大切な一ページ②


お昼前になり、ようやく館内の動きが落ち着いてきた。莉奈は一階のバックヤードにある従業員食堂に入り、今日のメニューを眺めていた。


「ハンバーグか、ミートソースパスタか、親子丼……」


 決めかねて悩んでいると、後ろから声が聞こえた。振り向くと、十時頃には退勤したはずの椎名がいた。


「椎名さん。まだ残ってたんですか」

「風呂入ってたんだよ。ちょうど空いたからほとんど貸切だった」


 ホテル館内にある大浴場は、深夜に二時間の清掃が入る以外はいつでも入れる。それは従業員も同じで、夜の混み合う時間は避けるよう言われているものの、ホテルのすぐ裏に社員寮があることもあって、ほとんど毎日のように寮住まいのスタッフは利用している。椎名は先ほど退勤した後、ちょうどチェックアウトの時間に重なって空いた大浴場でのんびりしてきたらしく、頬が少し赤くなっている。


「俺はハンバーグだな。ご飯大盛りで」

「相変わらずお肉大好きですね。わたしはミートソースにします」

「それも肉だろ。というか、今日のメニューは全部肉だ」


 椎名に続いて列に並ぶと、その前には見知った久しぶりの顔がいた。椎名が彼によう、と声をかけた。


「あ、椎名さん。桐島も。お久しぶりです」

「今年も来てくれたんだな。よろしく頼むわ」

「もう俺も六年目ですよ、ここに来るの」


 彼――桃井宏樹は毎年冬の期間だけ来る期間限定のスタッフの一人だ。春から秋の間は他県のホテルで働いているのだが、そこは冬の間は休館するため、越後湯沢のリゾートシーズンにヘルプ要員として来てくれている。同じようなスタッフや季節のアルバイトなども含めると、冬は従業員の数が二倍近くなる。レストランも宿泊部も、毎日増員しないと回らないのだ。


 桃井は大盛りにした親子丼と味噌汁を受け取って、一足先に席を取りに行った。四人がけのテーブルが奥に一つ空いており、莉奈と椎名もそこに合流する。


「ここに来ると、今年も冬だなって感じしますね」

「まあ、無事に雪が降って良かったよ、今年は。去年は降らなさすぎて大変だったからな」

「そうですね。わたし、スキー場が開かないからキャンセルするとか、なんで雪降ってないのにこんな高いのとかって何回聞いたかわかりません」

「はは。気持ちはわかるけどな。雪が降ってこそ湯沢の冬ってのはあるし」


 昨年は十二月の半ばを過ぎても積もるほどの降雪がなく、ようやく町が白くなったのは年末になってからだった。スキー場や宿泊施設はどこもも相当苦労したらしいが、ホテル雪椿も例に漏れずキャンセルの嵐だった。

 天候は操れないし、予約者たちの言いたいことはわかるので仕方ないのだが、電話越しにきつい言葉を投げられるとさすがに堪える。予約係で莉奈の同期である梅本夏希も、各スキー場がオープンするという情報が入った時には泣きそうな顔でよかったと呟いていた。


 莉奈はパスタをフォークに巻き付けた。向かいでは、桃井がつゆのしみたご飯とともに鶏肉を口に運んでいる。


「桃井さん、今年も裏の寮ですか?」

「そうだよ。去年と同じ一〇二号室」

「じゃあ今日はまた鍋パでもしましょうよ」

「お、いいな。俺、帰ったら買い出ししとくわ」

「やった。椎名さんの鍋、楽しみにしてます」


 毎年、顔馴染みの期間限定スタッフが来ると、誰かの部屋に集まって飲むのが恒例だ。椎名は夜勤明けで今夜は勤務がないし、莉奈自身も遅くとも七時には上がれるだろう。あと何人か寮組に声をかける感じかな、と莉奈は頭の中でメンツのリストアップを始めた。


「今年は俺の他は新しい奴らばっかですよ。フロントは俺とあと一人ですけど、料飲とか客室係で何人か。裏の寮じゃないやつもいます」

「あれ、そうなんだ。だったらその子たちも都合あう子は声かけたら」


 椎名はあっさりとそう言った。既存の社員寮だけでは冬は部屋が足りなくなるので、近くの貸しアパートなども寮として使っている。ホテルからは少し離れた場所ではあるが、歩いて行き来できる距離だ。冬はあちこちで、こうして親睦会を兼ねたような飲み会が開催される。翌日の出勤時間などお構いなしだ。


「まあ、みんながみんな俺も仲良いわけじゃないですけど。あんま知らないやつもいるし……一応、連絡だけ入れてみます」

「つっても部屋狭いからなあ。全員来たら入り切らないか。こっちも誰か呼びたいしなあ」

「じゃあフロント配属になった子だけ呼びますよ。そいつはよく知ってるんで。今年が初めてなんで、今日は他の新任者と一緒に研修してるから、挨拶はまだだと思いますけど」


 誰とでもうまくやるタイプだが、心を本当に開いて見せるのはごく限られた相手だけ。桃井はそういう人間だ。長い付き合いでそれをよく知っている椎名は、はいよ、と軽い調子で返事した。


「桐島、女子何人か声かけといて。俺は野郎呼んどくから」

「はーい」


 景気良く返事をして、莉奈はスープをすすった。食堂内は暖房がついてはいるが、壁際のこの席は足元から寒気が這い上がってくるようだ。あたたかいスープが沁み渡る。

 さっさと完食した椎名は、そんじゃ、と短く言って席を立った。これから帰って夜まで寝るのだろうか。夜勤者は一回の勤務が長いこともあり、大変だろうなと思うのだが、本人たちに言わせると「慣れたらかえって楽」らしい。実働八時間の日勤でもへとへとになることも少なくないというのに、その倍も働くなんて想像がつかない。


「そういえば、篠塚さんは辞めたんだっけ」

「はい、少し前に。今は軽井沢でペンションをオープンする準備をすすめてるみたいです」

「そっかあ。いつか行ってみたいな」

「篠塚さんのセンスなら絶対素敵なところだと思います」


 篠塚早苗は、かつてフロントの日勤リーダーを務めていた女性だ。莉奈にとっては二人目の母親のような存在であり、フロントの業務を一から教えてもらったものだ。夏の終わりに彼女はここを退職し、夫とともにペンションの経営を行うと言って軽井沢に引っ越していったのだった。細やかで機転のきく篠塚は、きっとそちらでもうまくやることだろう。オープンは春だということだったので、暖かくなったら遊びに行こうと莉奈は密かに決めている。


「毎年冬にくる度に、新しい顔が増えてるけど、同時に知っている顔は減っていってるんだよね。寂しいなあ」

「確かにそうですね。わたしの同期、半分辞めました。残ってるのは梅本と柳くらいです」

「ああ、あのふたりと同期か。君たちが入った年の冬はもっといた気がするな、そういえば」

「男子も二人いましたよ。二年目の夏と秋に一人ずつ消えましたけど。わたしの下の代も、全員残ってる年はありません」


 ホテルの仕事は難しい。休みも少なく不定で、大きな案件があれば社内総出で残業になることもあるし、そもそもシフトもまちまちだ。極端に朝早いこともあれば昼から夜までの勤務だったり、イベントがあれば夕方から深夜なんていう勤務になることだってある。

 常にゲストが館内にいるので気を抜くことはできないし、休憩のタイミングだってゲストの動きによって変えざるを得ないこともある。一般的な会社のように決まった時間での休憩ではないので、うっかりすると休憩なしで半日動きっぱなしということもあるのだ。


 そのため、若い社員はそのサイクルにうまく馴染めずに転職していくことも多い。そもそもが薄給な世界なので、条件だけで見ればもっと良い仕事はいくらでもあると言える。去っていった彼らの選択は間違っているわけではない。


 それでも莉奈自身は辞めようとは思っていない。今の自分の仕事に誇りを持っているし、ホテルの仕事は自分に向いていると思っている。もちろん、給料がもっと上がったらいいなとは思うけれど。


「辞めていっちゃうのは寂しいですけど、また新しくホテルで働きたいって人が来てくれるのも事実ではありますから。それに、桃井さんみたいに毎年来てくれる人もいますし」

「嬉しいこと言ってくれるじゃん」


 食堂内がかなり混雑してきたので、二人揃ってごちそうさまで手を合わせ、食器を返却口に戻す。ロッカールームの洗面台で歯を磨いて休憩スペースで少し休んで戻ることにして、莉奈は桃井と別れてバックオフィスの通路を奥に進んだ。


 ホテル雪椿のチェックイン開始時間は午後三時だ。休憩から戻ったら、おそらくあっという間にその時間になって忙しくなるだろう。


 フロント係はチェックインやチェックアウトのカウンター業務だけでなく、その事前準備も業務の一つとして担っている。具体的には、チェックインの際にゲストへ渡す案内カードと特典のチケットなどをひとまとめにしてセットするのだ。そうすることで、新幹線の時間にあわせて混雑が集中する中でもスムーズに案内できるようになる。特に冬は、通年のスタッフだけではないので、不慣れでも迷わずにできるというのは大切なことでもある。


 ただ、この準備というのは案外時間がかかるものでもあった。予約内容によって特典の数や種類は異なるのだが、チケットの種類が多かったり、イベントなどで案内や配布物が多い時などはひとつ準備するのにも手間がかかる。

 さらに百五十室の客室が全て埋まるほどの稼働の日が続くと、カウンターでのゲスト対応も忙しくなるため、合間を縫って作業するのも困難になる。

 それでも、チェックイン開始前の最終的な予約確認の時間でもあるので手は抜けない。忙しい日はチェックインの波が落ち着いた夕方からようやく取り掛かるということもあるが、けして気を抜くことはできないのだ。


 そして明日は金曜日。土曜日を目前にして稼働が上がる曜日な上、十周年という節目の年のシーズンイン後初の週末だ。先ほどちらりと確認したところでは、予約件数は百室を超えていた。前日の駆け込み予約でまだ動く見込みもあるので、漏れがないようにしなければならない。十五時までに少しでも進められたらいいな、と思いつつ、莉奈は歯磨きを終えて口をゆすいだ。


 歯磨きセットを片付けて、ロッカールームの端にある畳敷きの休憩スペースに上がる。パンプスを脱ぐと、仕事から少し解放されて肩の力が抜けるような気がする。そのまま、誰もいないのをいいことに莉奈は体を横にした。あと五分ほどで戻らなくてはならないが、ここ数日の忙しさに疲れが溜まり始めている自覚はある。確か今日で五連勤目だ。希望休と冬期シーズンに向けた準備の兼ね合いで、莉奈は日曜日までの八連勤が確定していた。それが終われば二連休なのだが、まだまだ長い。


 シーズンインから年末年始が終わるまでは忙しくない日はないと言ってもいい。世間の冬休みやクリスマスもあり、館内でもイベントの企画などもあるので、三が日が過ぎるまではずっと忙しない。そして、そのぶんトラブルやクレームの数も増える。秋までに比べると価格も上がるので、それこそ雪が降らなかった昨年に噴出したような「こんなに高いお金を払っているのに!」という気持ちから発展するものが多いのだ。


 ホテルの価値は形に残らないものがほとんどだ。客室の調度や清潔さ、料理の美しさや美味しさ、温泉の気持ちよさ、ホテル全体の雰囲気や居心地、そしてスタッフの接客。ゲストが持ち帰ることができるのは、それらの「思い出」だけだ。部屋も料理も雰囲気も、その場その場で感じ取った感覚しか残らない。

 だからこそ、総支配人の若杉は新人研修の場で何度も口を酸っぱくして言っていた。


「目の前のお客様に誠心誠意対応していくこと」

「たとえ目につかない、つきにくいところでも気を抜いてはいけない」

「ホテルの価値は、スタッフ一人ひとりが作り出すものだ」


 働くほどに、その言葉の意味がわかる。ゲストが苦言を呈すことは、その多くがホテルの気の緩みによるものと言える。このくらい良いだろう、という驕りのような思いは、簡単にばれてしまうのだ。


 年数を重ね、莉奈も後輩を指導する立場になった。入ったばかりの新人やアルバイトのスタッフは、そのような感覚に乏しい。うるさいと思われても莉奈はそれを指導するし、その度に自分自身のホテルマンとしての振る舞いを振り返る機会になっている。


 そんなことを考えていると、いつの間にかしっかり微睡んでいたようで、アラームの音が鳴り響いたことにびっくりして飛び起きた。手櫛で前髪を整えて鏡でチェックし、ロッカールームを出た。



 

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