大切な一ページ⑤


 フロントに戻って仕事をこなしていると、あっという間に定時を迎えた。少しの残業を経て明日のチェックインの準備も終わり、タイムカードを切る。ロッカールームで着替えて外に出ると、夕方に一度止んだ雪がまた降り出していた。


 通用口から出てホテルの建物を裏手に回ると、社員寮に通じる細い道がある。既に何人もの足跡がつけられているようだが、再び降り出した雪をうっすら被っている。新しい雪を踏みしめながら少し歩くと、寮の玄関が見えた。自販機に人影が見える。


「栗原くん」

「桐島さん。お疲れ様です」

「お疲れ。今日、椎名さんとこ来るでしょ?」

「あー、そういえば誘われてました。気が向いたら行くって言いましたけど」


 がこん、と音がして自販機の取り出し口に落ちてきたのはミルクココアだった。彼が相当な甘党だというのはよく知っている。


「またそんなこと言って」

「だって気分によりますもん」

「椎名さん寂しがるよ」

「まあ、行かなきゃ行かないでめっちゃ電話してきそうだしなあ」


 話しているうちにエレベーターが来て、ふたりで乗り込んだ。莉奈の部屋は四階、栗原は二階に住んでいる。じゃあ、と言って、彼は早々にエレベーターを降りた。


 寮と呼んでいるが、実態は単身者向けの格安アパートのようなものだ。小さいワンルームにミニキッチンとユニットバスがついているだけの、最低限の機能で構成された部屋だが、給料の家賃補助で相殺される寮費は魅力だ。

 そもそも風呂はホテルの大浴場があるし、食事だって食べようと思えば三食社員食堂でまかなうこともできる。ランドリーは無料だが共用なので、タイミングが悪いと争奪戦になるが。


 鍵を開けて部屋に入り、アイボリーのダウンコートを脱ぐ。化粧は落とさずに服だけ着替えていると、スマホが短く鳴った。椎名からのメッセージだった。


〈終わった? 何時ごろに来れそう?〉

〈今帰ってきました。着替え終わったらすぐ行きますよ〉

〈はいよ。飲み物だけ持参でよろしく〉


 新調したばかりの裏起毛のトレーナーは暖かい。冷蔵庫から缶チューハイを三本取り出して抱え、莉奈は部屋を出た。


 椎名の部屋の前に着くと、もう中から笑い声が聞こえている。ノックをして入ると、既にメンバーは揃っていた。莉奈が声をかけていた梅本と柳も来ており、ほかに椎名と仲の良い他部署の男性スタッフが二人。さっきはやる気のなさそうだった栗原も、ちゃっかり座っている。狭いワンルームはもうぎゅう詰めだ。


「遅くなりました」

「おう、お疲れさん」


 椎名はとっくに缶ビールを二本ほど空けているようだ。景気のいい返事には、ふわふわとしたアルコール特有のゆるさがある。


 空いている座布団に座って、抱えてきたチューハイの一本を手に取った。それを合図に椎名が乾杯、と三本目の缶ビールを掲げた。空中でそれぞれのドリンクがぶつかり合う。小気味いい音が鳴った。


「そうだ、桐島。今年からフロントに入ることになった俺の後輩で、笹川っていうんだけど」


 隣に座っていた桃井に話しかけられて振り向くと、その奥に小柄な女子が一人、座っていた。桃井と同じホテルのフロントに今年入った新入社員なのだという。


「笹川です。まだここに来てからは座学研修ばかりなのでご挨拶できてなかったんですけど、明日からカウンターに入ることになりました」

「そうなんだ。まあ、桃井さんもいるし心配しなくても大丈夫だよ。よろしく」

「よろしくお願いします」


 笹川はちょこんと頭を下げた。まだどこかあどけなさの残る顔立ちだが、慣れない土地での不安もあるのだろう。もとの職場でもフロント業務を経験しているのだし、なにより桃井が可愛がっている後輩だ。能力の話なら心配は不要だと莉奈は結論づけた。


「おう、鍋できてるぞ」

「はあい」


 カセットコンロに乗せられた大きな鍋の中には、鱈や鮭と大量の野菜が並んでいる。鍋の隣にはおつまみらしい軟骨の唐揚げが、半分ほど減った状態で鎮座している。椎名の好物だ。

 漆間が取り分けてくれたお椀を受け取って、一口すする。できたての鍋は熱いが、換気も兼ねて窓を開けているのでちょうどよくあたたまる。


「今年もついに冬が始まったなあ」

「一年って早いっすね。地元に帰ったのがつい最近みたいな気持ちでいたんですけど」


 桃井が苦笑しながら言う。

 同じことを莉奈も考えていた。期間で言えば春から秋の方が確かに長いはずだが、毎年気づけば冬になっている。

 一般的なスキーシーズンは十二月から三月までだが、場所によっては十一月から五月の連休頃まで営業を行っているスキー場もある。雪自体は町中でも十一月からちらほら降り出したりもするので、団体客や季節イベントをこなしているとあっという間に次の冬がやってくる。


「こっちも雪は降りますけど、この時期は営業になりませんからね。ただ雪に埋もれるだけです」

「そっちは冬以外でしっかり集客できるもんな。湯沢はやっぱ、スキーとかスノボをする人が来る場所だからなあ」

「この時期はただのんびり観光するっていうには雪深すぎるし、レジャースポットも多くはないもんな。雪以外で何かしようってなったら車があったほうがいいってのは事実だし」


 椎名と仲のいい営業部主任の綿貫和真が、困ったように眉を歪めた。

 雪のないシーズンは団体客の誘致で忙しくしている彼だが、冬は料飲部でサービスに入ることも多い。今日は朝食会場からレストランのランチ営業までの勤務だったようだが、朝六時に出勤していたにしてははつらつとしている。営業マンって謎だな、と、莉奈はその太く整えられた眉を見て思っていた。


「そういえば、今日、スイートの予約あったよね。珍しいからびっくりした」


 話題を変えたのは柳だった。彼女は外見からは想像できない大酒飲みだ。部屋飲みの時は必ず日本酒の四合瓶とグラス(お猪口でちまちま飲むことはしない)を持参してくるし、しっかりそれを空にして帰る。参加率は高くはないし一人では飲まないらしいが、莉奈は同期の集まりなども含めて彼女が酔ったところを見たことがない。


 今日の彼女は、鶴齢の純米吟醸をお供にしているようだ。傍らの緑の酒瓶は、すでに三分の一ほど空いている。


「うん、すごく上品なご夫婦だったよ」

「桐ちゃんが対応したの?」

「対応どころか、なんかいろいろと……」


 うまく説明する言葉が思いつかずに曖昧な言葉で濁すと、梅本がああ、と思い出したように声を上げた。


「佐竹さんとなんか話してたけど、それ?」

「うん、それ」


 梅本の言葉が前ふりになって、莉奈は橘夫妻と稲毛夫妻の出来事をかいつまんで話した。桃井と漆間は既に知っている内容だからか、食べるほうに集中している。


「新婚早々、三年遠距離かあ……何がどうって具体的なことじゃないけど、漠然とした大きい不安はあるかもね」


 経験したことないからわからないけど、と、綿貫が嘆くように言った。地元愛の強い彼は、メジャーな銘柄のビールではなく地ビールを飲んでいる。


「一緒にいられるのはあと一ヶ月もないらしくて。そんな中で、おそらく離ればなれになる前の最後の旅行にうちを選んでいただけたのは、嬉しい話なんですけど」

「ちょっと悲痛すぎて、聞いてるこっちがつらくなるわ」


 日中の佐竹とのやりとりを目にした梅本も、そこまでの事情があるとはさすがに想像していなかったはずだ。


 大切な人と経験や時間をともにすることの良さは、これまで何十年と寄り添ってきた橘夫妻はよく知っている。だが、稲毛夫妻のそれには、もっと必死な思いが込められている。

 同じような経験でも、それは「まったく同じ」にはならない。いつだって一つひとつ異なるものだ。

 スイートルームで対比された二組の夫婦を見て、莉奈はどこかやりきれないような気持ちを抱いていた。


「まあ、なんだ。稲毛様には、泊まってよかった、って感じてもらえて、いつかまた二人で来ようって思えるような、そういう思い出になったらいいよな」

「そう、ですね」


 たかが一ホテルマンにできることがあるわけではない。ただ、彼らに精一杯の心を尽くすだけだ。莉奈は気持ちに区切りをつけるようにチューハイを一気に呷った。


「それにしても、橘様と仲良くなるなんて、その新婚夫婦も運が良いな」


 おどけるように言ったのは桜庭佳祐、料飲部の主任だった。入社してから十年以上、レストランサービス一筋でやっている。大のワイン好きだというが、、それもサービスの勉強の一環としてワインを飲み比べるようになったのがきっかけだというから筋金入りだ。ただ量はそこまで飲めないらしく、飲みの席にワインボトルを持ってきたことはあまりない。今日も缶のハイボールを飲んでいる。


「イン後のルームサービスでティーセットを持っていったんだけど、すごく素敵な人だと思ったよ。少しお話させてもらったけど、旦那様も奥様も旅行好きなのがすこくよくわかる感じで」

「ですよね、電話で奥様と話した時もすごく穏やかでユーモアがあって、素敵なお人柄だなって思ってました」


 梅本が頷くと、我が意を得たりとばかりに桜庭がそうそう、と声を上げた。あまりに勢いが良かったせいか、梅本が僅かに体を退いたのがちょっとおかしい。


「良いお客様に会えると嬉しくなりますよね」

「うん、ありがとうって笑顔で言われるだけでも全然違う」


 挨拶やお礼の言葉を言われると嬉しくなるのは多くの人間に共通することだ。少なくとも、それをされて嫌だと思う人はいないだろう。ホテルマンがそれぞれの場面で挨拶などの声かけを細やかに行うのは当然のことだが、ゲストが同じように返してくれるとは限らない。だからこそ、ありがとうと言われると、自分のサービスはこの人にとって心地良いものだったのだな、と実感できて嬉しくなるのだ。


「ああ、あんまりそういうことを考えたことはなかったですね」

「あんたは……」


 マイペースな発言は栗原のものだ。確かに彼はどんなゲストに対しても、淡々と対応している。


「そのくらいがいいってのはあるかもよ。あんまりお客様の空気に左右されると疲れちゃうし」

「そうなんですよね。他人の感情とか雰囲気はまあ、サービスの仕方を考える材料にはなりますけど、それで自分の心がどうこうってのはわかんないっす」

「……栗原くんはそもそもそういう考え方がないってタイプなのかな」


 同意を見せた桃井だったが、根本が違っているということに気づいたらしく、苦笑いの表情になった。


「そうかもですね。ま、特別トラブったこともないので、良いんじゃないかなーと自己分析してますけど」

「良いんじゃないの。接客の時はちゃんとホテルマンの顔になってるし」


 それより早く食べないから冷めちゃってるぜ、と、椎名は話に花が咲いている間消していたコンロの火を再びつけた。取り分けられたお椀に入っていた鮭の切り身は確かに熱を失っている。


「お客様にもいろいろあんだよな。怒ってるゲストもなんか理由があるわけだし。それを全部解決できるかっていったら、正直難しいこともあるけど、せっかく来てくれたのなら楽しんだりくつろいだりしてほしいからね」


 綿貫はそう言ってビールを飲み干した。次の缶を開けると、ぷしゅっと景気のいい音が弾けた。




くだらない話にもつれ込みながら盛り上がり、はじめは緊張で固くなっていた笹川も馴染んだところで、時刻は夜の十一時を回っていた。真冬の深夜、冷え込みが一段と厳しくなった町に、莉奈は栗原とともに足を踏み出した。


「さっむ……」

「手袋くらい取りに戻ったら良かったじゃないですか。椎名さんの靴も大きくて歩きにくいでしょ」

「だってめんどくさいんだもん」


 そうですかい、と呆れたように呟いて、栗原はさっさと前を行く。


 発端は桜庭の発言だった。シメにアイスが食べたい、と唐突に表明された願望に、その場にいた全員が乗っかった。だが寒い中アイスを買いに行くのは誰も率先してやろうとせず、即席で椎名が作ったくじ引きで当たりを引いたのが莉奈だったのだ。


 栗原が自分もコンビニに用事があると言って立ち上がったのでじゃあ任せると言って押し付けようとしたのだが、九人分のアイス自腹は嫌ですと言い放たれて結局負けた。コートを取りに部屋に戻るのは癪だったので、椎名のコートと長靴を借りて出てきたのだ。


「あー、負けたの悔しい。あんなに集まっといて誰もアイス代払う気がないのも腹立つ」

「負けたんだからしょうがないじゃないですか。柳さん以外ほとんどみんな酔っぱらってるし、アイスが何だろうが気にしないですよ」

「自分のだけ高いのにして、みんなは箱の安いやつにしてやろうかな」

「いいんじゃないっすか」


 脊髄から返ってきたような相槌がまた腹立たしいが、怒っても仕方ない。見慣れたコンビニの色合いの明かりに吸い込まれるように店内に入る。栗原は自分の用事を済ませるためか違う棚に向かっていったので、莉奈は一人でアイスのショーケースに対峙した。

 食べたいアイスはいくつもあるが、同じものを九つ買うとなるとそれなりの値段になる。一応悩んではみたが、バラ売りのアイスは諦めて、結局ファミリータイプの箱に入ったアイスを二種類手に取った。


 アイスが二箱入ったレジ袋を提げて外に出ると、栗原は白い息を吐きながらコーヒーを飲んでいた。


「お待たせ」

「結局何にしたんですか」

「チョコのかかったやつと、フルーツのやつ。もちろん箱のね」

「賢明な判断ですね」


 そう言いながら、彼は右手を差し出してきた。淡いキャラメル色の紙のカップが目の前に示される。


「カフェラテ、飲みますか」

「くれるの」

「罰ゲームでかわいそうな先輩に、施しです」

「うわ生意気」


 まあもらうけど、と言って、莉奈は栗原からカップを受け取った。その熱が掌から伝わって心地よい。


「あったかいねえ」

「そうですね」

「あ、ねえ星が見えるよ。オリオン座。ちょっと天気が良くなってきたのかな」

「そうですね」

「……ちょっと、脊髄コメンテーターが過ぎるでしょ」

「何すかそれ」

「適当な返事ばっかりしてるから」


 抗議してみたものの、栗原はすました顔ですんませんねと呟いて、静かにコーヒーをすすった。文句を言うのも馬鹿らしくなって、莉奈もカフェラテに口をつける。


 この時間になると、駅前とはいえ人影はほとんどない。飲食店の明かりがぽつぽつと見える他は路肩に停められた車があるくらいで、日中の騒がしさが嘘のようだ。

 ぼんやりと温泉街の道の奥に視線をやりながら、気付けばカップの中は空になっていた。


「カフェラテごちそうさま。ありがとね」

「いえ、別に」


 ゴミ箱に捨てて歩き出す。雪が積もっているので、うまく歩けば滑る心配はない。車の轍など、踏み固められたところのほうがかえって滑る危険性が高いのだと、ここに住むようになって学習した。

 五分ほど歩いて、寮に帰ってきた。椎名の部屋のドアを開けると、数人が既に沈没している。


「あちゃあ……潰れてますね」

「おう、おかえり。桜庭と綿貫が待てずに寝ちまった。梅本も限界に近い」

「ええ……桜庭さん、言い出しっぺなのに」

「とりあえず生き残ってる人間でアイス食べようよ」


 桃井も苦笑しているが、その目は少し眠たそうだ。隣にいる笹川も頬が真っ赤になっている。


「みんな、そんなに飲みました?」

「こういうの久しぶりだったからなあ。寝た二人は朝も早かったし」


 起きている人間でアイスを食べ、ほとんど寝落ちしかけている三人をほうったまま、莉奈たちは後片付けに入った。キッチンと部屋を行き来していた柳が三回ほど桜庭を蹴飛ばしていたのは内緒の話だ。



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