16 全ては胸の中


 十二月十五日 土曜日、朝七時過ぎに会社に来ていました。休むつもりだったので、出て来てやることもないのですが、どうしても清水さんと話がしたかったから。清水さんが図面を取りに事務所にくるのは分かっていました、でも、何時に来て、何時に出掛けるか分からなかったので、そんな時間から来ていました。


 昨夜知ったことは未確認で未確定なこと、まだまだ単なる私の想像です。それでも衝撃でした、いえ、ショックでした。家に帰っても、城山エンジニヤリングって名前がずっと頭の中にありました。ずっと頭にあるので、ずっと考えていて思いついたことがあります。ひょっとしたら、城山エンジニヤリングって会社の下請けでやった物件なのかもって。確か、もともとは自営でやってたとかって聞いたこともある。青田設計を作るまでは会社じゃなかったかも。そしてそう思いついたら、もう確認したくて眠れないくらいでした。隣に聞きに行けば一番早いんだけど、そんなこと出来るわけないし。ショックを受けた想像が事実なら、隣の人こそ私の父なのだから。

 私がここに引っ越して半年くらいで隣に引っ越してきた。母と離れたと知って心配だったから? 見守るつもりで? 私の顔を見ると必ず声を掛けてくれた、偶然なの? そして、失業してもバイト暮らししてるのを見かねて会社に誘ってくれた、ってこと?

 考えれば考えるほど、そうとしか思えなくなってしまいました。今度顔を合わせたらどんな顔をすればいいんだろう。もう今までのようには話せないかも。


 清水さんが来るまで、と思って広瀬様邸のこれまでの資料や書類、図面の整理をしていました。それも終わってしまい、杉浦様邸で同じことを始めたら清水さんが来ました。九時前でした。

「あれ? 梨沙ちゃんだったんだ、おはよ、早いね。今そんなに忙しいの?」

そう言いながら入ってきた清水さんに挨拶を返してから、

「これ、昨日の図面です」

と言って、昨日頼まれた図面を渡しました。

「ああ、ありがと、悪かったね」

清水さんはそう言って受け取ると、自分の席について画面に向かいます。その背に話し掛けました。

「清水さん、その図面の城山エンジニヤリングって……」

問いかけている途中で清水さんが口を開きます。

「ああ、当時、青木さんそんなにお金なかったから有限なんだよ。その頃は株式会社にしようと思ったら、資本金一千万必要だったみたいだから」

聞きたかった返答ではなかったけれど、聞きたかったことは分かりました。やっぱり青木さんの会社だったんだと。そんな風に思った私に、清水さんはパソコンを操作しながら続けます。

「ほんとにあの頃お金なかったよな、青木さん。お金ないもんだから俺が住んでたアパートで起業したんだもん」

「アパート?」

「そだよ、しかも貧乏学生でも敬遠するようなボロアパート。多分梨沙ちゃんだと想像もできないようなところだよ。六畳一間で小さな台所があるだけ。風呂なし、便所は共用。俺は極貧学生だったからそんなとこにしか住めなかったんだけど」

「学生だったんですか、清水さん」

「うん、青木さんが越してきた時、俺、……二年だったかな? 三年になったころには青木さんの仕事の手伝いをバイト代わりにしてたから」

「へー、そうなんですね」

「風呂なかったから銭湯とかで時々顔合わせてたんだ、定食屋でもよく一緒になったなぁ。で、俺、尾張学院の建築だったから、設計やってるって青木さんの仕事に興味あったんだよ、それでよく話してた。そしたらバイト代出すから図面手伝ってくれないかって言われたのが最初。CADも学校で使い始めた頃だったから図面描いてみたくて、俺の方からも飛びついたよ」

青木さんと清水さんの出会いがそんな感じだったんだと思いながら聞いていました。それから二人はずっと一緒に仕事しているんだと。でも私はそんな話から別のことが頭の中に湧いてきて、それを口にしていました。

「そんなアパートに引っ越したってことは、その時はもう青木さん一人だったんですね?」

清水さんが振り返りました。

「一人? ああ、そう言えば結婚してたって言ってたな、梨沙ちゃんよく知ってたね」

「あっ、前に遠藤さんから聞いたんです、娘さんもいるとかって」

自分でそう言って、なんだか恥ずかしかったです、なんだか。そして次に清水さんがなんて言うのか怖かったです。でも、

「ええ! 子供いるの? 青木さん」

と、驚いた顔でそう言います。

「ええ? 知らなかったんですか? 遠藤さんはそう言ってましたよ」

「そうなんだ、知らなかった。いや、そう言う話、青木さんはあんまりしないし、俺も聞かないからさ」

なんだか少し安心。青木さんの娘の存在を知っている人はそんなに多くなさそう、そう思って。でも続いた清水さんの言葉はまた私に刺さりました。

「そっか、それで貧乏だったのかな、青木さん」

「どういうことですか?」

「離婚した奥さんの方に子供までいるんなら、それなりに慰謝料なり養育費払ってただろうから」

高額の養育費を払っていたから貧乏、なんだか私の鼓動が早くなりました。昨夜からの仮定が確信になったような気がして。そして思い当たります。私と母が離れて暮らすようになったきっかけは、私が就職したことで養育費の支払いが終わったから。だからそのアパートを出て引っ越してきたのかも。

「俺は卒業して正式に青木さんのとこの社員になってから、近くに引っ越したんだ、今も住んでるとこだけどね。でも青木さんはそのまま。青木さんの部屋を仕事場専用にして、俺がいた隣の部屋を借りて、そっちに住むようになっただけ」

私が思いを巡らせている間も清水さんの話は続いていました。

「近くって、清水さん本山でしたよね。じゃあそのアパートも本山なんですか?」

「そだよ、正確には会社名になってる城山ってとこ」

「あ、城山って地名なんですね。じゃあそこでずっとやってたんですね」

「ずっとってわけじゃないよ、俺が社員になって二年くらいかな? 久保田さんが加わる時に青田設計になってここに来たから。さすがに六畳一間に三人は狭いでしょ」

「そうですね。じゃあ事務所をこっちに移したから青木さんも引っ越したんですか?」

何だか質問ばかりしてました。

「いやいや、事務所移したのは青田設計になった時だから十一年になるのかな? 青木さんが引っ越したのってまだ二、三年じゃない?」

「そうなんですか。なんで引っ越したんですか?」

この質問はちょっとドキドキしながらしました。でもよく考えたらドキドキする必要なかったんだけど。だって、清水さんは青木さんの娘のことを知らなかったんだから。

「老朽化でアパートが取り壊しになったから。まあ、俺が住んでる時からもう崩れてるようなとこだったからね。今は五階建てのマンションになってるよ」

 あとは、なんで今のところを、私と同じマンションを選んだのかが分かれば。あんな不便なところを選んだ理由が分かれば、と思っていました。そしてそれをどう聞こうかと考えていたら、

「げ~、梨沙ちゃん、話長いよ、もうこんな時間じゃん」

と、清水さんが慌て始めます。そして昨日の図面を四部コピーするように言われ、挙句に、午前中で終わるからと今日の調査に付き合わされることになりました。

 でも、車の中で最後の質問も出来ました。青田設計の事務所の並びにある株式会社コンショウ。いつもほぼ無人で、たまに四十歳くらいの女性が出入りしているのを見掛けるだけの、何をやっているか分からない会社。そこは不動産屋さんとのことでした。驚くべきことに、あのマンションの一階、二階のテナント部分すべての大家さんだと言うことです。つまり、青田設計の事務所の大家さんでもあるわけです。青木さんはそこに自分の引っ越し先を相談。そして今の住まいの大家さん、大橋建設さんをコンショウさんから紹介されたという経緯でした。

 結局はいろいろ知ることが出来たけれど、何一つ決定的なことは分かりませんでした。決定的なことを本当に知りたかったのかどうか、私にも分からなかったけれど、なんだか消化不良のまま、確信に近い思いだけが膨らみました。

 それでも翌週からは、清水さんから聞いて知ったいろんなこと、私の胸の中だけにしています。何一つ確かめていないし、あえて確かめるつもりもありません、今のままがいいから。確かめて、今の環境が、関係が、変わってしまうことの方が嫌だから。そう、私は今が幸せだから。




 午後十時ごろ、スマホの時計とにらめっこしていた朱美が、

「よし」

と言って再生ボタンを押しました。

「これで映画の中で新年になったらちょうど新年だから」

そしてそう言います。再生されたのは私が中学の頃の邦画。とあるホテルの大みそかの物語。そして今日は大みそかです。

「新年、そうだ、明けましておめでとうで明子だ」

毎年恒例の歌合戦番組から映画に変わることを渋っていた祖父が、朱美のセリフを受けて急にそう言いました。ちなみに祖母は、最近は知らない歌手ばかりだから見たくなかった、と言って、映画に賛成でした。あ、ここは私の母の実家、浜松の祖父母の家です。

 年末年始の予定を聞かれて浜松に行ってると言ったら、一緒に行くと言い出した朱美。すると、同い年の継母と一緒にいるのが嫌な真由も行くと言い出しました。正式にはまだ継母ではないですけどね。と言うわけで真由もいます。真由は中学時代の夏休みなんかに何度かここに来たことがあります。なので私の祖父母とも初対面ではありません。でも朱美は今回が初めて。なのに渋る祖父を強引に説き伏せて映画鑑賞にしてしまいました。

 で、さっきの祖父のセリフ、意味が分かりません。

「明子さん? それ誰?」

と、聞きました。

「わしの姉さんだ」

「おじいちゃんのお姉さんって修子さんじゃないの? だいぶ前に亡くなったよね」

「その上にもう一人いるんだよ、明子って姉さんが」

「そうなんだ、知らなかった」

と、返しましたが知ってました。そう言えば聞いたことがあるってレベルの話なので咄嗟に思い出せなかっただけ。だって、全くと言っていいほど話題にならない人のことだから。なので存在を知っていたってだけで、当然名前なんかは知りませんでした。

「もう何十年も付き合いがないからなぁ」

祖父がそう言うと、祖母が口を開きました。

「この前急に思い出したみたいで、おい、あの姉さん、名前なんだった? って私に聞くのよ。そんな何十年も前に一度会ったかどうかってくらいの人、私が覚えてるわけないでしょ? なのに自分が覚えてないこと棚に上げて、おじいちゃん機嫌悪くなっちゃって困ったんだから」

祖母のそのセリフに、祖父はいらんこと言うなって顔を向けます。

「で、新年あけましておめでとう、で、思い出したんだ?」

と、機嫌の悪くなりそうな祖父に話を戻しました。

「元日生まれだから明子になったって聞いたからな」

祖父が表情を戻して私にそう言います。

「へ~、面白い名前の付け方だね」

私がそう言うと今度は真由が話に加わります。

「私のおばあちゃん、じゃなくて、ひいばあちゃんだけど、おんなじだよ。元日かどうかは知らないけど、お正月に生まれたから明子になったって」

「ふ~ん、昔ってそういう名前の付け方してたんだ」

「そんなことないわよ、ちゃんと、こういう子になりますようにって考えて名付けてるところも沢山あるわよ。そう言うところもあるってだけ。ただ、嫁に行っちゃう女の子の名前はあんまり考えないとこも結構あったかもね。私の母なんて寅年生まれだからって、トラだったから」

「女の子でトラはちょっと嫌だな」

「母も嫌だったみたいで、とら江って名乗ってたわ」

私と祖母のそんな会話に朱美が加わりました。

「うちのおばあちゃん、長子って言うんだけど、九月生まれだからみたいよ」

「長月生まれで長子さんなんだ」

「そ、だから私も梨沙も、生まれる時代が違ったら、長子になってたかもね」

「そっか、そだね」

朱美が話に加わってから祖父の顔が不機嫌になりました。映画を見ないのか、とでも言いたいのかな。そんな祖父の顔色を見てか、祖母も浮かない顔になりました。なので祖父に話を振ります。

「ねえ、おじいちゃん、なんでお姉さんとそんな何十年も付き合いがないの?」

「うん? どこにいるか分からんし、連絡もないからな」

「なんで?」

「うーん、五十くらいの頃だったと思うからもう二十何年も前、そうだ、お前が産まれる何年か前だ、明子姉さんの旦那さんが亡くなったんだ。それから一年かそこらで年賀状が戻ってくるようになって、それ以来分からん。向こうからは親父が亡くなってから年賀状なんてこんかったしな」

「そうなんだ。でもおじいちゃん、お姉さんの名前忘れちゃう?」

「いや、ほとんど一緒に暮らしたことないんだからしょうがないだろ。ほんとに子供の頃、遊んでもらったかな、くらいしか記憶にないんだよ」

「え、なんで?」

真由が質問。

「明子姉さんはわしが生まれた年に嫁いでいったんだよ」

「そんなに年の離れたお姉さんだったんですか?」

今度は朱美。

「十六上だったかな? だから十六で嫁いでいったんだ」

「すごい、そんな年でお嫁に行ったんだ」

「まあ、あの頃はみんな早かったけど、それでも十六は早かったかな。修子姉さんは戦争中って言うのもあったけど、確か嫁いでいったのは二十歳過ぎてたしな」

祖父がそう言った後、朱美が祖父にまた質問。

「その頃は十六も違う兄弟って珍しくなかったんですか?」

「そりゃそれなりにおったけど、うちは母親が違ったから。わしは親父の後妻の子やからな。前妻との最初の子、わしの一番上の兄貴になる人は二十四上やったかな? わしが産まれる前に戦死しとるから写真でしか知らんけどな。あそこの左側の人や」

祖父はそう言うと、みんなで話している居間と続く仏間の長押の上に並ぶ写真の一つを指します。そこには軍服姿の若い男性の写真が二枚ありました。私は小さい時から何度も見ている写真です。そして誰が誰かも分かっています、と言っても、名前までは憶えてないけれど。

 一番左が祖父のお父さん、私の曾祖父です。私が産まれる前に亡くなっているので会ったことはありません。その横にまだ若い女性の写真が二枚。曾祖父の最初の奥さんと次の奥さんです。そう、お二人とも若くして亡くなられているんです。最初の奥さんは四人目の出産のときに、次の奥さんは戦後に火事で亡くなったと聞いています。そしてその横に先ほどの若い男性の写真が二枚。曾祖父の長男と次男です。そして一番右にあるのがさっきから話に出ている修子さん。曾祖父の最初の奥さんの最後の子供です。この修子さんを産んだ時に何かあって亡くなったそうです。修子さんの写真はおばあさんの顔です。修子さんには子供が出来ず、旦那さんが亡くなってからはこの家に帰って来て、離れに住んでいました。なので私も会ったことがあるし、覚えてもいます。修子さんが亡くなったのは私が小学校の三年生の時だったかな? 八十歳だったはず。


「その横の方もお兄さんですか?」

軍服姿のもう一つの写真を指して朱美がそう言います。

「そうだよ、その人が亡くなったのは終戦の年だから、わしとは会ってると思うんだけど、わしはまだ小さい時やったから記憶にない」

「やっぱり戦争で?」

と、真由。すると祖父は、一旦テレビの方に向き直っていたのを本格的に仏間の方に体の向きを変えて写真を見上げます。でもその視線はお兄さんの写真ではなく、修子さんの写真に向いているようでした。

「そうや、戦争で死んだ。だから生き残った明子姉さんがまだ生きとるなら、死ぬまでにもう一回会えんかなって」

「その明子さん、生きてたらおいくつなんですか?」

朱美が祖父に並んで仏間の写真を見上げながらそう聞きます。

「わしの十六上やから、九十三か」

「九十三ならまだ生きてるかも知れないですね」

「うん、生きとると思うんやけどな。いくら何でも死んだら向こうの家族から何か知らせてくるはずや、わしらはずっとここに住んどるんやから、向こうはこっちの住所は知っとるからな」

朱美の言葉に祖父がそう応えます。すると真由も何か言いかけました、でも先に私がこう言ってしまいます。

「え、おじいちゃん、今年七十七だったの? 喜寿?」

「そうや、盛大にお祝いしてくれたやろ、忘れたんか?」

いやいや、忘れたんかって、忘れてたんだからお祝いしたわけないじゃん。

「ごめん、忘れてた」

「まあ、お前は忙しいやろうから連絡せんでええって、わしが言うたんやからええけどな」

「ほんとにごめん、次は八十? 傘寿だったっけ? 必ずお祝いするから」

 その後も祖父を中心にずっと話していて、結局誰も映画を見ていませんでした。祖母が一人静かに台所へ行き、年越しそばを作っていたのにも気づかないほどに話し込んでいました。


 新年となった翌日は、同じ浜松市内に住む益男おじさん(母の弟)の家族が来て、朝からずっと宴会でした。そのおじさんの娘、三つ下のいとこの美佐も来ました。去年就職して名古屋に住んでいると言うので連絡先を交換。これからは名古屋でも会えます。

 夕方、朱美、真由に美佐も加えた四人で、近くの神社に初詣に行きました。祖父母の家の前は旧東海道。それを南に渡ってから、西に向かって歩きます。渡って、なんて言うのは大げさだけど、今ではセンターラインもない、路地って言っていいくらいの道だから。

 お参りしてから参道の出店でベビーカステラを買って、それを四人で食べながらさらに西へ。始めて来た朱美に浜名湖を見せようと思って舞坂の渡し跡まで来ました。そう、祖父母の家は浜松市の西の端、昔の舞坂宿のはずれにあります。

 舞坂漁港の岸壁から、わずかにさざ波が立っているだけの静かな湖面を見ます。左手には高架になっている国道1号線のバイパスが見えます。その高架の橋脚と橋脚の間の一か所には陸地がありません。そこを指さして、

「あの向こうは太平洋だよ」

と、朱美に教えました。すると、

「見に行きたい」

と言い出す朱美。歩いて行ってもすぐだから行っても良かったんだけど、私は却下、寒かったから。湖面もバイパスの向こうに見える太平洋も穏やかだけど、風はとにかく冷たかったのです。

「こっから見えてるからいいじゃん」

「ええ、せっかくだから行きたい」

「今から行ってもすぐに暗くなるから見えないよ」

実際もう暗くなり始めていました。

「うう」

まだ行きたそうな朱美に、

「明日帰る時、あのバイパスで田原の方に抜けて帰ろ。私が運転するから、車の中からゆっくり見なよ」

と言いました。来るときは東名高速の三ケ日インターから来ました。でも国道1号線のバイパスで田原、豊橋まで行ってから、そのまま国道23号線のバイパスに入って蒲郡へ。そのあと蒲郡市街を過ぎる辺りまでは一般道ですが、それからは名古屋までまたずっと23号線のバイパスを走れます。ほとんど高速道路のような快適な道。高速道路と違ってお金も掛からないし。

「わかった、じゃあそうしよっか」

話している間にも一層暗くなってきたのもあって、朱美も納得してくれました。


 翌日の一月二日、お昼を食べてから祖父母の家を出ました。平成最後のお正月は、祖父母と親戚一家と、そして朱美、真由と一緒に楽しく過ごしました。本当は祖父母から私の父のことを何か聞こうかと思っていました。その口実としての年末年始の帰省でした。

 おそらく母が口止めしているのでしょう、祖父母もこれまで私の父のことについては何も話してくれませんでした。でも例えば、私のお父さんってゼネコンにいたんだよね、なんて言ってみたら反応するはず、とか考えていました。

 青木さんの周りの人に聞き込みをして確認するのはやめました。それで事実が分かった場合、私の胸の中だけにはしておけず、周りの人にも発覚してしまうかも知れないから。そうなったらあの場所でそれからどうしたらいいか分からなくなりそうだから。なので青木さんの周りではないところで分かることを知りたかったのだけど、二人が一緒だったので出来ませんでした。でも別にどうでもいいことです、二人と一緒に祖父母の家で過ごした年末年始がとても楽しかったから。そんな気持ちで朱美の車のハンドルを握って帰りました。




 一月七日 月曜日、新年最初の出勤日、仕事始めです。隣に住んでいるのに、青木さんと顔を会すのは会社でが最初になりました。別に避けていたわけではないですよ、偶然です。

 なんだか新鮮でした。社会人になってから年末年始を休んで、ちゃんと新年のスタートとして始めるのが初めてのことだったから。思えば今まで元日は一度も休みではなかったです。失業中の去年ですら、パチンコ店の中でコーヒーを運んでいたし。

 でも、のんびり新年モードは朝だけでした。現場は四日の金曜日から始まっているところがほとんど。週明けの今日はもう通常業務日です。すぐに各々年始挨拶に出発します。青木さんと久保田さんは設計事務所やゼネコンさんに同行で出掛けて行きました。清水さんと私は別々に各々の客先や現場へ。

 そして二日目からはもう通常業務です。私は取っ掛かりから急ピッチで進めている杉浦邸で決めて頂かないといけないことが山積み。それに広瀬邸でも同様のことが起こっています。こちらはご夫婦の意見が合わずに決まってこないものが溜まり始めています。加えて現場での施工手順の不徹底で不協和音が年末から聞こえ始めているし。いろいろと施工箇所が重なり始めて、現場監督の山田さんが早くもパニクリ始めているようです。佳境になるのはこれからなのに大丈夫なのかな。


 お施主様と内装などの打ち合わせをするようになって思うことがあります。青田設計には手の足らない分野がある。それは図面の3Dモデルの作成。室内空間のイメージを3Dモデルで作成して、家の中を歩くように画面で見せる。その方が、お施主様がイメージしやすくて内装の打ち合わせがしやすいと思います。床や壁の色などもその場で変えて見せたりしたら、決めて頂くのも早くなりそうです。

 青田設計でそれが出来るのは清水さんだけです。でも清水さんも自分の仕事が忙しいのでなかなか頼めません。ハウスアートの設計にはそれが出来るスタッフがいるようですが、あそこはそもそも設計が人手不足。すべて自社設計にしたいと言う会社の思惑に反して、実際は三割程度しかこなせていないところ。そんなところに頼めるわけありません。ま、おかげで青田設計に仕事が頂けているんだけどね。

 なのでこれは私の課題かも。私がCADを使いこなせるようになって、それをやれば済む話だから。


 岐阜県の飛騨地方だけではなく、岐阜市辺りにまで大雪注意報が出ている今日、一月二十二日の火曜日。テレビのニュースでは岐阜市から関ケ原方面は積雪で既に大混乱の様子。三重県でも北部、中部はかなりの積雪のようです。冬場はよく見るニュースではあるけれど大変そうです。

 名古屋市内も朝は数センチの積雪がありました。出勤の時に私は初めて雪道を運転。十二月にも一度雪が降りましたが、その時は名古屋市内は積もらなかったから。会社の車は冬用タイヤに履き替えてあります。でも、ブレーキペダルにアンチロックの振動を初めて感じて怖くなりました。

 日が出てから名古屋市内はずっと晴れていたので、午後からの路面はもうほとんど乾いていました。そんな中を私は広瀬邸の現場に向かいました、内装工事の進み具合を見るために。

 現場は内装工事が始まると佳境です。いろんな業者が同時に作業するから。故に、現場には作業員の車が増えます。現場内に停めきれず、路上に停める人が出てくるくらい。この現場ではすでに一度、周辺住民から路上駐車への苦情が来ていました。なので私は近くのコインパーキングへ。と言っても、住宅地なので最寄り駅の周辺まで行かないとコインパーキングはありません。二十分ほど雪の残る歩道を歩いて現場に着きました。

 二十分歩いたのに体は冷えてしまいました。雪解け水が染みた靴の中でつま先は痛いほど冷たかったです。でも現場に来てみると、玄関の中は熱かったです。

 各業者の担当者か職長かって人が三人ほど、玄関から入ってすぐのところで現場監督の山田さんを囲んでいました。

「今日、昼から始めて今日中に終わらせてくれって言いましたよね、だから人数集めて来たのにやれないじゃないですか。どうなってるんですか」

どこかの業者の若い担当者が山田さんにそう言ってます。

「いや、屋根のパネルはやれるでしょ」

山田さんの返答。

「やれるどころかもう一時間も掛かんないで終わりますよ、六人も来てるんですから。で、後は何がやれるんですか? 大体、うちのケーブルはどこ通ってるんですか?」

「いや、だからそれは今ボード屋さんにボード剥がして探すように頼んだから」

するとボード屋さんの職長が口を開きます。

「頼んだじゃねえよ、どこを剥がせばいいのか指示してくれって言ってるだろ」

「いや、どこって……」

「捨て貼りまではほとんど終わってるんだぞ、手あたり次第全部剥がせってのか?」

「いや……」

「ちょっとよう、一気にやってくれとかって言っといて、待てとか戻せが多すぎるんちやうか?」

ボード屋さんがイラついた口調で噛みつき始めました。

「ほんとですよ、早くやれって言うんならやれるようにしとくのがそっちの仕事でしょ、どうなってんですか」

私は玄関の外、山田さんの後ろ側で聞いていましたが、そこから話に加わることにしました。多分、ケーブルはどこだ、と言っているのはソーラー発電の業者さん。そのケーブルの行方を私は知っていたので。

「あの、ミライシステムさんですか?」

玄関から入ってソーラー発電の業者の方と思われる男性に声を掛けました。

「ああ? それが?」

男性がそう返します。同時に、山田さんを含めたその場にいる人が私を見ます。なので各々に会釈しながら、

「青田設計です、先週、準備工事に見えた方は今日来られてないんですか?」

ソーラー屋さんに尋ねました。

「ああ、あの人はあの日たまたま来ただけでこの現場の担当じゃないんで」

「そうですか、で、その方から何もお聞きになってないんですか?」

「えっ、何を?」

「今おっしゃってたケーブルのことです」

「聞いてないよ」

「そうですか、私、準備工事の当日、現場にいたものですからその時の方と打合せさせてもらいましたよ。そしてその翌日、現場見に来た時に打ち合わせ通り施工されてるのも確認しましたけど。引き込み口の下準備とか、ジョイントボックスだったかな? それも取り付けてありましたよ」

「そうすか、それどこ? あっ、それと、操作盤とか制御盤の所も通線してた?」

私よりちょっと年上くらいの若い担当者が、明らかに自分の会社内での連絡不足を棚に上げて、現場責任者である山田さんに噛みついているのに少し腹が立って話に混ざりました。が、私への口の利き方にも本格的に腹が立ってきました。口の利かれ方に腹が立った、なんてことを思っていいような立場の私ではありませんが、腹が立ったんだからしょうがないです。大体、現場に先のとがった靴履いてくるなっての、ここは錦三じゃないっての(名古屋の繁華街の地名)。もちろんそう言うことをはっきり言わない山田さんにも怒ってました。言わないどころか、ボード剥がして探せなんて、何考えてるのって言っちゃいそうです。そんなことを思いながら意地悪に答えました。

「あの、私、おたくの部下でも何でもないんですけど、私が答えないといけないんですか?」

「はあ? だって教えてもらわないと仕事出来ないでしょ」

こっちが悪いような言い方をしてくる、ほんとにむかつく。

「準備工事に見えた方とちゃんと打ち合わせして来ないのがいけないんじゃないですか? その方に電話して聞いてください」

それだけ言って山田さんの方を向きました。ソーラー屋さんの担当者は、私を睨んでから数歩離れてスマホを操作し始めます。

「ちゃんと打ち合わせしたんですからそう言えばいいじゃないですか」

「そ、そうだった? ……よね」

私の投げ掛けにそう言う反応を返して来る山田さん。まさか覚えてないってことないよね、一緒にいたんだから。

「そうですよ、で、その時いらしてた方から、引き込み口のジョイントボックスの所は天井に点検口付けといてください、とかって言われたじゃないですか」

「あ、ああ、点検口……、そうだったね、そうだ」

良かった、覚えてた、と、思ったら、

「それどこや? 点検口増えたか?」

と、ボード屋さんが聞いてきます。天井もこの方がやっているのでしょう。

「えっ、ああ、それは……」

また思い出せない様子の山田さん。なので私が答えました、そっちの方を指さしながら。

「この上の部屋の、北西の角のあたりです」

「ええ? この上の部屋に点検口なんか付けてないぞ」

そう言ったボード屋さんと二人して山田さんを見ました。

「あ、いや、追加。すぐ手配して、点検口なんてすぐ入るでしょ?」

うそ、山田さん、ほんとに忘れてたんだ。

「いや、追加? まあ、物はええとしても、この上なんてもうクロス貼るばっかで終わっとるぞ。それ剥がすんか?」

「まあ、申し訳ないけどしょうがないから」

「しょうがないって、しゃあないなぁ。でも点検口付けるってことは下地も組み直さないかんのやろ。俺、明日までは来れるけど、そのあとはしばらく他の現場行かないかんからすぐにはやれんぞ」

「そう言わんと最優先で」

「最優先にも限度があるって」

ボード屋さんがそう言ったところで新たに一人やってきました。

「尾張産業です。山田さん、ブロック持ってきましたけど、どこに降ろしたらいいですか?」

そしてそう言います。

「え? 搬入、今日だった?」

そう言われたブロック屋さんは胸ポケットから折りたたんだ紙を出し広げます。メールをプリントしたもののようでした。

「えーと、十五日のメールで、二十二日のお昼以降で百二十個ってなってますけど」

そしてそう読み上げます。するとその後ろから六十くらいの男性が口を挟みます。

「ブロックって裏のやつか? 土間(のコンクリート)打ち伸ばしたんやからまだまだ後やろ。そんなん邪魔やからいらんぞ。それより、明日からの砂積んだトラックがそろそろ来るぞ、現場ん中の車どかしてくれ」

その方は左官屋さんでした。

「えっと、ちょっと待ってくださいよ。尾張産業さん、申し訳ない、ブロック、来週か再来週頭くらいになると思うんで持って帰ってください」

「いや~、このあとこのまま物を積みに行く予定なんで、降ろさせてもらわないと困りますよ」

「そう言われても降ろす場所ないから頼みます」

「まいったなぁ、ちょっと聞いてみます」

ブロック屋さんが少し離れて電話を掛け始めます。

「車は縦二台の所が空けばいいですか?」

山田さんが今度は左官屋さんにそう聞きます。

「いや、トラック入れるとき邪魔やからその横も空けて欲しいな。あれはあんたの車やろ」

「分かりました、すみません」

「邪魔になるの分かってて監督のあんたがなんで乗り入れてるんや」

左官屋さんはそう言うと出て行きました。そこに話を聞いていたと思われる職人さんがまた一人寄ってきました。

「車、出さないかんの? トラック出たらまた入れてええか?」

そして山田さんにそう言います。そこへさっきのソーラー屋さんも、

「縦二台の所ってうちの車もすか?」

そう言ってきます。

「そうですね、でも、砂降ろすと一台分潰れるんでどっか停めてきて欲しいなぁ」

山田さんがそう返します。

「どっかって路駐せえってことか? 駐禁取られたらどうするんや」

「いや、駅の方まで行ったらパーキングありますから」

「駅って、あんなとこから歩いて来いって言うんか」

「しょうがないじゃないですか、そんな現場いくらでもあるでしょ」

山田さんの声に少しイラつきが混ざってきました。そこへまた、

「お世話になります、中西商店です。フローリング材持ってきたんですけど、どこに入れます? って言うか、トラックどうしたらいいですか? 今停めれそうにないんでちょっと離れたとこに停めて来たんですけど、目の前空けてもらえます?」

明らかに山田さんの表情が変わりました、不機嫌顔に。

「いや、今日搬入だった?」

「ええ、作業は明日からですけど、明日はコンクリやるから朝の搬入は無理ってことでしたよね」

「ああ、それ、ちょっと伸びるから持って帰って、昨日床暖屋がやれなかったんだよ、だからフローリングはもうちょっと先になるから」

「ええ、マジっすか? いつ頃になります? うちの職人もちょっと手いっぱいになって来てるんで」

そう言うフローリング屋さんは私のすぐ横に来ていました。なので手に持っていた納品書が見えました。その記載を見て、私は話に割り込みます。

「ちょっと待ってください、これ、ホワイトオークってなってますけど、ホワイトオーク使うところなくなりましたよね」

山田さんにそう投げ掛けました。もともとLDKだけフローリングがホワイトオークでした。でも年末ころの打ち合わせで全箇所ナチュラルオークになっていました。当然山田さんにも伝達済みです、書類でも、図面でも。山田さんの表情がなくなりました。

「そ、そうだ、それ変更になってる、全部おんなじ茶色いのになってるからそれに替えて」

そしてフローリング屋さんにそう言います、

「替えてって、もう物来ちゃってるんですよ。変更って言っても追加になっちゃいますよ」

「分かってる」

「じゃあ帰ってすぐに見積り作るんで、すぐに注文書下さい、そしたらすぐに手配して段取りしますから」

「いや、手配はすぐにして」

「いやダメです、山田さんそう言って最後にお金ちゃんと払ってくれないじゃないですか、これだけしかないとか言って」

「いや……」

山田さんの顔がまた不機嫌なものになって行きます。周りからは口々に、

「で、点検口はいつまで待てるんや」

「車はどうすりゃええんや」

「やっぱり降ろさせてもらわないと困ります」

そんな声が。でも山田さんは顔つきが怖くなるだけで何も言いません。すると、

「おい、ハッキリ段取り決めてくれよ」

「どうしたらいいんですか」

「やってられんな」

などなどの声が出てきます。そしてそんな声がしばらく続いた後、私は思わず二歩下がりました。

「俺がやれって言ってんだからやれよ! 監督は俺だぞ」

と、山田さんが怒鳴ったから。

 しばしの沈黙の後、ボード屋さんが口を開きます。

「だったら全員にきっちり段取りを説明してくれよ」

「今言ったやろ、言われた通りやれよ」

「いや、やれんって言うことも言っとるやろ」

「だからやれんってなんなんや、俺がやれってことがやれんのなら出てけ、下請けなんてなんぼでもおるんや」

全員が無言で山田さんを睨みます。山田さんが壊れました。

「おい、車、はよ動かしてくれ、トラック来たぞ」

外から左官屋さんの大きな声が聞こえてきました。その声で山田さんが動きました。外に向かって歩き出し、自分の車に乗り込みます。その時、現場の前に近隣の方だと思われるご婦人二人が来ていて、山田さんに軽く会釈して話し掛けようとしていたようだけど、気付かなかったかのように無視して車で走り去ってしまいました。

 そのあと、邪魔だと言われた車の方は車を移動させ始めました。私は現場の前に立ったままのご婦人方に近付きました。山田さんは車を移動させたのでしょうけど、駅の方のパーキングまで行ったとしたらしばらく戻らないと思ったので。

「あの、山田さんに何か御用でした?」

そう声を掛けました。するとご婦人方の用は路上駐車に対するクレームでした。丁寧に謝るしかありませんでした。そして現場内の職人さんたちに声を掛けて回り、全員パーキングに停めに行ってもらいました。仕事にならん、とかって噛みついてくる人もいて怖かったけれど、今後現場には乗り入れないようにとお願いもして回りました。コンクリートブロックを積んできた方と、フローリング材を積んできた方には、深く頭を下げて持ち帰ってもらいました。そして、一時間経っても山田さんは戻って来ず、電話もつながりません。

 このまま現場を離れるわけにもいかず、とりあえず青木さんに電話して状況を説明。青木さんからは、各所に連絡とるからそのままそこにいて、と言われました。

 とりあえず各業者の方々は不満顔ながら、やれることを探して作業を再開してくれました。なので私は付近を散策。散策と言ってもただ散歩したわけではありませんよ。


 現場では、現場周辺で駐車場を借りていることが結構あります。ゼネコンによってはコインパーキングが付近にあっても、ちゃんと作業員用に駐車場を借りるところもあります。私はそう言う借りれるところが付近にないか探そうと思いました。ま、ああいう現場の状況なので、既に山田さんが探したでしょうから無駄だとは思いましたが。

 現場の一本裏の道に月極駐車場がありました。砂利敷きの地面をロープで区切った駐車場で、二十台以上のスペースがありました。そして入り口横の看板には、『空きあり〼』の文字。看板の電話番号に掛けてみました。すると四台も空きがあると言います。三月末までの短期間でもお借りできるか尋ねると、月額五千円で、全額先払いなら貸してくれると言ってくれました。お借りするかも知れないのでそうなったらまた電話します、と言って切りました。

 搬入車両などのことを考えても、現状なら現場に二台は停められると思います。そしてすぐ近くで四台停められればほとんど問題ないはず。私達や監督さんのように、基本的に持って運べる程度の荷物しかない人はコインパーキングまで行けばいいんだから。それに一台五千円で四台、月に二万円、そんなに負担でもないはず。

 山田さんはなんで借りなかったんだろう? 直線で数十メートル、歩く距離でも百メートルちょっとくらいの近くにあったのに探しもしなかったのかな? クレーム来てたのに。そんな風に思いながら、これも青木さんにすぐ報告しました。青木さんもすぐに借りるべきだとの判断ですが、あくまで現場をやっているのは鈴木木材さん。鈴木木材さんの経費になることなので鈴木木材さんで判断してもらうしかないとのことでした。

 現場に戻ると、皆さん三時の休憩に入っていました。現場の建物前に出て来て缶コーヒーなんかを飲みながら煙草をふかし、いくつかのグループでおしゃべりしています。山田さんの悪口が結構聞こえてくる。

 そんなところにさっきとはまた違うご婦人がやってきました。

「ちょっと、山田さん呼んでください」

そして近くにいた作業員にそう声を掛けています。

「今はいませんよ」

と、作業員が返事している傍へ行きました。

「あの、山田さんに何か御用ですか?」

そして話し掛けました。

「あなたは誰?」

ご婦人が私にそう聞いてきます。顔つきを見ているとクレームっぽいからあんまり名乗りたくないんだけど、聞かれた以上答えるしかありません。

「この現場の設計をさせて頂いている青田設計と申します」

ま、ヘルメット被ってる時点で、会社名も名前も知られちゃうんだけど。

「そう、じゃあ、あなたでもいいわ」

そう言ってご婦人が私の方を向きます。そして、近くにいた作業員さんたちがコソコソと離れて行きます。

「前から何度も山田さんに言ってることなんだけど、タバコ、何とかならないの? 禁煙にしなさいよ。それかどうしてもって言うんなら、もう家が出来てるんだから煙が外に出ないように家の中で吸わせなさいよ」

確かに私もさっき良くないなとは思いました。現場の前に思い思いに広がってほとんど全員がタバコをふかしている。見ていていい景色ではありませんでした。最近では、現場敷地内や現場周辺での禁煙を徹底している現場もかなりあります。現場どころか、会社方針として全ての現場で禁止しているゼネコンさんも出始めている様子。青田設計で関わるところだと協建コーポーレーションさんなんかがそうです。協建さんは現場内だと車の中でも禁止しているので、たばこの吸いたい作業員さんは現場内に車を停められるのに外のコインパーキングに停めたりして、そこで吸っています。

 そう考えるとこのご婦人の言うことはごもっともとも思います。でもそれは鈴木木材さんが決めること、私から強制出来る事ではありません。それに建築中の建物の中でって言うのは、品質に関わることなので絶対にNG。仮に鈴木木材さんが許可しても、青田設計として禁止します、強制してでも。

「すみません、禁煙に、と言うのは対応しかねるかと思いますけど、喫煙場所についてはすぐに何か考えますので」

なのでこんな風にしか答えられませんでした。

「お願いしますよ。それと、この話声、何とかならないの? これも前から言ってるんだけど、うち、隣だからよく聞こえるのよ。男の人が大勢で話してる声って、家に一人でいるときに聞こえてくると怖いのよ。分からない?」

「すみません、それも注意するようにしますので」

「ほんとにお願いしますよ」

ご婦人はそう言うと帰って行きました。近隣トラブルは絶対にダメ、遠藤さんに以前言われたこと。現場が建築中に近隣と揉めると、その後そこに住むお施主様がいきなり嫌われ者になってしまうからと。ま、それは当然そうだと思います。それに今のご婦人の言ってきたことは、そんなに非常識なことでもありません。現場として気遣いすべき範囲のこと。


 なんで私が、って、全く気乗りしませんが、まだ休憩中で談笑している作業員さんたちの所を回りました。

「すみません、ご近所迷惑になるんで話声を抑えてもらえませんか?」

そしてそう声を掛けていきます。するとこういう反応の人も。

「無言で仕事しろって言うんか?」

「いえ、迷惑にならないように大きい声はやめてくださいってお願いしてるんですよ」

「なんでそんな気ぃ遣わないかんねん。そんなことしとったら仕事にならんぞ」

「そう言わないでくださいよ」

「あのなあ、気持ちよく仕事させろよ。ここは現場やぞ、うるさいのは当たり前やろ」

「いえ、作業上出ちゃう音はある程度しょうがないんでいいですよ、でも声は関係ないですよね、特に休憩中とかの作業に関係ない話声は」

「その休憩中の会話で気分よく仕事できるんやろ」

うう、この人の方が厄介なクレーマーだ。

「分かります。でもそれは周りに迷惑掛けない範囲でお願いしますよ。これは工事現場だからとかではなくて一般常識ですから」

「一般常識ってか、俺には常識がないって言うんか」

立ち上がって目の前に来られちゃいました。四十歳くらいだと思われるゴツイ男性。その怒った顔を見上げて言いました。

「そんなこと言ってませんよ。それに常識があるなら周りの迷惑にならないようにって気を遣ってくださいよ」

ポロシャツの襟元を掴まれました。いわゆる胸倉を掴み上げるってやつ?

「お前さっきから何様なんや、若い女は何言うても許されるとか思ってるんちゃうやろな」

そしてそう凄まれます。

「い、いえ、そんな……」

正直言って怖かったです。もう帰りたい、二度と来たくない、そんな気になりました、またまたですが、なんで私が、とも。

「ここの監督からは今までそんなこと言われたことないぞ。それをなんで今更お前が言うんや」

ちょっとぉ、ポロシャツが伸びちゃうよぉ、いい加減手を放してくださいよぉ、と、心の中の叫び。つま先立ちでふくらはぎが辛いし。そして山田さん、さっきのお隣さん、今までにも苦情を言ったと言っていたけど、なのに作業員さんたちに注意もしなかったの? って、怒りも芽生えていました。

「大体ギャアギャア言っとんのは隣のババアやろ、そんなもんほっとけ」

この人、苦情が来てるの知っててやってるんだ、最低。

「そう言うこと大きな声で言わないでください。それに、嫌がってる人がいるの分かってて、嫌がることするのやめてください」

腹が立ってました。でも、まだ冷静な口調でそう言いました、多分。

「お前、まだそんな生意気なこと言ううか。俺らはしゃべるなって言われて気分悪いんや、それはどうしてくれるんや、嫌がってるんやぞ」

「しゃ、しゃべるななんて言ってないじゃないですか。め、め、迷惑になるような大きな声で話さないでって、い、言ってるだけです」

「なんや? お前震えてんか、ビビってんか」

にやついた顔でそう言われました。そう、確かに震えてました。でもビビッて、とかじゃない、怒っていたから。

 私は体を後ろに下げてその人の手から逃れました。ポロシャツのどこかで変な音がした。そして二歩目で躓いて尻もちをつきました。でも立ち上がれない、その人が前に進み出て、私が立ち上がるスペースに立ちはだかったから。

「おら、どうした? 泣いてもええぞ」

こんな知能の低そうなセリフを言う人がほんとにいるんだ、なんて思ってる余裕はありませんでした。

「あなた、どこの会社の人ですか、名前教えてください」

見上げてそう言いました。その人のヘルメットには会社名も名前も入っておらず分からなかったから。

「あなた? お前俺のヨメか、俺のヨメになりたいんか」

面白い、面白いけど冗談やめて、絶対にお断り。その人がさらに前に足を運びます。もう私の足を押して来る感じ。

「ヨメになりたいんなら一発やったろか」

そしてそう言い出す、ほんとに頭悪そう、いい加減にして。でももう何言ってもそっちの話にされそうだし、逃げ場もないし、どうしよう。

「浜田さん、鈴木木材の源さんや」

私の後ろからそう言いながら近づく人がいました。振り返る余裕はありませんでしたが、声はさっきの左官屋さんだと分かりました。

「なんやそれ」

浜田と呼ばれたその人が私の後ろに視線を向けてそう言います。

『浜田さん、源です。お久しぶりですねぇ』

その声を聞いて後ろを見上げました。左官屋さんが手に持ったスマホを浜田さんの方に向けています。鈴木木材の源と言う人に電話を掛けてスピーカーにしている、と思ったら、スマホの画面に源さんだと思われる男性の姿がありました。テレビ電話だったんだ。ひょっとして今の私と浜田さんのやり取りをテレビ電話で源さんに見せてた? て言うか、この左官屋さん、還暦ぐらいの年に見えるんだけど、こういう使い方が出来るんだ、と、少し驚いてもいました。

「あ、源さん、ご無沙汰してます」

なんか急におとなしくなった浜田さん。私からも一歩下がります。

『いえいえ、ところで、その現場気に入らないみたいですねぇ。いいですよ、お帰りになって、気に入らない現場やる必要ないでしょ』

「いや、そんなことないですよ」

そう言いながら後ろを一瞬振り返ります。後ろには浜田さんの手元だと思われる私より若い、二十歳前後くらいに見える職人さんが二人いました。一人はずっと無表情でした。もう一人はさっきまでにやついた顔で私を見ていたけれど、今は同じく無表情。

『そうですか? 今のやり取り聞いてましたよ』

「いや、今のは、さっきから車移動させろとか、もうここに停めるなとか、この女が監督でもないのに偉そうに指図してくるから注意してたんですよ」

『いじめてるようにしか見えなかったけどね』

「それは、俺なりの注意の仕方って言うか……」

『注意ねえ、どっちにしろうちの現場でああいう言葉遣いはダメですよ。うちのイメージが悪くなるでしょ』

「すみません、これから気を付けます」

『気を付けますって、もう無理でしょ。それ言うの何度目ですか、浜田さん』

「いえ、最初に付いた親方がこういう人だったんで抜けないんですよ。ほんとにこれから気を付けますから」

『その方がいいでしょうねぇ、そう言う昭和的な職人さんの雰囲気、僕は嫌いじゃないですけど、もう時代遅れですからね。昭和から平成になって三十年、その平成も今年が最後で、五月から新しい時代になるんですよ。もう通用しませんよ』

私は源さんのその言葉を聞きながらやっと立ち上がりました。お尻の冷たさが気になります。触って確かめようと、空いていた右手を見ると泥だらけでした。足元を見ると現場前の駐車スペースに敷かれた鉄板の上は、雪解けの土を含んだ水で濡れています。そしてそこに私が尻もちをついた後が残っている。左肩に下げていたトートバックを見ると泥がついて濡れています。お尻もこの状態なんだ。冷たく感じているのは濡れているせい、多分下着まで染みている、やだなぁ。

「はい、ほんとにすみません、気を付けます」

二人の会話はまだ続いていました。

『うん、気を付けてください。他の現場で』

「え?」

『浜田さん、何年前だったか、最後にお会いした現場で言いましたよね、僕の現場では今後出入り禁止だって。その現場、急遽僕も関わることになりましたから、今から出入り禁止です。おたくの社長さんにもこのあと電話しておきますから』

「いや、勘弁してくださいよ」

『勘弁できればしたいですけど、何年経っても変わってないじゃないですか。いい加減気付かないと、行く現場なくなっちゃいますよ、浜田さん』

「……なんやそれ」

『僕、もうそろそろ会社出てそっちに行きますから、どうだろ、一時間以内くらいかな。なんならその時に顔合わせて話しましょう、では』

それで通話は切れたようでした。左官屋さんはそれを確認したら自分の作業場所へ黙って行ってしまいます。

 私は動けずそのまま立っていました、浜田さんと向き合った格好で。最後に俯いていた浜田さんが顔を上げると目が合いました。表情がありませんでした。でもすぐに怖い顔になり睨んできます。そして、

「あほらし」

と言うと振り返り、後ろの二人に声を掛けます。一人には車を取ってくるように言い、もう一人には道具を回収するように指示して、一緒に現場の裏に行ってしまいました。

 その姿を目で追っていたら、

「拭いてやってもええんやけど、俺が拭いたら事件になりそうやからな。ほら、これ」

と、後ろから声を掛けられました。振り返ると左官屋さんがタオルを差し出して立っていました。

「いえ、いいですよ、タオル汚しちゃうんで。それに自分の持ってますから」

私はそう言いながらトートバックからタオルを出します。

「別に泥くらい洗ったらしまいやから良かったのに」

自分のタオルでお尻を拭き始めた私を見ながらそう言います。お尻拭いてるところなんて見られたくないんだけど。そう思っていたら続けてこう言ってくれます。

「すまんかったな、あんたがいじられてるの黙って見てて」

「いえ、それより源さんでしたっけ、その方に電話してくださって助かりました。ありがとうございます」

「いや、それはあんたとは関係ないんや。あんたとあいつが揉める前に源さんから掛かってきたんや、ちょっとカメラで現場の様子見せてくれって。そしたらあんたらが揉めだしたんや」

「そうだったんですね」

と言うことは、源さんは一部始終を見ていたのと同じだったんだ。

「まあ、これから山田君の上に源さんが付くみたいやから、ここも落ち着くやろ」

「そうですか」

「一人で現場やるには、山田君はまだ早かったんやな」

左官屋さんはそう言いますが、私は山田さんの性格のような気もします。落ち着いて一つずつ考えて片付けていくことが出来ない性格。整理整頓が出来ないって感じのイメージです。それはあの人の車を見てもそう思います。図面、カタログ、サンプル、工具に衣類なんかがごちゃ混ぜになっています。打ち合わせで図面を探し始めても、目当ての図面が探し出せたことがないくらいに。そんなことを思いながら違うことを聞きました。

「あの、さっきの浜田さんって、何屋さんですか?」

「ああ、鳶や、足場屋」

「そうですか」

そう返しながら、真由ってああいう職人さんを束ねて使っているんだ、と、なんだか感心していました。左官屋さんが続けます。

「あいつもほんと、いいかげんにせんと仕事なくなるぞ。あいつんとこの社長も、人手さえ足りてたらあいつなんか使いたくないんやろうし、いい加減それがわからないかんわな」

「と言うことは、腕はいいんですか?」

「腕って言うか、経験は豊富やからな。とりあえずどんな現場でもやれるんとちゃうか」

「そうなんですね」

「でも態度が悪すぎるからな、どこ行っても嫌われて、喧嘩して、行けんくなるんや」

「喧嘩するんですか」

「もう十年、いや二十年くらい前やけど、俺もあいつに絡まれて殴り合いになったことがあるわ」

「え?」

でも話はそれで終わりでした。車を取りに行った一人が車で戻ってきたから。それを見て左官屋さんは、

「ジャンパーの後ろも泥付いとるぞ」

と言って、行ってしまいました。

 ジャンパーと言われたのは会社支給のハーフコートタイプの防寒着。言われた通り付いていた泥を落としていたら、足場屋の三人が車に道具などを積み込んで去っていきました。


 鈴木木材の源と言う方が現場に来ると言っていたので待つことにしました。待つことにしたのですぐにコンビニへ、トイレが限界だったから。トイレでズボンを下ろして確認……。ま、出来るだけ人前に出るのはやめよう、と思うような状態だったとだけ言っときます。

 十六時半頃に源さんは現場に来ました。おかき屋さんの大きな紙袋を四つも下げてきました。そして私の顔を見ると、慌てたように現場の建物内に入り、荷物を置いてすぐに出てきました。

「鈴木木材の源です。ほんとにご迷惑おかけしました、大丈夫ですか?」

そしてそう言いながら名刺を差し出してくれます。

「大丈夫です、青田設計の高橋です」

私も名刺を出してご挨拶。

「久保田さん、青木さんにはよくお世話になっているんですけど、高橋さんとお会いするのは初めてですね。さっそく大変な目に合わせちゃいましたけど、よろしくお願いしますね」

「いえ、こちらこそよろしくお願いします」

「ほんとにドタバタしちゃってる現場でお恥ずかしい限りですけど、今からしっかり引き締めますから」

「はい、お施主様のためにもよろしくお願いします」

「ほんとにそうですね、申し訳ありませんでした」

そんな会話の後、今日、私が来てからのことを源さんに一通りお話ししました。そして路上駐車のクレームに補足して、現場裏で見つけた駐車場のことも話しました。すると、明日にでも契約して駐車場を借りる、今後現場周辺の路上には停めさせない、と返事してくれます。そして話の最後に、

「路上駐車もですけど、職人さんの話声とか、喫煙の仕方などはこれまでにも苦情を頂いているみたいなので、申し訳ないですけど何か考えて頂けないですか」

と、お願いしました。

「分かりました。休憩はもう建物内だけと言うことにします。そして喫煙は裏庭部分にシートで外から見えない形のエリアを作って、そこを喫煙所と言うことで徹底させます。明日にはやりますから」

するとそう返してくれます。

「そうして頂けると助かります。特にお隣にはかなりご迷惑お掛けしてるみたいですのでよろしくお願いします」

先程のご婦人の家を指してそう言いました。

「ええ、それはもう、ちゃんとケアさせて頂きますから。と言いますか、これから僕が現場責任者として工事させていただきます、ってことで、このあと近隣のお宅にご挨拶回りしようと思ってますから」

「そうなんですか」

「ええ、十二軒ほどですかね、直接ご迷惑おかけしそうなところは、とりあえずそれだけは今日中にご挨拶しておこうと思ってます」

何だか安心しました、ちゃんと近隣の家の配置まで、源さんは頭に入れて来てる。そっか、持ってきたあの紙袋はご挨拶の時に持って行く菓子折りが入っているんだ、とも思いました。

「分かりました、よろしくお願いします。あと、今までのお施主様との打ち合わせの議事録とか図面とか、必要なものがあったら遠慮なく言ってください、すぐに用意しますから」

「いえいえ、久保田さんから山田の今日の様子聞いた時点で、山田宛に届いてた高橋さん、ハウスアートさんからのメール含めて、この現場関連の物は全て打ち出しましたから。全部はまだ目を通してないですけど、車に積んであるんで、今日は帰ってから見ておきます」

鈴木木材さんは久保田さんが親しいので、私から聞いたことを青木さんが久保田さんに告げて、久保田さんが鈴木木材さんに連絡したんだ。それにしても源さんの動きは早いです。こんな短時間でメールの内容までチェックしてきちゃうなんて。

 そのあともう少し話してから、私は現場を離れることにしました。その時に私にも菓子折りを一つくれました、と言っても、これは当然青田設計にってことだから、私がもらっちゃうわけにはいかないけれど。


 事務所に帰り着いたのは十九時前、電気が消えていて真っ暗でした。設計の部屋に入って各自の行き先が書いてあるホワイトボードを見ると、私のところ以外は空白。と言うことはもう誰も帰ってこないんだ。

 パソコンでハウスアート書式の議事録を出して、今日の広瀬邸でのことを書き込んでいきました、出来るだけ正確に。浜田って奴にいじめられたことは書かなかったけど。

 その入力を終えて、それをハウスアートのサーバーに送ってからメールチェック。すると杉浦さんからメールが届いていました。いろいろと質疑や要望事項が並んでいます。何も思いつかないのでお任せします、なんて最初の頃は言ってたけど、やっぱり自分の家です、具体的に建物の姿が見えてくるとかなりいろいろと要望が出てきます。ま、任せられるよりその方がいいんですけどね、いくらでも大歓迎です。それをさばくのが私の仕事だし。

 メールに書かれている商品名などをネットで検索して調べていきました。別に明日でもいいんだけど、時間潰しでやってました。なんで時間潰ししているかって言うと、スマホにメールが届いていたから、飯食おう、って、前原さんから。

 前原さんと食事するのは、月に一、二度くらい、二、三度かな? ……もう少し多いかも。ほとんどは食事だけ、車で帰りたいのでお酒は飲みません。大抵は本郷駅周辺で済ませます。車で食べに行ったのは数回だけ。そして高いお店には行かず、ごくごく普通のお店に行くだけです。なにせ、前原さんは常に金欠だから。原因はパチンコ。やめなよ、って、言ってるんだけどやめれないみたいですね。


 十九時半頃にメールが来て、二十時前に駅で合流しました。

「久しぶりですね、あけおめかな? ことよろです」

「あ、そうだね、あけよろ」

なんて挨拶を交わしてから、何度も行っている駅近くの食堂のような居酒屋へ。二人とも日替わりの夜定食を注文。セットで付いている生ビールの中ジョッキは、私の分も前原さんに。

「なんか疲れてません?」

運ばれてきた生ビールに口をつけている前原さんにそう言いました。前原さんはひょろっとした感じだけど、いつも背筋の伸びている人。なのに久しぶりに見た今夜の彼は、背中が曲がって見えたから。

「年末からちょっといろいろあってね」

いろいろ、いろいろあったからお久しぶりなのかな。

「そうなんだ。で、いろいろが片付いたから誘ってくれたんですか?」

「いや、片付いてないよ。って言うか、逃げれそうになくなった」

そう言って一杯目のジョッキを飲み干す前原さん。

「何ですか? それ」

「う~ん、……いろいろあるんだよ」

そして二杯目に口をつけます。そして会話も途切れました、定食が運ばれてきたから。

 食べ始めると私の仕事のことばかり聞いてきて、自分のことをしゃべらなくなりました。お互い半分以上食べ終えた頃、前原さんが唐揚げともつ煮を追加で注文、いも焼酎の水割りも。

「私、飲まないですよ、車で帰るから」

「いいよ、つまみだけつまんでよ。あ、今日は全部僕が払うから遠慮しなくていいよ」

いつも割り勘なのに珍しい、お給料日前だけど大丈夫? なんて思っていたらこう聞かれました。

「梨沙はさあ……」

あっ、いつ頃からか忘れちゃったけど、こう呼ばれています。私は、俊さん、とは呼ばないけど。

「……ゼネコンの人とか下請けの人から接待されたりしない?」

「接待? 食事とか?」

「そう、もっといいお店に招待されるみたいなの」

「う~ん、ないことはないけど」

とは言うものの、私の場合はハウスアートの遠藤さんばかり。今月は交際費余ってるからおごってあげる、とかって言って、連れて行ってくれるだけ。行ったことのないようなお店が多くて嬉しいんだけど、会社のユニホームで行くには恥ずかしいようなところばかりなのが玉に瑕、先に言ってよって感じ。

「そっか、やっぱ、あるよな」

「でも、そんなに何回もないよ、私なんて」

そう返すけれど、前原さんはご飯をかきこみ、頬張ります。つまり、何も言わないと言うこと。なので私も食事を続けました、飲んでいない私はもうほとんど残っていないけど。

 定食を食べ終えると、焼酎に手を出しながら前原さんが口を開きます。

「答えにくかったら別にいいんだけど、接待以外にさ、その、……小遣いもらったりすることない?」

遠藤さんがそんなのくれるわけないじゃん。くれたとしても受け取れないし。

「はあ? ないよ、なにそれ、小遣いって」

「その、袖の下、みたいなやつ」

「私にそんなの渡して、メリットある人なんかいないからないですよ」

「そっか」

そう言うと彼は追加の唐揚げを口に入れます。私はもつ煮のこんにゃくを口に。そしてとあることに気付いてこう聞いてました。

「ひょっとして、もらったことあるんですか? お小遣い」

「まあ、あるよ」

「あるんだ」

と言って、少し驚きの顔を向けました。すると私のその表情を見て、

「いや、ゼネコンにいたらみんなそれなりにあるよ」

と、言い訳するように言います。そしてまた焼酎を口に。

「そうなんだ」

私はそう言って、またこんにゃくを口に。もらったお小遣いをパチンコに使わずに貯めとけばいいのに、と思いながら。

 そのあと焼酎をお代わりするだけで何も話さない前原さん。

「で、それが何かあるんですか?」

なのでそう聞きました。何かあるからその話だったんだろうから。

「いや、まあいいや」

でもそう返ってきただけでした。そしてなんだか重い空気に包まれました。

 前原さんが口を開かないので、私は唐揚げを一つもらってから、もつ煮のこんにゃくばかり食べてました。別にもつが嫌いなわけではないですよ。こんにゃくがなくなり、ゴボウもなくなった頃、なんとなく目を向けていた店内のテレビに夫婦岩が映っていました。何の番組のどういう話題の映像か知らないけれど。それを見て重めの空気を払うようにこう言いました。

「私、夫婦岩見たことないんですよね、日曜日行きません? おかげ横丁でお昼食べるプランで」

「えっ? なんで夫婦岩?」

そう言って私の顔を見る前原さん。

「今、テレビに映ってたから」

そう言ってテレビを指さすと前原さんも顔を向けます。そのテレビではちょうどおかげ横丁が映っていました。お伊勢さんを案内する番組かな。

「ずっと名古屋だよね。夫婦岩行ったことないんだ」

私に顔を戻して彼がそう言います。

「何年生の時だったか、遠足で行く機会あったんですけど、私その日熱出して行けなかったんです。で、それっきり機会がなくて」

「そうなんだ」

「伊勢神宮は何度か行ったことあるんですけど、夫婦岩ってないんですよね」

「そっか、そうかもな。俺も夫婦岩は遠足か何かで一度行ったきりだな」

「でしょう、行きましょうよ」

そう言うと、彼は何か考えるような顔になって焼酎に手を伸ばします。なのでこう言いました。

「私と行ったら彼女に悪いですか?」

そう、前原さんには彼女だか、片恋相手だか、よくわからない女性がいるようです。本人がそう言うだけなので実際は知りませんが。そのくせ度々私をこうやって誘い出して、一緒に食事してます。ほんとに、どういうつもりなんだろう。

 そう言いながらも誘ってくるので、ほんとは私に気があるのかも、なんて思ってデートに何度か誘っているけど実現していません。私は単なるご飯友達なのかな。ま、それならそれでいいんだけど。

「いや、だから彼女じゃないって、まだ」

まだ、の一言は小声でした。

「大丈夫ですよ、私、その人にしゃべったりしませんから」

「だから違うって」

 結局返事はなし。故に、今回もお出掛けはなしです。そして明らかにいつもより暗く、何か悩みがある様子でしたが、それも打ち明けてくれませんでした。

 前原さんの住むマンションは駅から二つ目のバス停の近く。十分徒歩圏内だけど彼はいつもバスです。でも一緒に食事した時は私が送って行きます。なので彼を下ろしてから帰宅しました。

 帰宅してすぐにお風呂。そして、飲んでもいないのに脱衣場で顔を赤くしていました、脱いだズボンを見て。忘れてた。青みがかったライトグレーのズボンの、お尻の部分が茶色でした、漏らしたみたいに。こんな格好でうろうろしてたなんて、恥ずかしい。




 翌日の朝、昨日のことを青木さん、久保田さんに報告し終えた頃に遠藤さから電話が掛かってきました。

『十一時過ぎくらいまでに会社に来て、ランチミーティングしよう』

とのことでした。何のミーティング? と思いながら承諾。昨夜の杉浦さんからのメールの内容の資料はもう揃えてあったので、それを青木さんに渡しながら説明して会社を出ました。

 会社を出てからニューブレインの滝川さんの現場に向かいました。この現場は来週、建築検査などを受けて、二月の連休前に引き渡し予定です。なので竣工図書用の図面や書類作成を急いでいるところです。今日はそのための追加の現場資料をもらいに来ました。現場で手配した各メーカーの最終図や仕様書、証明書などがそれです。

 検査目前の現場は、各業者ラストスパートで大忙しです。あっちを見てくれ、こっちはどうするんだ、と、滝川さんは引っ張りだこ。ろくに話も出来ずに資料だけ受け取って現場を出ました。


 滝川さんの所はほとんど寄っただけ状態だったのに、ハウスアートに着いたのは十一時過ぎでした。従業員用の通用口から入って営業の部屋へ。遠藤さんは私を見つけると時計を確認してからすぐに席を立って、戸口の私の所へ来ました。

「お店混んじゃうからこのまま出よう」

そしてそう言います。

 私の車で出ました。走り出すなり遠藤さんがこう言います。

「昨日はごめんね、大変な目にあったみたいじゃない。大丈夫だった?」

大変な目、って言うのは職人さんと揉めたことだよね。そのことは青木さん達には話していないので、鈴木木材の源さんから聞いたのかな?

「いえ、何ともないですよ」

「そう、ならいいけど。今日は怖い目に合わせたお詫びに奮発するから、それで許してね」

そう言うことだったんだ。

「え、ミーティングは?」

とりあえずそう聞いてみます。

「うん? ああ、青木さんには、久野邸の増減清算が無事終わったよって、その報告だったって言っとけばいいよ」

それだけではわざわざ出てくる口実にはならないような気もするけれど、まあいっか。それに、久野邸の増減終わったんだ、良かった、とも思っていました。

 遠藤さんの言いなりに運転して辿り着いたのは鰻屋さんでした。案内された掘りごたつの席につくなり、

「まぶし御膳の松、二つ」

と、注文する遠藤さん。鰻屋さんでまぶし、ひつまぶしの事でしょう。まつは松? 松竹梅の松? 一体いくらの御膳なんだろう。

 かなり待ってから運ばれてきたのは、悪趣味なほど豪華な御膳でした。ひつまぶしだけでもお腹いっぱい以上くらいになってしまうのに、天ぷらの盛り合わせ、茶碗蒸し、箸休めの小鉢が三品ついています。食べきれるかなぁ。

 とってもおいしくて、大満足でした。でも苦しい、今誰かにお腹を押されたら、多分吐き出してしまう、ほどに限界でした。メロンの果肉がたっぷり入った最後のシャーベット、余分だよ、食べたけど。

 ハウスアートで遠藤さんを下ろす時に、

「源さんっていい監督なんだけど、うちのこと嫌ってるみたいで今まであんまりやってくれてないのよ。でも梨沙ちゃんのことは気に入ったみたいだから、このままうまくやってね」

と言われました。そっか、そう言うことも含めた、接待、だったんだ。


 本郷に戻って駐車場から事務所へ向かって歩きます。全然消化が進んでいないようで、お腹は苦しいままです。このまましばらく歩いていようかな、なんて思ったけど、風が冷たいのでやめました。

 会社の前まで来ると、下の喫茶店の中に青木さんを発見。十三時をとっくに過ぎているので青木さんにしては遅い昼食だ、と思っていたら、真紀ちゃんがカウンター越しに青木さんの頭にチョップしてます。そして二人で笑っている。なんだか食べ過ぎ以外の理由で胸がモヤモヤしてきました。

 事務所に戻ってからは滝川さんの所で受け取った資料の整理をしました。どの資料にも別紙で資料の説明が一筆添えてあります。滝川さんが分かりやすいように書いてくれたものでしょう。今日の滝川さんには、目の下にはっきりわかるほどのクマがありました。痩せても見えました。忙し過ぎて寝る時間もないのかも。そんな中、こんな説明書きまでしてくれたなんて、なんだか申し訳ない感じです。

 ホワイトボードの青木さんの所に行き先は書いてありません、空白です。でも、十五時を過ぎても戻ってきませんでした。ずっと下にいる? いやいやそんなわけない、いつも通り家に帰ってやってるだけ。そうは分かっているけど落ち着きませんでした。


 十五時半過ぎ、下の喫茶店に行きました。青木さんが気になってではありません、資料整理が終わったので休憩です。休憩で喫茶店に来たことは今までないけれど、休憩です。

「いらっしゃ~い」

真紀ちゃんが迎えてくれました。

「え~っと、アイスコーヒー頂戴」

「え~? アメリカンじゃないの?」

「うん、なんか冷たいもの飲みたい気分」

「そうなんだ、ちょっと待ってね」

真紀ちゃんがそう言って準備してくれます。店内を見回すと誰もいませんでした。お客さんどころかママさんも。

「おまたせ」

真紀ちゃんが目の前にグラスを置いてくれます。

「ママさんいないの?」

ストローを差しながらそう聞きました。

「暇そうだから買い物してくるって」

「そうなんだ」

そう言う真紀ちゃんも暇そうで、お水のコップにアイスコーヒーを注ぐと、それを持って私の横に座りました。そしてエプロンのポケットからスマホを出します。そのスマホを横から覗くと天気予報を見ているようでした。

「天気が気になるの?」

話し掛けてました。

「うん、夕方雨とかって言ってたから。でも帰るまでは大丈夫そう」

真紀ちゃんは一駅向こうの上社駅の方に住んでいますが自転車で通っています。雨は心配かも。そう思いながらこう聞いてました、唐突に、自分でも思いがけず。

「真紀ちゃんって青木さんと仲いいね」

「そ~お?」

気の抜けた返事が返ってきました。

「さっきもなんかじゃれ合ってたじゃん」

なのでこう言ってました。

「あ~、見てたんだ、入ってくればよかったのに」

「仕事あったから。……それに、邪魔しちゃ悪いかなって」

真紀ちゃんから顔を戻し、グラスを見つめながらそう言いました。

「邪魔って、変なの」

真紀ちゃんのそのセリフもグラスを見つめたまま聞きました。そしてそのまま、

「青木さんにチョップするなんて、ほんと、仲いいね」

と、独り言のように言ってました。

 真紀ちゃんから何も返ってきませんでした。なので真紀ちゃんの方を窺うと、じっと私を見ていました。

「なに?」

思わずそう聞いてしまいます。

「梨沙~、ひょっとして、青木さんのこと、好きなの?」

意外にまじめな表情でそう聞いてきました、口調はいつも通りだけど。

「はあ? そんなことないよ」

「うそ、今のヤキモチじゃん」

今度は笑顔でそう言ってくる。

「違うって」

そう言ってストローを吸いました。

「う~ん、青木さんと梨沙か……」

真紀ちゃんからそんなセリフが聞こえてきます。なんか変な想像してるっぽい。

「だから違うってば」

「ダメとまでは言わないけど、ちょっと、年の差があり過ぎるんじゃない?」

控えめな笑顔でそう続ける真紀ちゃん。でも、私の言葉も聞いてよ。なので、

「それは私のセリフ、私は真紀ちゃんと青木さんが怪しいと思ったの」

そう言い返してました、ちょっと力が入った言い方で。すると、ほんとに意外そうな驚いた顔をします。

「ええ? 私が? 何言ってるの、あるわけないじゃん」

そしてそう言いました。本音のように聞こえます。ひょっとして、気があるのは青木さんだけ?

「でも結構見掛けるよ、真紀ちゃんと青木さんが仲良さそうに話してるの」

「ええ? そうかなぁ……」

私は真紀ちゃんを見たまま何も言いませんでした。すると真紀ちゃんが続けてこう言います、変な笑顔で。

「まあ、付き合い長いからねぇ~」

長い、って言っても……、真紀ちゃんっていつからここで働いてるんだろう? 高校出てから? だとしたら私と同い年なんだから八年? 高校行ってる時からここでバイトしてて、そのままってことならそれ以上。うん、十分長い付き合いだ。ほんとにそれだけなのかも。なんて考えてたらこう言われました。

「で、私と青木さんが仲良さそうにしてるから、ヤキモチ妬いたんだ」

「だ か ら、違うってば」

「ほんとに~?」

「ほんと、そんなんじゃないってば」

「そっか、まあ、親子みたいな年の差だから、ないよね~」

そう言って真紀ちゃんは、コップのアイスコーヒーに口をつけました。つられたように私もストローをまた吸います。ストローから流れ込むアイスコーヒーを飲みながら見た真紀ちゃんの横顔は、なんだか、ほっとしているように見えました。




  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る