大切な一ページ⑥


 翌朝、出勤してミーティングを終えた莉奈はチェックアウトのカウンターに入っていた。横目でチェックインカウンターを確認しながら、次々に訪れるチェックアウトのゲストに対応していく。金銭の受け渡しがあるので、ぼうっとしてはいられない。


「お待たせいたしました、お次にお待ちのお客様、こちらで伺います」


 呼びかけに応じて向かってきたのは稲毛夫妻だった。お互いに気づいて笑い合う。紗季の目元は少し腫れているようだった。


「おはようございます、稲毛様。ごゆっくりお過ごしいただけましたか」

「はい、昨日はありがとうございました」


 ルームキーを受け取って、ホテルシステムに部屋番号を入力した。精算用の明細を印刷している間に鍵をしまい、宿泊カードを手元に用意する。内容が間違いないことを確認して、莉奈は明細を二人に向けて差し出した。


「お待たせいたしました。ご宿泊代とディナー時のお飲み物代、それとお部屋付にしていただいた売店のご利用代金で、合計がこちらの金額になります」


 周りに他のゲストもいるので、金額は口にしないのが鉄則だ。莉奈が指し示した合計金額を確認し、紘斗は間違いないですと答えて財布を開けた。

 お釣りを用意してトレーで差し出す。小銭をしまう間に明細を三つ折りにして封筒に入れた。最後にそれを渡そうとしたとき、紗季が口を開いた。


「昨日はご迷惑をおかけしてすみませんでした。でも、今回の旅行は忘れられない思い出になりました。お部屋も快適だったし温泉も気持ちよかったし、食事もとってもおいしかったです。今度……いつ来られるかわからないけど、また二人で絶対に来ます。ありがとうございました」

「……こちらこそ、お越しいただきありがとうございました。どうか次にお会いできる日まで、お元気でお過ごしください」

「ありがとうございます。昨日のご夫婦にも、よろしくお伝えください」


 二人は何度も頭を下げながらカウンターを後にした。胸がきゅうっと苦しくなる。

 気丈に振る舞ってはいたが、きっと計り知れないほどの不安を抱いていることだろう。それをなくすことはできない。だが、その先にある、二人の希望や目標のひとつになれたのだろうか。


 昨日のように不安に震えている目ではなかった。紗季の瞳には、光が灯っていたように見えた。


 二人が前を向くことができたなら、その背中を押すことができたのなら嬉しい。莉奈は一度だけ掌をぎゅっと握り締めて開き、それから次のゲストに声をかけた。



 橘夫妻がチェックアウトにやってきたのは、スイートルームのチェックアウト時間である十二時ちょうどだった。朝もう一度温泉に入らせていただいたの、と、めぐみは嬉しそうに言った。


「あのお二人はもう帰られたの?」

「はい、橘様にも感謝を述べられていました」

「そう。可愛らしいお二人だったわ」


 残念そうにめぐみは微笑んだ。だが、それが正しいありかただとわかっている表情だ。

 ただホテルで出会っただけの相手だ。どうせいつかは忘れてしまう。ただその一瞬、触れるほど近くにいて、言葉を交わしただけの関係であると、めぐみは自身に言い聞かせているようだった。


「昨日、チェックインを待っていたら、たまたまお隣にいらっしゃってね。わたしたちの会話を聞いて、スイートルームに泊まるってのを知ったみたいで。最初は少し怪しんだけれど、話してみたら良い方だったから、ついお節介心を発揮しちゃったのよ。でもかえって自慢したようで、悪いことをしたんじゃないかしらって、あの後少し考えていたの」

「そんなことは……お二人は、ずっと感謝を述べておられました。昨日のことをきっかけに、前を向くことができたようです」

「そう……それなら、いいのだけど」


 明細を確認して頷き、めぐみはクレジットカードを取り出した。


「実はわたしも、旦那と離ればなれになったことがあるの」

「え」


 カードリーダーを操作する手が一瞬止まった。めぐみの顔を見ると、遠いどこかを見ているような目をしている。


「彼らに比べたらほんの短い時間よ。半年くらいだったかしら。やっぱり仕事の都合でね、わたしは専業主婦だったけれど、小さい子どももいたしついていくことはなかった。それでも不安で寂しくて……そのことを思い出したわ」


 莉奈に話しているというより、ただ独り言を呟いているような表情だった。ロビーの奥には、夫の貴生が座って待っている様子が見える。


「もう会うことはないかもしれないけれど、あの二人には幸せになってほしいわ」

「……私も、そう思います」


 操作の終わったクレジットカードを返却すると、ようやくめぐみは莉奈に向かって微笑んだ。


「昨日は付き合ってくださってありがとう。こちらもとっても素敵なホテルだったわ。また利用させていただきます」


 じゃあね、とめぐみが会釈したと同時に、貴生が立ち上がった。莉奈は腰から体を折った。


「ありがとうございます。どうぞお気をつけて行ってらっしゃいませ」



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