11 失職 起 -回想-


 平成二十九年


 ゴールデンウィーク明けの月曜日、地下鉄の桜通線と東山線が乗り入れる今池の駅から会社に向って歩いていました。私は本郷から東山線に乗って池下駅で降りるのが本来の通勤ルート。会社は池下と今池のちょうど中間あたりにあるのでどちらでもいいんだけど、私のルートでは池下の方が手前なのでそうなっています。でも今朝は、桜通線の新瑞橋駅から乗ったので今池です。なんで新瑞橋から乗ったのかって? エヘヘ、それは彼の住んでるマンションの最寄り駅が新瑞橋だから。


 会社的には9連休だった今年のゴールデンウィーク。でも、私の所属するメンテナンス事業部は、休日、夜間の勤務シフトがあるところ。そして私はこの春から、業務課で戦力扱いされる三年目になっていました。戦力として初めてカウントされる三年目。それは戦力扱いされる中で最年少ということ。必然的にたっぷりシフトを埋められ、夜間を含めると9日間の内、6日間も出勤でした。

 ゴールデンウィークのような長期連休の時は、メンテナンス事業部だけでなく、本業の設備機器事業部からも応援で何人か出てきます。と言っても通常の休日出勤、昼間だけだけど。彼は設備機器事業部内の水回り設備営業課の所属。しかも係長なんてポジションだから、休日出勤は一日だけ。その日私は、日勤夜勤と夜勤日勤の間の日中休みの日でした。

 二人の休みが重なったのは最後の土日だけ。どこか連れてってくれるかな、と思ったけれど、彼はこの連休中に同僚と一泊のゴルフ旅行、学生時代の友人とキャンプでまた一泊と、二回も旅行に行っていた。更に、実家に帰って一泊している。なので最後の二日間はゆっくりしたいと言いました。私も一緒にどこか行けたらとは思いながらも、実質休みがなかったのでゆっくりしたいって気も。なので彼の部屋でまったり過ごしました。


 二日間、ゆっくりゴロゴロ過ごした後の今朝は、二人して少し寝坊。遅刻するような時間ではないけれどそんなに余裕なし。なのに出掛け際に彼がベッドの布団をめくっている。

「何してるんですか? もう出ますよ」

と、何してるか分かっているけど、そう声を掛けました。

「ちょっと待って」

彼はそう返しながらベッド周辺を見回したり、脱ぎ捨ててあった自分のジーンズなんかを持ち上げたりしている。

「なんか探してる?」

傍に寄りながらわざとそう聞きました。

「いや、お前の下着とかどっかに紛れてないかなって」

全部回収済みだよ、そう言いそうになった。この部屋には私の物は何もありません。ほんとに何一つ。私の部屋には彼の着替えなんかが置いてあるのに。スーツまで置いてあるのに。

 彼曰く、お母さんがしょっちゅう部屋に来るので、部屋に女物があったりしたら面倒になるとのこと。彼女のだって言えばいいじゃん、その方が話が早そうだし。話が早そうとは、つまり結婚ってこと。

 彼とは去年の秋、会社のバーベキューイベントで親しくなりました。でも、それまでより親しくなったと言うだけで、すぐには何もありません。彼と呼ぶような関係になったのは十二月に入ったころ。だからまだ恋人としての付き合いは半年未満。でも、二人の間ではそう言う話が出ています。それは彼の年齢のせい。彼とは同級生ではないけれど、同じ申年生まれ。そう、一回り、十二歳年上なんです。そう言うわけで彼は今年、三十七歳になる。でも全然そんな年齢に見えないかっこいい人です。

 四十歳までに子供を作らないと、子供の成人が還暦後になってしまう。なんてことを冗談のように言いながら、やっと一緒に暮らしたい相手と出会えた、と言われたのは二か月ほど前。そう言われた私は、その瞬間から彼の奥さんになる気になっている。なので私はバレて呼び出されようが、実家に連れていかれて紹介されようが、どっちでも、そしていつでもいいと、とっくに思っている。でも嫌がることはしたくないので、ちゃんと気を付けています。

「大丈夫、ちゃんと確認したから。それに実家帰ったとこでしょ? しばらく来ないんじゃないの?」

一応、私も寝室やリビングの床を見回しながらそう言いました。

「そういう時の方が来るんだよ、この前痩せて見えたから心配になったとか言って」

「そうなんだ、じゃあ、昨日とか来てたら大変だったね」

私は彼の腕に軽く抱きついて、顔を見上げました。

「昨日? おお、怖いこと言うな」

ふふ、ほんとに昨日お母さんが来てたりしたらすごいことになったかも。ただ、私は間違いなく嫁候補から外されただろうけど。だって昨日は二人とも、裸族とまでは言わないけれど、とても外には出れないような姿だったから。

 彼は私にしがみつかれたまま、リビングのソファーをチェックし始める。でもソファーには絶対に何もない、分かってる。同じ理由でベッドに何もないのも分かってたんだけど。

「さっきカバー外してシーツと一緒に洗濯機に入れたとこだよ」

「あ、そっか、そだな」

彼も気付いて体を起こす。

「洗濯機、すすぎまでにしてあるから、帰ってきたら脱水して、干すのはやってくださいよ」

「分かった、じゃあそろそろ出ようか」

そう言って顔を近づけてくる。

「もう、ダメだって。化粧しちゃったの」

私は体をすっと離してかわす。そしてそのまま通勤用の、トートバッグにも見えるリュックを持って玄関に向いました。

「ケチ」

そんなセリフと同時に、後ろで部屋の電気が消えたのが分かりました。

 新瑞橋のホームで彼と別れる。彼は今池で出口の階段に近い車両の方に行き、私は離れた車両に乗る。いつものこと。会社の人と乗り合わせても、二人でいるところを見られないために。


 会社に向って歩きながら、前を歩いているはずの彼の背中を探す。彼は背が高いのですぐに見つけました。でも横に女がいる。彼と同じ課にいる人でした。確か私より二つか三つ上。その人は男性社員に人気のある人。推定160センチ後半の身長でスラっとしたスタイル、なのにどこか子供っぽい顔。私も憧れる人。そんな人と183センチある彼が並んで歩いている。ハッキリ言って絵になる、お似合いってやつ、気分悪い。しかもなんだか楽し気に、いえ、親し気に話している。ま、同じ課の同僚なんだからあんなもんだよね、って思うことにして気を静めることに。

 二人に近付きすぎないように、でも離れないように後ろを歩いていました。背の高い二人の歩くペースは速い。なので私は少し早歩きでした。すると追い抜いたばかりの人から声を掛けられました。

「高橋さん、おはよう」

少し驚きつつペースを落として振り返ると、私の課の先輩、二村さんでした。

「あ、おはようございます」

「どうしたの?」

ペースを落として横に並んだ私にそう言います。

「え?」

「急いでるの?」

「え、いえ、そんなことないです」

そう返した後は何も言わない。私も言葉を探していました。同じ業務課と言っても、二村さんとはあまり話したことがなかったから。十歳くらい上の人だし、職場の中でのグループも違うし。何を話題にしたらいいんだろう、と考えていたら、

「あれ? 高橋さんってこっちからだったっけ?」

と、聞いてきます。

「いえ、今日はちょっと……」

しまった、こういう時なんて返すか、一度も考えたことなかった。そう言えば、今まで今池から歩いているときに会社の人と会ったことないかも。気付かなかっただけ? 今も声を掛けられなかったら気付かなかっただろうし。

「ちょっと……、彼のとこから出勤?」

さらっとまたそう聞かれました。

「まさか、そんなこと……」

ほんとにまさか、バレてる? 焦りました。一瞬彼の背中に目がいってしまう。

「いいわよ別に焦らなくても、詮索する気ないから」

「いえ、ほんとに違いますから」

「ほんとに? お泊りセットで膨らんだ鞄で出勤してるのに?」

「これは、あの、その、今夜、夜勤なので」

詮索する気ないんじゃないのか、と思いながらそう言いました。

「ふ~ん、そうなんだ」

「はい」

これで一安心かと思ったら、

「でもいいなぁ、彼がいるって」

と、独り言のように言い出す。私はそれに乗らずに何も言いませんでした。何も言ってないのにまた聞いてくる。

「ねぇ、高橋さんの彼っていくつくらいの人? 年上?」

「は?」

「彼の友達とかで、私くらいの年の人いない?」

「え、いえ、その……」

これは誘導尋問だ。うかっり反応すると、彼がいることを認めることになる。うん? 彼が誰かを別にしたら、彼の存在は認めてもいいんだよね?

「私と釣り合いそうな年の人がいたら合コン設定してよ」

「あの……」

「でも高橋さんの彼だと、年上でも私よりはだいぶ下だね。その友達じゃ望みないかな」

「……」

この感じだと、私の彼が誰なのかはわかっていない様子。彼がいることは認めて話を合わそうかなどと考えながら、口も足も止まっていた赤信号で、二村さんの向こうから話に合流する人が出てきました。

「智子って彼氏欲しかったの? おはよ、梨沙ちゃん」

その人はそう言って、私に挨拶してくれる。業務課と同じ部屋にあるメンテ課の長縄さん、確か二村さんと同期です。

「おはよ、なーちゃん、聞いてたの?」

そんな二村さんのセリフに続いて、私も挨拶を返しました。

「聞いてたよ、もう恋愛しないとか言ってた智子が何か言ってるぞって」

「そんなんじゃ……」

「彼氏欲しくなった?」

「彼氏と言うか、結婚相手はそろそろ本気で探さなきゃって」

「彼氏を通り越して旦那が欲しいんだ?」

「なーちゃんも考えたりしない? 四十までに子供産もうとかって」

「あ~、それはあるね」

「でしょう? なーちゃんはさっさと結婚しなよ、いるんだから」

「でもねぇ、親に紹介する時、職業がフリーターって言うのがね」

「ミュージシャンって言えばいいじゃん、そうなんだから」

「いやいや、もうやってないし、お金に困って楽器も全部売っちゃったし」

「え? 三月くらいにライブやってなかった? トクゾー(今池にあるライブハウス。ヒップな居酒屋でもある)の予定に書いてあったよ」

「あいつはバンドから逃げ出したの、もうだいぶ前に。一人だけレベルが違い過ぎたみたい」

「そうだったんだ」

「私のことはいいの。で、合コン行くの?」

「行かないよ」

二村さんはそう言うと青に変わった信号を見て、長縄さんを振り切るように幾分速足で歩き始めます。

「なんで? 行けばいいじゃん。私が合コン、セッティングしてあげようか」

長縄さんは速足で二村さんに並びながら続けます。

「周りに聞かれるでしょ。もう終わり」

横断歩道を渡ると目の前は会社の建物。必然的に周りには会社の人が何人かいました。なので二村さんはボリュームを落とした声でそう言います。長縄さんもそう言われて周りに気付いた様子、それ以上は続けませんでした。先輩女性の話をもう少し聞きたかったのに。そう思いながらついて行く私は、入り口横に立っていた中野君に、気付いていませんでした。


 その日の夜、夜勤ではない人がまだまだ残っていた十九時前に、係長が私の傍に寄って来ました。そして先に夕食を食べていいと言ってくれます。今夜の業務課の夜勤担当はその係長と私。こう聞くと、先に食事していいと言う、気配りのできる上司のようですがそうではありません。まだ残業で残っている人、つまり、電話に出る人が何人かでもいるうちに私に休憩させて、夜勤の人間しかいなくなった時、つまり、電話に出るしかない状態の時に自分が休憩に行きたいだけです。

 会社のすぐ近くのコンビへ買い出しに出ました。夕食だけでなく、お菓子等の間食も買います。夜勤はそんなに忙しくありません。ハッキリ言って暇なことが多いです、暇すぎて疲れるくらい。そんな暇な時間を乗り切るにはお菓子が必需品。

 焼鯖弁当とカップの春雨スープ(ワンタン入り)をカゴに入れて、百円スナックコーナーを物色。うましおのひねり揚げとチョコシューをカゴに追加したところで声を掛けられました。

「いいねぇ、じゃあ私はこれとこれにするからシェアしよ」

そう言ってクリームサンドクラッカーと、焼き肉味のポテチを手に取るのは長縄さんでした。

「お疲れ様です、シェア、了解です」

私は慌てて挨拶。

「お疲れ、梨沙ちゃん、最近夜勤多いね」

そう言いますが、内勤スタッフの少ないメンテ課の長縄さんはもっと多いです。夜勤で顔を合わすのはしょっちゅう。なのでこう返しました。

「長縄さんほどじゃないですよ」

「私は夜勤に志願して、休日出勤は出来るだけ勘弁してもらってるの。智子の逆ね」

二村さんとはほとんど夜勤で一緒にならない。二村さんの夜勤回数が極端に少ないから。そしてほぼ毎週土日のどちらかは出勤している。不思議に思っていました。そっか、そんなことができるんだ。私は上司に組まれたシフトに従ってるだけ、希望を言ったことがなかったです。そんな会話をしながら買い出しを終え、会社に戻りました。

 打ち合わせスペースで長縄さんと夕食。彼女は山芋の冷たいお蕎麦とマグロのお寿司の詰め合わせでした。食べながら長縄さんが、

「近々合コンやるの?」

と、聞いてきます。

「え? ないですよ」

「あれ? 朝、そんな話してなかった? 智子と」

「ああ、二村さんと釣り合いそうな年齢の知り合いがいたらって話ですよ」

「なんだ、そうなんだ」

そしてお蕎麦をすする長縄さん。

「でも、智子から合コン設定してって言われてなかった?」

そのあと口元を手で隠しながらまた聞いてきます。

「言われましたけど、具体的な話してたわけじゃないんで、冗談じゃないですか?」

と言うか、私は彼氏話題でからかわれてただけって思っていました。長縄さんは、ふーん、って顔をして鉄火巻きを口に入れる。私も食事を進めます。するとしばらくしてまた話し掛けてきます。

「彼氏作る気になったのかなって思ったんだけど、どう思う?」

「え? どう思うって言われても。あ、子供作るなら四十までにとかって言ってましたよね。だったらほんとに探してるのかもですね」

「子供か……」

そしてまた食事が進みます。

 あらかた食べ終えたところで、今度は私から尋ねました。朝も少し気になったことを。

「二村さんって、恋愛に何かあるんですか? 朝、そんなこと言ってませんでした?」

すると少し困った顔をする長縄さん。

「そんなこと言っちゃったわよね。……でも、その話はちょっと」

そしてそう言うと、食べ終わった容器を袋に片付けて、お茶に口を付けます。私は黙ってずっと彼女を見ていました。すると私の視線を受けてから黙って立ち上がります。立ち上がって打ち合わせスペースの衝立越しに周りを確認してから腰を下ろし、声を落としてこう言います。

「私から聞いたって言わないでよ」

「はい」

そして少し考えてる風な顔をしてから、声を落としたまま話し始めてくれます。

「もうだいぶ前だけど、あの子にも彼がいたのよ」

そりゃいたでしょう、二村さんは地味な感じではあるけれど美人だもん。いない方がおかしいと思う、今だって。私は黙って頷きます。

「聞いてて恥ずかしいくらいベタベタに惚れてた」

それは想像出来ない。

「でもね、一年くらいで終わったの」

「何でですか?」

思わずそう聞いてました、ちゃんと声は小さ目にして。するとこう聞かれます。

「なんで、別れた、じゃなくて、終わった、なのか分かる?」

別れたじゃなくて、終わったという状況、私は考えました。そして出た答え。

「まさか、彼氏が亡くなったとか?」

すると微笑む長縄さん。

「いい子ね、梨沙ちゃん」

「……」

なんだか何も言えませんでした。違ったということは分かったけれど。

「彼の方で智子との付き合いが終わったの」

そして続いたその言葉にも何も言えませんでした。長縄さんは私が何も言わないので続けます。

「彼には智子は彼女じゃなかったってこと。何人もいる、やる相手の一人ってだけだったの」

やる相手、生々しい言葉。ストレートすぎるよ、長縄さん。

「え、でも、そんなの分からなかったんですか?」

私はそんな風に言うのが精一杯。二村さんは同じ課の先輩。そんなに親しく話したことはないけれど、私の中では好きな先輩の一人。そんな先輩をどこかでかばいたかったです。

「そりゃ、やりたいうちは彼氏を演じるくらいするでしょ」

だからストレートすぎるって、分かりやすいけど。そう、分かりやすいので分かってしまいました。分からないくらいに二村さんは騙されていたんだと。

「それで?」

意味も意図もなく、そんな言葉が口から出ました。でもその言葉にこう返してくれます。

「向こうにその気がなくなった時点で、もう会わないとか、他に女が出来たとか、いたとか言われたみたいよ。智子も断片的にしか言わなかったからそれ以上分からないけど」

私はまた何も言えなくなりました。でも長縄さんも私を見ているだけ。なのでこう聞いてしまいます。

「それでもう誰とも付き合わないとかってなったんですか?」

「そうね、直後は誰も信じられないとか言ってたからね。でもそのあとがあるのよ」

「……」

「ほんの何日かしてから噂話が出始めたの、三又、四又かけられた挙句、捨てられた女って」

「え?」

「会社辞めちゃうんじゃないかって思ったよ」

会社って、社内で噂話になったの? 何で? 相手の人は社内の人だったの?

「それからだよ、智子が今みたいに目立たなくおとなしくなったのは」

私の頭の中には質問が満載になりました。でもその質問は何一つ出来ませんでした。

「高橋! 電話鳴ってるだろ、休憩中でも出ろ!」

と言う係長の怒鳴り声のせいで。打合せテーブルの電話は音が出ません、ランプが付くだけ。気付いていたけど出ませんでした。しょうがないので出ました。

「大変お待たせいたしました、松本産業でございます」


 電話は名古屋市内のとある病院から。地下二階のブレーカーが落ちたので電気担当が調べたら、排水用のポンプで漏電だったとのこと。排水設備はうちのメンテ対象だったので、すぐに対応しろと言います。目の前にまだ長縄さんがいたので保留にして伝えます。

「予算削ってポンプ取り替えないのが悪いんじゃない。雨が降ってるわけじゃないんだから、明日までポンプのブレーカー落としとけって」

「え、そう言うんですか?」

「冗談よ、まだ空いてるからすぐ走らせる。一時間あったら行くからって言っといて」

そう言うと長縄さんは自分の部署の方へ行きます。私もそれを先方に伝えてから電話を切って席に戻りました。

 その夜、いつものごとくそんなに電話が鳴ることもなく、暇な時間が続きました。なので長縄さんとは沢山おしゃべりしました。でも、宵の口に出た話題には戻りませんでした。




 翌朝の朝礼後、夜間対応の報告を早々に済ませて更衣室へ。私服に着替えて長縄さんを待っていました。一緒に会社を出ようと思っただけで他意はありません。でも、しばらく待っていても来ませんでした。なので一人で帰ることに。どうせ会社の前で左右に分かれるので、それだけのことだし。

 メンテ事業部の業務課とメンテ課は一階ですが、更衣室は三階にあります。三階は設備機器事業部、メンテナンス事業部の両本部事務所があるところ。偉いさんと出くわす前に階段を目指します。

 ちなみに四階には、両事業部混合の設計部と、設備機器事業部の業務課と工事課。五階は大中小の会議室。六階の半分は本社としての事務エリア。そして六階の残り半分と七階は、雲の上の方々がいるところ。ということで、本社は七階建ての建物です。

 階段を下り始めたら、両事業部の営業課が同居している二階から、中野君が上がって来ました。彼は設備機器事業部の空調設備営業課の所属。私と同期入社です。あんまり言いたくないけれどついでに、入社した年に数か月ですけど、私と彼は付き合っていました。

「おはよ」

私から声を掛けました。ま、右のような過去があっても挨拶くらいはします。

「おはよ」

彼も挨拶を返してくる。そしてすれ違う直前で立ち止まる。

「ちょっと話いいか?」

私は止まらなかったので数段下りてから振り返りました。

「なに?」

そしてそう聞きますが、彼は階段の上下を見て何か気にしている様子。手にはダブルクリップで綴じられた紙の束を持っている。多分三階の本部に持っていく書類でしょう。さっきはああ言いましたが、挨拶以上の会話はもう望まない相手。だからこう言いました。

「それ、上に持ってくんじゃないの? 早く行きなよ、怒られるよ」

そしてまた下り始めました。

「ちょっと待ってて、これ置いてくるだけだからすぐに戻るから」

「えー、急用?」

私はまた立ち止まってそう言いました。所属する事業部が違うから仕事の話は無い。プライベートも既に一切交流なし。なので急用なんて存在しない。こう言えば何も言えないはず。

「いや……」

彼は返事に困っている。困っているうちにこう言います。

「夜勤明けだから帰って寝たいんだ。ごめん、お先に!」

私は彼の反応も見ずに階段を一気に降りました。高橋、と、私を呼ぶ彼の声を後ろに聞きながら。

 会社を出て池下の駅に向かう途中でスマホが震えました。背負ったバッグの中でだったので確認するのが面倒。無視しました。

 帰宅後シャワーを浴びて少しくつろいでから寝ることに。寝る前にスマホを充電、と思って思い出しました、着信があったことを。確認するとショートメールでした、中野君から。SNSでは彼を拒否してあるので、彼から私への連絡手段はもうこれくらいしかない。さすがに電話まで拒否にしていないので。一時はそれも考えましたが。

『石田さんはやめとけ あいつだけはダメだ』

メールの文面を見て、私はスマホを落としそうになりました。そのくらい慌てて、うろたえました。石田さんと言うのは、今付き合っている彼の名前です。なんで中野君が知ってるの? やめとけ、ダメだ、の言葉ではなく、そのことだけが気になりました。


 次の日、中野君の姿に気を付けながら会社にいました。でも接触して来ない。彼が何か吹聴していないかとも気を配りましたが、そんな噂の「う」の字も聞こえてこない。

 少し安心し始めていた木曜日の夜、彼と過ごしました。そのままうちに泊まりに来る。彼の横で眠りかけた時、中野君のことが頭に出てきました。彼に相談しようかと一瞬思いましたがやめます。今の彼の腕の中で、昔の彼の話はしたくない。


 その翌日の金曜日、仲良し四人組で昼食、打合せスペースで。昼食は大抵、会社出入りの宅配弁当にしています。朝八時半までに所定の注文書に記入しておけば、お昼前に各部署まで届けてくれます。給料天引きで一部は会社負担してくれているので、日替わり弁当だと二百七十円。紙コップのお味噌汁付きでとってもお値打ち。

 四人でワイワイ言いながら食べ始めたところに課長が来ました。

「すまん、ちょっといいか」

四人で課長を見上げながら頷きます。

「今日、長谷川が休んだだろ、彼女、夜勤だったんだ」

悪い予感がもうしてきました。

「で、中川か高橋、どっちか夜勤頼む」

やっぱり。中川さんは私の一年先輩。後の二人は後輩。今日の業務課のもう一人の夜勤担当はこの二人の同期の男の子だったはず。三年未満二人には出来ない。なので私か中川さんなんだ。でも、他にもいっぱいいるでしょ。中川さんが先に口を開きました。

「すみません、私、今夜ライブ見に行くんです。もうチケット買っちゃってるので」

嘘だ、この人がライブに行ったなんて話聞いたことがない。そうか、と、私に目を向けた課長に、遅れてこう言いました。

「私は明日、夜勤なんです。で、開けた日曜日も休日当番なんで、続くのはちょっと……」

「と言うことは、今夜は予定ないんだよな。中川は予定あるって言うし、他もみんなダメだって言うから、もう高橋しかいないんだよ」

あんたがやれよ、って言いたかったです。うちの課長は休日夜間はまず出てこない。ゴールデンウィークも信じられないことに全休だった。メンテ課の課長はゴールデンウィーク中、昼夜どちらかで出勤が埋まっていたので、一日しか休みがなかった様子なのに。それにみんなダメ? 業務課の大半は上の会議室で食事してるはず。外に出ている人もいる。ほんとに全員に聞いたの? 時間的には私達の所に最初に来たんじゃないの? なんて思ってるうちに課長が続けて言います。

「急だから一旦帰りたいなら、夕方早めに上がってもいいから、頼んだよ」

そして立ち去っていく。もう決定事項でした。目の前で中川さんが、ごめんねって感じで手を合わせている。後輩二人も居住まいが悪そうに私を見ている。笑顔を返すしかありませんでした。

 言えなかったけど今夜も彼と一緒の予定でした。そして明日の日中は、一緒にイケヤまで買い物に行く予定だった。食後早めに席に戻って、彼にメッセージを送る。

『ごめんなさい、急に夜勤を押し付けられちゃった。』

ほんのしばらくで返事が来る。

『OK(スタンプ)』

『明日もなしでいい? 夜勤続くから寝なきゃだから。』

『OK(スタンプ)』

『ほんとにごめんなさい。』

このあと返事は来ませんでした。それに、OKってなに? しかもスタンプだけなんて。


 その夜は残業していた人がみんな帰ったころから、電話が立て続けに鳴りました。でもメンテ担当に走ってもらうほどではないものがほとんど。電話で対処法をお教えして治めていきました。メンテ側の夜勤が長縄さんだったのも幸運。実際に出向かなければならない内容への対応は全部してくれました。一緒になった後輩君は電話を取り次ぐだけでまだまだ戦力外。少しは自分で判断して対応しろ! って内容を、穏やかに伝えました。

 完全に一段落した後、電話番を後輩君に任せて長縄さんと湯沸し室へ。彼の分のコーヒーも淹れながらお菓子タイム。話しながら見上げた窓の外にはきれいな満月がいました。きれいだったんだけど、なんだかお昼に彼からもらったスタンプに似ている。少し寂しかったです。


 それからしばらく彼との予定が合わず、会えない日が続きました。でも、SNSでのやり取りは今まで通り、それだけでも嬉しい。相変わらず彼からは、スタンプ主体の味気ないメッセージが多いけど。

 一方、中野君からのショートメールは頻度が増えてきました。私からは一度も返信していないのに。内容は、会って話したい、話したいことがある、見せたいものがある、と言ったものばかり。そして最初のメールから二週間ほど経った二、三日前からは、私が後悔する、なんて言葉まで。

 そして今、五月二十六日金曜日の午後十一時の少し前、そんな気味の悪いメールのことは忘れて夜勤中。夜勤の明けた明日、土曜日と日曜日は珍しく完全な休日。彼の予定も空いていた。故に、二人でゆっくり過ごす、久々に。どっか連れてって欲しいけど、そこまで言わない。二人でいれたらいい。なので朝が待ち遠しい気持ちで、お菓子を食べてました。ちなみに、今は自席で。

 机の引き出しの中でスマホが震えているのに気付きました。一応、人目を気にしながら確認。何しろ今日一緒にいる当番は、二村さんよりもっと年上のお局先輩の一人だから。ま、電話も途切れている時間帯なので、見られても何も言われないだろうけど。あっちもパソコンで、動画サイト観てるっぽいし。

 スマホにはメールが届いていました、中野君から。無視しようかと思ったけれど開いてしまう。

『五月一日、鎌倉にて』

文面はそれだけ。そして写真が添付されていました。何なんだと思いながら写真を見て……、固まってしまいました。海が見える展望台みたいなところで、寄り添って立っている男女が写っている。その二人の横顔を拡大してみる。しなくても分かっていたけど。一人は石田さんでした。口を開けて笑っている。その横で同じく笑顔でいるのは、堀口さん。ゴールデンウィーク明けの月曜日の朝、私と別れた後の会社までの道を、彼と並んで歩いていた女性。

 なんなの、この写真。え? 中野君が撮ったの? どうやって? いやいや、それより彼と堀口さんが鎌倉に行ったってこと? 五月一日ってキャンプだったんじゃ? そんなことをぐちゃぐちゃ考えていると、またメールが届きました。

『五月一日 十六時二十分 チェックイン』

これにも写真がある。でも、今度の写真には人物が写っていませんでした。写っていたのは鎌倉と言う文字の入った旅館の駐車場。その駐車場に彼の車が写っている。いえ、彼の車と同じ車が写っている、と、思いたい。

 ここに泊まったってこと? 彼と堀口さんが。少し冷静になってからそう思いました。そう思ったところでまたメール着信。心ではもう拒否していました。開く気がありませんでした。でも頭では確認したかったのでしょう、指が動いてしまう。

『五月四日 氷見 そして五月五日 朝』

広い食堂のようなところで、彼が女の子と向かい合って食事してました、楽しそうに。そう、女の子って感じの若い子と。大学生? ひょっとしたら高校生かも。さっきの堀口さんでないのは確か。そしてもう一枚。看板などは写っていませんが、観光地のホテルって感じの入り口が写っています。さっきの子と並んでそこから出てくる彼も。

 五月六日の朝、彼の部屋に行った時、彼は寝てました。玄関の前で三十分以上待ってからやっと入れてもらうと、前の晩、帰って来るのが遅かったから起きれなかったと言ってました。でも行ってた先は実家だったはず。伊勢だと聞いている実家。ほんとは氷見って所に行ってたの? 氷見って伊勢の近くだっけ? いや、北陸だよね確か。そうだ、一緒に行こうって言ってたとこだ。一緒に見た映画のロケ地が氷見で、聖地巡礼しようって。鎌倉もそうだ。春までやってたドラマの舞台が鎌倉で、彼が行きたいと言ってたとこだ。

 ほんとにどうなってるの? なんなのこれ? 中野君の嫌がらせ? ひょっとしたら彼が作った写真? 中野君ならこのくらいやりそう。そうだ、彼が嫌がらせしてるんだ。そんな結論が頭を巡るだけで、私の思考は止まっていました。


 夜勤明けの帰宅後、シャワーを浴びてからスマホの写真を見ていました。もう少ししたら彼が来るはず。そしたらこれを見せて聞いてみよう。すぐに中野君の捏造だと分かるはず。そう思っていました、いえ、そう信じている。でも、彼が来ても見せれなかった。

 彼は部屋に入るといつものように唇を重ねてくる。そして私の体をなぶり始める。でも、初めて拒否してしまった。唇を離してベッドに向かう。そしてもぐりこみながら、

「ごめん、とりあえず寝かせて、昨日は忙しかったの」

と言って背中を向けました。

「そっか、いいよ、俺も付き合う、昼寝。あ、朝寝か」

そう言う彼の方から服を脱いでいる気配がしてきます。やがて彼は私の後ろに。後ろから私を抱いてくる。そして胸に彼の手が。そこまでは抵抗せず、本当に寝てしまおうとしてました。でも、トレーナーの中に彼の手が入って来て胸に向ってきた時、思わず腕に力が入って阻止しようとしてしまいました。でも、それ以上は抵抗できなかった。

 そして私は犯されました。本気で抵抗したわけでも、ハッキリやめてと言ったわけでもないけれど、そんな気分でした。

 目が覚めたら午後一時を過ぎていました。彼は横で寝ている。いつもなら寝顔にいたずらして起こしちゃうんだけど、今日は逆、起こさないようにそっとベッドを出ました。ベッドの周りを探すけど、彼に脱がされた下着が見つからない。お布団の中に紛れてるな。探すと起こしそうなので別のを履いた。ついでにブラも。彼がいるときは部屋用のソフトなものも着けないんだけど、なぜだか無意識に普通のを着けていました。そして着ていた部屋着ではなく、ジーンズにトレーナーを着ました。どうしちゃったんだろう、私。

 空腹でした。朝も食べていない。とりあえず昼食を作る、彼の分も。スパゲッティーを茹でながら、玉ねぎ、ピーマン、キャベツを切ってウィンナーと一緒に炒める。彼の好きな赤いウィンナー。そこに茹で上がったスパゲッティーと、常備菜として作ってある、椎茸の甘煮も切って入れて更に炒める。味付けは塩コショウだけ。彼の好きな私の料理の一つ。そう、彼の好きなメニューにしてる、無意識に。やっぱり嫌われたくない。

 ジーンズを脱いで部屋着のスウェットに履き替えました。ブラも外した。ああ、私って醜い。そんなことをしている自分に気付いてそう思った。

 せっかく作ったけれど、一人で食べる気にならない。かと言って、起こす気にもならない。ほんとにどうしちゃったんだろう。スマホを持ってキッチンの丸椅子に腰かける。そしてまた写真を見ました。これを彼に見せるんだ。そしてこう言ってもらうんだ。

『なんだそれ? 俺はそんなとこ行ってないぞ! 堀口となんて出掛けたことないし、こっちの子は見たこともないぞ』って。

そしたらスッキリする。いつもに戻れる。

 でも、出来そうにない。もしこの写真を見て、一瞬でも彼がうろたえでもしたら。そう考えると怖い。ううん、そう考えるってだけで、もう信じられてないんだ。いやだこんなの、見たくなかった。

 しばらくして起きた彼と、温め直したスパゲッティーを食べました。気分は沈んだままでしたが出来るだけ明るくしてました。食後は私の所で撮り溜めているドラマを二人で観ることに。いつものように座椅子を並べて寄り添って座る。彼が左腕で肩を抱いてくる。徐々に自分の方に私を引き寄せていく。いつものこと。私の体が半分くらい彼の体に重なる。すると右手で胸を触ってくる。いつものこと。

 そう、いつものこと。そして今まで通り、これからも、きっと。だからいつもの通り、

「もう、やめて、(ドラマに)集中できない」

と言いました。すると彼が左腕で私の体を彼の方に向ける。そして唇を重ねてくる。でも、寸前で身を引きました。彼が意外そうな顔をする。

「ごめんなさい、なんか体調悪い」

慌ててそう言いました。

「どうしたの?」

「わかんない。わかんないけどなんか変。風邪ひいたかな?」

すると少し心配そうな顔をしてくれる。そして、

「横になれよ、ほら」

そう言うと自分の膝を掌で叩く。膝枕ってこと? そんな気分じゃないんだけど、そこまで拒否できない。そっと頭を彼の膝にのせて横になりました。

 そのまま数分は何事もなし。でも数分で彼の左手がまた私の胸に。一分我慢できませんでした。私は彼の手をどけて体を起こす。

「ごめん、胸揉まれてると気分悪くなってくる」

「そっか、ごめん。じゃあもうしないから、ほら、来いよ」

彼はそういってまた膝を叩く。

「ううん、横になった方がなんかしんどかったから、座ってる」

「そっか、しょうがないな。大丈夫か?」

不満気な色を浮かべた彼がそう言う。私は小さく頷くだけ。

 ドラマの一話分が終わると彼が立ち上がりました。

「おまえほんとにしんどそうだから今日は帰るわ」

そしてそう言います。しんどそうだから看病してやる、くらい言って欲しいところだけど、今日はこれでいい。

「え、帰るの?」

でもそう言ってました、残念そうに、そして、しんどそうに。

「明日休みだろ? ちゃんと寝てろよ」

彼は帰り支度をしながらそう返してくる。

「うん、寝てる」

私はそう言いながら思いました。風邪薬あるか? 買ってこようか? ってセリフが普通は出てこないかなぁと。そして気付く。この人はそんなことを言う人じゃない。少なくとも私には。堀口さんにだったら言うかな? もう一人の若い子だったら? ああ、もうダメかも、私のテンションがマイナスに振れちゃってる。針を戻したい、戻して欲しい。彼が玄関を出ていく音を聞きながらそう願いました。でも無理だ。彼は別れの言葉もなしに出て行った。またな、の一言でいいからくれていたら、戻せたかも、なのに。


 ほんとに具合が悪くなったような気がして、リビングで横になっていました。そしてウトウトと……。スマホの音で起きると、もう暗くなりかけていました。ひょっとして彼が何か買って戻ってきたのかも。そして玄関を開けてくれとスマホを鳴らしてる? と、ほんの一瞬考えましたが、スマホの音はメールのものでした。それでも彼かもしれないと、慌てて確認。中野君でした。

 もう開かない、と、心で言いながら開いていました。

『新顔、知ってる子?』

文面はそれだけでまた写真が添付されている。見慣れた彼のマンションの駐車場でした。そして彼の車の助手席から女性が降りてくるところ。少し暗いので画質が悪い。拡大しても顔がはっきりわからない。でも、堀口さんやもう一人の子ではない。でもはっきりしていることがある。私の所を出てから誰かを呼び出して、連れて帰ったんだ。

 新顔か……、知ってる子? 知らないよ。石田さんの相手はほかにもいるの? 何人の相手を中野君は知ってるの? 中野君は石田さんのストーカー? この写真はどこから撮った? なんて、そんなことを考えていました。考えていないとおかしくなりそうだった。彼の部屋に飛んで行って、玄関をバンバン叩いてしまいそうだった。

 気付いたら、アドレス帳の中野君の所で発信ボタンを押そうとしていました。慌ててキャンセル。何を話すというの? 自分で問いかける。ただ誰かと話したいだけだ。


 よろよろとベッドまで行き、乱れたままのベッドの上に座り込みました。そして、朝から閉めたままのカーテンを開きました。優しい光が入ってきます。まだ太陽は空を照らしてくれている。レースのカーテン越しに、ベランダで赤いものが揺れているのが見えました。レースのカーテンごと窓を開ける。小さなプランターに詰め込まれたカランコエが、溢れ出るように咲いている。無数の小さな赤い花が、私に向かって目一杯開いてくれている。暮れゆく光の中でもその赤と緑の色彩は、別の光が当たっているかのようにとても鮮やかでした。お前は元気そうだね。そう思うと少し笑顔が取り戻せました。

 右隣の部屋から夫婦喧嘩の声が聞こえてくる。窓を開ける季節は時々聞こえてきます。どちらも通路で会ったときなどに挨拶しても、返事どころか声を掛けた瞬間顔を背けるタイプ、なので全く交流なし。奥さんとは一度だけ会話したことあるけどね、越してきた時にお菓子を持って挨拶に行ったとき。でも、近所付き合いするつもりないんで結構です、と言って、お菓子を突っ返されただけだけど。ここに越してきてからこういう人たちに何も感じなくなりました。こういう人たちばかりだから。例外的に挨拶してきてくれる人に驚くようになってしまうくらい。

 喧嘩の声のバックに赤ちゃんの泣き声があるのに気づきました。子供出来たんだ、との思いをよそに怒鳴り合う声が続く。うんざりして窓を閉めかけた手が止まり、怒鳴り合いにもう一度耳がいってしまう。私もこんな風に怒鳴れていれば良かったのかな。

 窓を閉めて手に待ったままのスマホを見ました。そして中野君にメールを返すことにしました。

『今までのメール、開かずに全部削除しています。無駄なのでもう送ってこないで。』

写真が添付されてくる前の段階でこれを送っていたら。




 月曜日、ビクビクしながら出勤しました。更衣室への行き来も遠回りして、屋外の階段を使いました。石田さんにも中野君にも会いたくなかったから。

 でも仕事を始めるとそんなことは忘れてしまう、それどころではないから。メンテ部業務課は二種類の仕事に分かれています。一つはメンテ契約している客先の機器の管理。法定点検や定期メンテ(フィルター交換や洗浄、消耗品の取り換え)などのスケジュールを組んだり、その段取りをするAグループ。二村さんのいるところ。そして私の所属する、故障やクレームの対応をするBグループ。そう、私の所には故障やクレームを訴えるお客さんからの電話が掛かってくる。相手や内容にもよるけれど、たいていは急いでいて、機嫌の悪い人が多い。

 この本部で電話窓口をしているエリアは、愛知県の北西部、一般的に尾張エリアと呼ばれる範囲と、岐阜県南部、それと三重県北部。岐阜県北部の方にはメンテ契約先がまだありません。愛知県南東部の三河エリアと、浜松営業所管轄は豊橋にメンテ拠点があり、三重県南部は松阪に拠点があります。

 本部受け持ちの契約客先数は現在八十一。Bグループのスタッフは十四人、平日の日中の必要定数は十二人。夜勤明けに代休などの休みの人が重なると、それより減ってしまうけれど。そして電話回線は十五本、電話に出る人数より多い。お客さんは、そんなことで電話してくるな! と、言いたくなるような些細なことでも電話してくる。つまり、ひっきりなしで掛かってくるということ。特に月曜日の午前中は多い。電話応対用のヘッドセットが外せないほど。

 おかげで余計なことを考える暇もなくお昼になり、気付けば夕方。さすがに電話も少し前から静かです。目の前の画面にはたくさんのウィンドウが開いたまま。案件ごとに開く応対画面。電話に追われて入力内容を確認しきれず、閉じれていなかったものです。確認、入力しながらすべての画面を閉じていく。これで今日の仕事は終わりかな。

 私は席を立って湯沸し室へ。自分のマグカップを洗って所定の位置に置く。もう帰り支度です。湯沸し室を出たところでAグループの水谷さん(五年先輩)と出くわしました。某メーカーの空気清浄機のフィルターが入った箱を三つ重ねて、前が見えない状態で抱えています。

「一つ持ちましょうか?」

声を掛けました。

「え、あ、高橋さん、手、空いてるの?」

箱から横顔をのぞかせてそう聞いてくる水谷さん。

「ええ、手伝いますよ」

そう言って一番上の箱に手を伸ばしたら、

「じゃあこれと同じの、あと二箱持ってきて」

と、言われてしまった。まあ、それくらいはお安い御用。

「わかりました」


 一階の裏側の約半分は、社用車用駐車場とシャッターでつながる倉庫兼作業場です。メンテ課の管理場所。様々な機器の消耗品などが在庫してあります。さっきのフィルターを探して、立ち並ぶ棚の間を歩いていました。基本的に私はこの倉庫に用事のない仕事、何がどこにあるのかあまり知りません。でもすぐに空気清浄機のフィルターが置かれた一角を見つけました、目当てのフィルターも。

「高橋、さぼりか?」

いきなり後ろから声を掛けられました。振り返るとメンテ課の工藤さん。メンテ課でもキーマンになるベテランの技術職の一人です。明るい方で人気者。でも会社からは睨まれることが多い人。休日に子供を連れてきて仕事したりしてるから。

「違いますよ、これ取りに来たんです」

私はフィルターの箱を指しながらそう返しました。

「盗りにって、おいおい、白昼堂々と盗みに入るなよ」

「え?」

「いくら俺でも見た以上は見逃せんぞ」

腕を組んで通路を塞ぐように立つ工藤さん。

「あ、それ、字が違いますよ。盗みにじゃなくて、取りにです」

「ほら、盗りにって言ってるじゃないか」

「いえ、え~っと……」

明るいけど面倒くさい人でもあります。

「冗談だよ、何箱持っていくんだ? 手伝うぞ」

そう言って近付いてきてくれます。

「いえ、二箱なんで持てます」

「なんだ、手伝って貸しを作ろうと思ったのに」

「こんなんでは借りだと思わないですよ」

「お前って冷めた女だな」

そんなことを話しながら思いつきました。工藤さんはゴルフ好きで有名。石田さんのゴルフ仲間でもあります。石田さんの話では、ですが。確認してみよう。

「ゴルフ行ってます?」

「おお、やる気になった?」

そうだ、この人からはゴルフ始めろって誘われてるんだった。

「いえ、なってないです。単に最近も行ったのかなって」

「なんだぁ、連れてってくれって言うかと思ったのに。ま、最近は俺も行けてないけどな」

行ってないんだ、やっぱり。ゴールデンウィークのゴルフ旅行も嘘だったのかな。石田さんにほかのゴルフ仲間がいるのかもしれないけれど、私はそんな話聞いたことない。ほかの女の子とゴルフじゃない旅行に行ったのかな。私とは日帰りで何度か出掛けた程度なのに。

 箱を抱えながらそんなことを思っていたら工藤さんが続けます。

「ゴールデンウィークの頭に、穂高まで行ったのが最後かな」

「ゴールデンウィークに行ったんですか?」

少し声が大きくなってました。

「いいだろ、俺だって休んだって。全休は最初の二日しかなかったんだから」

ゴールデンウィークに休んだことを責めたように聞こえたみたい。

「いえ、そういう意味じゃ。すみません」

「どういう意味だよ。ま、お前が目一杯引っ張り出されてたのは知ってるからな。お前に文句言われるのはしょうがないか」

「だから違いますって。ゴールデンウィークに行ったんだなぁって思っただけですよ」

「そういう意味じゃないか」

と言って笑ってます。

「もう、違うって言うのに。で、会社の人と行ったんですか?」

私も笑顔を返しながら、聞きたいことを聞きました。

「なんだ、休んだ共犯者を探すのか」

「違います」

「まあ、いつものメンバーだよ、竹内、石田、富山。こいつらは営業だからな、もともと全休みたいなもんだから」

休んだスタッフ探しを、ほんとに私がしていると思ったみたいでそう返ってきました。でも聞きたいことが聞けた。ゴルフには本当に行ってたんだ。

 その週は珍しく夜勤がありませんでした。休日も土曜日の日勤だけで日曜日にまた休める。石田さんとはメッセージのやり取りは続いていましたが、会う約束はしていない。中野君からのメールはなくなりました。会社でも見かけるだけ、接触して来ない。なんだか不気味だけどありがたい。しばらくは静かに過ごしたかったから。


 心穏やかではありませんが、ゆっくり過ごした後の月曜日、六月五日。朝礼で、波乱の始まりとなりそうな告知がありました。それはメンテ部業務課の統廃合の告知。この本部のほかに、豊橋と松阪にある三か所の客先窓口を一つにするというもの。そう、客先窓口を一つにするということなので、対象となるのは業務課でも私の所属するBグループのみ。詳細は告げられませんでしたが、若干名の人員整理になるとのこと。退職金の受け取り資格のない、勤続年数の浅い人にも何かしらの手当てとしていくらか支給するので、退職を希望する人は所属長に申し出るようにと(退職金とは言いますが功労金制度の会社です。受け取り資格は勤続満二十年から)。統廃合の実施は十月一日から、約四か月後です。それでもあんまり騒ぎにもならず、普通に業務が始まりました。ま、月曜の朝なので電話が鳴りっぱなしだから、そうなるんだけど。

 でもさすがに、お昼休みはそこここで話題になりました。いつもの昼食メンバーの四人の中でも。特に後輩二人は整理されるんじゃないかと心配顔。

「大丈夫だよ、若干名って言ってたでしょ? たぶん、豊橋や松阪の人が名古屋まで通えないって言って辞めるから、それで済んじゃうよ」

と、中川さんが二人に言います。私もそんな気がする。そしてほかの人たちの所でも、その程度の話にしかならなかったようです。なので、次の日にはもう話題になりませんでした。


 統廃合の話で頭から抜けていましたが、先週の金曜日から石田さんとのメッセージのやり取りがないことに気付いた水曜日。どうしよう、このまま終わっちゃうしかないのかな? なんて重い気持ちで座っていた夜勤中。午後十一時を過ぎたころにメッセージが来ました。

『まだ機嫌悪い? シフト見たら土曜日空いてたけど、会わない?』

一瞬喜んだけれど複雑。それに、機嫌悪い? 何言ってるのかわからない。機嫌が悪いと言われるようなやり取りをした覚えがない。誰かと間違えてないか? なんて思ってしまう、もう。

『ごめんなさい、土曜日ダメなの。友達と約束ある。』

断ってしまった、嘘をついて。今度会うときは結論を出すとき。別れる結論になるんだろうとはもう思っているけど、別れたくない気持ちもある。わずかな可能性でも、あの写真がフェイクである望みにすがっている。

『会って話したいことがあるんだけどダメか?』

数分後、またメッセージが来ました。

『ごめんなさい』

そう返した後、私が返信する間もなく立て続けにメッセージが送られてきました。

『そっか、会って話すべき内容だったんだけどな

『別れよう

『お前、ちょっと前から男いるだろ

『誰かは言わないけど昔の男

『俺限界だわ

『我慢してたけどやっぱダメ

『若い奴の方がいいんだろ

『俺も新しい相手見つけるから

『じゃあな(スタンプ)』

手は震えていたけれど、固まっていました。私が浮気したことになってる。しかも内容的に相手は中野君。怒りが湧いてきました。怒りのメッセージを連打してやる! とは、思いませんでした。怒りのあまり、相手する気がなくなりました。私が原因とされてるけど、そのことに文句を言う気にもならない。癪だけど、もうそのくらい冷めていました。だからもう何も返信しない。想定外の展開でですが、結論が出ました。




 翌週のまた水曜日、騒ぎになりました、統廃合のことで。昨夜夜勤だった先輩が、一緒だった係長から聞いた話。豊橋、松阪のスタッフはある程度の年数経験者が多い。しかも出先では、ここでのA、B両グループの業務と、メンテ課の業務もこなしているオールマイティーなスタッフ。戦力度が高いので極力辞めさせずに、本社近くで希望の住宅を用意してでも異動させる方針だとか。そして員数についても係長は口を滑らせた様子。人員はまだ仮の設定だとは言いながら、今の本部人数にプラス十二人。豊橋、松阪の異動対象人数は合わせて二十二人。つまり、全員異動してきたら、そして異動してくるスタッフが全員残留なら、本部のBグループから十人リストラされることになる。十四人中十人、約三分の二だ。実際は、今の本部業務を知ってる人間が三分の一になってしまったら、さすがに仕事にならないだろうからそんなことはないだろうけど。でも、かなり切実な話になりそうな雰囲気です、私にも。


 特に何もなく、二週間が過ぎた月末の金曜日、昨夜はそこそこ深刻な故障対応が多数あり、引継ぎが長引きました。なので夜勤明けだけど会社を出たのは午前十時を過ぎていました。

 朝の人混みがなくなった池下駅に行くと、地下への降り口に中野君が立っていました。ジーンズにTシャツ姿、なんでだろう。そう思っていると近付いてきます。私に用? どうしよう、と思う間もなく目の前に来てしまいました。

「おはよ、いや、お疲れ、かな」

「おはよ」

挨拶だけ返して私は横を通り過ぎました。

「本郷に着くまででいいから話させてくれ」

後ろから中野君がそう言ってくる。

「ごめん、話すことない」

私は歩き続けたままそう返しました。

「頼む、誰にも見られないようにと思ってこのタイミング作ったんだから、頼む」

「作った? どういうこと?」

「高橋の夜勤明けの帰り道ならだれにも会わないと思って、シフト確かめて有給取ったんだ」

何でそこまで、全然変わってない。中野君は別れた時のこと覚えてないの? 私に何したか覚えてないの? 何もかも私のためだとか言って、私の行動すべてにつきまとってきた。挙句、私の行動が私のためになっていないと決めつけて、私の行動を制限するようになった。そして、職場で男性の上司や同僚と接しているのは特に良くない、と言い出し、会社を辞めさせようとまでした。最後のころの中野君の言葉、私のためだと言ってとる行動、重かった、いえ、怖かった、たぶん一生忘れない。

 でも、ああまで言われたら話を聞くしかないか。

「わかった、本郷までだよ」

気乗りはしないけどそう返しました。

「ありがとう、それで十分」

そして並んで歩きながら、まずこう言ってきました。

「業務課統合の話、どうなの?」

「別に何も。詳しい話はまだないから」

「そうなんだ。でも何人か切られるんだろ?」

「みたいね」

「大丈夫そう?」

「わかんないよ、何も話ないんだから」

「そっか」

そこで改札になりました。中野君は桜通線の車道から今池まで地下鉄で通勤しています。なので東山線の池下駅は定期の範囲外。定期兼用のマナカで改札を通りますが、残高が少なかった様子。

「ごめん、ちょっとチャージするから待ってて」

そう言って精算機の方へ行きます。私は待たずにホームへ向かう。彼が追いつく前に電車が来てくれたらいいのに、と思いながら。

 残念ながらホームでも横に中野君が立っていました。

「石田さんとどうなった? まだ続いてるの?」

唐突な質問。ま、この話がしたかったんだろうから想定内だけど、余計なお世話。でも面倒くさいから、彼が望んでいるであろう答えを言いました。

「終わったよ」

「そっか、良かった」

何がいいんだ、良かったのかもしれないけど、わざわざそう言うな。彼の場合、私が誰とも付き合っていない状態になったことが良かったのだろうけど、それはあくまで私のために、私は誰とも付き合っていない方がいいという論理。ひょっとしたら私が付き合うのは自分がベストだ、なんてまだ言い出すかもしれないけど。でもまあ、今回は別れた方がいい相手だと、彼のおかげで早く気付けたのかも知れない。なので感謝すべきでしょう、言わないけど。

 電車が来たので乗りました。ホーム同様、ガラガラです。二人並んで座ると中野君が口を開く。

「送った写真見せたの? 石田に」

部署が違うとはいえ、上司を呼び捨てだ、と思いながら、見せてない、と言いそうになり、慌てて口を閉じました。見ずに消したと言ったのを思い出したから。

「写真? ああ、メールの? 開いてないって言ったでしょ」

なのでこう返しました。すると中野君はポケットからスマホを取り出しながらこう言う。

「写真見せないでどうやって別れたの?」

何で説明しなきゃいけないの、と、少しイライラ。なので、

「捨てられたの」

と、言ってやりました。中野君はスマホをいじる手を止めて意外そうに私を見ます。

「えっ? なんで? ええ? いつからだった?」

なんでって、知るか! それにいつからって何なのよ。

「はあ? 何がいつから?」

「いや、石田と付き合い始めたの」

「どうでもいいでしょ」

「そうなんだけど、早いなって」

「何が?」

「いや……」

本格的にイライラしてきたので少し言葉が尖っていたかも。中野君は言い淀んで目をそらしました。でも少しするとまたこちらを見て話してくれます。

「営業の男たちの中では有名な話なんだ。石田は半年から一年くらいのサイクルで、とっかえひっかえ女と付き合うって。それもいつも数人と同時進行で」

イライラはどっかに行っちゃいました。私の頭の中では、私もそのサイクルの中にいただけってこと? 石田さんにしたら終わるのが予定通りってこと? って考えだけが巡ります。なのに中野君は続ける。

「石田が高橋に手をつけてるって知ったのは四月になってからだったから、まだ続くと思ってた」

「知ったって、なんで?」

そこが気になりました。会社の誰にも知られないようにって、石田さんから言われたことだから。

「いや、その、あの人とは時々飲みに行くんだ。その時に高橋とやっ……、付き合ってるって」

「……やったって言ったの?」

「いや……」

顔が熱かったです、その時恥ずかしいなんて感情はなかったのに。

「石田さんがなんて言ったか詳しく教えて」

「いやそれは……」

中野君の顔が少し歪みました。

「いいから、石田さんが言ったことでしょ? 何言われても中野君に怒ったりしないから」

中野君は俯いて、少ししてから声を抑えてこう言いました。

「高橋とやったら処女じゃなかった。おぼこい顔してるから処女だと思ったのに騙された、って」

そんなこと言われてたんだ。くらくらしてきました。そこに中野君の言葉が続きます。

「その時佐伯さんが一緒だったんだけど、佐伯さんが、こいつが先にやっちゃってるもん、って、俺と高橋が付き合ってたことバラしたんだ」

佐伯さんは中野君の所の数年先輩。当時は佐伯さんの彼女も一緒に、四人で遊びに行ったりしたことがありました。

「……」

私は何も言えない。言う気になりませんでした。

「そしたら、先にやりやがって、とかって絡んでくるから、俺の時も処女じゃなかったって言ったんだけど、なんか機嫌悪くなって」

悪かったね、初めてじゃなくて! 処女じゃなかったって何度も言うな! 最低、いや最悪だ。そんなこと言うなんて信じらんない、男の人ってこういうこと言いあってるんだ。朱美と、中野君が童貞だったみたいな話した記憶があるけど、それはこっちのこと、関係ない。ひどい、最低すぎる。一体どのくらいの人がこの話を知ってるんだろう。その時だけでも他に誰がいたのか聞きたい。でも聞くのも怖い。手が震えてきた。もう会社で男の人の顔見れないよ。

 私は俯いていました。すると中野君が私の顔の前にスマホを差し出してきました。スマホでは動画が再生されていました。見覚えのある景色。土の広場、その先に腰くらいの高さの柵が連なり、その向こうに海が見える。柵の所で寄り添うカップル。楽しそうに何かしゃべりながらじゃれあってる。時々画像から二人が消える。隠し撮りだから、ずっと二人を狙ってるわけにはいかないんだろう。中野君から送られてきた石田さんと堀口さんが写った写真は、この動画から切り取ったのだろう。動画に写っているカップルはその二人だから。

「これ……、なに?」

まだ、写真を見ていない風に装う程度には、頭が回りました。

「ゴールデンウィークの鎌倉。誰と誰かわかる?」

私はスマホに顔を近づけました、演技で。

「石田さんと、堀口さん? 堀口さんも?」

「堀口さんだけじゃないよ」

そう言うと中野君はスマホを操作して、別の動画を再生しました。それは石田さんのマンションの駐車場。送られてきた写真と同じ場所から撮っているけれど、あの時とは違うものだ、かなり明るい時間のものだから。石田さんの車から降りると、ツカツカと石田さんの前を歩く女性。そう、女の子って感じじゃない大人の女性。

「これはたまに行くスナックのバイトの子、と言っても俺らより上だけど。俺が知ってる中では、今はこの子が一番長い」

そしてまた違う動画を再生する中野君。もう見る気はないんだけど見てしまう。今度は夕方のさっきの駐車場。車から降りたのは写真で見た女性でした。動画で見ると若い子だと感じました。はにかむように寄り添うと、肩を抱かれて歩いていく。

「石田はいいとして、女の子の方は誰かわかる?」

そう聞かれるけれどわからない。確か中野君もメールで、知ってる子? とかって言ってた子だ。私が黙って画面を見ていると、教えてくれる。

「俺も誰かわからなかったんだけど、設備事業部の総務に入った新入社員だった。新井さんって言うんだけど、短大卒だから今年二十一だよ」

新入社員って、まだ三か月だよ。そんな子にまで手を出してるんだ。そして、みんな自分の部屋に連れ込んでたんだ。女の気配なんてなかったあの部屋に。そして思い出す、私のものを全部持ち帰らせていたことを。部屋着だけでも置かせてと言ったのを拒否したことを。お母さんが来るなんて嘘だったんだ。そして中野君はまた次の駐車場動画を出す。それには堀口さんが写っていました。

 堀口さんが写った駐車場の動画を見ているところで本郷に着きました。電車を降ります、中野君も。

「今あいつが付き合ってるのはもう一人いて、これがそれ。十九歳のキャバクラの子。ゴールデンウィークに氷見まで行ってた」

中野君はそう言って私の顔の前にスマホを出します。私はその手を遮って顔を背けました。

「もういい」

「そっか」

中野君もそれ以上見せようとはしない。ホームから改札のある所まで降りて、私は立ち止まりました。中野君が戻るにはここから反対側のホームに上がらないといけないから。

 横に並んだ中野君に尋ねました。

「氷見とか鎌倉って言ったけど、それどうしたの? どうやって撮ったの?」

「あいつの車をつけた」

ほんとにそんなことしたんだ。て言うか、そんなドラマみたいなことできるんだ。

「さっきの鎌倉でってやつ、結構近付いてたけど、気付かれなかったの?」

「鎌倉の時は学生時代の連れに手伝わしたんだ。連休暇だって言ってたから、旅費出すから付き合えって。だから車二台でつけた」

呆れる。

「そっか、でもなんで?」

「なんでって、お前のためだろ」

「はあ?」

またこれだ、このセリフだ。

「お前に手を出してるって知ったから、あいつの実態を暴いてやろうと思ったんだよ」

「で、それを私に見せて別れさせようとしたの?」

「そうだよ」

頭痛い、吐きそう。

「でもあいつを張ってて思ったんだ、許せないやつだって」

で、どうすんの? もう私は、ハイハイって感じでどうでもいいんだけど。

「で、今日話したかった本題はここからなんだ」

はあ? これ以上何があるの?

「あいつの実態をみんなに晒して、あいつを潰したいんだ」

「……」

「で、どんな方法がいいか相談したかったんだ」

「はあ? そんなの知らないよ、勝手にして。いや、もうやめて、そっとしといて、私を騒ぎに巻き込まないで」

「なんでだよ、社内だけでもお前や堀口さん、それと、えっと、新井さんだけじゃない。あいつの口から出たのは二十人くらいいるんだぞ」

「二十人も?」

その数にはさすがに驚いて反応してしまった。

「そうだよ、ま、十年以上前からだからほとんどもう辞めちゃってるけど、まだ何人かはいるよ。お前の所にも確か二人、まだいるよ」

誰? って聞きそうになった。

「あっそう、でももういい。もう関わりたくない」

「なんでだよ、潰せるときに潰さないと、またお前みたいなやつが出るんだぞ」

そう言われると、彼が正しい気もしてくる。でもほんとにもう関わりたくない。

「ごめん、ほんとにやめて。騒ぎになったら私、会社にいられなくなる。会社辞めるわけにいかないの。ほんとにお願い、勘弁して」

そう言うと彼も黙りました。でもそれはほんのしばらくのこと。ほんのしばらくして彼はこう言いました。

「わかった、梨沙を巻き込まないようにやる」

二度と梨沙と呼ばないで、と以前言った、梨沙と呼ばれたことに反応できずに、私はお願いしました、もう一度。

「お願い、やめて、そっとしといて」

「だから大丈夫だって、巻き込まない方法考えるから。潰さないといけないやつを俺は潰せるんだ。ならやらないといけないだろ」

そして中野君は、任せとけと言って、反対側のホームへの階段に向かいました。

 騒ぎになったら巻き込まれないわけがない。私は関係者の一人なんだから。石田さんのことをみんなに晒すと中野君は言ったけど、晒されるのは私やほかの女の子たちも一緒。ほんとに会社にいられなくなる。気が重い、そして泣きそう。誰かと話したい。真由や朱美を思いつく、けど、思いついただけ。会ってもきっと話せない。

 駅を出てバス停に向かいました。空気が重い。空には厚い雲しか見えない。そして西の空、左側からさらに低く黒い雲が流れてきている。天気予報は大雨に注意でした。それを思い出したら、さらに周りが暗くなったように感じます。

 私が乗るバスは、とある大学に向かう路線のバス。バス停には楽し気におしゃべりしている学生たちが並んでいる。そこだけは雨が降っても快晴かも。雨が好きなわけではないけれど、今の私は近付く気にはなれない。その日はタクシーで帰宅しました。



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