15 嘘でしょ!


 十二月三日。前章の最後は十二月二日土曜日だったけど、その翌日、続きと言うわけではないですよ、回想はもう終わりました。その証拠に今日は月曜日です。はあ、ほんとに長い思い出話をしてしまいました。半年ほどの思い出話に百ページくらい使っちゃった? でもたった一ページで一年後に戻ってきましたよ。ふぅ、戻って来れて良かった。って、今はそんな状況ではありませんでした。


「何? 何? 地震? 地震なの? えっ? なんで揺れてるの?」

と、膝上までのタイトスカートに納まった足を目いっぱい広げて踏ん張り、盗塁しようとしているランナーのようなっ格好で怯えだす女性がいました。揺れてはいるけどそこまで反応するレベル? と思うのは、私もこの業界の人間になったと言うことかな。

 ここはALC(エイエルシー、巾600ミリ、厚さ100ミリの発泡コンクリート成型板)造の七階建てのマンション現場、の七階。そして今は、まだALCが取り付けられていない六階、七階の二面にALCを取り付けている最中です。

 この現場、夏から秋に頻発した大雨、台風で鉄骨工事が遅れました。あまりの雨で作業を中止しても、雨がやんだからと言ってもすぐに人員機材が揃わない、と言うことを繰り返しているうちに、まず鉄骨工事が一か月ほど遅れました。そして、やっと鉄骨工事が終わったと言うことでALC屋さんに入ってもらう段取りになったら、今度はALC屋さんが全く入れない。

 ALCは鉄骨が最上階まで組みあがったら一気に全部取り付けていく段取り。この現場も一か月前の予定で十日間の工程でした。予備日をみてもプラス三、四日の予定。つまり、一か月遅れではALC屋さんにしたらもう終わってる予定の現場。当然別の現場の予定が入っていました、それもぎっしりと。故に、なんと一か月半もこの現場に来てもらえなかったのです。そう、一か月半ほど休工状態でした。

 ALC屋さんがこの現場に戻ってきたのは先週。総動員体制で施工してくれたので、先週だけでこの七階と六階の北面、東面を残すだけってところまで進みました。同業者に応援まで頼んでやってくれているので、各所の補強材の取付なども同時進行、驚異的なペースです。あとは続いて入る協力業者がどこまでの増員体制で施工できるか次第で、竣工日が守れるかどうかってことろです。最大限の理想形で組み直されたタイトな工程表では、何とか間に合っています。

 と、語っていますがこの現場のこと、今朝まで私は知りませんでした。ここは協建コーポレーションの設計施工の現場です。青田設計は作図の手伝いをしていただけ、現場監理は請け負っていません。じゃあなんでって思いますよね。私もそう思って青木さんに聞きました、この現場に行けって言われた時に。そしたらこの現場のお施主さんが恐ろしく細かい方で、打ち合わせでの質問や要望が半端ないレベル。伝言ゲームでは齟齬が生じるかも、ってことで清水さんが打ち合わせに参加していたのです。

 なら清水さんが来るべきですよね。でも、お施主さんが現場を見に来ると急に言い出した今日、清水さんが休みなのです。そして青木さんも久保田さんも、今日に限って新しい仕事の最初の打ち合わせが入っている。そこで、お前暇だろ、行ってこい、とばかりに私が投入されました。

「そんな厄介なお施主さんと話なんて出来ません」

と、反論すると、

「話さなくていい」

と、言われました。協建コーポレーションの設計部長、安東さんが来るから、話はその人や現場監督に任せればいいとのこと。

「なら行く意味ないじゃないですか」

と、またまた反論すると、

「青田設計が現場の監理側に関わっていると言うのはお施主さんも周知のことだから、誰も行かないわけにはいかない」

と、返されました。もうしょうがない。


 で、さっきの女性はお施主様の奥さんの方。今日はこの方だけのようです。急に現場に来た理由は、一か月半も止まっていた現場、先週から再開したと聞いたけれど、ずっと止まっていたんだからそこら中錆が出ていたり、品質は大丈夫なのか、と、その確認に見えたのでした。高層建築の構造に関わる鉄骨、一か月や二か月雨ざらしでも錆なんてそうそう出ません。しっかり錆止めされています。と言っても、現場での接合部や加工部分など、錆止めがはがれた部分は別。都度錆止め補修がされていますが全くないわけではありません。

 現場に見えてからそういうところを見つけては、すぐにクレームをつけまくっていました。そしてたどり着いた七階。あ、どうでもいいことだけど、この人タフです。多分還暦を超えたぐらいの年齢だと思うんだけど、息も切らさず七階まで階段で上がってきました。足場に組み込まれたロングスパンエレベーターとか、ピアットって呼ばれる仮設の昇降機があるんだけど、この人はヘルメットの着用を拒否したので、さすがにそれに乗ってもらうわけにはいかないので階段になりました。ま、現場敷地内でノーヘルって言うのがそもそも大NGなんだけど。

 ごめんなさい、話があっち行ったりこっち行ったりで。えっと、七階までぞろぞろと上がって来て、何か所かその人がクレームをつけている最中、ALC板の一枚がまた取り付けされ始めました。鉄骨に新たなALC板の重量がかかるので建物が揺れます。そしてさっきの女性のセリフです。

 それを聞いたALC屋さんの職長が反応しました。

「鉄骨造なんだからそりゃ揺れますよ」

いかにも気の良さそうな五十代の男性。その笑顔は素敵だけど、いらんこと言わないで。って、もう遅かったです。

「どういうことですか、建物がこんなに簡単に揺れるっておかしいでしょ!」

女性が安東部長に向かってそう言います。でも鉄骨造の高層なんだからしょうがないでしょ、と思うのは、私もこの業界に馴染んだからかも。だって、私も最初は驚いたから。ず~っと前、私が青田設計に入ったころにお話ししましたが、ALC造って言うのは基本的に工場などで多い鉄骨造と同じです。外壁がALCと言う一種のコンクリートなのでそう見えないだけ。なので高層になるとハッキリわかるほど揺れます。特に今は各階、壁も何もないただの空間なので、人が歩いただけでも揺れてます。サッシ屋さんや内装業者さんが取付でレーザー光線を壁に映したりし始めると、動くな、と、怒られるくらい。レーザーの光が揺れて寸法が読めなくなるから。ま、RC(鉄筋コンクリート)造でもそう言うことは起こるんだけど、ALC造ではそれがはっきりわかるほど感じられます。

「いや、大丈夫ですから。鉄筋コンクリートに比べたら多少揺れはありますけど問題ないですよ」

安東部長が穏やかな口調でそう答えます。

「問題ないって、問題でしょ! 建物が揺れるなんてありえない」

「今はまだ何もない状態ですから。このあと内部の壁なんかが付いてくるともっとしっかりしますから」

「そしたら揺れなくなるんですか?」

「まあ、全く揺れないわけではないですけど」

「どのくらいで揺れるんですか?」

そう女性が言ったところにロングスパンエレベーターが到着。そしてALC屋さんの職人さんが五人ほど、足場から建物に入ってきました。入ってきた五人はドカドカ歩きながら、施工中の壁面に向かいます。体格の大きな男の人五人が一斉に歩くと、またハッキリ感じるくらい揺れました。

「ひゃあぁ、やめて、ちょっとちょっと、怖い。なんなのこれ、わたし、地震とかダメなのよ」

女性がまた怯えます。スーツ姿でヘルメットも被らず現場にいる女性の悲鳴のような声に、体の大きな職人さんたちも怯えて見えました。そして女性に近寄る安東部長たちが、大丈夫ですか、などと声を掛ける前に女性が口を開きます。

「このくらいのことでこんなに揺れるなんて、絶対おかしいでしょ」

そしてまたそのタイミングで強い風が吹き抜けました。壁の二面にまだ壁のないこの階。サッシやドアが付くべき開口も空いているのですごい勢いで吹き抜けます。十二月の風、普通の感覚なら、寒い! ってところですが、

「ひゃあぁ、また揺れた!」

と言うのが女性の感想。今は揺れたかな? 私は感じませんでした、寒い方が勝ってたからかもしれないけれど。

「風で揺れるの? 絶対おかしい」

そして女性はまたそう言います。

「普通の風では感じるような揺れは起こりませんよ。まあ、台風クラスなら感じるかも知れませんけど、それは鉄筋コンクリートでも同じですから」

安東部長がそう返すと、女性の声が一メモリ大きくなりました。

「嘘言わないで、私の所は台風くらいでは揺れないわよ。そんなところなら私住んでられないから」

でも安東部長は冷静に、穏やかに返します。

「でも、確かお住まいなのは三階でしたよね?」

「私の所は三階でも建物は十五階建てよ、十五階建てが揺れないのにこのくらいの高さで揺れるなんて考えられない」

また一メモリ声量が上がってしまいました。なので私は何も言いませんでした。本当は、以前鉄筋コンクリートの十二階建ての九階に住んでいた時、台風で揺れを感じましたよ、と言いかけたのですが、何を言っても噛みつかれそうなのでやめました。

 十五階は多分揺れてますよ、と言いたげな安東部長が口を開く前に女性がまた続けます。

「大体聞いたこともないような設計事務所、なんてとこだった? あなたそこの人よね」

女性がそう言うと私の方に来ました。そしてヘルメットの横の会社名を見ます。

「そう、青田設計、こんなところに設計させるからこんな建物になったんじゃないの?」

そしてそう言いました、その青田設計の人間である私の真ん前で声高に。よろけた振りでもして足を踏んでやろうか。

「青田刈りだとか、青田買いだとか、名前のイメージも悪いのよ」

まだ言うか。そんなこと言いながら私に背中を向けるなんて、膝カックンしてあげようか。

「いえ、それは違います」

安東部長がそう言います。

「青田設計さんは住宅設計のエキスパートですから協力していただいてるだけで、設計自体はうちでやっていますから」

「ならおたくの設計がおかし、ひゃっ、もう嫌、こんなところダメ、一旦降りましょう」

女性が話している途中で次のALC板が建て込まれ、また揺れました、少しだけ。悲鳴を上げるほどでは絶対にないと思うんだけど、ちょっと揺れに過敏すぎるんじゃないの? と思ってしまいます。本当に地震で揺れてるときはどうするんだろう。


 女性を先頭にみんなで階段を降り始めました。私は一番後ろからついていきます。すると三階で馬池工業のヘルメットを見つけました。私より小柄なシルエットは多分、阿部社長の奥さんの純子さん。私は階段からガランとしたフロアに入り近付きました。

「こんにちは」

そして声を掛けました。純子さんは振り返ると私を見上げます。でも誰だかわからない様子。とっさに私のヘルメットの会社名と名前を見てから、

「ああ、高橋さん、お世話になってます。あれ? ここ、青木さんのところ関わってるんですか?」

と、言葉を返してくれました。

「ええ、まあ。馬池工業さんもですか?」

「うちは協建さんの現場のサッシ、結構やらせてもらってるんです。ここも、アルミ、スチール、全部頂いてます」

「そうなんですね、今日は下見か何かですか?」

「ええ、やっとALCが付いたからすぐ始めてくれって先週連絡もらったので。でも、ちょっと打ち合わせしてほんとにやれるのかどうか確認しないといけないですね」

「いつからの予定なんですか?」

「連絡いただいた時は明日から二日で終わらせて欲しいと言われたのでその段取りをしてあるんですが、この状況でほんとに全部つけれるのかなって」

早、明日からなんて。ほんとにタイトな工程です。

「明日ですか。まあ、サッシ部分の開口補強も今日ほとんど終わるみたいな話を聞きましたから、出来ないことはないかなって思いますけど」

「そうですか、じゃあ大丈夫かな」

「でも、監督さんに確認してくださいね。それより、ざっと五十戸あるみたいなんでサッシとか玄関ドア枠って二百か所くらいになりません? 二日で付くんですか?」

ここは徒歩数分圏内に大学が二校もあるところ。なのでこの建物は一階の約半分は自転車置き場、残りは店舗。二階から七階は全て1DKで各階八戸の計四十八戸。各部屋に掃き出し窓、玄関、PSドアの最低三か所のサッシがあります。そして妻部分の部屋には腰窓もあります。さらに各階階段にも防火戸があるし、普通に考えると二日では無理です。一週間くらいが妥当かも。なのでそう聞きました。

「二日を目標にして、明日、明後日は応援も含めて六組十五人、職人を入れる予定です。明日は搬入からなので、間配り、下準備までやってもらうアルバイトも十人頼んであります。それでも三日は必要だろうと見ているので、それのお願いも今日しようと思っています」

「そうですよね、これ全部を三日でって、段取りできるだけでもすごいですよ」

「でも大前提として、明日からやるなら明日は朝からうちの搬入が最優先。ピアットもうちの荷揚げが終わるまでは専用にしてもらわないといけないです。それと、この階までは全くないので心配なんですが、サッシ取り付けに必要な墨を今日中に全部打ってもらわないといけません。ま、ALCなんで極端な話、高さ方向のレベル墨だけ出てれば何とかなりますけど、それでもそれは今日打っておいてもらわないととてもじゃないですけど終わりませんから。それもお願いしないといけません」

「そうですね」

何だか圧倒されました。純子さんとは設計担当として知り合ったのですが、施工管理もしっかりできるんだ。

「うちもせっかく人数かき集めてなんとかって思ってるので、逆に現場のせいで遊ばせちゃうのは嫌ですから」

その後、純子さんは一番上まで見てきますと言って階段を上がっていきました。純子さんは青木さんと同世代。なので私なんてうんと年下なんだから、もう少し砕けた話し方をしてくれてもいいのに。相変わらず事務的に、必要な話だけをする人です。


 純子さんと別れて降りていくと、一階の階段室からエントランスホールに出る防火戸が付く開口の所に、私と同年代くらいに見える若い監督さんがいました。そして私を見るとこう言ってきます。

「あ、青田設計さん、ちょうどいい、教えてください。ここのドアって図面だと外に開くんですけど、階段側に開くように変えてもいいですよね。その場合、今の物を内外逆に取り付けるだけでいいですかねぇ。吊元が逆になっちゃうのはもうしょうがないんでいいですから」

う~ん、私よりもっと若いかも。一現場経験すればそれが可能かどうかは分かると思うんだけど。

「ダメですよ、ここはエントランス側に開かないと」

私も一番下まで降りてそう答えました。すると階段からは見えない集合ポストが付くあたりから、お施主様の女性が現れました。

「なんでダメなの、私がこっちに開くのは嫌だって言ってるんだからそうしなさい」

もう、いるならいるって言ってよ、私が相手しないといけないの? さっと見回しても安東部長や他の監督の姿はありません。

「いえ、それはですね……」

しょうがないので出来ない理由を説明しようとしました。でも私を遮って女性が先に続けます。

「ほんとに、あなたが素人なのか、あなたの会社自体がそうなのか知らないけど、ちょっと考えなさいよ。この扉の前、エレベーターでしょ、こっち側に開いたらエレベーター待ってる人にぶつかるから危ないじゃない。私何度もそれ言ってるのよ、でも全然図面がそうなってこない。仕事しなさいよ」

何度も言う度に、何度も出来ない理由も聞いてると思うんだけど。

「あの、そういうご要望を今までもされているんですか?」

下手に聞きました。

「そうよ、でも全然言うこと聞いてくれないのよ、馬鹿にしてるの?」

「いえそんなことは。え~っと、それで、出来ない理由は説明がありませんでしたか?」

「ないわよ。それにね、出来ない理由なんてあるわけないでしょ、お金出すのはうちなのよ、うちがそうしろって言ってるんだからしなさいよ」

気を落ち着けよう、これはちゃんとした理由があるんだからそれを言うだけ。私は小さく深呼吸してから話しました。

「あの、階段は災害時などの避難経路になります。そして避難経路にある扉は必ず避難方向に押して開ける向きについていないといけないんです。なので二階から上の階段の扉は全部階段の方に開きますよね。そして一階は外に向かって避難するので階段から外に向かって開かないといけないんです。これは法律で決まっていることなので変えれません」

う~ん、こういう説明がちゃんとできるようになった。成長してるじゃん、私。と思っていたら、

「あのね、子供のくせに何私に向かって偉そうに言ってるの」

と、言い返されました。

「避難ならベランダに梯子ついてるでしょ、知ってるのよ。もうここのドア発注しちゃてるもんだから変えたくなくて適当なこと言ってるんでしょ。私はあんたみたいな素人にごまかされないわよ」

落ち着け、私。

「ベランダについている避難ハッチは、共用通路や階段が通れなくなった際の緊急用です。あくまで避難経路は共用通路と階段です」

そう言うと本格的に睨まれました。そして私のヘルメットの名前をもう一度確認すると、

「高橋さんね、覚えとくわ。あなたが今言ったこと、ちょっとでも間違いがあったらあなたの負担で全部作り直してもらうわよ。いいわね」

「大丈夫です、間違いないですから」

また睨まれてます。そしてこう言われました。

「いいわ、あなたの言う通りだとしても、施主の私が嫌だと言ってるの、何とかしなさい」

「いえ、法律で決まっていることなのでそれは出来ません」

「法律は解釈の問題でしょ? それを何とかするのがプロ、設計事務所の仕事でしょ」

「いえ、それは……出来ません」

この人無茶苦茶すぎる。いつまでイライラを抑えてられるかな。

「ほんっとにおたくは二流、三流みたいね、使えなさすぎる。もういいわ、安東さんに言って何とかしてもらうから」

「申し訳ありません」

私は頭を下げました、これで話が終わると喜んで。

「でも、覚えておきなさい、結果こう出来ましたってやつをおたくは出来ないって言い張った素人設計事務所だって、後から必ず言い広めてやるから。勉強不足だったことを後悔しなさい」

そして女性はそう言うと背中を向けて建物から出て行きました。

「法律なんてどうにでもなるのよ、知りもしないで」

と、悪態をつきながら。でも大丈夫、どうにもならないから。と、私は自信を持っています。建築法違反のことをまっとうなゼネコンである、協建コーポレーションさんに出来るわけないと知っているから。

 今の会話の場所に関して言えば、女性の言い分の方が正しいとは思います。確かにエレベーター前の階段の扉は危ないです。なので根本の問題はそう言う配置にしたことです。正確には会社に戻って、清水さんのこの現場の議事録あたりを見ないと分かりませんが、協建さんで作った配置だと思います。清水さんや青木さんが作っていたら、無駄なデッドスペースが出来たとしても、エレベーター前に扉が開く位置に階段は配置しないと思います。そう言う人の動き、動線にこだわる人たちだから。

「すみません、僕が話振っちゃったから怒られちゃいましたね」

後ろからさっきの監督さんがそう声を掛けてきました。ほんとだよ、そっちの設計施工なんだからそっちで話してよ、と思ってもそうは言いません。

「いえ、いいですよ」

ちょっぴり笑顔を作ってそう答えました。

「でも、ほんとに怒ってましたけど大丈夫ですか?」

「問題ないですよ、法律は法律ですから、絶対です」

「そうですか、勉強になりました」

何だか尊敬の眼差しってやつで見られてる。ちょっと鼻が高くなっちゃうかも。


 事務所に戻ると田子さんに手招き付きで呼ばれました。なので奥の部屋に行かずに田子さんの所に行きました。

「ごめんね、今朝渡そうと思ってたんだけど、梨沙ちゃんすぐに出ちゃったから渡しそびれちゃった」

田子さんがそう言って差し出す封筒に、賞与、の文字。おお、ボーナスもらえるんだ!

「ああ、ありがとうございます」

そう言って受け取ると、

「今回は満額よ」

と言って、握った右手の親指を立てて見せる田子さん。もう、お茶目なんだから。でもほんとに嬉しいです。七月の時は入ったばかりだったので、まだごまめ(一人前じゃない、みたいな意味。方言?)だから一時金よ、と言われて七万円でした。それでも嬉しかったのに満額とは……、いくらなんだろう。と、早く中の明細を見たかったので設計の部屋に行きかけましたが、今朝青木さんに聞けなかったことを先に田子さんに聞こうと思い振り返りました。

「あ、田子さん、清水さんってどうしたんですか?」

今朝、清水休みだから、と、青木さんに言われた時、風邪かなと思いました。日中は半袖でもいいくらいの日がついこの前まで続いていたんだけど、やっと季節が冬だと思い出したように寒くなったので。でもそう聞いたら、風邪じゃないとだけ言われました。

「さあ? 休みとしか聞いてないけど。急に寒くなったから風邪でもひいたんじゃないの?」

でも返ってきた言葉はこうでした。田子さんも聞いていないようです。

「そうですか。青木さんは風邪じゃないと言ってましたけど」

「そうなの? じゃあ……、なんだろね」

田子さんは一瞬何か思い当たったような顔をしましたが、結局そう言うと席について画面に向かってしまいました。

 奥の設計の部屋に入り、自分の席まで来てから封筒を開けました。入っていた賞与明細を見て、当然笑顔になってしまいます。給料の一か月分より多い。ああ、一か月くらいニコニコしていられそう。

 今日の現場の報告書を一応作りました。お施主様の奥様と言い合った内容も出来るだけ正確に書きました。こんなことがあったんだと知っておかないと、このあと清水さんが困るかも知れないから。

 お昼になったので下の喫茶店でランチにしました。今日の日替わりはカレーきしめんと炊き込みご飯のおにぎり。ほんとに寒くなった日だったので大歓迎です。そして食べ始めたころ青木さんが帰って来て、店に入ってきました。一応会社のことも悪く言われて気になっていたので、午前中の現場でのお施主様との話をしました。

「うん、高橋さんの言ったことで正解だよ。よく覚えたね」

話を聞き終えた青木さんはそう言ってくれました。

「ああ、なんだかほっとしました。他に方法があったら、とかってちょっと不安だったんで」

「一階の防火戸の所は清水とも話したんだよ、あいつが相談してきたから。でもあの現場は常開の防火戸にも出来そうになかったし、しょうがないんだよね」

「そうだったんですね。じゃあ気を付けて扉の開け閉めしてもらうしかないんですね」

「ま、そうだね。とりあえず一階だけはガラス入りの扉に変更したから、よっぽど大丈夫だとは思うけど」

「えっ? 防火戸でガラス入りって出来るんですか? 階段なので特定防火設備ですよね」

外部面などの延焼防止部分に付くサッシやドアなどの防火設備ならガラス入りが出来るのは、これまでの経験で知っていました。アルミサッシでも出来るくらいだから。でも階段などに付く特定防火設備となる防火戸で出来るとは知りませんでした。

「ガラス入りでメーカーが個別認定取ったものならあるんだよ、特定防火設備のガラス入りの扉。ガラスは当然耐熱強化ガラスだけどね」

「そうだったんですね、覚えときます」

「うん、ドアメーカーのホームページで、出来るバリエーションとか出てるから見とくといいよ」

「分かりました、見ておきます」

 そのあと食事を進めながら思い出し、

「そうだ、清水さんってなんで今日休みなんですか?」

と、また聞いてしまいました。すると青木さんはお箸でつまんで持ち上げたきしめんを見つめて、う~ん、と唸ります。そしてそれをすすってしばらくしてから、

「ま、それはそのうち話すよ」

と言って、またきしめんをすすりました。なんか言えないようなことなのかな。すごく気になってきますがそう言われるともう聞けません。そして、ボーナスのお礼を言うのも忘れてランチを終えました。


 午後から青木さんは、もう一件打ち合わせに行ってからそのまま帰る、と言ってすぐに出てしまいました。なんだか忙しそう。なのに私は暇です。暇なので画面に向かって図面を描いていました。そう、とうとう私もCADで図面を描くようになったのです。と言うのはまだ大げさで、厳密に言うと図面の修正をしているのです、簡単なのだけ。

 今触っているのは広瀬様邸の図面。青木さんは基本的に部屋と部屋の間の壁は、内外ともにボードを二枚貼りにします。9.5ミリと12.5ミリの二枚合わせ。でも部屋と廊下を隔てるような壁の廊下側は12.5ミリの一枚貼りです。広瀬邸はお施主様の要望で遮音性を高めるために、その部分も二枚貼りに変更となりました。なのでその修正を私がやっています。

 ボードの下地になっている間柱の面から、今の12.5ミリ間隔の二本の線を9.5ミリ、間柱から離していく作業です。簡単そうですがその壁にドアなんかがあったら、壁の厚みが9.5ミリ大きくなる分、ドア枠の見込み寸法もその分増やさないといけません(ドア枠やサッシ枠などの厚みのことをなぜか、見込み、と言います。ちなみに、ドア枠などの正面から見える淵の部分を、見つけ、と言います)。これがなかなか厄介、と言うか手間です。青木さんがやれば半日もかからないのでしょうけど、私は先週の土曜日に半日やって終わりませんでした。じゃあなんで手の遅い私がやっているかと言うと、それはCADを使う練習です。

 一月ほど前にCADを教えて欲しいとお願いしました。そして清水さんにコーチしてもらって基本的な操作を覚えたら、練習としてこういうことをさせてくれるようになりました。私がやったものはすべてやり直すくらいの覚悟で青木さんは見直さないといけないので、自分でやる以上の手間だとは思うのですがさせてくれています。早く安心して任せてもらえるようにならなくちゃ。

 対象か所のすべてのボードを二枚にして、いじったところの寸法も全て直し終えた頃、田子さんが帰って行きました、十七時です。丸一日かかった計算です。私はもう一度ざっと目を通して間違えていないか確認。それからデータを青木さんのフォルダに入れて仕事を終えました。

 帰社予定十七時となっている久保田さんも帰ってきそうにないので、戸締りして事務所を出ました。そしてスーパーへ。ボーナスもらって懐が暖かいので、ちょっと贅沢な材料で夕食作ろうかな、なんて思いながら買い物。白菜、大根、ゴボウ、厚揚げ、こんにゃくを買い物カゴに入れます。どこが贅沢なんだって? ふふふ、それと豚バラの固まり肉も買って、おでん風の煮物にする予定。あ、割高だからいつも避けてる卵入りのさつま揚げも買おう。ふん、私の贅沢なんてこんなものですよ。

 買い物を終えて駐車場に行ったら、隣の清水さんの車の所に大きなミニバンが停まっていました、高そうなやつ。誰のだろう、誰か間違えて停めてる? なんて思いながら自分の車の方に向かうのに目の前を横切ったら、助手席の女性と目が合いました。人が乗っているとは思わなかったので驚きながら会釈すると、向こうも小さく頭を下げてくれます。そしてその車の隣の自分の車のドアに手を掛けたら、その女性がドアを開けて降りてきました。そして近付いてきます。

「清水です、いつも主人がお世話になってます」

そしてそう言われました。おお、この人が……、主人? あれ? 結婚はしてないって聞いたような。そう思いながら返事しました。

「あ、高橋です。こちらこそいつもお世話になってます」

清水さんよりは年上に見えました、きれいな人です。そう、きれい、かわいいではなく美人です。遠藤さんを若くしたらこんな感じかも。

「すみません、帰る前にちょっと事務所に寄りたいって言うもんですから、会いませんでした?」

「いえ、私買い物してたので行き違ったみたいです」

「そうですか」

「どこか一緒に行かれてたんですか?」

聞いてから気付きました、会社休んでどこ行ってたって言ってるみたいに聞こえたかなって。

「ええ、主人の実家ですけど、こんな時間になってしまいました。今日は結局一日お休みになっちゃったんで、ご迷惑おかけしましたよね」

「いいえ、迷惑だなんて全然」

こう言うと、清水さんがいなくても問題なしって聞こえるかな。それにしても最近土、日に実家行ってることが多い清水さん、何かあるのかな。奥さん? まで連れて行ってるなんて。

 そのあとは社交辞令的な二言三言を交わしてから失礼しました。清水さんの実家に行っていた理由は聞きませんでした。


 翌日、出社するなり清水さんが声を掛けてきました。

「おはよ、梨沙ちゃん。昨日はごめんね、現場行かせちゃって。奥さん強烈な人だったでしょ。でも気にしなくていいよ、旦那さんは建築関係者で、細かいことは言うけど話の分かる人だから」

「そうなんですね、でも私、奥さんに噛みつかれて脅されたんですよ、怖かった~、ちびりそうでした。貸しですからね」

自分の席に行って鞄を置きながらそう返しました。

「そっか、噛みつかれちゃったのか、悪かったね。あそこの土地、奥さんの実家があったところなんだよ。そこに息子のために建てるマンションだから思い入れがすごいんだよね」

「息子さんの、ですか?」

清水さんの方に振り返ってそう聞いてました。

「うん、三十代の息子さんがいるそうなんだけど、一度も就職せずに定職にもついてないみたいなんだよね。それであのマンションの経営者を息子さんにするみたいだよ」

どんな事情があって仕事をしていないのか知らないけれど、恵まれた息子さんだ。あそこはすぐ近くに大学が二校もある上に、二路線が乗り入れる地下鉄八事駅の入り口の一つまで50メートルもないところ。それなりの家賃を設定しても高い入居率が見込めそうです。

「マンション経営か、なんか羨まし。私もそう言う家の子に生まれたかったな」

「だね、あそこだと入居者には困らないだろうから失敗はなさそうだからね」

「ですよねぇ、でも四十八戸でしたっけ? それだけ管理するのは大変そうだけど」

「いや、あそこはライフパートナーに管理、丸投げするみたいだから手間はないんじゃないかな? 収入は減るけどね」

ライフパートナーと言うのは、協建コーポレーション系列の不動産屋さんです。通常の不動産屋さんの仕事のほかに、空き地所有の地主さんに資産運用としてマンション経営を勧めたりしています。時々ニュースなんかに出てくる悪徳業者、まともな賃貸収入なんて見込めないようなところにマンションを建てさせる会社、そういうところとは違ってちゃんと経営として成り立つかどうかを見極めてくれると言うことで、信用もされている会社のようです。その証拠として、ライフパートナーが関わる物件は銀行もすんなり融資してくれる、と以前、青木さんから聞きました。

「減っても利益があるならいいですよ」

「だね」

そう言うと清水さんは背中を見せて席につこうとしました。その背にこう言いました。

「そうだ、昨日お会いしましたよ、駐車場で」

清水さんが椅子に座ってから振り返ります。

「ああ、聞いたよ、高橋さんに会ったって。ごめんね、プライベートの車、あそこに停めちゃって」

「いえ、そんなことはいいんですけど、奥さん美人ですね、びっくりしました」

「びっくりってどういう意味だよ。それに奥さんじゃないよ、まだ」

「えっ? 清水って名乗ってましたよ。清水さんのこと主人って言ってたし」

「主人って言ってた? ま、そう言っとくのが無難だと思ったかな。清水ってのは、彼女も清水だからだよ」

「そうなんですね、そっか、じゃあ結婚しても苗字変わらないんですね」

「そうだね、高橋さんも高橋って人と結婚したら変わらないよ」

「ですね。結婚しないんですか? もうずっと一緒に暮らしてるんですよね?」

何の気もなく聞いたことでしたが、予想外の返事が返ってきました。

「うん、近いうちに入籍はしようかなって思ってる」

「ええ! そうだったんですか、おめでとうございます」

そっか、それで実家に連れて行ってたんだ。

「まあ、ありがとう。そんな騒いでもらうことじゃないけど」

「なんでですか? 入籍だけ? 式は挙げないんですか?」

なんだか少し興奮してました。

「まあそれはおいおいと、そのうちってことで」

清水さんはそう言うとまた背を向けて画面の方を向いてしまいました。と言うわけでこの話はここまで。私も自分の席について仕事を始めることにしました。

 青木さんや久保田さんがこんなおめでたい話に混ざってこないのは既に知っていたから、なんて、単純に思っていました。ま、知っていたって言うのは事実だけど、私の知らないことも知っていたからでした。




 その週の土曜日、朝から事務所で図面修正をやっていました、CADの練習。今日は一日誰も事務所に来ませんでした。ランチを食べに下の喫茶店に行くと、真紀ちゃんも休みでなんだか寂しい。

 手を付けていた図面が終わったのは十六時過ぎ、それで帰ることにしました。スーパーに寄って食料品を買い込んで車に行くと、助手席シートの上にスマホがありました。会社のではなく個人の物。会社のスマホが主になってきているので、こっちのスマホを最近忘れがちです。でも気を付けないと、スマホなんかが見えてると、ガラスを割って盗んでいく人がいるって聞くから。

 車に乗ってそのスマホを見ると恐ろしいほどの着信がありました。最初は真由からでお昼頃。浅野真由、中学と大学が一緒だった親友です。真由からの着信はそこから十数回続いていました。そのあとは朱美からも何回か着信がある。何かあったかな? とりあえず二人に電話してみますがどちらも出ません。しょうがないのでそのまま帰ることにしました。

 自宅マンションの駐車場に入ると、隅の方に朱美の赤い車が停まっていました。来てるんだ、そう思いながら帰宅すると、二人で酒盛りしてました。

「おかえり」

部屋に入ると朱美がそう言ってくれる。でも私は、ただいま、と言えなかった。

「りっちゃん、しばらくここに泊めて、お願い」

と、真由が言ったから。

「は? どうしたの?」

「住むとこ見つけたらすぐに出ていくから、お願い」

私は鞄を置いて洗面所に向かいながらこう返します。

「ちょっと待って、手ぐらい洗わせて」

 洗面所からリビングではなくキッチンに入りました。そしてキッチンから真由に話しかけます。

「住むとこって何? 引っ越すの?」

そう言ってから目に入った流しには、ビールの空き缶が沢山、何時からいたんだ、いや、いつから飲んでるんだ。

「引っ越さないよ、私が出てくの」

「はあ?」

冷蔵庫を開けると真由の家の近くのお寿司屋さんの折り詰めが入っている、五つも。それに大量の缶ビール。スーパーの袋にはお惣菜が何品か。でもリビングの座卓の上には、すでにほとんど何も残っていないお惣菜の容器が三つある。本気で宴会しに来たな。それより、私が買って帰った食材を入れるところがない。お惣菜類を取り出しました、どうせ食べるんだろうから。ちなみに、冷蔵庫の野菜室にもワインとビールが詰め込んでありました。

「出てけって言うのに、あいつが出ていかないって言うから、私が出てくの」

真由はこちらに背中を向けて座っているけど、そう言った後、ビールを飲み干したのがわかりました。私は冷蔵庫から自分の分のビールを取り出しながら、目で朱美に、いる? って尋ねました。朱美はいらないって感じで返してきます。そのまま真由を指さして、真由の分は? と尋ねる。渋い顔で首を振る朱美。もう飲ますなってことか。でも、

「りっちゃん、こっち来るときビール持ってきて、なくなってる」

と、真由が言って小さく笑う、なんでだろ、とか言いながら。朱美が疲れた顔をした。

 ビール二本を持って座卓へ。二人が使っているので私には座椅子がない。床に座りながら真由に聞きます。

「出てくって、何があったの?」

朱美はもう聞いたんだろうけど、私にはまだ何を言ってるのか全然わからない。

「だから、あいつが出ていかないから私が出ていくの」

意味不明。そう言う真由は会社の作業着姿、今日も仕事だったんだ。その姿で胡坐をかいて座っていました。朱美は体育座りです。濃いワインレッドのジーンズに、モフモフの少し茶色がかったピンクのセーター、かわいい。外で飲む気だったかな? でも、私の友達の中でダントツでかわいいのは真由。今の姿でも、アイドルが役でそういう格好をしているように見える。

 大学卒業後、どんな職業に就くのかと思っていたら、真由は父親の会社に入りました。在学中から手伝ってたみたいだけど。その会社は、足場屋さん。前田組と言う、鳶土工の会社です。真由は浅野姓で、父親の会社がなぜ前田なのか。前田は母親の旧姓です。父親はもともと、母親の実家の会社の職人さん。社長の娘と結婚したので会社をもらったのです。でもその両親は真由が大学に入ったころに離婚。父親の女遊びが原因。会社は父親が社長となって何年もたっていなかったので世間体もあり、父親は追い出されずそのまま。でも家族は分かれました。二つ下の妹は母親の元へ行き、真由は父親の所に。真由も母親の所に行こうとしたら、一人じゃ生活できない人だから面倒見てやって、と、母親に押し付けられたらしいです。で、さっきから真由が言ってるあいつとは父親のこと。真由の所の親子喧嘩はいつものこと。またかって感じです。朱美ではないけれど、聞く前から疲れてきました。

「だから、何で家を出るの?」

でも聞きました、聞かないとしょうがないから。朱美はビールの缶を口につけて窓の外を見ている。もう聞き飽きたんだろう。

「あいつが出てくって言わないから」

この酔っ払い、それじゃわかんないって言うの。

「お父さんを家から追い出したいの?」

「お父さんじゃない、犯罪者よ」

「犯罪者?」

「いや、犯罪じゃないけど、犯罪にならない日本がおかしいのよ」

まったくわかんない。でもこの怒り方はいつもと違うかも。真由はごくごくとビールを流し込む。もう飲むな! 朱美はその姿を見てからそっと立ってベッドの方へ行く。そしてベッドに腰かけてスマホをいじり始める。

「聞いてる?」

朱美を目で追っていたら絡まれた。

「聞いてるよ、で、何が犯罪なの?」

「聞いてないじゃん、娘に手を出したら犯罪者だろって言ってんの」

はあ? そんなの聞いてないけど、手を出す? 殴られた? 私は真由の顔を観察。顔には腫れとか見当たらない、でも、

「手をって、殴られたの?」

と、ちょっと驚き声で聞きました。殴られたのならこの怒り方は頷けるかも。

「殴ったなんて言ってないじゃん」

違ったらしい。だったらなんでこんなに怒ってる? と、思ったけれど、そのあとの真由のセリフはもっとショックで理解不能。

「やったってこと、セックスよ!」

「え……」

何も言えなかった。真由はまたビールを飲み干すと、もうない、とか言って冷蔵庫に向かう。でもあり得ない、今の話。真由のお父さんは私もよく知ってる。とっても優しい人。そして真由のことを溺愛している。なので、まさかまさかまさかって感じ。そこで朱美にまた目が行きました。もう全然聞く気ないみたいにくつろいでいる、おかしい。この話を聞いたのなら、たとえ聞き飽きるくらい聞かされていても、もう少し違うと思う。ん? なんか落ちがあるの? 

 真由がビールを三本も持って座卓に戻ってきた。もう飲むなと言いたいけれど、こう聞きました。

「まさかだけど、お父さんにされたの? セックス」

真由の表情が変わる、怖いよ。

「はあ? 冗談でも怒るよ」

もう怒ってるじゃん。

「あいつにされるくらいなら死ぬわ! いや、やられる前に殺す」

こらこら、物騒だぞ。でも、さっきそう言ったじゃん。なのでそのまま聞きます。

「さっきそう言ったじゃん」

「言ってないよ、そんなこと。りっちゃん、あんたって時々人の話聞いてないよね、悪い癖だよ」

おいおい、あんたが言ったこと覚えてないんだろ。でも逆らわないことに。

「ごめん、もう一回最初から教えて、なんで家出るの?」

「だから、あいつが出ていかないって言うからだって」

それはもういいんだって言うの。

「なんでお父さんを追い出したいの?」

「なんでって、だって、今日も家にいたんだもん、信じらんない」

そう言ってまたビールを流し込む真由。違う話が出てきたけど、まだ意味不明。お父さんと二人で住んでるんだから、お父さんが家にいてもおかしくないでしょ。と思っていたら、真由が横に倒れる。寝そう、いや、もう眠りに入ってるかな? 

 朱美の方を見たら、こっちに来るところでした。

「やっと静かになった」

そう言って座ります。

「最初から話そうか?」

朱美に、知ってること教えて、って言う前に朱美がそう言ってくれる。

「うん、お願い」


 朱美が完全に酔っぱらう前の真由から聞いていた話。木曜日、現場が早く終わったけど、疲れていたので会社に寄らずに帰宅したら家に女がいた。もう帰るところだとか言ってお父さんが慌てて連れ出す。何か月か前からお父さんに新しい彼女がいることは分かっていたから、この人か、くらいに思った。けど、かなり若いのが気になった。で、帰ってきたお父さんを問い詰めたら、相手は自分と同い年だった。あんたは娘に手を出すのか! って怒った。人として許されないからやめろと説教した。と、木曜日はここまで。

 そして今日、昼で仕事を終えた真由が帰宅すると、家に二人がいた。しかも、女の子の方はもう完全に部屋着って感じの軽装で。真由は着替えだけ持って家を飛び出す。そして朱美と連絡を取って合流、その後ここへ。


 聞き終えて、なんとなく真由の気持ちもわかる気がする。でも、なんとなくだけ。父親に母親以外の彼女がいるって言うのはショックかもしれない。でも離婚しちゃってて他人だし、真由のとこは。それに、離婚しても母親一筋でいて欲しい、なんて考えるほど真由はセンチではないと思う。大体、離婚理由が……、ねぇ。じゃあ、父親が自分と同い年の子と付き合ってるのが問題? まあ、問題は問題だよね、私でも嫌は嫌かも。でも、信じられないほどの年の差カップルなんてそこらで聞く話だし。いくつ違うんだっけ? 真由のお父さんは若かったはず。仮に二十五歳の時に真由が生まれたとしたら、二十五歳差カップル。三十としたら三十差。そこまでいくとちょっと離れ過ぎかな? でも、その程度にしか感じられない。なので、

「そこまで嫌かなぁ」

と、呟くように言ってました。すると、

「えー、私だったら二人を叩き出したよ」

と、意外そうな顔で朱美が言います。

「え? 朱美でも?」

「当然、そんな女連れて帰ってきた時点で親子の縁を切る」

何も返せない。真由に呆れているのかと思っていたのに、朱美までしっかり怒ってる。私が変なのか? ちょっと頭を整理しようとビールに口を付けると朱美が続けてこう言う。

「梨沙はおじさんでも平気だからそう言うんだよ」

「ちょ、何よそれ」

「一回りも上のおじさんと付き合ってたでしょ?」

「一回りって、十二だよ、おじさんじゃないよ。親と一緒だったら、二十以上、ひょっとしたら三十くらい上ってことでしょ?」

「十二も三十も一緒だよ、普通の感覚じゃ恋愛対象にならない」

ちょっと言い返すのやめよう、私が変なのかも。前の相手は十二も上だったけど、十二も上だと思っていませんでした。三十過ぎ、六、七歳上くらいにしか見ていなかった。好きになって付き合いだしてから十二も上だと知った。でも知ったからと言って嫌にはならなかったので、十二歳くらい、と思ってしまってる。でも、最初から知っていたら確かに違ってたかも。

「それに、一番嫌なのは年の差じゃなくて、娘の自分と同い年の子を女として見て、付き合ってるってところよ」

考えていたら朱美が続けてそう言いました。想像してみる、でもあまり実感がわかない。なので黙ってました。

「なんかピンと来てない顔してるけど、そう思わない?」

「……」

なんて言えばいいかわからない。なので困った顔で考え中を装いました。すると、朱美も思案顔になって私を見ます。そして、

「そっか」

と、言って頷く。

「なにが?」

「梨沙って、お父さんのこと覚えてないんだよね」

「ああ、うん、覚えてない」

「全く?」

「三歳の時だよ、お父さんいなくなったの。家にお母さん以外の人がいた記憶がないよ」

「だからだ」

納得顔の朱美。

「じゃあお母さんが彼氏って言って、同い年の男の子連れてきたらどう思う?」

う~ん、お母さんすごい、かな。いやどうだろう、やっぱり嫌かな? 少なくともその男の子には引くかも。

「あれ? これもあんまりピンとこない?」

考えていたら、また朱美が先にそう言いました。

「いや、まあ、歓迎はしないかな」

としか言えなかった。

「う~ん、難しいなぁ。梨沙のお母さんならありそうだしね」

私のお母さんをどういう風に見てるんだ。さすがに娘の私はないと思うぞ。

「ないない、ないよ」

なのでこう言っときます、お母さんのために。すると朱美はまた思案顔で私を見てからこう言いました。

「梨沙に偏見持ってるみたいに聞こえたらごめんね、そんなんじゃないから」

「なに?」

「私や真由はずっと両親が揃って傍にいたけど、梨沙はそうじゃないから。だから感覚が違うのかも、特に父親に対しては」

父親に対しての感覚、ちょっと考えてしまう。だって、わかんないもん、父親いなかったから、記憶のどこにも。

「ごめん、やめようかこの話。これから真由をどうするかにしよう」

朱美がそう言いだしました。

「私が変なんだよね。ごめん、気を遣わせて」

「ううん、だから話を変えよう」

朱美が明るくそう言う。

「そだね、まあ、真由は私のとこでいいなら構わないけど」

「そっか、ならあとは真由のお父さんをどうするかだよね」

「おじさんを?」

「そ、じゃないと真由の中の問題は解決しないじゃん」

「そっか」

「でもあれだね、私や梨沙のことも女として見てたのかな? 真由のお父さん」

朱美のそのセリフは私にとって強烈でした。

「ゲ~~、それ最悪、もしそうだったら、もうおじさんに近づけないよ」

なのでそう言ってました。すると、

「それだよ、その感覚、やっとわかった?」

と、朱美が身を乗り出してきました。

「ああ、そうだったんだ。うん、確かに嫌だ。真由が怒るのも頷ける」

朱美は座椅子の背もたれに体を戻すと、やれやれと言った顔で私を見ました。


 二時間ほどで真由が復活。また飲み始める前に真由を風呂場に放り込みました。私と朱美は真由が寝ている間に済ませていました。

 お風呂から出て来た真由が座卓の上を見て言います。

「なんでお寿司なの? 冬だよ、鍋にしようよ」

真由の入浴中にお寿司とお惣菜を用意して並べてありました。お寿司は握りが三人前と、蟹尽くしの折が二つ。

「あんたが買ったんでしょ」

朱美が突っ込みます。

「そうだっけ? ま、いっか。じゃありっちゃん、熱燗にして」

そう言われるけど、

「日本酒買ってきてるの?」

と、聞き返します。朱美は首を振っている。

「え~、ないの?」

ビールで夕食が始まりました。

 食べ始めてからは、話題は普通の世間話。もう少し詳しく聞きたいのだけれど、また真由が荒れだすと嫌なのでこっちからは触れませんでした。朱美もそっちの話題にしようとしないし。

 やがて、まだ食べ物は残っているけれど飲みが主体になってきました。飲み物は朱美が好きな白ワインに変わっています。そして真由は再び酔っ払いモードになりました。でも口から出るのは仕事の愚痴ばかり。職人さんと現場の間に立つ仕事をしているので、ストレスはだいぶあるようです。そんなときに私のスマホが鳴りました。表示されたのは真由のお父さんの名前。会話が止まり、三人顔を見合わせました。真由が、出ろ、って感じで私に向かって顎を振ります。それに促されて出ました。

「こんばんは、ご無沙汰してます」

『りっちゃん久しぶり。元気にしてる?』

いつものおじさんの声です。

「はい、元気ですよ」

『それは良かった。ところで、真由、一緒じゃない?』

「ええ、一緒ですよ、私の所にいます」

『そっか、りっちゃんのとこにいたか。ごめん、代わってくれない? あいつの電話つながらないから』

「ちょっと待ってくださいね、代わります」

そう言ってスマホを真由に渡しました。真由は受け取ってから何も言わずに画面を見ています。そして画面に触ると座卓の上に置きました。まさか切ったの? と思っていたら、

「なに?」

と、言い出します。スピーカーにしたようでした。

『お前なあ、何時だと思ってるんだ。八時までに帰れっていつも言ってるだろ』

私の聞いたことのないおじさんの声と口調がスピーカーから飛び出してきました。おじさんは私や朱美が聞いているとは思っていないでしょう。

「何考えてんの? まだ門限とか言うわけ? 私二十六だよ」

『まだ二十六だろ、そんな若い女が夜出歩くな』

「はあ? あんた何言ってるか分かってんの?」

『何がだ』

「あんたが今手を出してる女はいくつなのよ」

『それはまた違う話だろ』

「あんたねぇ、その子の親に申し訳ないとか思わないの?」

『だから、それは違う話だろ』

「何が違うのよ」

『あいつとお前は違うんだよ』

「違わないよ、おんなじ二十六の女よ」

『真由、いい加減にしろよ、怒るぞ』

「怒ってるのは私の方よ」

私と朱美はピクリとも動けずに二人の話を聞いていました。

『まあいい、とりあえず今日はりっちゃんの所に泊めてもらって、明日の朝、帰ってこい』

真由はおじさんのその言葉を聞きながらグラスのワインを飲み干すと、私の方に空のグラスを差し出します。注げってこと? 私はグラスにワインを注ぎました、今は逆らえない。

「いやよ」

ワインを注がれながら真由がそう返します。

『ほんとにいい加減にしろよ』

「言ったでしょ、あんたが出て行かないなら私が出て行くって。何? 帰って来いってことはあんたが出て行くの?」

『だから何でそうなるんだよ、ほんとに』

「いいわ、とりあえずあの子はもう帰したのよね、なら明日一旦帰るからじっくり話しましょ、結論は一緒だけどね」

『いや、帰らせてない』

「あのね、とりあえずその子帰らせてよ、話はそれから」

『なんでそこまで毛嫌いするんだ? 今までそんことなかっただろ』

「今までと違うでしょ」

『何が?』

「あのねえ、……言わせる気?」

『何を?』

真由が息を溜めました。そして口を開いて言葉を吐き出す、前に、私達と目が合いました。すると、そっと息を吐き出しながら目を瞑ります。そして何も言わない。

 間が空いたのでスマホからおじさんの声が続きました。

『おい、お前も分かってるだろ』

真由は目を瞑ったまま動かない。私と朱美は状況が分からず動けない。

『本気で帰らせろって言ってるのか?』

「……}

『お前、そこまでひどいこと言うのか?』

「……」

『あんな体で体調悪そうにしてるのに、一人に出来ないだろ』

「だからあんたも一緒にその子のとこに行けって言ったでしょ」

やっと真由が口を開きました。

『あのな、あいつのとこワンルームだぞ、そんなとこ二人で居れるわけないだろ』

「何言ってんの、そんなとこでやることやってたんでしょ」

私と朱美は顔を見合わせる。

『やってたって、お前……』

「やったから子供が出来たんでしょ!」

私と朱美はまた顔を見合わせる。

『いや……』

「私はね、恥ずかしいのよ、自分の父親が孕ませた子が同い年なんて。その子にどんな顔して会ったらいいのよ」

最後のセリフはスマホを手に取って口にした真由、そして言い終わるなり電話を切りました。

 そのあと、真由はまた勢いよく飲み始め、残ったものを食べ始めます。そして話してくれました。

 おじさんの新しい彼女は春頃から行き始めたお店の子。夏前には付き合い始めていたようで、お盆には二人で旅行にも行っていたみたい。そして先月辺りから様子がおかしくなり、偶然を装っては真由と彼女を会わす様になる。そして最近では家にまで連れてくることが頻繁に。

「で、今日なんかもう住んでるみたいな格好で家にいるから、同棲するなら出て行けって言ってやったの、よそでやれって。そしたらこう言うの、お腹に子供がいるんだ、って。それで最近体調が悪いみたいだからしばらく家にいさせるって」

そして真由はグラスを口に持って行くと舐めるように飲みます。そう、もう潰れる寸前。

「それってあれ? 私に同い年の継母と、二十六も、……いや、いやいや、二十七も年の離れた弟だか妹だかの面倒見ろってこと? ふざけんなっての」

う~ん、まだ計算が出来るんだ。潰れるまでもう少し付き合わないとダメかな。

「それにさ、……りっちゃんならどうする? りっちゃんの……、りっちゃんはいいや」

真由はそう言うと顔を私から朱美の方へ向けます。何なんだ一体。

「朱美、ちょっと想像してみて、朱美のお父さんが同い年の子を妊娠させたらどうする?」

なるほど、この質問は私にしても無駄だと思って朱美にしたんだ。

「ええ? うちのお父さんが? ……いや、ちょっと想像できないけど、私はもう近寄らないかも、口もきかない。いや、真由と一緒だ、もう一緒のとこにいたくない、出てけっていうよ」

朱美は困りながらそう答えます。すると真由が朱美の方に身を乗り出します。手にしたグラスからワインが少しこぼれます。でもそんなこと気にせず真由はこう言う。

「違うよ、その相手の女の子とどう接するかって聞いてんの」

「えっ、相手の子と? どう接する……、接する、接する、……いやいや、会わないよそんなの。お父さんと子供出来るようなことするってだけで言っちゃあ悪いけど、私からしたらその子も十分異常者だから」

「異常者?」

朱美の返答が予想外だったのか、真由が座椅子に背中を戻して思案顔になります。その真由に朱美が続けました。

「逆に想像してみてよ、真由はお父さんと同い年のおじさんとエッチできる?」

「はあ? やめてよ、キモイ。あんたそんなこと想像してんの?」

「その、キモイ、ってことが出来る女ってこと」

朱美にそう言われた真由がグラスのワインを一口で飲み干します。まだそんなに飲める元気があるんだ。と思っていたらそのグラスにワインを注ぎ始めます。

「そっか、そう言う見方もできるんだ」

ワインを注ぎながら真由がそう言います。そして一口グラスに口をつけてからこう言いました。

「私はうちのお父さんに言いように口説かれて、そう言う関係になっちゃって、挙句に妊娠させられたって、なんか、その子に申し訳ないなって思ってたの」

そう言って真由はまた一口飲みます。

「でもそうだよね、どう口説かれようが本気で嫌ならエッチしないよね」

そしてまたグラスのワインを飲み干します。でも今度はグラスを座卓の上に置いて手を放しました。そして、

「もう考えるの面倒になってきた」

と言って、横に倒れようとします。

「ちょっと待って、寝るならベッド行こう」

私は腰を上げて真由の体を起こします。朱美も手伝ってくれる。

 一応自分の足で歩いているけれど、真由はもう寝ているようでした。その真由をベッドの中に放り込んで、朱美と座卓に戻ります。

「真由はその子に申し訳ないと思ってるから一緒にいたくないんだ」

真由が座っていた座椅子に腰を下ろして、そう言ってから自分のグラスに口をつけました。

「みたいだね、おじさんに怒ってるだけじゃないんだね」

そう言って朱美は、残っていたお寿司の一つを口に入れました。

「うん、それより申し訳ないって気持ちの方が強いような気がする」

「だね」

「ま、真由ってそう言う子だよね」

「うん」

ぽつぽつとそう言うことを言いながら、二人で残ったものを食べていました。

「おじさんがその子と結婚したら同い年のお母さんってことになるんだ」

「で、二十七も下の兄弟が出来る」

私のセリフに朱美がそう続けます。

「想像できないね」

「想像したくない」

 食べ物がなくなったところでお開きにしました。片づけをして寝ることに。座卓に布団をかぶせて今シーズンのこたつ開きとした私、こたつで寝ました。


 翌日曜日、人の動きで目を覚ますとまだ五時前でした。音がするキッチンの方を見ると真由が何かしています。

「おはよ、だし巻き? 朝ごはん?」

キッチンに行って声を掛けました。朝食にしても作り始めるの早いよ、と思いながら。

「おはよ、うん、キッチン借りてごめんね」

「ううんいいんだけど、早いね。そっちは?」

真由が玉子を焼いている横には、すかしたフタからうっすら湯気の上がっている鍋があります。

「ああ、煮物作ってる。ごめん、ジャガイモ、ニンジン、鶏肉、使っちゃったよ」

「別にいいよ」

「煮物に入れる緑の物が何かないかなって思ったけど、ないね」

「ああ、いいのがあるよ。でもちょっと待ってて」

私はそう言って、先に洗面所へ顔を洗いに行きました。トイレも行って戻って来てから冷凍庫を開けます。そして取り出したものを見て、

「ええ? ブロッコリー入れるの?」

と、真由が言う。

「この子結構万能だよ。何に入れても合うから」

「そうなの? 凍ったままでいいの? そろそろ火を止めようかってタイミングだけど」

訝しみながらも真由は手に取ります。

「うん、数分でOKだよ。それともう火を止めるならこれも入れちゃえ」

私はそう言いながら冷蔵庫からタッパーを一つ取り出します。

「ああ、りっちゃん特製の椎茸ね」

真由はタッパーを見ただけで分かってる。

「これは温まったらOKだから」

私はそう言ってから大事なことに気付きます。この料理なら多分パンじゃなくてご飯だ。でもご飯炊いてない。そう思って炊飯器を見ると電源が入っていました、しかも、もう保温になっています。

「ご飯炊いたの?」

「うん、もう炊きあがってるよ。って、そか、ごめん、お米も使った」

何時からやってるんだろう。

「いやいいけど。じゃあ後はおみそ汁作る?」

「ううん、みそ汁は即席のにする」

そう言う真由は二つ目のだし巻きを焼き始めています、多いんじゃない?

「なんで? すぐ作れるじゃん」

「いや、そうじゃなくて、みそ汁は持って帰れないから」

「はあ?」

「私、あとおにぎり作ったら帰るから、ごめんね、うちの朝食ここで作って」

そう言うことか、やっぱり真由だ。どんなに怒ってても、思うところや気まずさがあっても逃げない、見捨てない、そう言う奴だ。

 私は殆ど開けることのないキッチンの上の収納扉を開けました。そして丸椅子に乗って一番上に置いた三段重ねの重箱を取り出します。二人っきりの母子家庭の重箱なのでちょっと小さめサイズ。でもこれで十分でしょう。

「全然使ってないから洗うね」

そう言って私が洗い始めると、

「ありがと」

と声を返してきます。

 そのあと二人でおにぎりを握ります。ゆかりのふりかけをまぶして具はなし。あついあついと言いながら握りました。

「これ食べながら話するの?」

握ったばかりのおにぎりを重箱に詰めて、次を握りながらそう聞きました。

「うん」

真由も握りながら返してきます。

「三人で?」

「うん」

迷いなくそう返ってきました。


 私と朱美の分を残して、持って帰る分を重箱に詰め終わると、

「朱美起きないね」

と、真由が丸まって寝ている朱美を見てそう言います。

「朱美とも話してから帰りたい?」

着替え始めた真由にそう聞きました。

「それもあるけど、家まで送って欲しいから」

「ああ、いいよそれは、私が送ってあげる」

私も着替えながら答えます。

「いいの? 会社の車でしょ?」

「私用に絶対使うなとは言われてないから、朱美ともあの車で出掛けたりしてるし。それに、朱美は起きても一時間は動けないでしょ?」

「そだね、ごめん、ありがと。今度なんか返すね」

「いいよ別に」

「でも、冷蔵庫の物とか使っちゃったし、お米も」

「いいってば、こっちはお寿司ご馳走してもっらたし」

「でも……」

「じゃあ、今度来るときお米だけ返して」

まだ何か言おうとした真由を遮ってそう言いました。真由が私の顔を見て一瞬黙ってから小さく笑う、そして、

「わかった、お米持ってくる」

そう言いました。窓の外がやっと明るくなっていました。


『真由を送ってくる』と、こたつの上に書置きして部屋を出ました。車の中では特に会話なし。さすがの真由も緊張した顔つきをしています。私ならどういう気持ちだろうかと思ったけれど、身に置き換えて具体的な想像は出来ませんでした。そのくらい普通ではない状況だとは思います。

 車を降りる真由に、怒ったらダメだよ、と言いました。真由は笑顔で、わかってる、と返してから家に入って行きました。何がどうなればいいのか全く分かりませんが、いいようになれば、と願いました。


 部屋に戻ると朱美がキッチンにいました。珍しく、寝起きなのにスッキリ起きています。ま、寝たのも早かったけどね。

「おはよ、そして、お帰り」

「おはよ、何やってんの?」

「コーヒー温めてる、梨沙もいる?」

「もらおかな」

「わかった」

私は朱美の声を聞きながら寝室へ上着を脱ぎに行きました。朱美が真由のことを聞いてこない。コーヒー飲みながらゆっくり話そうってことかな。

「あれ? 煮物もあったんだ」

キッチンから朱美の声がする。その声を聞きながらこたつの上のテレビのリモコンをとりました。そしてテレビをつける。リモコンを手にとる時、なんとなく違和感を感じました。でも、来年五月一日から元号が変わる、と言うアナウンサーの声を聞いて、そのニュースを見てしまう。そのニュースを見ながら、平成から何になるんだろう、なんて思いながら、手に持ったリモコンをこたつの上に。そしてまた違和感。

 私と朱美の分のおにぎりとだし巻き玉子は、深めのお皿に並べて上から別のお皿をかぶせてフタをしてありました。煮物は鍋の中にそのまま。フタをしたお皿はこたつの上にそのままあるけれど、そのフタの上にお箸が一組置いてある。そんなの置いた覚えがない。フタにしていたお皿をとりました。

「うそ、全部食べちゃったの?」

「うん、ちょっと多かったけど、お腹すいてたからちょうどよかった」

キッチンから朱美がそう返してきます。

「あのね、私のは?」

「えっ、真由と食べた残りじゃないの?」

「違うよ、二人分だよ」

「うそー、ごめん、私の分が残してあるんだと思った」

「……」

私の朝食は、トーストと煮物とコーヒーになりました。




 一週間ほど経った翌週の金曜日、夕方前に杉浦邸の現場に寄りました。基礎コンクリートの打設をすると聞いていたのでそのチェックに、いえ、ただ見に来ただけです。基礎鉄筋などの検査は昨日青木さんがやっています。この現場、青木さんはよく足を運んでくれます。後輩である杉浦さんの家だと言うこともあるでしょうが、自宅から近いと言うのも大きな理由かも。すんなり走ってくると車で十分掛からないくらいです。

 太田工務店さんがきっちりした工程組と管理をして下さっているので、普通よりも二週間は早いペースで進んでいます。みんな子供たちのために三月中の竣工、いえ、三月中におっ引っ越しまで終わるようにと頑張ってくれています。

 私が現場に着いた時にはコンクリート打設は終わっていました。打設後のチェックも終わっている様子。もうコンクリートが固まるまで何もできないので今週の作業は終了。数人の作業員さんが現場を閉める前の後片付けをしていました。私は邪魔にならないように現場内を一周して、靴に泥をつけただけで帰りました。


 事務所に戻ったのは五時過ぎでした。二階の通路から事務所の扉を開けて中に入ろうと思ったら、入ってすぐの打ち合わせスペースに男の人が座っていました。スーツにネクタイ、鞄は足元の床に置き、畳んだコートを横の椅子に置いたりせず、膝の上に持っています。完璧な営業スタイル。四十過ぎくらいかな? 普通のおじさんでした。

「いらっしゃいませ」

誰だかわからないのでそう声を掛けました。男性は慌てるでもなくすっと立ち上がると、

「笹山です、よろしくお願いします」

と、頭を下げます。よろしく? お客様かな?

「高橋です、よろしくお願いします。あの、もう誰かお聞きしてますか?」

私も改めて頭を下げてそう聞きました。

「はい、先ほど女性の方に取り次いでいただきました」

「そうですか、ではお掛けになってもう少しお待ちください」

そう言って傍の扉から奥の部屋に入りました。

 設計の部屋に入ると久保田さんの席に田子さんが座ってスマホを触っていました。他には誰もいません。

「あ、梨沙ちゃん帰ってきた、おかえり。じゃあ私帰るからあとお願いね」

私の顔を見るなりそう言う田子さん。

「えっ、お客様見えてますよね、どうするんですか?」

「ああ、清水君を訪ねて来た人だから大丈夫よ」

そう言って本当に帰ろうとします。

「清水さん、もう帰ってくるんですか?」

「十分くらい前に十分くらいで戻るって言ってたからもうそろそろじゃない? じゃあ、お先ね」

そう言うと本当に帰ってしまいました。

 田子さんが帰ってさらに十分。そう言えばお客様の前に何も出ていなかったかも。田子さん、お茶も出さなかったの? とかっていろいろ考えて落ち着きませんでした。清水さんのお客様ってことだけど、お客様ってことは設計の依頼に見えたってことだよね。なら、いつまでもほったらかしってわけにいかない。コーヒーでもお出しして話し相手した方がいいかな? なんて思っていた時、隣から話声が聞こえてきました。そしてしばらくするとこっちの部屋の扉が開きます。

「で、設計の部屋はこっち」

清水さんがそう言いながら入ってきました。後ろからさっきのおじさん、もとい、お客様も続きます。清水さんは私に、お構いなく、って感じで片手を上げると、

「ま、設計の部屋なんてどこも一緒だろ」

と、お客様に話し掛けます。でもその話し方、友達? って感じです。

「そうですね、うちはまだドラフターが何台かありますけど、似たようなもんです」

「まだあるんだ、使わないだろ」

「ええ、全く、です」

お客様も親しげな様子、ほんとに友達かも。そして同業者? そしてそして、ドラフターって何?

「じゃあ悪いけどもう少しそっちで待ってて、すぐ終わらせるから」

清水さんはそう言うとお客様をもとの所へ行かせます。そして自分は席についてパソコンをいじり始めます。

「あの、ちょっといいですか?」

清水さんに話し掛けました。

「ごめん、急ぎじゃなかったらまたにして」

「いえ、その、今の方、お客様じゃないんですか?」

「ああ、違うよ、あいつは俺の大学の後輩、笹山って言うんだ。ちょっと話があって、これから飲みに行くんだよ」

「そうだったんですね」

と、答えたものの、ええ! あの人、清水さんの後輩? 清水さんより年下なの? 私はひそかに驚いていました。だって、どう見ても清水さんより上に見えます。清水さんはまだ間違っても、おじさん、と言ってしまうような容姿ではありません。でもさっきの方はどう見てもおじさん、おじさんにしか見えない。なんて思っていたら、メールをチェックしていた清水さんが少し大きな声を出しました。

「うっそー、明日? 明日やるの?」

私は何のことか分かりません。清水さんの画面を見ていると、サーバー内の古い物件のフォルダ内で何かを探している様子。見ていてもしょうがないので自分の席に戻りました。

 チェックしないといけない図面が少しあるので、明日やろうか、今日やっちゃおうかなどと考えながらも手を付け始めたら、

「げ~、PDFじゃないじゃん」

と、後ろから清水さんの声。そしてしばらくすると、猫なで声で話し掛けてきました。

「梨沙ちゃ~ん、今日ってもう帰る? 時間ある?」

「何かあるんですか?」

振り返って聞きました。

「あのさ、だいぶ前、まだ青木さんと二人でやってた頃にやった物件の、修理やら増改築やらの話があるんだけど、その調査を明日やることになったみたいなんだよね。で、当時の図面がいるから打ち出そうと思ったら、全部CADのファイルなんだよ」

「で、今から飲みに行くのに一枚ずつ打ち出してたら時間が掛かるから、やってくれってことですか?」

先読みしてそう言いました。

「うん、まあそう言うこと。頼める?」

「いいですよ。でも、貸しですからね」

「サンキュ、助かる。じゃあファイルの場所……」

「いえ、探すの面倒なんで、今出てるあれですよね、清水さんのパソコンでやっちゃっていいですか?」

清水さんの画面に開いているウィンドウを指してそう言いました。

「あ、そだね、いいよ、使って」

そう言って清水さんは机の上を片付けて空けます。

「え、清水さんもう仕事いいんですか?」

「うん、どうせ明日は一日仕事するから」

「分かりました。終わったらパソコンはどうします?」

「そのままでいいよ。何なら開いてるフォルダもそのままでいいから」

「了解です。で、A3で二部くらいでいいですか?」

「あ、そうだな、二部……、三部、いや、一部でいいよ。あとは明日の朝、出掛ける前にコピーするから」

「分かりました」

「じゃあ、悪いけど待たせてるからお先するね」

「は~い、お疲れさまでした」


 私は何も考えずにただひたすらファイルを開き、CADの画面で印刷範囲の設定をして実行。そしてそれを閉じると次を開いて同じことをする。それを繰り返していました。だって、ファイルが七十七個もあったんだもん。ダブルアンラッキーセブンだ、一時間半以上は絶対に掛かります。騙された気分。

 結局二時間くらい掛かりました。プリンターは全部吐き出すまでもう少しかかりそう。なので自分の席で図面チェックの続き。こうなったら今日全部やっちゃって、明日は絶対に休む。

 図面チェックを終えて、静かになったプリンターから図面を抜きました。また失敗。CADファイルを打ち出すときは最後の図番からにしないと、プリントされた図面が逆に積み重なります、また忘れてました。

 中央のキャビネットの上に置いて、一枚ずつ逆に積み直します。早く帰りたいので図面は見ない、ただ作業するだけ。の、つもりでも見ちゃいますよね、やっぱり。

 二階建ての店舗兼事務所って建物、RC(鉄筋コンクリート)造でした。そんな感じで結局は、ザっとではあるけど図面を見ていってました。そして、図枠の左下の文字に目が留まります。そこは会社名が入っているところ。今は『株式会社青田設計』と入っているところ。そこにこの図面では『一級建築士事務所 城山エンジニヤリング有限会社』と入っています。他の図面も確認、全部同じでした。私は動けなくなりました。


 前の会社に就職してから最初のゴールデンウィークの初日。母が急に私と離れて暮らすと言い出しました。私に一人で暮らせと言い出しました。ま、その経緯はここではもう話さないけれど、その時に、それまで私に一切教えなかった、私の父の連絡先をメモに書いてくれました。父の名前、携帯の番号。父のやっている会社名とそこの電話番号。それらが書いてあると言ってました。でも私はそれを見ずに破って、自分の部屋のゴミ箱に投げ入れました。

 後日、引っ越しのために部屋の整理をしているときに一枚のちぎれた紙片を拾いました。そこには母の字で三行の記載が残っていました。破って捨てたメモの半分がゴミ箱に入っていなかったのでしょう。一行目は『……0910』の数字。おそらく父の携帯番号の下四桁でしょう。私の誕生日の日付の並びと一緒なので覚えています。そして二行目は『……ジニヤリング』の文字。多分、なんとかエンジニヤリングって書いてあったんだろうなって思いました。普通は、エンジニアリング、だよねって思ったので覚えています。そして三行目はそこの電話番号だと思われる数字の並びの後ろ半分、覚えていません。


 いつだったか、青木さんの個人のスマホの電話番号を教えてもらいました。下四桁が、0910、でした。そして今、青木さんと清水さんが二人でやっていたころの会社名が、エンジニヤリングとなっているのを見ました。

 遠藤さんから、青木さんが離婚していたと聞いたことがあります。そして、私と同い年くらいの娘がいるとも。

『嘘でしょ!』

としか、頭の中に出てきませんでした。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る