大切な一ページ④
フロントカウンターに声をかけてから、莉奈は橘夫妻と稲毛夫妻を伴ってロビーからエレベーターホールへと向かった。四人分の旅行鞄は台車に乗せてある。ガラガラという無機質な音は、床の絨毯では多少緩和される程度だ。
エレベーターで一気に十二階まで上がる。最上階には大浴場があり、その一つ下のこのフロアには、三世代旅行にちょうどいい広さの和室など、大きめの客室が並んでいる。その中でも周りと異なる、重厚なブラウンの色合いをしたドアが、スイートルームの目印だ。
「こちらが、橘様の本日のお部屋でございます」
キーを差し込んでドアを開ける。雪景色に反射した午後の日差しが、レースのカーテン越しに差し込んでいる。
客室内は和洋折衷の造りになっていて、玄関からリビングは洋室の仕様になっている。その隣に八畳の和室、さらに奥にベッドルームと広々としたバスルームが誂えられており、数字で言えば百平米を超える。記念日などの特別な日に予約するゲストが多いが、稼働の頻度は高くはない。
客室内に踏み込んだ橘夫妻は、わあっと感嘆の声を漏らした。
「写真は見ていたけれど、やっぱり素敵ねえ」
「そうだなあ。最上階から街が一望できるのもいい」
稲毛夫妻はその様子を玄関ドア越しに見つめている。それに気づいためぐみが、二人に入るよう促した。
「いらっしゃいな。そんなところから見ていてもつまらないでしょう」
「あ、じゃあ……お邪魔します」
恐る恐るといったふうに、二人はゆっくりと室内に足を踏み入れた。リビングから和室まで抜ける広さにため息をついている。
「すごい……」
稲毛妻――紗季が、掠れた声で呟いた。
スイートルームの室内に設置している家具や調度品は、他の客室のものと比較して値段が文字通り桁違いだ。照明やテーブル、ソファからタオルやアメニティ類まで、この部屋だけのものとして選定している。回転率の高さが命の他の客室とは、そもそも扱いが異なる部屋だということは、どんな素人が見てもわかるだろう。
稲毛紘斗は調度に触れないようにゆっくりと歩いて、リビングルームの中ほどまで進んだ。めぐみは軽い足取りでバスルームのほうへ向かっていった。
「公式サイトで写真は拝見していました。でも、実際見ると、写真の何倍も素敵なお部屋ですね」
「ありがとうございます。写真はほんの一部だけですし、なによりこの空間に身を置いていただくという体験自体が、お部屋をご利用いただく大きな価値のひとつですから」
莉奈は部屋の隅に立って、紘斗に頭を下げた。
窓越しに景色を眺めていためぐみの夫、橘貴生が、やや遠慮がちに同じ方向に視線を向けている紗季を手招きした。
「こちらへおいで。そんなところにいないで、町の景色を存分に眺めたらいいよ」
リビングルームの大窓からは、越後湯沢駅から伸びる線路と駅前の温泉街が一望できる。雪に覆われたその様子は、この高さから見下ろすとまるでジオラマのようだ。
「当館は山よりも街中に近いので、雪山の銀世界のような真っ白な景色というものは望めませんが、越後湯沢という町を眺めてお楽しみいただけるという違った良さは感じていただけるかと」
「そうですね。新幹線や車や人が行き来する様子に、ちょっとほっとします」
紗季の言葉に、貴生も満足げに頷いた。
「花咲グループさんのホテルは、その町の景色を楽しめるのが良い。加賀の花菖蒲さんや宇奈月温泉のさくらさん、野沢温泉のおにつつじさんなんかは何度か利用していますが、どこもその町に暮らす人と訪れた旅人たちが交差する様子を楽しませてもらっています」
貴生はこれまで訪れたらしい花咲グループのホテルの名前を挙げて、思い出をなぞるようにうっとりと目を輝かせた。いつの間にか戻ってきていためぐみも同じように表情を踊らせている。きっと、二人でたくさんの旅の思い出をつくってきたのだろう。
その中に自分たちのホテルがあると思うと、莉奈の胸もあたたかくなった。
「嬉しいお言葉、ありがとうございます。奥まった地域の良い景色というと、どうしても自然の様子が想起されますが、私どもはそこに住む人々あってこその観光資源だと考えております。その町を知って、楽しんで、好きになっていただけたら、とても嬉しいことです」
「素敵な考え方だわ。あなたがたのホテルはどこも優しいのよね。造りの話だけでなくて、纏う雰囲気が優しいの。ほっと落ち着けて、また来たくなるのよ。夫の好みで利用させてもらうようになったけれど、今じゃわたしも大ファンよ」
「ここへは君が来たいと言ったんじゃないか。何日も前から、遠足に行く子どもみたいにはしゃいでいたんだろう」
貴生の言葉に、めぐみは当然だという表情を向けた。そのやりとりを見ていた稲毛夫妻はついに吹き出して、莉奈はつられて笑いそうになるのをなんとか堪えた。
「とっても仲良しですね」
紘斗が笑いをおさめながら言うと、貴生は照れくさそうに視線を泳がせた。
「お二人みたいな夫婦になりたいです」
「そうだね」
紗季と目を合わせて微笑んだその表情は、どこか悲しげだ。
だが、ホテルマンの立場でゲストに踏み入った話はできない。その表情に気づかないふりをして壁際で息を殺していたその時、紗季の目尻から涙が一筋流れ落ちた。
「あらやだ、どうしたの」
「あ……ごめんなさい、その……」
一度流れ出した涙を意識して止めるというのは難しい。紗季はどうにかして落ち着こうとしているようだが、ついにしゃくりあげ、本格的に顔を覆ってしまった。
「稲毛様」
「ごめんなさい……せっかく、お部屋にお邪魔させてもらったのに」
喉の奥が跳ねる音の合間に、絞り出すような声がこぼれ落ちる。かろうじて制服のポケットに入っていたティッシュを渡すと、すみません、とまた謝って、紗季は目頭にティッシュをあてがった。
「……何かあったのかな」
貴生が優しい声音で尋ねた。答えたのは紘斗だった。
「……実は、僕はもうすぐ海外に行くんです」
「海外?」
「はい。シンガポールへ」
それが楽しい話でないというのは、もうその場の全員がわかっている。莉奈は聞いていいものか迷いつつ、その場から動けないまましゃがみ込んだ紗季の背中にそっと手を添えた。
「籍を入れたのは三ヶ月前です。結婚式と新婚旅行の話も具体的にしていました。でも、僕の仕事の都合で、唐突に海外行きが決まったんです」
入籍の翌週には、その打診――とはいってもほとんど命令のようなものだろうが――があったらしい。
「そのプロジェクトに参加していた同僚が、急に退職したんです。その後釜になる人員は限られていました。語学力と専門性を持った、身軽な人間。そう都合のいい駒はいません」
言葉や専門性の問題だけなら他にも候補はいただろうが、おそらく家庭の都合などもあったのだろう。子どもや介護など、考慮が必要な事情はいくらでもある。その中で、手助けの必要な親も生まれたばかりの子どももいない彼が、新婚とはいえ真っ先に選ばれるであろうことは、想像に難くない。
「長くいるの?」
貴生の質問は、答えが分かった上での確認のようなものだった。
「短くても、三年――その間は日本に戻ってくることは、ほとんど不可能に近いと思います」
紘斗は窓の外に視線を向けた。東京方面から来たらしい新幹線が、終点の新潟に向かって線路を駆け抜けていく。白地にまっすぐ引かれた三色のラインが、雪景色の街を貫いていった。
「上司から話があった時点で、断ることはできないとわかっていました。僕自身もプロジェクトにはもともと関わっていて、日本に残ってその仕事をする予定だったので、内容は把握しています。他のチームから人員を探して海外派遣要員として新しく加入させる、暇も余裕もありません。だから、その日、帰宅してすぐに紗季に話しました」
――シンガポールに行くことになった。いつ戻れるかわからない。
「本当なら、ついていくと言うべきかもしれません」
ようやっと息を整えた紗季が、ゆらりと立ち上がった。それでもまだ顔色は良くない。軸のおぼつかない彼女の肩を、紘斗がそっと支えた。
彼女は音程が外れた声で、それでも決意を底に秘めた口調で言葉を紡いだ。
「でも、わたしはわたしで仕事でずっと追いかけていた目標があって、ちょうどそれに向けて動き始めた時期で……ここでやめたくないと思いました」
それがどんなものなのかはわからない。だが、彼女の葛藤は想像できる。
仕事でも夢に一歩近づくことができて、大切な人と結婚して、これからどんなつらいことがあっても頑張っていこうと、そう前向きな決心をした次の瞬間に、そんなことは甘い戯言だと突きつけられる現実。
橘夫妻は、ただ静かに若いふたりの吐き出す苦しみを受け止めていた。それが行きずりの関係として正しいのだと、人生経験が莉奈や稲毛夫妻よりずっと長く生きている彼らはわかっている。たった今会った人間がかけられる言葉など、この場には存在しない。
「ふたりで話し合って、それぞれの地で頑張ろうって決めました。年が明けたら出発です。だから、それまでに少しでも思い出を増やしておこうと思って、今日、ここに来ました。忙しいから遠出は難しいけど、湯沢だったら近いし、向こうに行ったら雪を見る機会なんてないだろうから」
確か予約時の情報では、東京の住所が書かれていた。新幹線で一時間と少し、車を出さずとも楽しめる越後湯沢は確かにちょうどいい場所だ。
「本当はスイートルームが憧れだったんです。でもお値段もするし、予約も空いてなくって。今日はツインに泊まります」
ようやく紗季が少し笑った。その笑顔を守るように、予約しちゃった、とめぐみがおどけてみせた。
「お邪魔してしまって、すみませんでした。お姉さんも、忙しいのにごめんなさい」
「いえ、とんでもないことでございます。大切なご旅行に当ホテルを選んでいただけたこと、大変光栄に思っております」
「いずれ、日本に帰ってきたら……その時は、このお部屋に泊まらせてもらいたいと思ってます」
紘斗の言葉には熱がこもっていた。彼と手を繋いで頷いた紗季は、先ほどよりもしっかりした姿勢で立っている。
莉奈は声が震えそうになるのをこらえながら、頭を下げた。
「ありがとうございます」
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