は専用の無線機を使う。インスペが終わってチェックインが開始すれば、客室へ備品やアメニティのデリバリーなどでまた忙しくなる。


「手続き済みのお客様、だいぶロビーに集まってきましたね」

「予想通りな感じかな。ここを乗り越えたら次は夕方、五時から六時過ぎまでがバタつくからね」


 冬のフロントが初めての漆間は、ひいっと喉を鳴らした。わざと脅すような言い方をしてみたが、彼女なら問題ないだろうと踏んでいる。


 基本的にチェックインは三時からだが、客室の準備がすべて整えば多少早く開始することは少なくない。オフシーズンで宿泊客が少ない時期など、昼過ぎにはもう部屋に通すこともある。通常であればアーリーチェックインとして料金を徴収するのだが、その日使用する客室ができあがっているのにわざわざ待たせたり料金を徴収するのは無駄な駆け引きだ、というのが総支配人の若杉の意向なのだ。

 もちろん、ゲストには「今日は早く準備ができたからですよ」と念押しはする。次に来た時に同じように案内できるとは限らないからだ。


 今日は二十分くらいは巻けるだろう、という莉奈の読みは的中した。無線で予告した時間ぴったりに柳から内線が入った。


「桐ちゃん、こっちはオッケー。ベル派遣はきついけど、デリバリーはいくらでも動けるから、遠慮なく振って」

「ありがと柳。じゃあ、チェックイン開始するね」


 電話だと若干くだけるのは仕様だ。予約係と総務からベルの応援を一人ずつもらってスタンバイを確認してから、莉奈はロビーにアナウンスした。


 わらわらと、ルームキーを所望する手続き済みのゲストたちが一斉に集まってくる。カードを受け取ってカウンター内にいる桃井に渡し、キーと一緒にカードをベルスタッフに渡し、アテンドしてもらう。手続きそのものに比べれば大した時間ではないが、それなりの客数が並ぶと待たせる時間も長くなる。


 お待たせして申し訳ございません、と繰り返し口にしながらキーの受け渡しを繰り返していると、列の後方に橘めぐみの姿が見えた。誰かと談笑しているようだ。旦那様かな、と思って視線を向けると、談笑の相手は夫ではなく、若い男女だった。


 不思議に思っていると、めぐみが目の前にやってきてカードを差し出してきた。そして、にっこりと微笑んで言う。


「あなた、今朝チェックインをしてくれた方よね」

「はい、担当させていただきました。桐島と申します」

「桐島さん、ちょっとお願いがあるの」


 ルームキーを渡してきた桃井の耳にも入ったらしく、うやうやしいその申し出に怪訝な顔をしている。だがそんなことはおかまいなしに、めぐみはお願いごとの内容を明かした。


「こちらのご夫婦に、スイートルームを案内していただけないかしら」

「……え?」


 めぐみが手振りで示したのは、先ほど並んでいる列で仲良さげに話していた若い男女だった。男性の方が差し出してきたカードを見ると、名前は稲毛紘斗と書かれている。部屋は九階のツインルームだ。


「ええと、それはどういう……」

「このおふたりとさっき仲良くなったの。スイートルームに泊まるのよって話をしたら、今回泊まりたかったけど予約できなかったんだっていうの。それでね、お部屋を見せてあげるくらいいいかしらと思って。ただ勝手にしたらいけないかもしれないし、もしお手間じゃないならホテルの方に案内してもらった方がいいかもしれないと思ったの。朝のあなたの対応もよかったし、ぜひお願いしたいのだけれど、どうかしら」

「あ……なるほど。そうですね……」


 おそらく、チェックイン待ちの時間でたまたま仲良くなったということなのだろう。知り合いどうしで部屋をとって行き来するゲストは少なくないが、彼らは全くの初対面だ。ましてやスイートルーム、さすがに勝手にどうぞと流すのは気が引ける。


 幸いなことに列はほとんどはけていた。チェックイン手続きに来るゲストもまだ少ない。莉奈はめぐみに断りをいれて、バックオフィスへと入った。


「佐竹マネージャー」

「どうした」


 シフト表のエクセルシートとにらめっこしていた佐竹は、返事のセリフからやや遅れて顔を上げた。先ほどのめぐみの話を要約して説明すると、佐竹は二つ返事で行ってこいと笑った。


「確かに、初対面のお客様どうしでやりとりさせるのはあまり好ましくないな。ましてや、本社の顧客でもあるスイートルームのゲストだし……ただ、今朝挨拶をした時にも、桐島の接客をほめていたんだ。橘様からのせっかくのお願いなんだから、よろしく頼む」


 佐竹はそう言ってにっこりと笑った。

 なんだか重大な役目を任されたような気分になって、はいと返事をした声は微妙に震えていた。



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