14 失職 結 -回想-


 八月四日 金曜日、の続き。

 業務課長の策略で本社総務で信用を失い、社内でも高橋バッシングの話ばかりが広まり始めている、なんてことを一切知らない私は、会社を出て朱美にメールを入れました。

『いま会社出た』

池下駅に近付いた頃、返事がきました。

『ごめん、もう少しだけ出れない』

『いいよ、覚王山まで行って時間潰してる。連絡頂戴』

私はすぐにそう返しました。

 昼休み中に朱美から、私の土、日予定を確認するメールがありました。うちに来るつもりなのでしょう。勘弁してほしかったです、とてもそんな気分ではなかったから。本当に辛い気持ちを抱えている今、一人で過ごしたいと思っていました。誰とも会いたくない、特に朱美のように親しい相手とは。でもどこかで誰かと一緒にいたいと思っている。多分こっちが私の本音。なのでそう迷うこともなく、日曜の夜勤だけだと返していました。土、日は仕事、と返すことも出来たのに。すると今夜から私の所に泊りに来る、仕事終わったらどこかで合流して、自分の車で一緒に帰ろうと言ってきました。

 覚王山駅は池下駅から一駅。それも、とっても近距離の一駅。メールを返した後、私は駅を素通りして北側の道で覚王山に向かいました。駅ビルの隣はタワーマンション。もともとは厚生年金ホールがあったところ。中学生のころ母と一緒にここに来た時、厚生年金ホールの巨大な建物を見て、ここで結婚式やったのよ、と、母が言っていた。私のルーツとしては関わりの深い場所ではあるのだけれど、私には何の思い入れもないところ。右側に今のタワーマンションを見上げながら私が思ったのは、暑い、ってことだけ。夏真っ盛りです。六時過ぎと言ってもまだまだ明るい、そして暑い。早くも歩くと選択したことを後悔。駅に戻ろうかなどと思いながらも足を進めて、住宅街へと上って行く坂道に入りました。

 覚王山にある超有名なお寺の参道まで上がってきた時は、もう汗でびっしょりでした。朱美の家はここからもう少し東に下った住宅地の中。そっちに行くと家しかないので、時間潰しの場所はこの参道周辺で見つけなければ。駅もある表の通り沿いにはお店が沢山あるけれど、心の深くでは穏やかでない気持ちを抱えている今の私は、賑やかなところには行きたくなかったです。なので参道をぶらぶら。お気に入りの洋菓子店に足が向いてしまう。土、日、朱美がどうせいるんだから、何か買って帰ろうかな、なんて思っていたら、店から出て来た人に名前を呼ばれました。

「梨沙ちゃん、久しぶり。どうしたのこんなところで、朱美と約束?」

朱美のお母さんでした。

「こんにちは、お久しぶりです。ええ、朱美が今夜私の所に来るって言うので一緒に帰ろうって」

「ええ、またなの? いつもごめんね、迷惑だったらそう言ってやってね」

「いえ、全然迷惑なんかじゃ」

「ほんとに?」

なんて話しながら、帰宅する朱美のお母さんについて歩いていたので、必然的に朱美の家の近くまで来てしまっていました。なのでこう言われます。

「そうだ、今日は久しぶりにうちで晩御飯食べて行きなさいよ」

「ええ?」

「うん、それがいい。何が食べたい?」

「いや、いいですよ」

「そんな遠慮しないの、さ、とりあえず上がんなさい」

あっという間に須藤家に引っ張り込まれてしまいました。


 朱美のお父さんは愛知県の職員、公務員です。お母さんも元は同じく公務員で、今は専業主婦。でも、この名古屋でも有数のセレブ地域に百坪近い敷地を持つ大きな家に住んでいます。ま、この辺りでは小さい家かも知れないけれど、私から見れば豪邸です。公務員ってそんなに給料いいの? って、思わないでください。ここはもともとお父さんの実家だったらしいから。

 その豪邸のリビングに通されて、座ってて、なんて言われて麦茶を出してもらったけれど、すぐに夕飯の用意を始めたようなので、手伝うために台所へ行きました。じゃあこれお願い、と言われてジャガイモを洗って皮をむいていたら、

「ただいま」

と、玄関から朱美の声。

「お帰り、梨沙ちゃんいるわよ」

と言う、お母さんの声が聞こえなかったのか、朱美の足音は階段を上がっていきました。

「何あの子、返事もしないで」

と、お母さんが言ってると、私のスマホが鳴りました。リビングのテーブルまでスマホを見に行くと、

『今帰ってきた、どこにいる?』

と、朱美からメール。

『須藤さんの家にいるよ』

と、返してやりました。そして台所に戻ってお母さんの隣に立つと、階段からすごい足音が、朱美がリビングに入ってきました。

「なんでうちにいるのよ」

台所の私を見つけて朱美がそう言いながら台所へやってきます。

「シバタ(洋菓子店)の前でおばさんと会ったの、それで」

「そうだったんだ」

朱美はそう言いながら私にくっつくように流しの前に立つと、そこで手を洗い、目の前にあった計量カップでうがいをします。

「こら、洗面所行きなさい、行儀悪い」

お母さんがそう言いますが朱美は気にしていない様子。

「いいじゃん別に。それより、うちで晩御飯食べるの?」

「うん、おばさんがご馳走してくれるって言うから」

「そっか。じゃあ私も久しぶりに手伝おうかな」

朱美がそう言って、何をしようか考えているように周りを見回します。するとお母さんが口を開く。

「いや、あんたはいいから、先にお風呂でも入んなさい」

「なんで、手伝うよ」

「あんたが手伝うとこっちの手間が増えるだけだからやめて」

「なにそれ、ひどくない?」

「そう言われたくなかったらもう少し一人ででも出来るようになってよ」

「そう言って手伝わせてくれないから出来ないんでしょ」

「だってあんたが手伝うと四人分材料あったのに、三人分になっちゃうじゃない」

「あ~、分かった。もう何もしない」

朱美はそう言うと冷蔵庫を開けて缶ビールに手を出します。でも、

「あ、飲んじゃったら梨沙のとこ行けないじゃん」

と、手を引っ込めると冷蔵庫を閉めます。

「梨沙ちゃん泊まってもらって、明日にすればいいでしょ。私、最初からそのつもりよ」

「そっか、それでもいいね」

お母さんの言葉に朱美がそう返します。でも私が断りました。

「いえ、着替えとか持ってないんで帰りますよ」

「なんで、朱美の適当に……、梨沙ちゃんには大きいか、この子無駄に大きくなっちゃったから」

お母さんがそう言います。そう、朱美は170cm超えの長身。モデルのようなスタイルです。でも、このお母さんもかなり長身だし、お父さんも背が高い。まだ帰ってきていない二つ下の弟の典孝君なんか、軽く180cm超えてると思うし、そもそも長身一家なんです。160cm足らずの私がこの一家に混ざると、一人だけ子供のようです。

「無駄って何なのよ」

「だってそうでしょ、スポーツやってたわけでもないのに背だけ伸びちゃって」

二人の楽しそうな会話を聞きながら、私はお母さんがスジ切していたお肉に塩コショウを振ります。小麦粉をつけ、溶き卵にくぐらせてパン粉を。そして、涙をこらえていました。

 母とのこういう会話、もう何年もしていません。母に会いたくなりました。特になんだかわけのわからない今の状態で母のことを思い出してしまうと、どうしようもなく会いたくなって、羨ましくなっていました。


 結局、帰るという私と、飲みたいという朱美の希望で、お母さんの料理はテイクアウトとなりました。一口とんかつと、朱美の好きな粗挽きソーセージがゴロゴロ入ったオムレツはお重に。細かめのスティック状に切ってからフライパンで焼いて、それから投入されたジャガイモのスープ、ベーコン、カリフラワー、スナップエンドウ入りは、鍋のまま頂いて帰ってきました。

 朱美の家を出たのは八時頃でした。でも、今年社会人になった弟の典孝君も、お父さんもまだ帰ってきませんでした。お父さんは公務員ですが、いつも九時頃帰ってくるようです。公務員は九時五時、なんて聞いていましたが、朱美と知り合ってからその認識は変わりました。


 私の部屋に二人で帰って来てから入れ替わりでシャワー。飲み始めた、じゃなくて、食べ始めたのはもう九時半を過ぎていました。そして私は十一時には酔いつぶれていました。帰ってくる途中で買い込んだワインのせいで。ううん、朱美がやたらと私にいろいろ探りを入れてくるから。探りを入れてくることを話したくない私が、ついついごまかすようにワインを流し込んでいたから。

 朱美は私の様子がおかしいと感じたようで、本当にいろいろ聞いてきました。ほとんどは彼と別れたことだと思ったようで、そっちのことでした。なので私もその後の朱美と彼のことを聞く。すると朱美もごまかすようにワインを煽る。そう、私だけじゃなく朱美も珍しく潰れちゃいました。電気もテレビも付けたまま、リビングで二人とも寝ちゃいました。


 翌土曜日の朝、散らかしたまま寝てしまった後片付けをして、朝食を済ませたころ、朱美が真由に電話しました。また真由も呼び出してどこかに行こうという話。でも真由はもう仕事中だった様子。なので二人で出掛けました。

 目的も何もない単なるドライブ、でも目的地は必要。朱美が決めた目的地は大垣市役所。なんで市役所? って、朱美に聞くと、好きなアニメ映画に出てきた橋が見たいと言いました。

 大垣市役所近くの駐車場に車を停めて、炎天下の中、橋を探して歩きました。たどり着いた小さな橋に朱美は感動。そこは水辺で憩うように整備された、小川沿いの公園と言った造りの所でした。アニメや映画のロケ地になったと聞いても頷ける感じ。

 やたらといろんなポーズで写真を撮ってと朱美が言うので、私はカメラマンになっていました。多分アニメに出て来たキャラクターになった気分でいるんだろうけど、私はその映画を見ていないので、こういう角度で撮って、とか言われてもいまいちわからない。その角度で撮ろうと思ったら私は川の中だよ! って言うと、そうだ、川に飛び込むシーンもあった、やろう! なんて言い出す。冗談なのはわかっているけど、いい加減にして。

 撮影会を終えて橋の近くのお蕎麦屋さんで昼食。海のない大垣のお店で、なぜか名物と書いてあった海老おろしそばを食べました。うん、大き目のエビの天ぷらが五尾もついていて満足、おいしかったです、でも千六百円は高いぞ。

 食後は駐車場に向かわず北側の大垣公園へ、大垣城があるところ。でも目的地はそこではなく、さらに北側、大垣駅に近いところにある和菓子屋さん、これは私のリクエスト。

 お昼からの太陽は、午前中の倍くらい元気いっぱい。和菓子屋さんへ入ったときには、二人とも水浴びしたみたいな格好でした。ここは和菓子屋さんと言っても和風喫茶みたいなお店。喫茶側の席につくと、注文を取りに来た初老の女性が、

「あら、高橋さん、久しぶり。あれ? 淳一帰ってくるの来週末よ、間違えてない?」

と、私に声を掛ける。

「いえ、今日はたまたま近くに来たので寄らせてもらっただけです」

そう返して注文を済ませました。

「淳一って、え?」

女性が離れると朱美がそう言う。

「そ、日比野君の実家なの、ここ」

日比野淳一って言うのは、大学四年の時に私が熱を上げた片恋相手。朱美と一緒に行っていたバイト先にいた同い年のバイト仲間です。就職後、東京に行ったので今はいません。

「ええ? 付き合ってたっけ?」

「ううん、付き合ってないよ」

「じゃあなんで、え? あれ、日比野のお母さん? あの人が梨沙のことなんで知ってるの?」

「私ここに通ってたから、日比野君に会いに。だから友達だと思ってるみたい」

「へ~、知らなかった」

私が返事をする前に、注文したアイスコーヒーと水まんじゅうが運ばれてきました。持って来てくれたのは若い女性、アルバイトかな?

「付き合ってなかったってことは、フラれたってこと?」

朱美がまた口を開く。

「フラれるとか、そういう以前の話なの」

私はそう返しながら水まんじゅうを一つ口に。うん、これぞ大垣名物、かな? 夏はこれだってお菓子です。

「ふ~ん、でもこんなとこまで通ったってことは、梨沙は本気だったんだ。あんたそんなこと全然言わなかったよねぇ」

朱美も水まんじゅうを口にしてからそう言ってきます。

「だって、結局告白もしなかったんだから、話すきっかけがなかったじゃん」

そう言ってアイスコーヒーに口をつけました。

「ふ~ん、そっか、やっぱり失恋を引きずってるんだ?」

「はあ? なんでそうなんのよ」

「何年も前の片思いの相手のとこにわざわざ来るって、そう言うことじゃないの?」

いや、わざわざってことはない。最初に大垣市役所の近くに行くと朱美に言われた時も、ここに来ることなんて考えもしなかった。と言うか、ここのことを思い出しもしなかった。思い出したのは暑い中を歩き回って、どこかで水まんじゅうの文字を見た時。そして思い出したあとは、もう行こうとしか考えていませんでした。ひょっとしたらここに来ていたころの気分に浸りたかったのかも。朱美の言う失恋、なんてことはないけれど、今は本当に辛い時。片思いの相手を追いかけていた時の、ワクワクドキドキを思い出したかったのかも。

「ねえ、昨日からなんか、私が失恋で落ち込んでるみたいなことをやたらと言ってくるけど、それ、朱美じゃないの? 自分が引きずってるから私にそう言ってくるんじゃないの?」

朱美が窓の外に視線を外す。そして少しするとまた私を見ます。

「その話やめよっか」

そしてそう言います。二人でくすっと噴き出してこの話は終わりました。


 真由から連絡が来ました、仕事終わったら電話するから迎えに来て、と。なので帰る前に朱美と買い物。買い込んだ食材は焼き肉用。真由はとにかく肉が好き。ほぼ間違いなく毎回焼き肉がいいと言い出します。あんまり部屋で焼き肉やりたくないんだけどね。そしてお酒類も買い込みました。朱美と真由が揃うといくらあっても足りないくらいだから。

 夕方戻ると同時くらいに朱美に電話が掛かってきました。

「もうちょっとで家だから、もう来てくれていいよ」

「シャワーとか着替えとかいいの?」

「うん、そっち行ってからにする」

「わかった、すぐ出るね」

「あ、それと晩御飯、今日は私がご馳走するから用意しなくていいよ」

「ええ? どうせ焼き肉って言うだろうと思って材料買ってあるよ」

「うそ、もうお寿司頼んであるから駄目だよ」

「はあ? どうすんのよ、お肉売るほどあるよ」

「それよりさぁ、りっちゃんに代わって」

朱美の文句を無視して真由がそう言います。朱美はスピーカーにして会話していたので私は聞いていました。なのですぐに返事します。

「なに?」

「えっ、ああ、お寿司頼んであるんだけど……」

私がすぐに返事しすぎたので、少し驚いた様子の真由。

「うん、聞いてたよ」

「はあ? 何、二人頬ずり状態なの? ほんとにあんたら仲いいね。ひょっとして出来てんの?」

真由がわけわかんないことを言ってくる。それに対して、

「そうだよ、知らなかった?」

と、朱美が返す。

「うっそ、まじで? 私行かない方がいい? 邪魔だよね?」

「あのね、冗談に決まってるでしょ、朱美がスピーカーにしてんのよ」

「分かってるよ。って、スピーカーって何?」

真由の携帯ってスピーカーモードに出来ないのかな? と思いましたが、説明が面倒くさい。

「で、何?」

私は私が呼ばれた理由をもう一度質問。

「いや、スピーカーにつないでるってこと?」

でも真由が理解していなかった。

「ちがう、それはもういいの。お寿司頼んであるんだけど、の後は何?」

「ああ、なんかお寿司だけだとなんだから、なんか温かいものも欲しいなって」

「温かい……、お吸い物とか?」

「う~ん、いいけど、もうちょっと食べ物って感じのがいいな、お吸い物だと飲み物だもんね」

「わかった、超贅沢な肉じゃが作ってあげる」

「超贅沢?」

「そ、カルビで肉じゃが」

焼き肉用の材料があるのを思い出し、そう言いました。

「おお、それいい。でもちょっと濃そうだな、じゃあそれとあっさりにゅう麺も」

「はあ? そんなに作らす気?」

「そっち行ったら手伝うから」

ま、手伝うって言うんならいいか、真由は私より料理得意だし。と言うか、母と離れてからの私の料理の先生は真由だし。でも、そうめんがうちにはない。それを言おうと思ったら、

「私、もう家に着く。朱美ってどのくらい前にそこ出た?」

と、真由が言います。

「まだ出てないよ」

それに朱美が返します。

「はあ? なんでまだそこにいんのよ」

「なんでって、今私のスマホで話してんだよ」

「まあいいや、私もう家についたから来て」

「わかった、すぐ出るね」

その朱美の最後のセリフは切られたあとみたいでした。私はそうめんを買ってくるように朱美に頼んでキッチンに行きました。


 私の部屋から真由の家までの往復は、車なら一時間あれば十分。なのに帰ってきたのは二時間くらい後でした。理由は、真由がお寿司屋さんに六時くらいに取りに行くと頼んであったので、お寿司屋さんがまだ作っていなかったから。そして、うちに来るなり真由は浴室に入ってしまう。結局あいつは何も手伝わなかった。真由と入れ替わりで朱美がシャワーを浴びに入りました。私は肉じゃがを煮込んでる間に済ませていました。

 結局三人そろって食べ始めたのは七時半ころ。飲み始めたら出すタイミングがなくなるので、にゅう麺も最初から出しました。茹でたおそうめんにズッキーニとなすを入れたお出汁をかけ、トースターで焼いたパプリカをのせたもの。あっさり過ぎるんだけど、カルビの肉じゃがが真由の言う通り、くど目になっちゃったのでちょうどいいかも。

 真由がごちそうしてくれたお寿司は握り四人前の桶ともう一箱、一尾分のうなぎの握り。三人でなんでこんなに頼むの? って感じ。でも朱美と真由は二人分くらい平気で食べるので大丈夫かな。体の大きい朱美は分かるんだけど、真由は私よりまだ少し小さい、と言うか、ルックスだけならアイドルって言っても頷けるくらいかわいい見た目。でも、どこに入るの? って言うくらい食べます。ま、私の倍はカロリー消費するような仕事してるから、差し引きは合うんだろうけど。

 一時間足らずで飲み物だけになりました。私は二人の半分くらいのペースで飲みながら、二人の話を聞いているだけ。朱美は仕事の愚痴から別れた彼への愚痴になりました。そう、やっと別れたことを認めました。原因は彼が他の女とも付き合っていたのだとか。それを聞いて自分のことを話し掛けましたが思い止まりました。私の話をすると、他の女たちと言う話になってしまう。いえ、私も他の女たちの一人だったという話に。そんなこと言いたくないです。真由は朱美が仕事の愚痴を言ってる間は仕事の愚痴を言っていましたが、そのあとは父親への愚痴。と言うか、ひたすら父親の悪口を並べ立てる。ま、いつものことなんだけど。ほんとにいつも父親と喧嘩してるようなやつです。そんなにいつも喧嘩できるって、ほんとは仲がいいんだろうって気もしてくる。でも、真由の所の家族関係はちょっと普通じゃないので何とも言えません。その話はまたいつか。

 十時を過ぎて二人がお腹すいたと言い出します。でも私は立てませんでした。今日は朱美に勧められて、途中からずっと冷酒を飲んでいました。私は日本酒が苦手、完全に酔っていました。キッチン借りるよ、と、真由が立って行きました。しばらくすると、カルビ入りのネギと卵の焼き飯を作ってきました。私の分もあったけれど手が出ません。その出ない手に持っていたグラスに、朱美が冷酒を足してきます。条件反射のようにそのグラスに口をつけて飲んでいました。そして二人が食べ終わるころ、私はまたリビングのフローリングの上で寝ていました。


「ねえ、絶対なんかあるよねぇ、梨沙」

朱美が真由にそう話し掛けました。

「えっ? ……そうだね」

床で寝ている梨沙を眺めながら、真由は朱美にそう返します。

「どう思う?」

「う~ん、ほとんどしゃべんなかったからなぁ」

「だよね。なんか悩んでるみたいなんだけど、何も言わないのよね」

「それで日本酒飲ませたの?」

「そ、酔っぱらったらしゃべるかなって」

「なる。でも、しゃべる前に潰れちゃったね」

「失敗したなぁ、飲ませるペース速すぎたかも」

「いやいや、りっちゃんってほんとに頑固だから、酔っぱらってもしゃべらないかも知れないよ」

「そっか、しゃべってくれたら何か出来るかも知れないのに」

「ま、気にしない方がいいよ、この子は解決編しか語らないから」

「ほんとに厄介な奴」

朱美はそう言いながら梨沙にタオルケットを掛けてやる。そんな朱美と梨沙を、真由は少し怖い目で見ていました。


 翌朝、トイレに行きたくなって目が覚めました。リビングで寝ていました。立ち上がると何だかふらつくし、気分も悪い。頭痛はないけれど二日酔いみたいです。

 朱美はいつものようにベッド横に自分のマットレスを敷き、そこで寝ていました。真由はベッドで寝ている。

 二人を起こさないように、そっとトイレと洗面を済ませて台所に入りました。閉まり切っていないカーテンの隙間からは明るい光が入って来ていたので、とっくにもう朝だと思いましたが少し早かったです。いえ、朝には間違いないんだけど、四時を過ぎたばかりでした。夏の太陽はこんな早朝から宵の口まで、長時間労働ご苦労様です、って感じ。

 もう一度寝直す気にはならなかったので、音をたてないように朝食の支度でも、と、動き始めました。そして気付きます。台所がきれいに片付いている。リビングの座卓の上にも何もない。寝る前に片付けてくれたんだ。

 朝食を作ろうと思いながらも何だか重い体が動きません。丸椅子に座ったままお水を飲んでいるだけでした。

 しばらく経ってやっと腰を上げましたが、それはコーヒーが飲みたくなったから。冷蔵庫からコーヒーのペットボトルを取り出し、マグカップに注ぎます。それを電子レンジで温める。コーヒーメーカーが壊れてからはこれが私の定番。

 そんなことをしていたら真由が起きてきました。でもキッチンを覗いただけでトイレの方へ行っちゃいます。多分真由ももう寝ないだろうと思って、真由の分のコーヒーも電子レンジに入れました。

 トイレのあと洗面所に寄った真由がキッチンに入って来た時には、もうコーヒーの温めは終わっていました。

「おはよ」

まだ朱美が寝ているのでボリューム控えめでそう言いながら、真由にカップを差し出しました。

「おはよ。ありがと、でも先にお水飲みたい」

受け取ったカップを流しに置いて、お水を飲む真由。

「早いね」

私がそう言うと、

「そう? 四時半過ぎてるよね、私いつもこんなもんだよ」

と、お水を飲んだコップからコーヒーカップに持ち替えて真由がそう答えます。

「そっか、そうだったね」

真由の家は鳶土工の会社です。工事現場で見かける仮設足場の会社と言えばわかりやすいかな。大学卒業後、理由があって真由は自分の家がやってる会社に就職しました。職人さんたちはほとんど通いですが、会社に集まってから会社の車に乗り合って現場に行くそうです。工事現場は大抵八時から。現場の場所にもよると思いますが、だいたい六時頃には会社を出発するようです。それを真由はほとんど毎日見送っていると、以前聞きました。

 真由がキッチンを背にして腰を持たせかけるようにしてこう言いだしました、朱美に気を遣って小声で。

「私は今スマホじゃないから見てないんだけど、亜紀がね、りっちゃんの友達サイト見たって。それでどうしようって電話してきたの、一昨日の夜」

「えっ?」

何を言われているのか分からなかったので、そんな顔で真由を見返しました。ちなみに、亜紀も大学から仲のいい友達です。

「ひょっとして見てない?」

「うん、最近全然」

私はもともとSNSとかをあまり使っていませんでした。唯一使っていたメッセージ主体のアプリも、朱美がやめて、真由がスマホから携帯に戻してからは、石田さんとだけって感じでした。写真やつぶやきを投稿するアプリなんて、アカウント作った時以来ログインすらしていないかも。

「そっか、ま、見てないならいいけど、なんか酷いみたいだから」

「えっ?」

「会社でなんだかんだあるんでしょ? そう言うのが書き込まれてるみたいよ」

「……」

気付くべきだった、堀口さんのSNSがどうなっていたか見ていたのに。

「亜紀には誰にも言うなって言ってあるから、多分しゃべってないと思う。朱美も知らないみたいだし」

と言うことは、真由も朱美に何も言ってないんだ。そう思いながら私は、スマホに飛びついて確認したいって気持ちを押さえていました。見るならひとりの時にしたい、その思いだけで気持ちを押さえていました。

「りっちゃん? なんかやれることある?」

丸椅子に座ったまま俯いてしまった私を、いつの間にかキッチンの床に座り込んでいた真由が見上げてそう言いました。

「ううん、大丈夫」

「大丈夫って顔には見えないけどね」

真由はそう言ってコーヒーカップを口に持って行く。そして、

「ま、愚痴でも何でも言いたいことがあったら言って、何でも聞いてあげるから」

そう言ってくれる。

「うん」

私はなんとなく頷いただけ。

「それに、あの男に復讐するなら、そっちも出来る限りは協力するよ」

復讐なんて物騒なセリフが出て来た。真由は見た目とセリフが時々一致しない。なんてことより、石田さんに掛け持ちされてたことまで知ってるんだ。そんなところから亜紀は見たんだ。私の所にもそんなところから書き込まれているんだ。すぐにでも見たいけど、見るのが怖くもなってきました。

「復讐なんてしないよ、そんなバカみたいなこと」

なんとなく口から出た言葉でしたが、堀口さんが復讐なんて考えなければこんなことにならなかった、って、恨みの気持ちがあったかも。

「だね、バカみたいだね」

「うん」

「でも、早く何とかしなよ」

「えっ?」

「朱美が知ったら、泣いて怒って暴れ出すよ、きっと」

いやいや、暴れはしないでしょ。

「何も知らないのにあれだけ心配してるんだから」

続いた真由の言葉に寝室の方を覗きました。大きな体の朱美が小さく丸まって寝ていました。いつもの寝姿だけど、なんだか泣いているように見えました。




 八月六日、日曜日の午後五時半過ぎ、私は会社の近くで朱美の車から降りました。これから夜勤。しかも明日の日勤へと続く過酷なパターン。更衣室へ寄らずにそのまま業務課の事務室へ入りました。日曜夜勤は休日出勤と同じなので、内勤者は私服でもOK。自席に鞄を置いてすぐに湯沸し室に行きました。夜食用に買ってきたとろろそばとサラダ巻きを冷蔵庫に入れるために。

 湯沸し室から事務室に戻ると、Aグループの係長が私の名前を呼んで手招きしています。その係長の周りには男性一人と女性が三人集まっていました。おそらく日勤だった人たちです。夜勤への引継ぎを始めたいのでしょう。

 引継ぎは特に重要なことは何もなし。対処に走っているメンテ課や外注の職人さんからまだ完了連絡の来ていないものがあるので、それらの処理だけでした。そんなに話す内容もなかった引継ぎなので気にしすぎかもしれませんが、女性の内の二人が徹底して私と言葉を交わさなかったように感じました。目も合わせてくれなかったかも。

 日勤メンバーが帰っていくと静かな事務所でした。Aグループの係長は早々に倉庫の方のメンテ課の休憩室に行ってしまいました。多分、プロ野球中継を見に行ったんだと思う、いつものことだから。

 メンテ課の夜勤も係長でした。係長が裏に行ってすぐ、そのメンテ課の係長から内線が鳴りました。出ると、完了報告がまだだった二件とも完了連絡があったので、対処内容はもう入力したから後の処理を頼む、と言うものでした。

 電話を切って処理をしようとパソコンの画面を見ました。そして気付きました、デスクトップのアイコンの配置が今までと違うことに。パソコンが新しくなっていました。左隣を見ると深田さんの所のパソコンも新しくなっているようです。パソコン本体もディスプレイも全く同じ機種だったので、ぱっと見では分かりませんでした。

 日勤から引き継いだメンテ対応の後処理を終えたらやることがなくなりました。電話も鳴らない夜でした。少し迷ってからスマホを取り出します。係長はおそらく九時くらいまでは席に戻ってこないはず。なので今のうちにSNSを確認しようと思いました。


 一か月ほど前に堀口さんのページを見るために開いた友達交流のアプリから見ました。開いた瞬間、一か月前と違うのが分かりました。その時は空白だったオープンメッセージ欄に多数のメッセージが届いています。ウィンドウ右側のスクロールバーが判別できない。堀口さんの所で見たのと同じ状態でした。一体いくつのメッセージが入るとこうなるのかな。

 最新のものから適当に目を通しながら遡って行きました。私の暴力性や淫乱性に触れるものが多い。普段からいかに暴力的な態度が多いか、激しい性格であるかなどを、事例を挙げて本当のことのように指摘してある。そして私と交際経験があると称した人たちが書いている、性交時の私の姿など。どこを触るとどう反応するとか。堀口さんが書かれているのを読んだ時にも思ったけれど、本当に生々しく、目の前でその行為を見ているかのように、いえ、その行為を自分が行っているかのように描写されている。自分のことが書かれているとは思えない。実際、ここに登場しているのは書き込んだ人が作り上げた私。でも、読んだ人は私のことだと思ってしまう。違う! これは私じゃない! 嘘書くな! と、全てに返信したい。あんたも名前を明かせ! とも。大体、私の所に私のことを書いてどうすんの! とも言いたい。でもそう思うと怖くなりました。私のアカウントを探してここにたどり着く人より、例の掲示板にたどり着く人の方が圧倒的に多数でしょう。きっとあそこにも同様、いえ、これ以上のとんでもないことが書きこまれているはず。

 途中からはほとんど内容を読まずにメッセージを遡っていました。でも一件の短いメッセージで指が止まりました。

『いや、もう死ね! 死んで!』

死ね、なんて、始めて言われた。とてもきつく重たい言葉。本当に私はもう死ぬしかないどうしようもない人間なのかと思ってしまう。しばらくその一行から目が離せなくなりました。でも、唐突に現れたこの一行は意味不明でした。再び指を動かしてもう少し遡りました。答えは三つ前にありました。さっきの一行と同じ23時間前のメッセージ。同じIDの人からの同じ一行のメッセージ。

『殺人未遂犯! 自首しろ!』

今度は、殺人、の文字に固まってしまいました。殺人だったんだろうか。投げつけようとしたモニターが松本さんに当たっていたら、そして当たり所が悪かったら、死なせていたかも。でも殺人なんてこと考えてない。カタログで殴られている衝撃や痛みに耐えかねて、カッとなって目の前の物を投げつけただけ。カッとなって、カッとなって殺そうとしたの? 私。衝動的ってやつ? 私って、やっぱり殺人未遂を犯したの?

「見ない方がいいよ、そう言うの」

いきなり顔の横から声がしました。私はビクッと身を強張らせながら身を引いて、声の方を向きました。屈めていた体を起こしている係長がいました。顔の横から私のスマホを覗いていたんでしょうが、全然気づいていませんでした。

「ごめん、ちょっと近すぎたかな」

係長がそう言います。

「いえ、私こそ仕事中にすみません」

「いいよ別に、電話鳴らないし。はい、これ」

係長はそう言うと、紙パックの飲料を差し出してきました。私が良く買うバナナオーレ。

「え?」

私が、なんで? と言う顔で見上げたので係長はこう言います。

「メンテ課の連中が、高橋さんはいつもこれだって言うから、違った?」

「いえ、ありがとうございます」

私の疑問は、なんで買ってくれるのかってことだったんだけど、とりあえず頂くことに。そう言ってから手を出しました。私がためらいがちに受け取ったからでしょうが、係長がまた口を開きます。

「あ、僕はそこの連中みたいに、これで一晩付き合えとか言わないから、安心して」

そして机の上に伏せて置いた、私のスマホを指さします。私はそんなことを言われても反応に困って顔を伏せるだけ。

「それにさ、匿名で隠れてないと何も言えないような連中、気にしてる時間の方が無駄だから無視する方がいいよ」

そう声が降ってきたので顔を上げました。でも係長はもう自分の席に向かって歩いていく後ろ姿でした。時計を見ると八時半を少し過ぎています。ちょっとだけ見ていたつもりが一時間半以上経っていました。そして、係長が応援している地元球団は、大差で負けているのでしょう。

 信じられないくらい静かな夜でした。正直に言います、何もなさ過ぎて、自席で二時間くらい寝ちゃってました。そして翌朝、七時前に係長に断って更衣室に向かいました。みんなが出社してくる前に着替えてしまいたかったから。

 自分のロッカーを開けて、カッとなってました。そして同時に呆れていました、中学生か、って。ハンガーに掛けてあった制服のスカートとブラウスがなくなっている。と思ったら、ロッカーの底で発見、くしゃくしゃに丸めてありました。そしてその上に避妊具が何個かばらまかれている。幸い今日はクリーニングに出していた着替えを持って来ていました。それに着替えてからしわくちゃになった制服を鞄に詰めました。いたずらされていた私物はそれだけのようです。ばらまかれていた避妊具は当然未使用の物だったけど、全部更衣室のゴミ箱へ。一瞬、更衣室の洗面台の上にばらまいてやろうかと思ったけれど、またそれを私の仕業だと騒がれると嫌なのでやめました。そして、入社して初めてロッカーに鍵を掛けました。鍵を掛けるときに、負けた、と、悔しい思いをしながら。




 八月七日 月曜日、私がロッカーで悔しい思いをしている頃、6階の本社総務部では少人数の会議が始まっていました。メンバーは、渡辺総務部長を筆頭に、二人の課長と人事担当の係長、その四人でした。

 まず、人事担当の係長に真偽を確認するように言ってあった渡辺部長がその報告を聞きます。確認させていたのは私の起こした騒ぎに関する社内の噂。係長は噂通りだと報告。すると渡辺部長に促されて高橋課長が一枚の紙を係長の前に出します。それは業務課の新しい人員表でした。人事担当の係長は初めて見るもの。驚き顔で手に取って目を通します。今まで異動とはなっていなかった、松阪、豊橋のメンテ部の課長、係長クラス数人が、本部メンテ部業務課に入っています。そして、現業務課長の名前がありません。人事担当の係長がそのことを高橋課長に聞くと、浜松営業所の副所長を本部営業部に異動させるので、その代わりに異動させると言われました。浜松営業所と言うのは、正社員は所長と副所長だけのところ。本部業務課長からそこの副所長へと言うのは、辞めろ、と言っているような降格人事です。それに驚きつつも人事担当の係長は、異動してくる人間が営業部のどこに入るのかも気になりそれも尋ねました。すると渡辺部長が、石田をクビにしたからその代わりだ、と、答えました。驚く係長に高橋課長が説明します。石田さんは写真に写っていた女性の一人から告訴される、と。それで先週金曜日に役員会で解雇を決定して、もう本人にも伝えてあり、本人ももう出社しないと返事しているとのことでした。

 私が中野君から聞かされた、スナックでバイトしているという写真にあった女性。その人は上場会社に勤める方でした。スナックと言うのはおばさんの経営しているお店で、人手が足らないからと、時々頼まれてバイトしていただけだったようです。知り合ったのはそんなところででしたが、彼女は石田さんに本気だったようです。そして石田さんは例のごとく結婚を匂わせる。なので、結構金銭的にも貢いだようです。なんと私も助手席に乗ったことのある石田さんの国産高級SUV、お金を出したのは彼女だとか。それ以上に、石田さんの親せきが運営する、貧しい子供たちのための人道法人なるところに多額の寄付までしていたとか。そして騒ぎが起こって遊ばれていただけだと分かった彼女。また、会社でも周りの人間にそのことを知られ、さらに、親せきの店だとは言え、アルバイトをしていたことまで会社にバレて、いられなくなった彼女は退職。その時から損害賠償を求めるため訴える準備を始めたようです。そして調べさせたら、先の寄付した法人は、実際には実体のないインチキ法人だと分かり、民事ではなく、詐欺での刑事告訴を警察に相談、と言った流れのようです。会社にメール送信した人間を探すように弁護士を通じて言って来たのも彼女でした。

 新しい人員表での始動は十月一日から。もうすぐにでもそれを公表しなければいけません。そこからはその話し合いでした。その話し合いの中、四人の視線が度々向けられる人員表に、私の名前はありませんでした。


 メンテ部業務課長は出社するなり6階に呼ばれます。そして会議中の四人に加わりました。が、そこで浜松への異動を告げられると座り込みました、床に。


 私はいろいろと嫌な雑音の聞こえてくる午前中の業務を、忙しさに助けられて乗り切りました。そして昼食は五人でした。復帰した深田さんともう一人の後輩が戻ってきたから。

 深田さんからは、悪いのは松本さんだから気にしないでくださいと、何度も言われました。ちなみに、私が一方的に悪いことになっている課長作成の報告書に、認印が押されていることは知りません。そんな報告書があること自体知りません、これは私も、そして一般社員の誰も。

 石田さんが誰かに訴えられて退職した、と言う話が午後から聞こえてきました。警察沙汰になっているとかとまで聞こえてきます。ま、どこまでほんとか分かりませんが、退職するのはどうやら本当のことみたい。

 帰宅してから私はすぐにSNSを全部消しました。メッセージを、ではなくて、全て退会してアプリも削除しました。退会手続き中に、登録されたメールアドレスに退会処理完了の通知を送りました、という表示の出るものがありました。なのでパソコンのメーラーを確認。千件近い受信があり驚きました。標題を見るとSNSの、メッセージが届きました、の通知ばかり。そんなに書き込まれていたのかとうんざりしながら全部消しました。




 八月八日 火曜日、出社して自席につく前に湯沸し室に行きました。そしてドリンクサーバーからアイスコーヒーを注ぎました。なぜか、お茶、お水、コーヒーがアイスでのみ年中飲めます。ホットも対応のものにしてくれたらいいのに。

 自席についてパソコンの電源を入れる。そしてコーヒーに口をつけていたら電話機が内線で鳴りました。出ると3階のメンテ部総務課から、5階の会議室の一つにすぐ来るようにと言われました。またなにか言われるのか、と、嫌気がさしながらも階段を上がりました。

 会議室に入ると、メンテ部の総務課長ともう一人男性がいました。座るように言われて二人の前の椅子に座ると、直属の上司の業務課Bグループの係長も入ってきました。

 まずこれから、と言われて差し出された紙は、見積書でした。パソコン二台、ディスプレー二台、それに各々の設置設定費、システムの再設定費、などなど、総額56万円となっていました。私が内容に目を通し終えたころ、業務課長から高橋さんが故意に壊したものだと聞いているけど間違いないか、と、総務課長から聞かれました。そう聞かれたら認めるしかないので頷きました。すると、業務上避けられなかった過失でないなら弁償してもらうしかない、どうやって払う? と、聞いてきます。何回かに分けて給料から天引きで、とかって、引っ張るのはもう嫌でした。私は一括で払うと答えました、そのくらいの貯金はあったし。

 私がそう答えると総務課長は安心したような顔をして請求書を差し出してきました、用意してあったんだ。そして、日付は今日になってるからいつでもいいけど、出来れば九月末までに振り込んで欲しい、大丈夫か? と聞いてきます。私は、はい、と頷きました、なんで私が、と、心の中では怒りがこみあげていましたが。

 でも本題はそこからでした。本来は私の所属長である業務課の課長から話すことなんだけど、今日は休んでいるので私から話す、と、前置きしてから総務課長がこう言います。

「高橋さん、今の話も含まれるけど、ちょっとこのところいろいろと問題があるよね、あり過ぎるくらいだよね」

「すみません」

そう言うしかありませんでした。

「全部高橋さんに原因があるとは言わないけど、ないとも言えない」

「……」

「だからもう率直に言う、辞めてもらえないかな、会社」

「……」

伏せていた顔を上げて課長を見ました。でも何も言えませんでした。

「高橋さんが優秀なのは分かってる。抜けられると困るだろうという予測も出来てる。でも、それ以上に高橋さんと言う存在が職場にいることの方が、周りにいる仲間に対してマイナスになってる」

「……」

「理解してくれないかな、言いたいことはあるだろうけど、高橋さん自身が招いたことであるのは間違いないんだから」

「……」

「今辞表を出してくれたら、今回の統廃合での人員整理に手を上げてくれたってことで配慮もする」

「……」

ほんとに何も言えませんでした。と言うか、何も考えれませんでした。職を失う、と言うことだけが頭の中を回っていました。

「会社としては懲戒処分として解雇することもできるんだけど、そこまではしたくない。そこまですると、高橋さんが次の勤め先を探すのにも支障が出るだろうし。だからどうだろう」

 どうだろうと言われても、もう、辞めます、としか言えないように追い込んでるじゃん。何も言えない。私はこの会社が好きです。勤務体制は辛いことが多いし、職場はわけのわからない派閥みたいなものがいっぱいあって嫌な思いも沢山したんだけど、好きです。好きな理由が全然出て来ないんだけど、好きです、辞めたくない。でももうどうしようもないのかな。辞めたくないと言ったらほんとに解雇されるのかな。なんでこんなことになっちゃったんだろう。わけが分かんないし、何も考えられない。

「ま、今ここで返事しなくてもいいよ。辞表を出してくれても退職は九月末ってことになるから。ただ、数日以内には頼むね」

無言の私を無視して話は続きます。

「それと、この話で高橋さんがもう出社しないと言い出した時のために、新しい勤務シフトが出来てる」

課長がそう言うと、うちの係長がA3のシフト表をテーブルの上に出しました。それを指して係長が口を開きます。

「見ればわかると思うけど、高橋の夜勤はもう全部他の人間に振り替えたから。それと、十一日から十五日までのお盆休み期間のシフトも、高橋はもう一切入っていないからな」

説明されるまでもなく一目瞭然、私の欄はきれいさっぱりしたものでした。夜勤休日のシフトに入るようになってから初めて見る味気ないもの。そして恐ろしいほど実感して寒くなりました、もう私の居場所がないんだと。

「あ、振り替えられる人間との交渉がまだ終わってないから、これはまだ内緒な、明日には公開する予定だけど」

係長がKYな口調でそう付け足します。でも、知ったことか! とは言わないけどそんな気分です。

 結局私は何も言わないまま部屋を出ました。

「今日はこのまま帰るか?」

と、係長が投げかけた言葉にも返事をせず、階段を1階まで降りました。そして何事もなかったように仕事しました。いつもより明るく丁寧に仕事しました。昼食時、昨夜後輩の一人は夜勤だったので今日は四人、私は朝の会議室での話を一切しませんでした。そして午後も普通に勤めました。そうすることで、会社が思い直してくれると願うように。


 その夜、帰宅して寝る前に私は、

『一身上の都合で、退職させて頂きたくお願いいたします』

と、便箋に一行書きました。




 八月九日 水曜日、なんだかスッキリ起きれず、遅刻ギリギリで出社しました。席につくなり始まった朝礼が終わると、すぐに係長の所に向かいました。なんだかみんなには見せたくなくて、退職願いを入れた封筒はノートに挟んで持っていました。係長の席に近付くと察したようで係長が立ち上がります。そして事務室の入り口の方へ誘導されます。

 エレベーターで5階へ上がりました。そして昨日の朝と同じ小会議室で待つように言われます。エレベーター内で聞かれたので、退職の意思はもう伝えてありました。

 ほんのしばらくで昨日と同じメンバーが揃いました。私は退職願いを総務課長に差し出します。受け取った課長は中を見てから口を開きました。

「じゃあ、九月末で退社と言うことでいいかな?」

「はい」

係長が課長に何か紙を差し出します。課長はそれを見て独り言のように言います。

「九月末と言っても、給料の締めは二十日だから二十日までだよな。で、有給は21日、丸っと残ってるんだな。それと、手当てに換算できない出勤が2,3日分あるのか」

そして手帳を開いてカレンダーを見ながら続けます。

「えっと、九月二十日から有給21日とプラス2,3日……。お盆休みからはもう全部休みだなぁ。それでいいか?」

何だかあっけない、あっという間に退社までのスケジュールが決まりました。仕事をしないスケジュール、何もしない、何もないスケジュールが。二年以上勤めて、これでも役に立ってる、戦力になっている、と思っていたのに、こんなに簡単に何もなくなってしまうんだ。なんだか泣きたい気分で頷きました。

「わかった、じゃあ出社はもう、今日と明日だけだな。係長、何か引継ぎあれば急がないといけないけど、大丈夫?」

私の気持ちなんて関係なしに話が進んでいきます。

「はい、高橋はBグループですから、担当の客先があるわけでもないですから」

係長のその言葉を聞いて、本当に涙が出てしまいました。私のやっていたことって、今突然いなくなっても何も困らない、誰でも良かったことなんだと、悲しくなりました。まあ実際そうなんだけど、それでも私は一生懸命やっていた、私が処理した後のことに誰が関わってもいいように気を遣って頑張っていた。なのに、なのに、それなのに……、涙が止まりませんでした。

 そのあと私は泣いていたと思っていませんが、涙を止めれぬまま話を聞いていました。ま、大した話はなく、退社に関する書類を何枚か提出しないといけないってことと、在籍最終日の九月二十日は午前中に一度、挨拶にくらい来て欲しいということだけでした。私はそれらにも頷きました。そう、頷いただけ。泣いてはいないと思うのですが、しゃべれませんでした。

 そんな状態を見ていた係長が、今日はもういいから帰れと言いました。私がためらうと、このあと6階の総務の了解を取ったら、昨日見せた新しいシフト表を貼り出す、そしたらお前が休日、夜間に全く入っていないことで騒ぎになるだろうから、いない方がいい、と言われました。

 私は帰ることにして、今朝自席まで持って降りた私物を取りに事務室へ行きました。隣の席の深田さんが席にいませんでした。誰とも話したくなかったので、ほっとしながら急いで私物を持って出ました。そして更衣室へ。

 着替えを終えてロッカーを閉めたころ、更衣室の入り口の開く音がしました。そして入り口前のカーテンから人が入ってきました。

「やっと見つけた」

私を見てそう言ったのは二村さんでした。私が何と返そうかと思っていると続けてこう聞いてきます。

「その格好、帰るの?」

「あ、はい、すみません」

「そう、……なんかあったの?」

私の目をまっすぐ見てそう言う二村さん。

「いえ、その……」

私が答えあぐねていると二村さんが続けます。

「私ね、昨日から高橋さんに話があったの」

「はい?」

「月曜日にうちの係長から、お盆休みの間、日勤でいいから何日か入れないかって言われたの。私、九月で辞めるでしょ? だからお盆休はもう出る気なくて、全部休みにしてもらってたの。だからその時も断った」

「……」

「でもね、ほんとに困ってる顔してたから、どうしてもって言うなら考えようかなって思ったの。お盆休みの後も何日か出社したら、後は有給使ってもう来ないし。だから、何でですかって聞いたの」

「……」

「そしたらね、シフトを組み直してるって言うの。でも考えたらおかしいでしょ? お盆のシフトなんてもう組んであったもんね。で、聞いたけど、組み直してる理由は答えてくれなかった。でもね、係長のパソコンの画面に作り直してるシフト表が出てたのよ。それを見てたら、高橋さんの名前が一つもなかった」

「……」

「海外旅行でも行くの?」

「……」

「それとも、会社辞めるの?」

「……なんで」

「昨日、今日と、二日続けて朝から会議室。……辞めろって言われた? 松本さんとのことで?」

「……」

返事が出来ませんでした。何も言いたくなかったわけではなくて、口を開いたら泣きそうだったから。

「あの広まってる噂の方は嘘だって、もう少しで……」

「もういいです……」

二村さんを遮ってそう言ってました。そしてやっぱり泣いてしまいました。

「もういいです」

繰り返していました、俯いて涙を拭きながら。二村さんが傍に来て背中をさすってくれました。でもかける言葉がないのか、二村さんも何も言いません。

 二村さんの優しい手の感触に、私は耐えれませんでした。なので、

「すみません、帰ります」

とだけ言って、更衣室を出ました。更衣室から廊下に出ると堀口さんが立っています。一瞬だけ顔を合わせて通り過ぎました。そして階段を下りました。一瞬だけ目の合った堀口さんの顔に、表情はありませんでした。




 八月十日 木曜日、池下駅から会社に向かって歩きながら思います、今日が最後なんだと。三年前の今頃、一生懸命就職活動をしていました。今の会社を訪ねるためにこの道も歩きました。そして内定を頂き、採用通知を頂き、入社した会社。

 入社直後に母と離れて暮らすことになった。でも、この会社での仕事があったから一人でもやってこれた。夜勤がある、休日出勤もある、なので友達との休みの予定が合わない。そもそもまとまった連休なんて望めない部署だったから、遠くへの旅行なんて考えること自体がなくなっていた。そんな環境に、辞めようと思ったことは何度かありました。でも辞めれなかった。自分の中でも儀式的に辞めようと思うだけで、本気で辞めようと思ったことはないと思う。なぜなら、それは会社が私の居場所だったから。居てもいいところだったから。

 約二年半の間、そんな私のよりどころだったここへ通ってくるのは今日が最後、そんな思いで、たどり着いた会社の玄関前で七階建ての建物を見上げてから中に入りました。


 まだ七時前、1階に夜勤の人がいるだけです。誰もいない更衣室でロッカーの中の私物を鞄に詰め込みました、大した量じゃないけれど。そして着替えてから別の鞄を持って事務室に向かいます。着替えてから気付きました、ロッカー上部の棚にスマホが置いてある。昨日帰宅してからないことに気付いて、机の引き出しだと思っていたけど。

 階段を下りながらスマホをチェック。中川さん、和田さん、深田さん、この三人からメールや着信がありました。メールを見ると、どうやら私の退職はもう知られているようでした。


 業務課の事務室に行くと、夜勤の先輩女性二人が私の机から離れた席に並んで座ってしゃべっていました。確か四年先輩と二年先輩です。どちらともそう親しくはありませんでした。

「おはようございます」

と、声を掛けてから自分の席に行きました。二人は挨拶されて、振り向きながら挨拶を返してくれました。でも私だと分かると気まずい顔になりました。

 そんな二人を気にせず机の整理を始めました。今日中に全部片づけないといけないから。と言っても、机にも大した私物は置いていないんだけど。持って降りてきた鞄に机の中の私物を入れていきます。中途半端に少しずつ残っているお菓子類が一番多いかも。

「高橋さん」

いきなり声を掛けられて顔を上げると、向かいの席の向こうに二人が並んで立っていました。

「はい」

返事を返すと四年上の鶴見さんがこう聞いてきます。

「昨日、退職者の紙が貼りかえられたんだけど、高橋さんの名前が増えてた、そうなの?」

そっか、退職者一覧に私も付け足されたんだ。だからみんなもう知ってるんだ。親しかった人にだけは退社することを告げて回らないといけないと思っていたけど、その必要はもうなさそう。

「あ、はい、そうです」

「それって、松本さんと揉めたことで?」

今度は二年上の山田さんがそう聞いてきました。

「まあ、……そうですね」

「全員希望退職者ってなってるけど、松本さんたちは実際は解雇でしょ? ひょっとして、高橋さんも会社から辞めろって言われたの?」

鶴見さんのこの質問にはどう答えようかな。懲戒処分にされたくなかったら辞表を出せと言われた、なんて、言えないよね。

「その、……まあ、そうですね」

「それ、もうちょっと待ってもらえないの?」

「え?」

「今ね、高橋さんが悪いことになってるあの噂、あれは事実じゃないって話をみんなでし始めてるのよ」

「ごめんね、私も見てたのに違うってすぐには言えなくて」

鶴見さんに続いて山田さんもそう言ってくれます。

「そうなんですか、でも、もう正式に退社が決まってますから」

でも私はそう返していました。それに対して鶴見さんがこう聞いてきます。

「決まってるって、高橋さんは? 高橋さんは辞めたいの?」

なんだかその温かい言葉に、また涙が出そうな気配を感じました。

「まあ、そうですね、辞めるって決まったら、それはそれでなんだかほっとした気分になってますから、これでいいかなって」

なので、そうならないように明る目に返しました。私ってほんとに素直じゃない、自分でそう思いました。辞めたくないってそのまま泣ければ、ひょっとしたら辞めなくてもいい流れになったかも知れないのに。

 私の口調に少し驚いたような顔をした二人ですが、少しすると控えめな笑顔で鶴見さんがこう言います。

「そうかもね、こんなゴタゴタした会社、辞めるとなったら私もほっとするかも」

「ですよね、夜勤はあるし、休みはないし、辞めれるなら辞めた方が得かもですね」

山田さんも鶴見さんに同調してそう言います。

「そうよ、高橋さんとか抜けるから、すでに夜勤とかさらに増えてるんだから」

「あっ、そうだ、私、お盆休み実質一日だけになっちゃってるんですよ」

「私もそうよ、日曜日が休みになってるだけ」

なんだか二人の会話になり始めたので、私はこう言って割り込みました。

「すみません、私のせいで」

「ううん、高橋さんだけじゃなくて、結局九人も減るんだから、しばらくはしょうがないよ」

「松本さんたちはあれからもう来てないですもんね」

その山田さんのセリフに続いて私はこう言いました。

「私も今日が最後です。あとは有給使わせてもらって休みますから」

「そうなの? じゃあ顔を合わすのはこれが最後かな、私たちはこのあと帰っちゃうから」

「あ、そうかもしれないですね。あの、今までお世話になりました」

私はそう言いながら立ち上がって軽く頭を下げました。

「ううん、高橋さんこそお疲れさまでした」

「元気でね」


 二人が離れて行ってからパソコンの電源を入れました。そして休日夜勤のシフト画面を出してみました。ちなみに今夜は中川さんと私が夜勤の予定でした。私の代わりは和田さんになっています。和田さんも退社するんだけど、まだ夜勤とかやるんだ、と、驚きました。そこで和田さんのシフトだけ見ていくと、九月八日の金曜日まで通常通りのようでした。お盆期間も全休は二日間だけで、しっかりシフトに入っています。なんだか全部休みにしてしまった私は、悪いことをしている気分になりました。最新の九月二十日までのシフトを見ると、週に二日以上の頻度でみんな夜勤が入っているようです。残念ながらもう本当に他人事ですが、かなりきつそうです。


 朝礼前に何人かが私に声を掛けてくれました。でもそのあとは誰も話し掛けてきません。ま、連休前の最後の営業日なので、電話が月曜日並みに鳴りっぱなしだったからなんだけど。

 お昼休みは五人で食べました。私の出社は今日が最後だと知るとみんな残念がってくれる。そして、松本さんとのことが原因なら気にするなとか、会社に掛け合ってくれるとか言って、引き留めようとしてくれます。中川さん、和田さんからは、なんで結論を出す前に相談してくれなかったのかと怒られました。そんなところへ長縄さん、二村さんも合流してきて、同じようなことを言ってきます。なんだかみんなから怒られてました。でも、とても嬉しかった。嬉しくてまた涙を流していました。

 午後も後半になると、みんなそれなりに手が空いてきます。するとまた何人かが声を掛けてくれました。優しい言葉を嬉しく感じながら、私はやっぱりひねくれていました。こんな言葉や表情をくれるのなら、あのとき私をあんな目で見ないで欲しかった、あんなデマに頷かないで欲しかった、そう思わずにはいられなかったから。

 午後六時前、最後の日の業務をすべて終えました。机の上をきれいに片づけてパソコンの電源も落としました。立ち上がってフロアーを見渡します。メンテ課も含めて四十人ほどがいるこの職場。私の机の位置は配属されてからずっと同じなので、ずっと見てきた景色。でもこれが見納め。そう思うと何かこみ上げてきました。が、涙を流すほどでも、写真を撮っておこうと思う程でもありません。

 係長の席に行きました。今日着ているもの以外の制服は、冬用の物も含めてクリーニング済みの物を持って来ていて、ロッカーに入れてあります。それらを今着ているものと一緒に最後の日に返せばいいのか聞きました。すると、クリーニング済みの物はメンテ部総務課に返してロッカーを空にしてくれと言われました。今日私物を全部持って帰るつもりでいて良かったです。

 係長に、一応、お世話になりました、と、挨拶して離れました。課長にも挨拶すべきなのでしょうが、課長はずっと休んでいます。ま、ハッキリ言って会いたい人じゃないのでいいんだけど。けれどこれで本当にすべて終わりました。

 事務所の入り口でもう一度事務所を振り返りました。まだ残っている何人かが小さく頭を下げてくれたり、手を振ったりしてくれていました。と、その中から二人が小走りで寄って来てくれました。中川さんと和田さん。二人は今夜夜勤なので送別会が出来ない、だから来週の金曜日の夕方に池下まで出て来て、と言ってきました。当然私は頷きました、嬉しいです。

 更衣室で最後の着替え。もうこの部屋に入ることもありません。荷物を全部持って更衣室の隣の総務課へ。そこで制服を返しました、今日着ていたものは最後の日に持ってきますと伝えて。総務課長は不在だったので係長に挨拶して出ました。

 会社を出てから今朝と同じようにまた建物を見上げました。なんだかんだ言っても愛着のあった会社。まだもう一回来ると言っても、実質今日が最後です、しばらく眺めていました。

『今までありがとう、私の最初の職場』

心の中でそう言って、背を向けました。




 会社を出て南に一本目の大通り、その通りを左に行けば私の使う池下駅、右に行けば今池駅です。当然私は左に曲がります。曲がったところに知ってる人が立っていました。そして私に近付いてきます。明らかに私を待っていた感じ。その人は堀口さんでした。私はこの人が今回の一連の事の大元だと知っています。だから少し怯えたように立ち止まってしまいました。顔も引きつっていたかも。

「今日で最後なのよね」

いきなりそう言われました。

「はい」

「ちょっとでいいからどこかで話さない?」

そんなに、いえ、全く親しくない、ほとんど話したこともない人です。でもなぜかすんなり承諾していました。

 堀口さんについて入ったのは、池下駅から少し北に行ったところにある喫茶店。この前和田さんが堀口さんと話したと言っていたのと同じお店かも。

 注文したアイスコーヒーが目の前にくるまで二人とも無言でした。でもお店の人が席から離れるなり堀口さんが口を開きました。

「確認だけど、高橋さんは本当に希望して辞めるの?」

「え?」

「それとも、あの騒ぎのことで辞めろって言われた? それで辞めるの?」

「……」

堀口さんがどういうつもりで聞いているのか分からなかったので、返事出来ずにいました。すると、

「もし、辞めろと言われて辞めるんだったら、ごめんなさい、私のせいかも」

と、俯くように頭を下げます。私は意味が分からず、

「どういうことですか?」

と、聞いていました。

 堀口さんは顔を上げると、

「高橋さんも石田さんと関係があったこと、最初に掲示板に書き込んだの、私なの」

そう告白しました。私は驚いた顔で堀口さんを見るだけでした。堀口さんが続けます。

「でも信じて、松本さんがあそこまで反応して、あんなことになるなんて思ってなかったの。私は石田さんの騒ぎが続くようにしたかっただけなの」

そう言われても何も理解できませんでした。なので一番聞きたいことを聞きました。

「堀口さんは石田さんと私のこと、どうして知ってるんですか?」

「石田さんから聞いたの。と言うか、問い詰めたの、あのメールの写真以外に付き合ってる相手はいないかって。そしたら、高橋さんと和田さんの名前が出て来た。和田さんとは最近のことで、まだ何回かホテルに行っただけだって。高橋さんとは何か月か続いてたけど少し前に別れたって」

私は少しだけ安心しました。堀口さんが私のことを知っているのは、中野君から聞いたんじゃないかと思っていたから。だとすると中野君が、私が全部知っていることまで堀口さんに話しているかも知れない。そうなると堀口さんが今後私を巻き込むんじゃないかと恐れていました。

 私はまた別の質問をしました。

「なんで石田さんの騒ぎが続くようにしたかったんですか?」

そう、不思議です。その騒ぎが続く限り、堀口さんも何かしら言われ続けることになるのだから。でも堀口さんは、そんなことも分からないの? って顔でこう言います。

「なんでって、クビどころか何の処分もなかったじゃない、石田さん」

「……」

そっか、この人は最初から石田さんをとっちめるのが目的だ。だから自分の写真まで晒して騒ぎを起こしたんだった。

「会社は処分しない上に騒ぎまで治めようとするから、すぐに社内でも話が下火になっちゃったでしょ?」

「……」

話を振られたようだけど、私は無反応でいました。そしてグラスに手を伸ばしました。それを見て堀口さんも少し落ち着いたかも、同じようにグラスに手を出します。

 一口、二口ほどアイスコーヒーを飲むと、堀口さんがまた話し始めました。

「高橋さんには正直に最初から全部言うわ」

私は驚きを隠して堀口さんを見ました。驚いたのは、メールは自分の仕業だと告白するのだと思ったから。でも違いました。

「私はね、石田さんのことが社内であまり騒がれなくなってきた時に、何かもう一度騒ぎにならないかなって考えたの、会社が取引先にまで話が漏れ始めて神経質になってるって聞いたから」

「……」

それ最初からじゃないじゃん、なんて突っ込みません、黙って聞いてました。

「そしたらその頃に、池内さんも石田さんのことで怒ってるって耳に入ったの。ま、正確には池内さんは、入ってきたばかりの新井さんがやめることになったメールの犯人に怒っていたんだけどね。でもこれは使えると思ったの。だから池内さんに話した、石田さんから聞いたんだけど、和田さんとも何度かホテルに行ってたみたいって。そして、ひょっとしたらメールは和田さんじゃないの? って」

これを聞いて、私は心の中で怒っていました、池内さんも和田さんも利用されたんだって。

「そしたら池内さんの反応は予想以上だった。すぐに和田さんの所に行っちゃったから。そしてそのあとの騒ぎは計算通りって感じだった。会社はすぐに石田さんを謹慎にして出社させないようにしたし、それ以上の処分もするみたいなことも聞こえてきたから」

計算通りって……、でも、和田さんの時は一週間くらいで治まった気がするけど。そう思っていたら堀口さんもこう続けます。

「でも会社の動きは想定外だった。騒ぐ奴は処罰するとかって言われたでしょ? 実際池内さんは十月から異動になるみたいだし。一週間もしないうちに誰も何も言わなくなっちゃった」

池内さんの異動話は初めて聞きました。処罰としての異動? どこにだろう、と思いましたが何も言いません。後輩を想ってしたことで処罰されるなんて、しかもこんな人に利用されてだなんて、気の毒だとは思うけれど私には今さらだから。

「だから和田さんに話したの、高橋さんのこと。和田さんがもう一度騒ぎを起こしてくれたら、今度こそ会社も無視できないだろうって。でも和田さんは期待外れだった。と言うか、使えなさすぎ」

また怒りが湧いてきました。でもそれを鎮めるためにアイスーコーヒーを飲みました。

「なんの騒ぎも起こらないんだもん。でも一週間くらいは待ったのよ、でもダメだった。それでさっき言った最後の手段、もうそれしかなかったの。ほんとはあんなところに書き込むとかしたくなかったんだけど、もうしょうがなかったの」

「……」

この人も狂ってる。

「でもね、直後はまた失敗って思った。高橋さん、直後の月曜日の朝、本社総務に呼ばれたでしょ。いきなり潰されたって思った。そう思ってたのに、お昼前くらいからいろいろ聞こえてきたの、高橋さんはとんでもない女だとか、ネットで晒されてるのに平気な顔して仕事してるとかって。特に松本さんたちが騒いでるって聞こえてきた時は感謝したわ、仕事できない女って有名だけど、使えるじゃんって」

私はずっと無言で聞いていました。極力反応も示さないようにして。でも一瞬反応しそうになりました。使えるじゃん? 何様なの! それに、仕事できないって有名? 私より先輩の堀口さんが知らないわけないんだけど、松本さんがほんとは仕事できる人だって。松本さんは仕事をしなくなっただけ。それは多分課長との付き合いが始まってから。それまではなんだかんだ癖がある人だけど、仕事は細やかにする人でした。なにせ新入社員の私の教育担当として、私に仕事を全部教えてくれたのは松本さんなんだから。だからこそ、そんな私が石田さんと関係があったのが許せなかったのかも知れないけど。

「でもあの人はちょっとやり過ぎたみたいね、ほんの二、三日騒いだだけであなたと衝突しちゃった。あなたが暴れるって言うのも計算外だったけどね。おかげで社内は大騒ぎになったけど、それは全部あなたに向いてて、逆に石田さんのことがみんなの頭から抜けちゃった。ほんとに計算外、私ね、あなたのことが憎かったわよ」

堀口さんはそこでやっと口を止めると、またアイスコーヒーを口にしました。そしてしばらくするとこう言います。

「ずっと黙ってるけど、何か言いたいこととかないの?」

言いたいこと、ある。けれど口を開くと怒りをぶちまけてしまいそう。でもそう思っている心より、頭の方ははるかに冷静だったようです、感情に流されてはいたかもしれないけれど。なのでこう言ってました。

「堀口さん、ほんとに石田さんのこと好きなんですね」

「え?」

「石田さんが処罰されないとかなんとか言ってますけど、石田さんのこと悪くは言わないですよね。まだ好きなんですか?」

「いや、そういう話してたわけじゃないでしょ」

「でも捨てられて憎んでるんなら、あのくそ男がのうのうとまだ会社にいるのが許せない、とか、そう言うセリフが少しは出てくるんじゃないですか?」

「それは……」

「ひょっとして石田さんがクビにでもなって、誰にも相手されなくなって、弱ったところにでも寄り添って、もう一度とかって考えてたんですか?」

こんなひどい言い方、私にもできるんだ、と思いながら続けていました。

「だったらチャンスじゃないですか、訴えられて解雇されるんですよね」

堀口さんがまたアイスコーヒーに口をつけます。そしてこう言います。

「解雇されるんじゃなくて、もうされたのよ」

「だったら……」

「だからあなたに腹が立つのよ」

「……?」

私を遮って堀口さんがそうう言いますが意味が分かりませんでした。解雇されてほしくなかったってこと? 堀口さんが続けます。

「あなたが暴れたインパクトが強すぎて、誰も知らないでしょ? 解雇されるみたいだって噂があるだけ、解雇されたことはまだほとんどの人が知らない。詐欺と結婚詐欺の両方で訴えられている。警察にも呼び出されている。こんなことは誰も知らないでしょ?」

「……」

「私はね、騒がれた状態のままそう言うことがみんなに知れ渡って、結局はとことん情けない、惨めな奴だった、って烙印を、みんなに押させたかったのよ。なのにあいつは誰も知らないところで、何にもダメージを受けないまま逃げてった」

「……」

「あなたが考えもなしに暴れるから、あいつはそれで助かったのよ。ひょっとしてわざとなの? あいつを助けたんじゃないでしょうね。あいつにまだ気があるのはあなたの方でしょ。あいつは見た目だけはカッコいいからね、あんたみたいな中途半端な容姿じゃ、もうあんな男と付き合えないでしょ。ま、やられてただけで付き合ってたわけじゃないんだけどね」

それはそっちも同じでしょ! なんだかすごく腹が立ちました。なので多分生まれて初めて、喧嘩を売るような事を言ってました。

「石田さんのダメージが中途半端だったから怒ってるんですか? とことんダメージを受けた石田さんじゃないと、もう相手にしてもらえそうにないから? そこまで石田さんに相手してもらいたいんですか?」

反撃されました。

「あのね、いい加減にして。さっきからあなた、根本的に勘違いしてるわよ。私はね、一人だけなら殺しても罪にならないって法律が出来たら、あいつを殺すって約束してあげるわ」

怖かったです、もう逆らいません。

「私がしたことであなたが会社辞めることになっちゃったみたいだから、せめて何があったのかちゃんと話して謝ろうと思ったのに、なに考えてんのよ」

そう言うと堀口さんは立ち上がりました。

「あんたが松本さんに反撃したって、話半分に聞いてたけど間違いなさそうね。あんたってほんとはやらしくて激しい性格だったんだ。あんたみたいなのを辞めさせるって、会社が正解だわ。じゃあね」

それで堀口さんは行ってしまいました。なんだか本当に怒らせた、いえ、傷付けたのかも知れないです。やっぱりさっきのはねちゃねちゃしたひどい言い方でした。でも一番ひどいのは堀口さんだ。自分の思いだけでみんなを巻き込んで、私はちょっと別にするにしても、新井さんと和田さんは会社を辞めることになってしまった。そのことを彼女は少しでも悪いと思ってるのかな。私にも謝るつもりだったと言っていたから、悪いとは思っているのかも知れないけれど、謝って済むことじゃない。ほんとに酷い。

 私も帰ることにして席を立ちました。テーブルの上の伝票を見た時にもう分っていましたが、二人分払うことになりました。ほんとにひどい人。




 八月十一日からのお盆休みは一人で過ごしました。もともとお盆休みはたっぷりシフトに入っていたので、朱美や真由には遊べないと言ってありました。一転してずっと休みになっても、なんとなく一人でいたかったのでそのことを二人には連絡しませんでした。

 二日ほどぼ~っと過ごした後、部屋の掃除をしてました。断捨離と言えばいいのかな、徹底的に片づけていろんなものを捨てました。石田さんの私物や着替え、スーツ、全部捨ててやる! と思いながら大きな紙袋に詰め込んで、着払いで送りました。

 休み明けの十六日、と言っても私はもうずっと休みなんだけど。浜松の祖父母の所へ行きました。二日間だけ休みがもらえた、なんて言って、一泊甘えてきました。祖父母の所にも相変わらず母からの連絡はないみたい。そう思っていたので別にショックでも何でもないけど。

 十八日の金曜日は中川さん提案の送別会。主役は私と和田さん、それに二村さんも。中川さんが声を掛けたみたいで、長縄さんや工藤さん、それと深田さんともう一人の後輩。そのほかにも業務課から男女一人ずつが来てくれて、思った以上に盛大な飲み会になりました。

 翌週からはネットの転職サイトで職探しを始めました。いつまでも遊んでいる余裕はないので。でもあまりいい求人がありませんでした。いえ、飛びつきたいところはあるのですが、私のスキル不足で応募資格がないだけ。事務職で給与などの待遇がいいところだと、ワークマイスターって資格取得者を求めているところが結構あります。ワークマイスターってなんだ? って調べてみると、表計算などの事務用ソフトを集約した一番有名なワーカーってソフトを使いこなすための資格でした。マスターとか、プロとか、何段階かあるうちの最上級がマイスターとなっています。ワーカーの中の表計算ソフトは使ってたけど、それ以外はほとんど……、今からでも勉強して取ろうかな、うちのパソコンにもワーカーは入ってるし。とか思いながら、職安にも行って見ることにしました。でも、何でこんな不便なところにあるの! って思わず言ってしまうようなところでした。基本的に失業者が来るところでしょ? こんなとあるバス路線の終点みたいなところに作らないで、せめてどっかの駅前の便利なところにしてよ。職安でも窓口には行かず、中のパソコンで職探し、ネットで見るのと変わらない感じでした。

 ネットで条件の良いところを見つけて早速電話してみました。すぐに面接に呼ばれました。名古屋駅前の高層ビルの、37階にある会社。エレベーターを降りると目の前に大きなガラス張りの入り口。中に入ってカウンターの向こうを見ると、百人分はありそうなほど机があります。当然人もいっぱい。すごい、こんなところで働ける。なんて思いながら応接で面接を受けました。そしてそこを出るとき、すでに諦めていました。早いうちに結果は連絡します、と言われたけれど、こんなことやったことありますか? とか、こんなこと出来ますか? といった質問に全て、いいえ、としか答えられませんでした。私って本当に何も持っていない、今まで何やっていたんだろう。その日のうちに予想通りの連絡がありました。

 電話オペレーター職の求人。こうなっているのはセールスの電話って言うのが多いように思いましたが、今見ているところは自動販売機のクレーム応対のコールセンターでした。当初は夜勤が多くなるけれど、その分手当てで優遇します、とかって書いてある。贅沢は言ってられないし、クレーム応対は二年以上やって来てスキルはある。掲載されてるお給料はいまいちだけど、これに手当てが加わるなら上等だ。さっそく電話して面接に。場所はうちの近くでした。本郷駅の一つ手前のバス停で降りて、東名高速の名古屋インターの裏の方に行ったところ。歩いてでも通えそうな場所。

 会議室のようなところで面接になりました。でもいきなり、コールセンター埋まっちゃったんだけど、ベンダー業務はどう? と聞かれました。ベンダー業務って? と聞くと、自販機に飲み物を詰めて回って、売り上げの回収、釣銭補充などの仕事。担当の自販機の売り上げ次第で歩合給が付くから、自販機ピカピカに磨いて、売れ筋商品をちゃんと補充してるスタッフは、年収一千万くらいあるよ、なんて言われて心が動くけれど、ほんとかなぁ? それにそれだけ売り上げ稼ぐってことはそれだけ補充するってことでしょ? 一千万円、缶ジュース一本百円としたら十万本? 一日三百本弱くらい? でもそれだと売り上げだから、利益からそれだけもらうとなるとその何倍も売らなきゃいけない。と言うことは一日で軽く千本以上は売らなきゃいけない。毎日千本以上補充? 私には無理だ。一千万って数字が頭に引っ掛かるけれど、お断りしました。


 そんな求職活動中の九月一日金曜日。午後三時の少し前、池下駅南側の大通りを東に向かって歩いていました。この坂を上り切ると覚王山駅。そしてそのままずっと行くと本郷駅にも続いている道です。坂の途中のホテルの前に着きました。その手のホテルじゃないですよ、普通のホテルです。そこのラウンジが目的地。

 今朝電話がありました、渡辺部長から直接。そして、すぐにでも会って話したいことがあるから都合をつけて欲しいと言われました。ちょうど今日は夕方に今池まで行く予定でした。仲の良かった同期の女の子二人が、送別会代わりに飲もうと言ってくれたから。なので三時頃に伺いますと言ったら、会社ではちょっと、と言って、ここを指定されました。

 ホテルのエントランスに入って見回すと、すでに見えてました、二人。そう、渡辺部長だけでなく、高橋課長もいました。二人に近付いて挨拶すると、座るように言われて二人の前に座ります。どう過ごしていたか、などと聞かれて話しているうちに、注文したアイスコーヒーが目の前に来ました。


 どうぞ、と言われてそれに一口口をつけると、

「高橋さんには謝らないといけない。申し訳なかった」

と、渡辺部長が言い、二人が頭を下げます。私が驚いていると、顔を上げた渡辺部長が続けます。

「恥を忍んで隠さず話すと、高橋さんの処分をしたころ、我々は問題を抱えて焦っていたんです。だから高橋さんのことも十分調査せずに処分を下してしまった。本当に申し訳ない」

また二人が頭を下げます。

「あの、問題って何があったんですか?」

でも私はわけがわからないので質問していました。すると、それは、と言って二人が顔を見合わせます。でもやがて渡辺部長がまた口を開きました。

「社内の噂で聞いたかも知れないけれど、以前話した女性から、石田君は正式に告訴されることになった。それで会社は彼を懲戒免職にした。でも彼女は石田君だけじゃなくて、メールで自分の写った写真を勝手に公開した人間にも損害賠償を求めるということだった。なので、これも以前話したと思うけど、会社の方に犯人捜しを要求してきていた。でも、会社としては特定できていない。それを報告したら、そっちも警察に訴えを出して捜査してもらうかも知れないと言って来た。そんな時だったんだよ、高橋さんと松本さんが揉めたのは」

そう言うと渡辺部長はコーヒーに口をつけました。私は動かず続きを待ちます。カップを置いた渡辺部長はまた話し始めました。

「言い訳にしかならないけれど、そんな状況の時にこんな報告書が正式に提出されていて、社内の噂もこの報告書を裏付けるものしかその時は聞こえてこなかった、だから判断を間違ってしまった」

渡辺部長の話に合わせて高橋課長が取り出した報告書を見ました。業務課長が作成したものでした。内容は、私が一方的に悪いと広まった噂通りの物でした。そして驚きました、一番下の認印を見て。松本さんは分かるとしても、深田さんがこの報告書にハンコを押している……。

 私の様子を見て高橋課長が口を開きます。

「下のハンコは恐らく、その報告書を作成した業務課長が勝手に押したものです。松本さんには確認できていませんが、深田さんには確認しました。彼女はハンコどころか、その報告書自体見たことがないと言ってました」

続けて渡辺部長が話します。

「その時に彼女から、深田さん本人から、当時の状況を聞かせてもらいました。松本さんがいきなり後ろから高橋さんを叩き始めた、それも分厚いカタログで何度も頭を叩いていた、と彼女は言いました。それで彼女は、これ以上叩かれたら高橋さんが危ないと思って止めようとしたらしいよ。ちょうどその時に高橋さんがモニターを持って振り向いて、それに驚いた松本さんが自分の方に避けて来たから松本さんとぶつかったと言ってた。そして松本さんに突き飛ばされて机にしがみつくような格好で倒れた。だから自分の席のパソコンは高橋さんが投げつけたとかではなくて、自分がその時落としたんだと、そこまで言ってくれたよ」

謎が一つ解けました。松本さんがカタログを振り回し始めた時、深田さんが席を立って離れたのを見たように思っていました。でも、松本さんが私の反撃を避けた時、すぐ近くにいた。実はそれを不思議に思っていました。深田さんは松本さんを止めようとして近付いて来てくれてたんだ。そんな彼女が一番酷い怪我をしたなんて、本当に申し訳なく思います。

 渡辺部長と入れ替わるように高橋課長が話を続けてくれていました。

「深田さんのその話を聞いてから、業務課の高橋さんの席の近くの人たちにも個別に確認しました。全員、深田さんの話と同じような状況だったと話してくれました。こういう聞き取りを最初にちゃんとしておくべきでした。当事者が確認印を押した報告書を、噂話などを裏付けに信じてしまったこちらの落ち度です。本当に申し訳ありませんでした」

今さらそんなこと言い出しても、そうやって何度も頭を下げられても、ほんとに落ち度だよ。でもこの二人や会社より、私がその時一番腹が立ったのは、やはり課長でした。見事に松本さんには一切非がないような報告書を作って、勝手に深田さんのハンコまで押している。そう言えば一番最初に私のハンコを勝手に押した報告書も作ってたっけ。ほんとに許せない。こうやって本当のことが表に出て来て、課長は何と言ってるんだろうか。

「課長は今も報告書通りだと言ってるんですか?」

聞いちゃってました。渡辺部長が答えてくれます。

「いや、彼からは聞けなかった」

「え?」

なんで? 一番追求すべき人でしょ。そう思っていたら続けて話がありました。

「彼には課長職として他にもいろいろ問題があったんだよ。だから今回の組織変えのタイミングで、懲罰の意味を込めた異動を告げてあった。ちょうど高橋さんに処分を告げたのと同じ頃だよ。彼はそれに不服だったようでしばらく休んでいたんだけど、その間にさっき話した聞き取りをしたから、彼からも再度話を聞こうと呼び出した。体調が悪いとか言ってなかなか出て来てくれなかったんだけど、やっと出て来たと思ったら辞表を置いて帰ってしまった。それもメンテナンス事業部の部長の所にだ。だから話をしていないんだよ」

「一昨日のことです」

渡辺部長に続いて高橋課長がそう付け足しました。

 私は何も言いませんでした。腹も立っていませんでした。もう何を言っても、何に怒っても空しいだけ。しばしの沈黙にそう思っていたら、渡辺部長がまた話し掛けてきました。

「ところで高橋さん、今はどうしてる?」

「はい?」

どうしてるって、生きてますよ、何もしてないけど。

「いや、次の勤め先とかは? 探してる? それとももう決まってる?」

「ああ、いえ、探してはいますけど、まだ決まってません」

「そっか、都合のいいことばかり言うようで恐縮なんだけど、うちに戻ってくれる気はないかな?」

「えっ?」

「暴行騒ぎの加害者側だと判断したから、辞めてもらうようなことになったんだけど、そうでなければ高橋さんは辞めてもらったら困るような人材だから、もし良ければ戻ってもらえないかな」

「……」

思ってもみなかったことに反応できませんでした。すると高橋課長が続けて言います。

「正確に言うと、高橋さんの九月期での退職はもう正式に処理されているので、それはそのままです。でも、メンテナンス事業部の業務課で数名の人員不足となるので、来週か、再来週あたりから中途入社の求人を出す予定です。それに応募してもらえないですか? 当然、即、採用します」

そしてまた渡辺部長が続けます。

「辞めさせられたと思われているところに戻るのは抵抗があると思うけど、どうだろう。中途採用の条件として、これまでより給与なんかも優遇できると思うから。それに今回の整理退職で出る退職金、いくらだった?」

「高橋さんは退職金扱いではなくて退職手当の扱いです。えっと、三年未満ですから十五万円です」

渡辺部長の投げ掛けに高橋課長がそう答えます。私は十五万円と聞いて、正直ガッカリしてました。すると渡辺部長もこう続けます。

「十五万? それだけか。ま、少ないとは思うけどそれは受け取ってもらって、当然返す必要はないから」

二人が私を見ていました。でもそんなすぐに返事出来ません。説明できることではありませんけれど、本当にいろいろあったんだから。いろんなことが起こって、いろんなことを言われて、いろんなことを思って、そう、いっぱい怒って、泣いて、傷ついて、そして今に至っているんです。本気で嫌な仕事だったわけじゃない。転職は難しそうだとも実感している今、何をするか分かっている仕事にもう一度つけるだけでいい話だと思う。でも抵抗がありました、心の中で、いや、単なる意地かな。

「石田君の騒ぎから、いろいろ穏やかにはいられなかった職場だとは思うけど、今回全て片付いたわけだから、本当に考えてもらえないかな」

何も返事をしない私に、しばらくして渡辺部長がそう言ってきました。そう言われてこう聞いていました。

「堀口さんは、堀口さんはどうしてるんですか?」

そう、彼女がいる限り全て片付いたわけじゃない、彼女こそが大元の原因、ラスボスなんだから。予想外の質問だったのでしょ、少し驚いた顔をしてから渡辺部長が答えてくれます。

「堀口さん? そうか、彼女もだったね。彼女はそのままだよ。石田君はもう会社からいなくなったわけだから、彼女も落ち着いて仕事できるんじゃないかな。それにそう言うことの社内の噂話や陰口みたいなことも、こちらで把握している範囲ではなくなったとは言えないけれど、ほとんどないとはもう言えるから」

その話で私の中では結論が出ました。堀口さんはそのままいるんだ。これまでの騒ぎすべての原因のくせして、いろんな人を巻き込んで、いろんな人を傷つけて、泣かせて、退職に追いやって、自分は何事もなかったかのように残るんだ。それも被害者として労われて。

 やっぱり何かが私の中で突き上げてきます。いっそのことすべてをこの二人に話してやろうか。そうなると中野君のことも話さないといけないけど、そんなのもうどうでもいい、とまで思いました。けど、バカらしい、今さら。そんなの堀口さんの勝ち逃げ、思う壺だよ、と、心の中で誰かが言う。でもそれでいい、勝ち逃げならそのまま逃げ切ってって感じ。あの人のレベルになんで私が付き合わないといけないの。私は誰かを責めるために騒ぎを起こして、なんてことをする人間にはなりたくない。そう、堀口さんみたいにはなりたくない。

「すみません、本当にありがたいお話なんですけど、いろいろ悩んだ末に辞める決心をしたので、お断りさせてください」

何だかそれらしいことを考えてそう返事してました。でも本音は、恐ろしい堀口さんや、狂人の中野君のいるところに、わざわざ戻りたくないだけ、かも。

 その後も二言、三言、引き留められました。でも固辞し続けました。そして、気が変わったらいつでも連絡を、と言う言葉にお礼を言って別れました。

 池下駅周辺まで戻って来て時計を見るとまだ四時。失敗しました、渡辺部長との約束をもっと遅い時間にすれば良かった。だってその後の約束は六時過ぎって時間、二時間も時間を潰さなきゃいけない。

 のんびり歩きながら今池駅の方まで行きました。そして今夜行く予定になっているお寿司屋さんの近くの喫茶店に入りました。若い女三人でお寿司屋? って思うかもしれないけど、そのお店は女性客も多いところ、そんなに高くないし、居酒屋感覚でお料理も豊富だから。ちなみに、二村さんが行く居酒屋兼ライブハウスのすぐ近くです。

 喫茶店ではソフトクリームとアイスコーヒーを頼みました。ここのソフトクリームはちょっと高いんだけど、とってもおいしいのでお気に入りです。

 ソフトクリームを頂いた後、アイスコーヒーを飲みながらスマホで転職先を探していました。でも一時間くらいで飽きました。そして何となくワークマイスターの資格取得講座を検索。結構いっぱい出てきました。そして以外に簡単に取れそう。中でも目に付いたのは星ヶ丘女学園のオープンカレッジ講座。星ヶ丘なら近いし、そこは料金も他より安い。何より星ヶ丘女学園の卒業生限定とかではなく誰でもOK、男性でも。週二回の受講で二か月後に受験。ワーカーの中のソフトごとにだけど、次回は表計算ソフトで十月開講。申し込み締め切りは来週金曜日。求人条件では、ワーカーの中でも表計算ソフトのマイスター取得者を求めているところが多いです。私はもう申し込みフォームに入力していってました。

 六時でその喫茶店は閉店。なのでそのまま隣のビルの地下へ降りてお寿司屋さんに入りました。あと二人来るとお店の方に伝えると、入り口横の小部屋に入れてくれました。六人くらい入れるところなのでなんだか申し訳ないですけど嬉しかったです。

 いくらも待たないうちに二人が合流して飲み会の始まり。ほんとに単なる女子会でした。二時間ほど楽しく飲み食いして終了、そして今池駅で解散、三人見事に帰る方向が違ったので。

私は二人に夕方の話はしませんでした。


 翌土曜日のお昼過ぎに朱美が来ました。実は先週も来ていました。二週続けて土日が休みってことに疑問を抱いたようなのでうち開けました。

「土日どころかねぇ、ここのところ毎日休みなの」

「はあ? なにそれ」

「うん? 会社辞めることにした」

驚いた顔をした後睨んできました。

「やっぱりなんかあったんでしょ」

そしてそう言ってきました。私は涼しい顔で缶ビールを一口飲んでから返しました。

「やっぱりって?」

「なんか様子が変だったから何度も聞いたじゃん、なんかあるでしょって」

「そうだったっけ」

ごめんね、朱美。心配してくれてたのは分かってたんだけど、言いたくなかったの。そして今もこれからも今回の事は言いたくない、だから許してね、と、心の奥の方で謝っていました。

「もう、心配してたのに。私も真由も」

「そうなんだ、ごめん」

「で、何があったの、なんで会社辞めるの?」

「うん? まあいいじゃん、もう辞めるって決まってるから」

またビールをゴクゴク流し込みました。朱美は私のその姿を睨みながら自分もビールを飲みます。

「分かった、これからあんたがどんなに悩んでそうでも、絶対に心配してやらないから」

そしてそう言われました。

「怒ってる?」

「怒ってない、馬鹿らしくなっただけ」

「何が?」

「真由が言ってたの、りっちゃんは結論が出るまで何も話さないって。ほんとにその通り、心配のし甲斐のない奴だわ、あんたわ」

真由、余計なこと言うな!

「もう、ビールのあて、何か作るから機嫌直して。何がいい?」

「う~ん、松阪牛の……」

「あるかそんなもん」




 九月二十日 水曜日、今日まではまだ会社員。そう、明日からは失業中になってしまいます、しかも今のところ無期限の。

 九月になってからも三社、面接を受けました。一社は不採用。二社は面接で辞退しました。辞退した理由は求人に出ていた内容と違う仕事内容だったから。いつかの自販機屋さんと同じような感じ。それで開き直りました。十月から例のオープンカレッジを受講します。なので次の活動はマイスターを取ってからにしようと。弁償しろと言われて支払ったパソコン代は戻ってくることになりました。なので数か月は何とか生活できる。慌てないことにしました。と言うわけで先週の面接で一旦活動停止。そして今悩んでいます。

 今日、最後の挨拶のために最後の出社をするんだけど、何を着て行こうか悩んでいます。いつも適当な私服で出勤してました、会社の中では制服だったから。でも今日は制服がありません。一着手元にあるけれど、これはクリーニング済みで返却するもの。転職活動をしばらくしないと決めて、面接に着て行っていたスーツはクリーニングに出してしまっていました。今日着てからにすればよかった。何か会社に入って行っても違和感のないような服を探さなきゃ。

 と言うわけで選んだのは、七分丈のフリル袖がついたふわっとしたデザインのオレンジがかったベージュのTシャツと、薄いデニム生地のガウチョパンツ。それに合わせて同じくデニム生地のショルダーバック。足元はリボンのついたベージュのパンプス。ピンクの四つ葉のクロバーのイヤリングも付けるので、リップも少しピンク系。右の方で言っていたことと違うって? だって、今日で辞めるんだからもういいや、って気になったんだもん。麦わら帽子もかぶろうかなって思ったぐらいなんだからいいでしょ、って、麦わら帽子は持ってないけど。

 午前中に来るようにと言われていたので十一時半にしました。会社には連絡していません。中川さんにそう言ってあります。今日までは社員なので、ひょっとしたらまだお弁当が頼めるかもしれない。中川さんに確認してもらったら注文書にはまだ私の名前があるとのこと。なので注文しといてもらうことにしてます。一緒にランチを食べて最後にします。そう言っていたら中川さんがそれを和田さんに提案。和田さんもその時間に来ることになりました。

 池下駅を出て会社に行く途中の洋菓子屋さんに寄りました。入り口横にあるジェラートに惹かれながら、このお店の名物のミルフィーユパイを五つ買いました。みんなで食べるデザート用。

 そのお店を出たところで和田さんと出会いました。薄いピンクのシャツにほとんど白に見えるベージュのスカートと、似たような色のサンダルタイプのパンプス。Lで始まるブランド名が大きく描かれたトートバックを肩にかけ、三日月と星型の金のピアスを左右別々で付けています。和田さんも会社内をうろうろする格好ではないかも。

 二人で業務課の事務室に入り、二人して驚きました。入り口からやや奥側に並んで、メンテ課との間仕切りのようになっていた腰の高さのキャビネット。それがなくなり二段に積んで壁際に並んでいます。そして奥のスペース、メンテ課がいたところには業務課Aグループの人たちがいます。そしてBグループのエリアが倍の広さになっていました。そっか、十人ほどの増員になるんだからこうなるんだ。

 メンテ課はどこ行ったんだろ。あとから聞きましたが、駐車場の数台分のスペースにコンテナ倉庫を置いて、裏の倉庫に作ったスペースに間仕切り壁で囲った事務室を作ったようです。

 和田さんとBグループの係長の所へ行きました。異様なものを見る目で見てくるみんなの視線が少し気になりました、以前のような敵意は感じなかったけれど。係長に挨拶をして、制服を返しました。課長の席と思われるところには誰もいませんでした。辞めたって言ってたっけ、と思ったけれど、机の上は散らかっていました。新しい人が来たのかな? 挨拶すべきかもしれないけど、今日が最初で最後になるんだから、いっか、と思っていたら、

「お久しぶりです、戻られたんですか?」

と、和田さんの声。そちらを見ると私の一番最初の上司がいました。入社して配属された時のBグループの係長。二年目になる時、豊橋に異動していった人です。

「和田さん? 久しぶり、え、今日は休み? その格好」

と言う係長に割り込んで、

「お疲れ様です、お久しぶりです」

と、私も言いました。

「うん? 高橋さん? 久しぶり、なに、二人ともどうしたのその格好」

「私達、今日で退社なんです。なのでご挨拶にだけ伺いました」

和田さんが答えてくれました。すると係長は少し遠い目をして何か考えてからこう言いました。

「そうか、そうだったな」

そう言ってから歩き始めるのでついていきました。そして係長が座ったのは課長席と思われるところ。

「え、ひょっとして新しい課長って……」

「俺だよ」

私のセリフにかぶせて、課長が、そう言いました。そしてこう続けます。

「また俺の下になる前に辞めれてほっとしただろ」

「いえ、残念です」

「私も残念です」

和田さんと揃ってそう返しました。

「俺も二人のそんなかわいい姿見たら残念だよ」

と言って課長は私たちの姿を眺めます。そして、

「ほんとに、辞めることなかったのに、残念だ」

そう言ってくれました。そのあと課長と話しているうちにお昼になりました。本部に挨拶に行っていないことを和田さんと話していたら、今日はメンテ部の部長はいないから行かなくていいよ、二人が挨拶に来たことは伝えておく、と、課長が言ってくれたのでお願いしました。

 そしてこの事務所での最後の昼食。深田さんはギプスがとれていて、見た目の痛々しさはありませんでした。でも、まだまだ元通りには動かないようです。私がそのことで謝ると、私こそ最初から高橋さんのせいじゃないってもっと言ってれば、高橋さんが辞めることにならなかったのに、と、また謝ってくれます。すると中川さんが、もうどっちも済んだことなんだから謝りっこするのはこれで終わり、と言って締めてくれました。あとは普通におしゃべりしながらの昼食でした。デザートのミルフィーユパイもみんな平らげ、楽しい時間でした。少しだけ、ここに戻れたらな、と、思ってしまいました。昼食中、私や和田さんに声を掛けるために何人か顔を出してくれました。そんなこともとても嬉しかったです。

 会社を出て少し離れたところで和田さんが足を止めて、会社の建物を振り返りました。私も横に並んで見上げます。

「もうここに来ることもないんだね」

和田さんがそう言いました。私も改めてそう思いました。

 和田さんがどこかに遊びに行こう、水族館行きたい、と言い出し、名古屋港に行きました。でも水族館には行かず、ガーデンふ頭の公園を散策して、南極観測船ふじを見ながらかき氷を食べただけで帰ってきました。

 私の最初の会社勤め最終日はこれで終わりでした。と、思ったら、家に帰り着いた頃スマホが鳴りました。なんだか気分よく帰ってきた私は誰からの着信か見ていたのに出ていました。出てから誰からか理解して後悔しながら。電話の相手は中野君でした。

 入ったばかりの自宅の玄関から出て、またバスに乗って本郷駅に戻りました。本郷まで来ている、話がしたいから家まで行っていいか、と、中野君が言うので、本郷まで行くから待っててと言いました。会いたくなかったけど部屋まで来られるのは、もっともっと絶対に嫌だったから。


 駅前で中野君と合流して、南側の小川沿いを歩いていました。どこかの店に入ろうと言われたけれど、もう彼と二人でって言うのは嫌だったから。駅から少し遠ざかって、周りに人がいなくなると中野君が口を開きました。

「今日で最後だったんだよな」

そんなこと聞かなくても分かってるでしょ。

「そうだよ」

「次の仕事、見つかった?」

「まだ」

「見つかりそう?」

「何でも良ければね」

少し会話が途切れました。話したくないという私の気持ちを汲み取ってくれたかな? ならもう帰らせて、と思っていたら、

「行きたいところは見つからないんだ?」

と、まだ話が続いていました。

「まあね」

「じゃあさ、俺と結婚しない?」

はあ? そ、そ、そ、そこは一番行きたくないとこだよ! 何でも、にも入らないとこだよ! って、ちょっと待って、これってプロポーズだよね、なんてこと、私の人生初プロポーズが、もとい、人生初、被プロポーズの相手がこいつだなんて。最悪だ、メモリーから削除しなきゃ。

「俺たちなら大丈夫だろ」

私が混乱して何も言わなかったらこんなことまで言い出した。

「何が大丈夫なのよ、冗談やめて」

「なんで、俺はいつでも梨沙のことだけ考えてるんだぞ、それ以上はないだろ」

「梨沙って呼ばないでって言ったでしょ」

「ごめん、でもなんで俺じゃダメなんだよ」

「あのね、その何もかも私のためって言うの、重いのよ、迷惑なのよ」

「それが理解できないんだよ、幸せなことじゃないのか?」

私はあんたが理解できないよ。この話を続けても終わりがないってことは理解してるけど。

「なあ、そう思うだろ?」

そう続けてくる中野君を無視して私は考えていました。そしてこう言いました。

「中野君、あなた捕まるかも知れないよ。犯罪者になるかも知れないよ」

彼の表情が少し変わりました。

「なにそれ、なんで?」

「あのメールの写真に写っていた人の誰かが、石田さんを訴えたの知ってる?」

「ああ、詐欺かなんかでだろ? 知ってるよ」

「その人があの写真を勝手に公開した人……、と、写真を撮った人も訴えるって探してるみたい」

写真を撮った人ってのは私が付け足しました。

「うそ……」

「嘘じゃないよ、総務部長から聞いたから。会社にその人の弁護士さんから犯人を捜すように依頼が来てるらしいんだけど、見つからなかったらこの件も警察に相談して捜査してもらうって言ってるみたい」

「な、なんで警察になるんだよ」

「知らないよ、プライバシーの侵害とか、名誉棄損とか、いろいろあるんじゃないの?」

「そんな……、でも写真残ってないし、大丈夫だよな」

「さあ?」

「おい、一緒に考えてくれよ」

「はあ? 勘弁して、私には関係ないの」

「そんな……」

「そんなじゃないの。お願い、私にもう関わらないで、でないと私の知ってること全部、会社に話すからね」

彼の言葉を遮ってそう言いました。彼は顔色をなくして私を見ています。その彼にもう一度こう言いました。

「いいね、中野君が二度と私に関わって来なければ、私も絶対に話さないから、お願いね」

そして彼に背を向けて、私は駅の方に歩き始めました。すると後ろから彼がこう言ってきます。

「でもダメなんだ、俺はお前に借りがあるから離れるわけにいかないんだよ」

わけが分かんない、借りって何なのよ。貸しがあるって言うならわかるけど、私は何も借りを作った覚えがない。もちろん貸しを作った覚えもないし、仮にあったとしても返してくれなくていいよ。

「借りって何?」

でも振り返ってそう言っちゃってました。

「いや、その……」

ほら見ろ、何もないでしょ。と思っていたら彼が近づいてきます。そして小声でこう言います。

「お前の部屋のクローゼットの上にある鞄……」

「ちょっと待って、なんでそれ知ってるの?」

また彼のセリフを遮ってそう言ってました。今彼が言ったところに置いてある鞄には、本当に困ったときに使いなさい、と、母がくれたお金を入れた封筒が入っていました。でもこれは彼には教えていないこと。いえ、誰にも教えていない、朱美や真由にも。

「いや、何が入ってるのかなって見たから」

彼の返事はこうでした。

「私の部屋の中あさったの?」

「いや、別にいいじゃないか」

「いいわけないでしょ」

「なんで、あの時は俺たちそう言う仲だっただろ」

「あのね、親しき仲にもなんとかって言葉があるでしょ! 中野君にだって私に見られたくないものとかあったでしょ」

「ないよ、そんなもの、あるわけない」

失敗だった、この返答は予想出来ました、こういうやつだから。

「で、使ったの? いくら使ったの?」

私は論点を変えました。と言うかこっちの方が本題だ。

「いや、そんなに……」

「何に使ったの!」

ああ、言葉がきつくなっていっちゃう。

「いや、お前と旅行したりとか、いろいろ……」

呆れる、信じられない。偉そうに連れてってやるとか言って行ったところ、私のお金だったんじゃない。

「もういい、いくらか知らないけど、今返して」

「いや、給料前だから今は……」

「違う、そこにATMあるから、お金おろして抜いた分返してよ」

「いや、その……」

「返して」

「俺、カードローンとかあって、貯金とかないんだ」

こいつ最低な奴だ。もうほんとに金輪際縁を切りたい。でもお金は惜しい、どうしよう、まいった。

「中野君、さっき私に知られて困ることはなかったって言ってたけど、借金があるって言うのも知られて良かったこと?」

私はなぜだかそんなことを言ってました。彼は俯いてなにも言わない。

「これはほんとに冗談抜きで犯罪だよ」

彼が顔を上げて私を見ます。

「そうでしょ? 人のお金を勝手に盗ったんだから」

「盗ったって、違うよ、借りたんだよ」

「じゃあ返してよ」

「……分かった、ローンの返済とかあるからそんなに沢山は無理だけど、毎月ちょっとずつ出来るだけ返す」

「……」

「それでいい?」

私は計算していました。彼と行ったのは北陸に一泊二日と、大阪のテーマパークに一泊二日、その二回だけ。多分合わせても十万くらい、余分を見ても十五万。

「ねえ、聞いてる?」

そう言ってくる彼の前に右の掌を広げて待ったをかけました。そして再び計算。毎月返すというのが一万円として最長十五か月。お金がないとか言って五千円だったら三十か月。十五万円は大金だけど、十五万円のためにこいつとそんな先までの縁を作ってしまうのか。泣きたい、泣きたい、もう泣いてる、胸の中で血の涙が流れてる。

 私は決断しました。そして確固たる方法を考える。彼は営業スタイルで鞄も持っていました。

「便箋、は、持ってないよね。レポート用紙みたいなの持ってない?」

「え? あ、あるよ」

「貸して、ボールペンも」

私は彼からそれらを受け取り、レポート用紙にボールペンを走らせました。

『私、高橋梨沙は中野栄一が私の所から無断で持ち出した現金に対しての返済請求を一切しません。中野栄一からの返済を一切望みません。故に、中野栄一は高橋梨沙に対して返済を名目に今後一切接触しません。以上の証として、双方自筆署名いたします。』

私はそう書いた文面の下に日付と自分の名前を書いて、彼に差し出しました。

「はい、中野君もサインして」

彼は文面を読んでこう言います。

「いや、ダメだよ、返すって」

「もういいから、サインして」

「ダメだって」

「あのね、私はもう中野君と関わりたくないの。だからお金はもういいの」

「でも」

「これ以上渋るんなら今から一緒に警察行こ。この人が私の所からお金盗んだって言うから」

「なんでそこまで、返すって言ってるのに」

「いいからサインして、それとも警察行く?」

彼はまたしばらく文面を眺めてからサインしました。ああ、これで私もお金を捨てたことになる。ほんとに泣きたい。

 彼がサインした紙を私はもらって自分でももう一度見直します。そして折りたたんでバックにしまおうと思ってから彼に聞きました。

「これ、私が請求しないって証に中野君もいる? そこのコンビニでコピーしようか?」

「いやいい、いらない」

「そ、じゃ、私が持ってるから、約束破ったら警察行くからね」

「わかった」

その後ロータリーのバス停に向かう私についてくる中野君に、駅の下でこう言いました。

「中野君、地下鉄でしょ? ここでお別れだね。じゃあこれが会うの、ほんとに最後だから、元気でね」

私は彼が小さく頷くのを見て背を向けました。そしてタイミングよくバス停に着いたバスに乗りました。一切彼の方は見ませんでした。


 帰宅後、私は本当に涙を流しました。血の涙、怒りの涙でした。物入の欄間からボストンバックを下ろして中を確認。分厚かった封筒が薄っぺらい。十五万と計算したのが甘くて、二十万とか二十五万くらいかも知れない。でも、もうそのぐらいはいい、これで縁が切れるなら。そう帰りのバスの中で覚悟していました。でもそんなもので済みそうにない、青ざめていました。そしてもう震えながら中身を数えました、……二十七枚。ひゃ、百枚入ってたのに、な、な、な、七十三万も抜いてたの? え? いったい何に使ったのよそんなに。私、そんなに使ってもらってないよ。

 バックからさっきのレポート用紙を取り出しました。そして文面を見ながら思います、こんなの口約束よりましだろうと思って作っただけ。法的には何の意味もないはず、やっぱり返してもらおうか、金額が大きすぎる。

 でも、それ以上に、どうやっても言葉で表現できないほどに、中野栄一と言う人間と、もう関わりたくない。接点を作りたくない。これは私のため、私の平穏のため、安全のため。泣くしか……ない。泣いといたほうが私の利益だ。なんて理屈で、無理やり自分を納得させました。その代わり、ここ最近、朱美や真由が大量に持ち込んでうちの在庫になっていたお酒類は、ほとんどなくなりました。




 九月二十五日 月曜日、退社はしたけれど最後のお給料日です。


 退社した翌日、会社から封書が届きました。ひどい二日酔いでしたが、中身を見て醒めました。届いたのは最後のお給料明細と、それとは別の支払い明細でした。その別の方、まず、支払ったパソコン代金分が記されていました。また、退職手当として二十万円。十五万円と聞かされましたが増やしてくれたようです。そしてもう一項目、冬季賞与査定額、七万五千円とありました。冬のボーナスがもらえるんだ、と喜び、これだけか、とガッカリ。でも冬のボーナスは六月から十一月の勤務査定だから、私の場合は実質六、七月の二か月しか評価されない。しかも先渡しだから減額されてるだろうし。ならこんなものかと思うしかないかな。昨夜、酔っぱらった頭で悲嘆にくれながらやった今後の収支計算。その分母が十二万五千円も増える。これは嬉しいと言うしかありません。


 と言うわけで、入金の確認と生活費の引き出しのため、駅前の銀行へ行かなくては。と、昨夜から待ち遠しく思っていた私はかなり早起きしてしまいました。朝食を終えてもまだ六時前。朝一番で入金されるだろうけど、とりあえず銀行へは十時過ぎに行くとしたら、家を出るのは九時半で十分。まだ三時間以上ある。と、油断していたら寝てしまい、起きたらなんとお昼前でした。慌てる必要はないのに慌てて昼食を食べ、誰に会うわけでもないと髪は寝癖をとって終了。化粧も適当。

 玄関の鍵を閉めていたら、隣の部屋の向こうの階段から人が上がってきました。隣の人でした。

「こんにちは、まだまだ暑いですね」

と、挨拶してくれます。

「こんにちは、ですね、まだ涼しくなりそうにないですね」

当然私も挨拶を返します。それだけでその人は自分の部屋に入って行きました。でも挨拶しあえるだけで気持ちいいです。このマンションではこの人だけかも。最近私が昼間出入りすることが多くなったので気付きましたが、隣の方も平日の日中に出入りしています。たいてい黒のポロシャツにスラックス姿の五十歳くらいの男性、どんな仕事なんだろう、家で仕事してるのかな? ま、そんなことより早く銀行に行こう。


 通帳に印字された入金額を見て、喜びをかみしめていました。入金欄の七桁の数字なんて初めて。約半分は払ったものが返ってきただけなんだけどね。それに、数日前に見た明細書通りなんだから、改めて喜ぶ必要もないんだけど。とりあえず当座の生活費を引き出して銀行を出ました。

 スーパーで食料品の買い物をして帰る予定だったけど、荷物が増える前にスーパーと反対側のドラッグストアに向かいました。ドラッグストア手前のパチンコ屋さんに隣接して建つ立体駐車場の一階に、最近テレビなんかにも取り上げられたカフェがあります。食事もなかなか良さそうなお店。一度入ってみたいな、と、覗いていたら、アルバイト募集の張り紙がありました。表示されている時給を見て、最近のアルバイトってこんなにもらえるんだ、と、驚きました。それに、売り上げ次第で歩合給あり、なんて書いてあります。カフェのバイトで売り上げ次第ってどういうことだろう、と、張り紙を見ていたら声を掛けられました。黒のスラックスに白いワイシャツ、そこにカフェのエプロンをした四十前くらいの男性。太ってるって感じではないけれど横幅が目立つ体型。

「興味ありますか?」

と、聞かれました。二か月は例の資格取得に集中して、就職活動はしない気だったので、その間の生活費の補助にいいかな、なんて思ってしまって、

「はい」

と言ってました。するとお店の裏に連れていかれて、裏の倉庫のような事務所へ案内されました。いきなり面接でした。出された履歴書のような用紙に記入するように言われ、言われたまま記入してました。記入しながら歩合のことを聞きました。すると、注文を取った数で割り増しが付くと言われました。もちろん最低限のラインはあって、それを超えた分だけど、注文がそんなに取れなくても時給通りには払ってくれると言います。なんてことでしょう、最近のアルバイトってこんなに至れり尽くせりなんだ、と感動。なんとなく私も乗り気、向こうも乗り気って雰囲気になりました。

 でも私は転職するまでのつなぎ、そのことをちゃんと告げて、二か月くらいで辞めさせてもらうかも知れないと言いました。さらに、十一月末までは火曜日と金曜日に学校に行かないといけないので、出れないこともちゃんと告げました。すると向こうがトーンダウン、オーナーと相談してから連絡すると言われました。アルバイトにも採用してもらえないと、落ち込みながら買い物を済ませて帰宅。

 今週は本当に何も予定なし。と言うか、ここのところずっとだけど。でも今週からは何もせず過ごしている分だけお金がひたすら無くなっていく状態。かと言って出歩くと余計にお金がかかるので家にいるしかない。日中、家にいるとまだまだ暑い時期。エアコンつけっぱなしは電気代が心配。でも、なんでか家の中でかく汗は我慢できません。なら外でかこうと徒歩で出歩きました。駅とは反対方向の大きなスーパーまで行ったりして。行っても店内で涼むだけ、買い物しても徒歩で持って帰るのが面倒だし、余分な出費はしたくないので。

 そんな風に過ごした週の週末、電話がありました、カフェから。なんと、採用の連絡でした。でもなんでこんなに日数がかかるの? ひょっとしてあの条件でも応募者がいないのかも。今のアルバイター怖い。

 早速翌日の日曜日からと言われて、朝十時にカフェへ行きました。応募者はいたけどみんな辞退したんじゃないか、って思う仕事内容でした。ちゃんと聞かなかった私が悪い? 当日説明された仕事は、隣のパチンコ店内でのドリンクサービスの売り子でした。でもまあ収入にはなるんだし、せっかくやる気になったんだからいっか、と、やることにしました。週三日くらいのシフトだったし。




 二か月はあっという間に過ぎて十二月二日 土曜日、ワークマイスターの試験日です。表計算ソフト限定の試験だけど。表計算ソフトは仕事で結構使っていたので自信はあったのですが、講座では知らない機能が沢山あって勉強になりました。大丈夫、講座最後の模擬試験では満点だったし。

 そんな自信に包まれて、晴れ渡った冬空の下、栄にあるパソコンメーカーのビルの前にいました。ここが試験会場。

 試験は当然パソコンで行います。そして面白いのが、最後に回答終了のボタンをクリックしたら、その場で点数が出て、合否が判定されます。さあ、今日も満点の画面を出して合格するぞ。そして、今度はもっとすごい会社に就職して、もっと大きな仕事をするぞ、そう、こんな会社で。そんな気持ちで大きなビルのエントランスの自動ドアを入りました。



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