12 失職 承 -回想-


 翌週の、またまた水曜日 七月五日。朝から社内で騒ぎがありました、大騒ぎが。朝礼もなく、騒ぎのまま仕事が始まったような状態。私は出社してすぐにそれに気付きました。そして固まり、震えていました。

 昨夜、営業部長からメールが一斉送信されていました。タイトルは、『水回り営業課係長 石田健雄には要注意』。本文は『石田健雄は不特定多数の女性を家に連れ帰る男です。ほんの一部ですが、彼が自宅に女性を連れ込んでいる事実を明かします。添付の写真は彼の住むマンションの駐車場』。そして添付写真が四枚。私以外の四人の女性がそれぞれ写っている、彼のマンションの駐車場での写真。新井さんという新入社員の子は面識がないので、今一つ私にはわかりませんが、堀口さんは見た瞬間、彼女だと分かる写真でした。彼女は晒されました。でも、席の近くのどこかから、

「これ堀口さんだよね」

という声と一緒に、

「この子、総務の子じゃない? 総務の新人だよ多分」

と、新井さんも認識されていました。

 私は自分の写真がないことに最初はホッとしました。でも時間の経過とともに、自分の写っている写真がないことが怖くなってきました。少なくとも石田さん本人と中野君以外に、佐伯さんは私も関係があったのを知っている。ほかにも知っている人がいるかも。そういう人は私の写真がないことを不審に思うかも。

 昼休み、いつもの四人で昼食。話題は当然朝のメールの件。営業部長は自分は送っていない、全く知らないと言ってるらしい。当然そうでしょう。そしてショックな噂がもう耳に入りました。総務の新井さん、十時くらいで早退。そしてこのお昼までに、退職を告げる電話があったとか。何を言ってるのかわからないほど泣きながらだったとか、激怒した父親からだったとか、いろんな尾ひれ背びれが付いていたけれど。でもそういうことになったようです。そういうことになると思った。

 堀口さんの様子は伝わってきませんでした。でも石田さんの様子は少し耳に入りました。朝から営業部長を含めた上司達と小会議室に入り、それっきりだとか。

 長縄さんが私たちのいる打ち合わせスペースの横を通り抜けて、業務課のエリアに向かいました。そしてすぐに戻ってきました。

「智子見なかった?」

そして私にそう聞いてきます。

「いえ、見てないですよ、上にいないんですか?」

二村さんは会議室で食事するグループです。長縄さんも一緒。

「うん、上がってきてないのよ」

なんとなく心配気な顔です。

「あの、上はどうですか? 堀口さんとか、メール送った犯人とか」

中川さんが長縄さんにそう尋ねました。

「ごめん、私たちは静観しようってことにしたから何も聞いてない、って言うか、聞かないようにしてるの。だって、信憑性のあるものかどうか怪しい話でしょ、まだ」

「そうですね」

「だからあなたたちも、わけも分からないうちから騒いじゃだめよ」

「わかりました」

最後は四人で頷き返しました。

 中川さんが、

「さすが大人だね、カッコイイ」

なんて言ってると、離れて行った長縄さんが戻ってきて、

「梨沙ちゃん、今夜夜勤だよね」

と、私に言います。

「はい」

そう返すと、

「ちょっといい、夜食の相談」

と言って笑顔で手招きします。私は席を立って誘われる方へ行きました。

「お願い、智子の様子見といて。わけは夜勤の時に話す」

三人から離れると、真面目な顔でそう言われました。


 そして夜勤中、今夜は出だしから暇でした。でも、メールの噂話を帰らずに続けている人たちが結構残っていて、なかなか長縄さんと話ができません。そして残っている人たちから聞こえてくる噂話では、堀口さんがかなり悪く言われていました。ほかの部署の人とも付き合っているとか、違う人と以前付き合っていたとか、その時も二股だったとか。もっとひどい女だという話も……、どこまでほんとかわからない話が沢山。男性に人気のある堀口さんのことを、良くは思っていなかった女性社員は少なくありません。付き合えずにフラれた男性社員も同じ。ここぞとばかりに逆襲されているようです。

 午後九時に近づいたころ、やっと静かになりました。しばらくすると長縄さんが、お菓子とマグカップを持って私の席の隣に来ました。今日一緒の当番は五、六年先輩の男性社員。Aグループの人なので離れた席に座っています。

 隣に来た長縄さんに、二村さんの様子はいつもと変わらないように見えたと、すぐに伝えました。すると、

「そっか、ならいいんだけど」

と言ってから、私にポッキーを差し出してくる。一本もらって私が口に入れると、長縄さんがこう言いだしました。

「前に話した智子の昔の彼って、石田係長なの」

私は胸に何か刺さりました。そして何も言えなかった。

「うん? 反応ないけど、そんな気がしてた?」

私の顔を覗き込むようにしてそう言います。

「いえ、驚いてます」

「そっ」

そして長縄さんもポッキーを口に入れる。

「それで静観することにしたんですか?」

尋ねました。

「まあね、……以前も似たような騒ぎがあったのよ」

長縄さんは少ししてからそう言います。私は何も言わずに続きを待ちました。

「覚えてる? 捨てられた女って騒がれたって言ったの」

「はい」

「今朝のメールの件、あの時みたいな騒ぎにならないかなって」

「……」

「智子が捨てられたとき、同じようにもう一人捨てられた子がいたの、社内で。その子が社内で騒いだの。石田係長を、当時は主任だったかな? 石田さんを責めるつもりだったんだろうけど、その過程で智子も石田さんが捨てた女の一人だと知って、その子が智子を巻き込んだの」

私の胸にまた何か刺さりました。

「でもね、その子は派手な子だったの、恋愛も。だからその子の方が石田さんをつまみ食いしてたんだろうって言う声も結構あったの。騒ぎ方がすごかったから反感買ったってこともあるけどね。その、その子側に智子は巻き込まれた。智子もそのころは、そのころなりに今風の、きゃぴきゃぴした女の子だったから。言ったでしょ、騒ぎのあと、智子はおとなしく目立たなくなったって」

私は頷くだけ。

「タテに見られ、ヨコに見られ、ナナメに見られ、ほんとに辛そうだった」

「それを二村さんが思い出して、辛いんじゃないかってことですか?」

「それもある。けど、こういう話って話題になり始めると掘り返す人が出てくるのよ」

「……」

「石田さんの手癖の悪い話は、騒ぎにまでならなくてもこれまで何回もあったの。その度に、二村もだよな、とかって言う人がいるのよ」

「……」

「そういう声が出ると、忘れてた人は思い出すし、知らなかった人は知ることになる。しかも事実と違う面白話で。そんなのが智子の耳に入ったら、あの子はまた辛くなるから」

自分の身に置き換えて聞いていました。私も明日にはそうなるかもと。

「石田係長を責める人はいないんですか?」

気付いたらそう聞いていました。石田さんが追及されて消えて欲しいと思ったのかも。

「いたわよ当然。最初の智子の時なんて、後からまだ三人も出てきたんだから、社内だけで。内一人は進行形だった。石田さんは若いころからカッコ良かったからね、口説かれたらなびいた子が多かったのよ。で、社内でほとんど同時期ってくらいの短期間で、五人も手を出してたってのは問題になった。彼の上司は辞表を出せと言ったって話もあった。でも、何も処罰されなかった。騒ぎもすぐに治まった」

「何でですか?」

ポッキーを口に運びながら話をする長縄さんに、少し身を乗り出して、ではなく、上目遣いで静かにそう言ってました。長縄さんはマグカップに口を付けてから続けてくれます。

「騒ぎについては上から通達があったの、恋愛ごとを社内で話題にするなって。職場は仕事する場所だって建前で箝口令を敷いたのね。で、そんな通達が出た理由も、もう一つの方に関係があると思うの。梨沙ちゃんは丸山産業って知ってる?」

いきなり聞かれました。今の話にどう関係するのかわかりませんが。

「三重のお客さんですよね」

産業となっていますが、丸山産業は津市にあるゼネコンさんです。新築のビル工事で、よくうちに設備工事を発注してくれるところです。その後のメンテ契約にも協力してくれるとか。

「そっ、そのころね、うちの会社は三重の仕事を広げるのに力を入れてたの。実績積み上げて、松阪にサービス拠点も作って、やっと県庁にも名前が通るようになりかけてたころ。それに協力してくれてたのが丸山産業なの」

話のつながりが私にはわかりません。

「丸山産業は三重では大手の地場ゼネコンで古い会社だけど、本来はもっと古い会社の出先なの。だから今の社長含めて創業一族は、元の会社の家の人」

「……」

「その元の会社って言うのは、伊勢にある石田不動産って会社」

今度は顔を上げて、ほんとに少し身を乗り出してしまいました。

「もうわかったでしょ、石田係長は石田不動産の創業一族、石田家の人間なの。しかも現社長の直系、三男坊らしいけどね」

「それで石田係長は処罰されなかったんですか?」

「そういうことでしょうね。それにさっきの話、後日談があって、石田係長に辞表を出せと言ったって噂の当時の営業課長、一、二か月後に退職してるのよ。これも噂では、石田を処罰しないのはおかしいって、会社が騒ぎを治めてからも上の方に言ってたみたい。それで辞めさせられたんじゃないかって」

「ひどい」

「ひどいって言うのはまだ早いよ」

「え?」

「他にもまだ何人かいるから、今までに石田さんをどうにかしようとして会社からいなくなった人」

「……ほんとにひどい」

「噂だけどね」

私のセリフを受けてそう言うと、長縄さんはマグカップをまた口に持っていきます。

「そこまでして会社は石田さんを守ったんですね」

「もともと道楽者の問題児だってわかってて引き受けたみたいだからね、三重での仕事のために」

「……仕事のため」

「石田一族は、三重では県や市で議員やってる人もいるからね。過去には国会議員もいた家だし」

「……」

「だから会社も手放せないんじゃない? 今だってろくに仕事してないのにいるでしょ、誰でもなれる下級の係長止まりだけど」

仕事のことは分からないけれど、役職のことは分かります。年齢的には速い人なら課長になっている。それも上級の課長に。うちの会社は係長という役職に、社内的には二段階あります(課長は三段階)。そして係長として下位となる下級の係長までは、上司一人の推薦だけでなれます。でもその上は、必須となる資格などを持っているのが条件となったうえで、上司の推薦に加えて同僚や部下からの推薦も必要。そして社内試験を受けないといけません。仕事ができるだけでは上に上がれないのです。当然、人脈だけでも。


 ここで話が中断しました、電話が鳴ったので。電話はお客さんからの故障の連絡でした。でも、緊急でもなんでもない内容だったので、明日の日中に対応しますと伝えて終わりました。その電話中に私のスマホの画面が明るくなっていました。スマホは長縄さんに近い方に置いていたので、彼女はその画面を見ていました。

「走らなくてよさそうね」

電話を切ると長縄さんがそう言います。長縄さんのメンテ課で、すぐに対応しなくていいのねって意味。

「はい、指図書作っときますから、明日お願いします」

「わかった。ところで、勝手に見ちゃって悪いけど、石田さんからメッセージって出てた、梨沙ちゃん、石田さんと何かあるの?」

少し不審な顔つきで私のスマホを指しながらそう聞いてきます。私は返事に困る。でも、こんな日のこんな時間に、この人からメッセージが送られてくる。それに対する言い訳なんて思いつかない。私は長縄さんに見える状態のまま、スマホの画面を触ってメッセージを開きました。

『お前だろ』

メッセージはそれだけ。私は画面をスライドさせて、少し前のやり取りも見せました、何も言わずに。

「えっ?」

そう声を出して、長縄さんが私のスマホに手を伸ばしながら私を見ます。私は黙って頷きました。

「ほんとに見ていいの?」

スマホを手に取った長縄さんがそう聞いてきます。

「どうぞ」

長縄さんがひと月前のやり取りを見ました。別れを告げられた時のやり取りを。

「私もだったんです、一か月前に捨てられましたけど」

「そうだったんだ」

そう言って長縄さんがスマホを私に返してきます。

「昔の男って、そうなの?」

「違いますよ、全然会ってないですし」

先日の地下鉄でのことを思い出し、また胸に何か刺さるのを感じながらそう返しました。

「そっか。えっ? じゃあ……、お前だろ、って」

長縄さんは完全に疑いの目で私を見ます。

「違いますよ」

今朝のメールの送り主だと疑われたのは明らか。私は慌てて否定しました。

「そう、でも、ごめんね、疑うわけじゃないんだけど、今朝のメール、梨沙ちゃんの写真はなかったよね」

「ええ」

「梨沙ちゃんは石田さんの部屋、行かなかったの?」

「行きましたよ」

「でも梨沙ちゃんは撮られてないんだ」

「……」

「写真の四人より回数が少なかったのかな?」

「……」

「こう言ったらなんだけど、タイミングが良かったんだ」

「……」

私は徐々に俯いてました。

「ごめん、ほんとに疑ってるわけじゃないよ、それに追求したいわけでもないからね」

長縄さんが気を遣って、優しい口調でそう言ってくれます。私は俯いたまま小さく頷きました。

「ほんとにごめん、聞かれたくないし、話したくないよね」

「……」

「でもね、酷なこと言うけど、覚悟した方がいいよ。梨沙ちゃんと石田さんのこと、ほかの人が知ったら、まず疑われる。そして多分、ひどいことを言いだすと思う」

私はまた頷きました。そしてそのあと、長縄さんも何も言わない。

 しばらく沈黙の時間が過ぎました。

「すみません、ちょっとタバコ吸ってきていいですか?」

離れたところから男性社員がそう言ってきました。

「いいよ、ゆっくりしてきて」

長縄さんがそう返します。

「すみません、ありがとうございます」

男性はそう言って出ていきました。私はそのあと顔を上げて、長縄さんの方を向きました。

「あの、私、どうしたらいいですか?」

そしてそう聞きました。長縄さんはほんのしばらく思案顔をしたのち、

「誰があのメール送ったのか心当たりない?」

と、聞いてきます。

「わかりません」

そう答えた私の胸にはまた何かが刺さる。心当たりはある、確信に近い心当たりが。でも言えない。

「誰の仕業かわかれば、責められるのだけは避けられるんだけどね」

「責められる……」

長縄さんの言葉を繰り返してしまいました。

「そっ、ちょっと考えて、梨沙ちゃんも完全な部外者だったとして、例えば、写真にはなかった誰かが石田さんの被害者だったと知ったら、その誰かのことをどう思う?」

そんなの考えるまでもない、私が今一番恐れていることだから。いっそのこと、私の写ってる写真もあればよかったのに。石田さんに遊ばれた女だと晒されるけど、恥ずかしい思いをするだけで済んだかも。あのメールは多分、石田さんに裏切られたとか、捨てられたとかの仕返しが目的だとみんな考えるはず。なら、送り主の写真はない。自分で自分の写真は撮れないから。なので、写真になかった人物が新たに現れたら、その人が疑われる。そして自分は隠れたまま、他の人を晒し者にしたと言われる、責められる。少なくとも晒された人からは恨まれる。

「わかります。写真に写ってる人たちを犠牲にして、自分だけ隠れたまま仕返ししようとしたひどい人だと思います」

私はまた俯いて、少ししてからそう答えました。

「そっか、そこまでわかってるか。そりゃそうだよね、そう思われる可能性があるんだもんね」

長縄さんはそう言ってからまだ続けました。

「でもね、一番の問題はメール送った犯人だとされちゃうことだよ。今梨沙ちゃんが言ったことも、耐えられないくらい辛いことになるかもしれない。陰口叩かれて、惨めな立場になるかも。でも、本当に自分じゃないのなら、そう言い続けてればそのうち解決する可能性がある。言い続けなくても、時間が解決してくれる、表面上はだけどね。みんないつまでもおんなじことやってられないから。智子はみんなに何も言わなかったけど、三か月くらいでその話は聞こえてこなくなったよ」

でも三か月言われたんだ。

「でね、最初に言った犯人にされちゃうってやつ。これは周りのみんなのことを言ったんじゃなくて、会社のことを言ったの。会社がこの騒ぎの犯人だと決めたら、多分クビだよ。他人のアドレスを勝手に使うなんてことだけでも重罪だし、噂が本当なら、もう退職者が一人出たような大騒ぎを起こしたんだから」

「クビ、ですか」

「可能性高いと思わない?」

「ですね、そうですよね」

私は中野君が犯人だと確信している。なのでクビと言う言葉を中野君に当てはめて、中野君のことを考えていました。中野君がクビになる。自業自得だと言えばその通り。中野君にはもう何の想いもない。無関係なことでなら何とも思わない。いえ、怖いと感じて別れた相手が会社からいなくなる。ホッとしたかも。でも今回も、これは私のためだと中野君は言うだろう。そしてそれは中野君の中で本当のことだろう。誰かが本心から私のためだと思ってしたことで処罰される。私が望んだことでなくても。ひどい方法であっても。でもその事実は重い、重すぎる。なんで私なの! って叫びたいくらい。

「ほんとに犯人見つけないとね」

長縄さんの声に顔を上げました。

「梨沙ちゃんのことがみんなに知られたら、言い訳も出来ずに追い出されるかも」

私は長縄さんの顔を見てるだけ。

「石田さんとの会話で、誰かの名前出てきたことない? 会社で親しそうな女の子の名前」

長縄さんが何を言い出したのかよくわからない。

「たくさん出てきましたよ、社内のことは共通の話題だったんで」

なのでそのままそう返しました。

「そっか、そうだよね」

私はまた長縄さんのことを見ていました。すると、

「わからない?」

と聞いてきます。

「何がですか?」

「ほかに少なくてももう一人は、石田さんと付き合ってた子がいるかもってことよ。最近捨てられたのか、継続中だったのかわからないけど、そういう子がいたら、その子が犯人の可能性が高いでしょ」

そっか、中野君のことがあるから、犯人が誰かなんて考えてなかった。だって、間違いないって確信してるから、考える必要がなかった。でも普通に考えると、長縄さんの言う通りだ。

「そうですね」

でも、気のない返事になってしまった。

「なんで他人事みたいな反応なの?」

なので長縄さんが私の目を覗き込んでそう言います。

「いえ、そう言うつもりは……。でも、何もしたくないって言うか、そっとしといて欲しいって言うか、よくわかんないですけど、あんまり考えたくないです」

しばしの沈黙ののち、

「ごめん、私も少し興奮してた」

長縄さんがそう言ってくれる。そして私から目を離すと、机の上に置いていたスマホに目を止めます。

「梨沙ちゃん、さっきのメッセージ、違うって返しとかないと、認めたって思われない?」

「あ、そうですね、でも、もう話したくないです」

「気持ちはわかるけど、今回は返した方がいいと思う」

「違うって言えばいいですか?」

「うん、そだね。でも私なら、あんた頭悪いの? 自分で自分が疑われるようなことするわけないでしょ、バカ! くらいのこと返すけどね」

長縄さんの言い方がおかしくて、少し笑っちゃいました。

 裏の倉庫の方が騒がしくなってきたので、長縄さんはそちらに向かいました。終業後の客先事務所の、定期的なエアコンフィルター交換に行っていたメンテ課の人が帰ってきた音だったから。私はスマホを手に取って石田さんに返信しました。

『私じゃない。

『私の写真がなかったから怯えてます。

『私も付き合ってたとバレたら、私だと思われる。

『私のことが気に入らなくて、石田さんがやったんじゃないの?

『もし私と石田さんのことがバレたら、石田さんのせいだと思います。

『恨みます』

前回の石田さんを真似て、連続で送ってやりました。長縄さんに笑わせてもらったことで元気も出てました。なので芝居がかった文面が出来ちゃいました。

 戻ってきた長縄さんに、送ったメッセージを見せました。離れたところにいる男性社員を気にしながら、長縄さんは笑ってくれました。

「恨みます、って、最高。それに、石田さんから梨沙ちゃんの名前が出ないように予防線も張ったね。上出来」

長縄さんがそう言ったところで、石田さんからメッセージが届きました。

『そうだな でも 俺じゃないぞ 俺が一番被害受けてるんだぞ』

「こいつ、まだこんなこと言ってる。被害者は女の方だっての」

メッセージを見ながら長縄さんがそう言います。するともう一つメッセージが届きました。

『でも悪かった じゃあな(スタンプ)』

やたらと明るい雰囲気のスタンプ付きで神経を疑うけれど、謝罪の言葉でした。

「なに、このスタンプ」

やっぱり長縄さんも気に入らなかったみたい。




 翌朝の朝礼後、夜勤の引継ぎを終えたら課長に呼ばれました。一階にある小会議室に連れていかれます。昨日のメールのことしか呼ばれる理由が出てこなかったです。少し震えていました。そして会議室に入ると、

「高橋は夜勤明けでもう帰っちゃうだろ、だから一番最初にした」

と、課長は言います。一番最初って、全員に事情聴取でもするの? と思っていたら、本当にそうでした。ただし、業務課統廃合のことで。このあと全員と面談していくとのこと。本当は昨日やる予定だったみたい。

 希望退職者を募っていることに触れて、その意思が有るかを聞かれました。もちろん辞める気はないと言いました。すると、私は残留候補者になっていると言ってくれる、嬉しかった。今日はこの場で、退職を促さないといけない人もいるので気が重いと、愚痴も聞かされました。三か月後の話なので、退職させるならもう告げなければならない時期なんだ。愚痴から世間話のようになり、人員の予定が聞けました。噂で聞いた通り、増員は十二人。でも、豊橋で二人、松阪で三人の計五人は、本人の事情などで異動して来ない。それでも本部のBグループで五人退職することになる。課長のセリフで言うと、退職させないといけない。見知った顔が約三分の一いなくなるんだ。なんだか寂しい。

 世間話の流れで昨日のメールの話が出ました。発信者に心当たりがないかと聞かれました。やっぱり会社も犯人探しをしているのかな? 課長の興味かな? どちらにせよ、わかりませんとしか言えない。石田さん、堀口さん、新井さんがどうしてるのか、どうなるのか、聞きたかったけれど聞けませんでした。


 会社を出て池下駅へ。地下へ降りる階段の下に中野君がいました。なんとなく会いそうな気がしていたけれど、指名手配犯を見つけた時のような怖さを覚えました。指名手配犯を見つけたことはないけどね。

 今日はワイシャツにスラックス姿で、営業の時の鞄を持っている。話しかけてこようとするのを遮って、目の前を通り過ぎるとついてくる。話がしたくなくて遮ったわけではありません。不本意だけど、今日は話をしたかった。でも、まだ九時になったばかりくらいの時間。前回とは違って、周りに人が沢山います。微妙な話をする気になりませんでした。

 ホームも、そして電車に乗っても人が多い。このままでは本郷まで行ってしまう、それは嫌。私は中野君を促して東山公園の駅で降りました。ここは駅を出てすぐの所にファミレスがある。そこで話そうと思いました。

 夜勤明けの私は、スクランブルエッグとソーセージのモーニングを注文、したかったのですがやめました。食事しながらできる話の内容ではない気がしたから。そしてそれ以上に、中野君と一緒に食事するなんて場面、もう作りたくない。なので二人ともドリンクバーでコーヒーだけ。

 席に落ち着いてコーヒーを前にしても中野君は口を開かない。俯き加減で座っているだけ。やらかした事の重大さに気付いて、言い訳を考えてるのか?


「なんでやっちゃったのよ、やめてって言ったでしょ」

私から切り出しました。すると、

「違う、あれ、俺じゃないんだ」

と、顔を上げて言います。信じられない、逃れようとしている。中野君以外の誰にあれが出来ると言う気なんだろう。

「はあ? じゃあ誰なのよ」

また俯く中野君。ほら何も言えない。と思ったら、上目遣いに私を見てこう言いました。

「誰にも言わない?」

「……」

言う気だったら長縄さんにあんたの名前を言ってたよ! って目で睨みました。するとまた俯いて何も言わない。もうさっさと自白しなよ。少しイライラ。そしてもう一度何か言おうとしたら、俯いたまま中野君が告白しました。

「……やったのは、……堀口さん」

でも、想定外の告白でした。いやいや、中野君以外有り得ないと確信してたから、誰の名前が出て来ても想定外なんだけど……、想定外にもほどがある。

「……はあ?」

声が大きくなってしまいました。まばらにいる店内のお客さんの何人かがこちらを見ます。でもそんなことにかまわず私が、堀口さんのせいにするの? って言おうと思ったら、先に中野君が話始めました。

「あの日の夜、どうやったら石田だけを追い出せるか考えたんだ」

「……」

「で、俺はあの動画を石田のパソコンに入れてやろうと思ったんだ、あいつだけが見れるように。そして、社内で公開されたくなかったら会社辞めろって、字幕が出るように編集してやろうと思った」

「……」

私は黙って中野君を睨んでいました。その私と顔を上げた中野君の目が合いました。彼は睨まれてこう言います。

「あっ、社内で公開って言ってもそんな気なかったから。あいつが辞めそうになかったら、部長くらいには送ろうと思ったけど」

「で?」

「で、俺、パソコン持ってないだろ? だから会社でやろうと思った。次の日、土曜だったから休みで誰もいないし。それで会社行ったら堀口さんとメンテの営業は何人かいたけど、俺の席から離れてるし、俺のパソコンの画面はみんなの方に向いてないから編集やってたんだ。動画の使うところだけ切り取っていって、切り取った動画を全部つないで、一本の動画にした。あとは字幕を入れたら終わりって思ってたら、メンテ営業の連中がぞろぞろ出ていくんだ。昼になってた。堀口さんも、お昼食べないの? って、俺に言ってから出て行った。で、俺は誰もいないうちに石田のパソコンに直接このファイルを張り付けとけば、誰がやったかわからないと思いついたんだ。あとは字幕入れるだけだからそんなに時間かからない。なんか安心して、そこでトイレ行っちゃったんだ」


 ここから中野君の回想です。


 トイレから戻ったら、堀口さんが俺の席でパソコンを見てた。弁当箱を持ってたから、取りに行っただけだったんだ。

「なにこれ? 私だよね」

俺に気付いて堀口さんはそう聞いてきた。色が抜けたみたいに白くて怖い顔だった。

「いや、それ……」

俺はなんて言おうか考えてた。でも続けて聞かれた。

「これ、みんな石田さんが付き合ってる子なの? 新井さんもいるよね」

「……」

「えっ? 私入れて四人いた? 四股ってこと? 私、四股されてたってこと?」

「……」

俺は何も言えなかった。マウスを持つ堀口さんの手は震えているように見える。でもその手でマウスを操作して動画を繰り返し見ている。

「これ、どうしたの?」

「……」

「隠し撮り?」

頷くしかなかった。

「中野君が?」

また頷く。

「この感じだと、石田さんの所の駐車場は、裏の立駐から?」

「そうです」

「そっか、撮られてたんだ、あんなところから」

堀口さんは俺の動画フォルダのファイルを次々開いていく。そして一通り目を通すと、

「これで全部? 他にない?」

と聞いてきた。俺は頷く。

「で、これどうする気だったの? ネットに流す気? あっ、ええ? もう流れてる?」

「いえ、そんなことしないです」

「そう、……じゃあどうするの?」

 しょうがないので、俺は俺の計画を堀口さんに話した。

「石田さんに何か恨みでもあるの?」

「いえ、恨みと言うか、なんか許せなくて……」

「女を何人も食ってるから? 嫉妬? 石田さんモテるからね」

「そんなんじゃないです」

「だったら何なのよ、男の人の中じゃこんなの何でもないことでしょ」

「……」

「中野君はこんなことしようって考えちゃう時点で、いつまでたっても彼女出来ないわよ」

俺は何も言えなかった。

 堀口さんは席を立って自分の席へ、そしてすぐに戻ってくる、USBメモリーを持って。

「何するんですか?」

俺がそう聞くと、

「動画のデータ、全部もらうからね」

と、マウスを動かし始める。

「だめですよ」

俺はマウスを動かす堀口さんの手を止めてマウスを取り上げる。

「大丈夫、私がやるから」

「えっ?」

そう言って堀口さんは俺の手からマウスを取り戻す。そして、俺のフォルダのデータをメモリーに移す。そう、コピーではなく移動させている。

「ちょ、コピーにしてくださいよ」

「だめよ、中野君がデータ持ってたら。このスマホで撮ったの?」

そしてパソコンにつないである俺のスマホを見てそう言う。

「そうですけど、何でですか?」

「その中にまだデータある?」

「ありますよ」

「今のデータ以外のもある?」

「いえ、石田さんのは今ので全部です」

「そ、じゃ、そのデータ全部消してね」

そう言うと、データ移動の終わったメモリーをパソコンから抜きます。

「だから何でですか?」

「まだどうするか思いつかないけど、私はさっきの中野君のプランよりもっと大々的にやる。あいつが逃げれないように」

「えっ?」

「当然私がやったとはバレないようにやるけどね。だから騒ぎになったとき、そのデータを中野君が持ってたら、中野君の仕業になっちゃうよ」

「騒ぎって、何やるんですか」

「そっか、中野君が撮ったとバレて、中野君が私がやったと言ってもいいようにも考えないとね」

「いや、言いませんよ、そんなこと」

「ま、いいわ、どうやるか考えるから」

「……」

「私にこんな……、絶対に許さない」

堀口さんが怖かった。


 回想終わり。


 中野君の話を聞き終えて、私も堀口さんがやったんだと確信しました。間違いないでしょう。でも一つ疑問が。

「私が写ってる動画はなかったの?」

聞いてみました。

「ないよ」

「なんで?」

中野君も毎日見張ってたわけじゃないだろうから、私が行ったときはいなかったのかな? そう思いながら聞きました。

「いや、高橋を撮るのが目的じゃなかったから」

そっか、そういうことか。と言うことは、私が石田さんの所に出入りしてるのも見てたんだ。

「それで、データは消したの?」

「いや、スマホには残ってる」

「消した方がいいよ」

「なんで?」

中野君は鞄からスマホを取り出します。

「よく知らないけど、隠し撮りって犯罪じゃないの? もう騒ぎになってるんだから、持ってるとまずくない?」

「えっ、犯罪なの?」

「いや、知らないけど、肖像権とかプライバシーの侵害とか、そんなのになるんじゃないの?」

「そっか、じゃあ消すか」

そしてスマホを操作し始める中野君。私はその姿を見ながら呟くように言いました。

「でも堀口さん、よく自分の写真も出したね」

「だな、びっくりだよ。てか、あの人異常だよ」

スマホをいじりながら中野君がそう応じます。

「と言うか、どうやったんだろ、堀口さん」

「何が?」

「営業部長のアドレスで送ってたでしょ? 営業部長の席って三階の本部だよね、夜中に本部に忍び込んだの?」

すると中野君は手を止めて私を見ます。

「それ、俺も不思議だったから聞いたんだ、昨日」

そしてそう言います。

「えっ? で、教えてくれた?」

堀口さんに聞いたということでしょうが、それはそれですごいこと。昨日、堀口さんは話ができるような状態だったんだ。ということにはその時頭が及ばず、方法の方が気になっていました。

「うん、部長のタブレットでやったって」

「タブレット?」

「営業はみんな持ってるんだ、会社の支給品で。で、今はウェブ上でメール見たり送ったりするだろ? だからみんなタブレットにメールのアカウント覚えさせてる。俺のタブレット使えば俺のアドレスでメールが送れる」

「そうなの? でも、部長のタブレットってことは部長が持ってるんじゃないの?」

「部長はあんまり使ってないから、その辺に置きっぱなしにしてることが多いんだよ。現にこの数日はずっと営業の部屋、二階に置きっぱなしだったみたいだし。それに指紋認証とかパスワードの設定もしてないから、誰でも使えちゃう」

「そうなんだ」

「堀口さんはほんとに怖い、徹底してる。メールは高橋も受け取っただろうから知ってると思うけど、夜中の二時に送信されてる。それは送信予約を使ったって。で、部長は大体いつも七時半くらいに出社するらしいんだ。だから七時に来て、誰もいないうちにタブレットで送信トレイからメールを削除したって。そしたら部長がパソコンの電源入れてメールの確認して、パソコンの方とタブレットのデータが同期しても送信トレイにもうメールはない。送信されたメールの出所がわからなくなるはずって」

そこまで頭が回るなんてすごい。私には送信予約のやり方がまずわからない。

「なんか推理物のトリックみたい」

呟くように言ってました。

 中野君との話はこれで終わり。聞きたかったことは聞けた。でも、この後どうするつもりなのか。そして、なんで会社中に送ったのか、晒される女の子のことを考えなかったのか。そういう質問と文句は言えませんでした。晒される側となる堀口さんがやったのなら、中野君に言ってもしょうがないから。




 翌週の月曜日、七月十日。何もしない大先輩と夜勤で一緒でした。本来は仕事の出来る人で尊敬もしていたんだけど、去年の春くらいからなぜか仕事しなくなった人。

 緊急度も重要度も高くないものばかりだけど、断続的に電話が鳴る夜でした。メンテ課の当番の係長と私は、なんとなくずっと振り回されていました。先輩は私たちの視界に入らないように気を遣ってなのか、打ち合わせスペースに退避してスマホに熱中している。

 電話が鳴りやみ一段落。対応した分の記録をパソコンに打ち込んでいた午後十一時過ぎ、先輩が私の隣にやってくる。

「堀口さんってすごいね」

そしてそう言います、スマホを見たまま。

「何がですか?」

私は入力を続けながら聞きます。

「私ならやめちゃうけど、まだ続けてるもんね」

そう言う先輩の方に目をやると、先輩がスマホを私に向けてくれる。SNSの友達サイトでした。その堀口さんのページは知っています。私もそこのアカウントを持っている。友達登録はしていないけど。

「続けてると変なんですか?」

画面に顔を戻してまた聞きました。

「高橋さん見てないの? これ」

「見てないです」

「見なよ、面白いから」

「はあ、でもちょっと先に入力しちゃわないといけないんで」

「え? そっち優先なの?」

「は?」

「ううん、ま、いいわ、高橋さんってちょっとおかしいもんね」

そしてそう言うと自分の席に行ってしまいました。仕事中の仕事優先がおかしいの? おかしいのはどっちだ。と、私は思っていましたが間違いでした。何が間違いか。この先輩が言う優先とは、後輩は自分の言うことを優先するってこと。自分の言ったことにすぐ同調しない後輩は、この人にとっては敵。そんなこと、私はまだ知りませんでした。

 入力を終えて、コーヒーを飲みながらお菓子を開ける。そしてスマホでさっきのSNSアプリを開く。アカウントを作っただけでほとんど開いていないアプリ、アップデートで固まっている。やっと表示されたページで友達候補を探す。堀口さんは同じ会社なのでここに入っていたはず。見つけて名前をタップ。寸前に見ていた自分のページと全然違う。私のページのオープンメッセージ欄は空白。こっちはスクロールバーが判別できないほどメッセージが入っている。そしてすぐに先輩が言った意味がわかりました。確かに、なんでやめないんだろう、と思うくらいにひどいメッセージが羅列されていました。誰が言ってるんだろうと発信者の名前を見ると、ハンドルネームっぽいものばかり。ここって実名登録しないといけないんじゃないの? って思ってしまった。

 これが面白いの? と思い、先輩の方を見ると、笑みを浮かべながらスマホに何か打ち込んでいる。この人も書き込みしてるんじゃないの?

 ひどい内容はいくつかに分かれます。ひとつは、堀口さんも男に手を出しまくっている、自業自得みたいなところから派生して、堀口さんの交際履歴みたいなことが暴露されているもの。全部本当なら、堀口さんは何十人と交際してたことになるんだろう、それも同時期に。そしてそんな堀口さんに手を出された石田さんをかばうようなコメントも少しある、信じられないけど。

 別のは、堀口さんと交際していた風なことをコメントしてる人達。そっちは生々しくて酷い内容が多い。ほんとに、堀口さんが読んだら自殺してしまわないかと心配になるくらい、赤裸々な痴態が事細かに晒されているものがある。そして、堀口さんに交際を申し込むメッセージ。交際と言ったけれど、要は、やらせろ! って内容。いくらならいい? ってのもある。

 最近目立つのは、発端となったメールについて。被害者面してるけど、遊んでやってたはずの石田に遊ばれてたのに腹を立てて、お前がやったんだろ、ってコメントがあってから、堀口さんをメール送信の犯人扱いするコメントが続く。遊んでやってた云々は別として、メール送信者が堀口さんなのは間違いないんだけど、書かれ方が酷い。

 このメール話題のコメントを見ていて気付きました。この話題に乗っかるのはみんな社内の人間じゃないの? って。メール話題にコメントしている人たちの名前を見ていきました。会社の人の名前は見当たらない。でも、社内の話題なんだから会社の人のはず。みんな匿名でアカウント作ってまでコメントしてるんだ。酷い、酷い、ひどい。




 七月十二日 水曜日。先週の水曜日に始まったメール騒動。会社は沈静化を図っているけど全然治まってません。今まではどうだか知りませんが、今回は噂話がサイレント。SNSなどのスマホの中で広がっているので、各部署の長たちが目を光らせ、耳をそばだてても止めることが出来ていません。それどころか尾ひれ背びれに足まで生えて走り回り、翼を手に入れ飛び回ってるって感じです。実体は見えず、聞こえないところで。

 でもその日はお昼休みに声が上がりました。スマホの中ではなく、一階の業務課で。そう、私のいるところで。

「和田さん、あなたも石田係長と付き合ってるでしょ」

私達がお弁当を食べている打ち合わせブースとは別のブースの所からその声は聞こえてきました。和田さんと言うのは業務課の和田夏南さん。南の夏なんて元気の良さそうな名前だけど、とってもおとなしい人です。一緒にお弁当を食べている中川さんと同期だけど、おとなし過ぎて合わないと言って、中川さんはあまり仲良くしていない。でも同期の名前が出たので、さすがに立ち上がってそっちを見ます。ま、私たちもだけど。声の主は総務課の池内さんでした。六年か七年くらい先輩です。

 ブースの衝立で和田さんの様子は見えません。声も聞こえてこない。でも、

「あなたと石田係長がホテルに入っていくのを何度か見たって人がいるのよ。付き合ってるんでしょ?」

と言う池内さんの声は聞こえてきます。和田さんは何か言ってるのかな? と思っていたらまた池内さん。

「ホテルの名前も言ってあげようか、今池のキスキスってところよ。しかもまだ最近の話よ」

和田さんは認めてないのかな? 池内さん、ヒートアップしてるな。とか、普通ならそう思うんだけど、私はそれどころじゃない、冷や汗をかいてました。そのホテル、一度だけ行ったことがある、石田さんと。そこに行ってから付き合い始めたのでした。誰が見たのか知らないけど、私も見られてたかも。

 誰かに池内さんを止めてもらいたかったです。でもお昼休みで、長の付く人は誰もいない。

「もう、あなたもなんでしょ? それであのメールはあなたなんでしょ?」

みんな静まり返っているので、池内さんの声だけ響いてきます。自分が責められているようで辛い。私の名前が出てきたら同じ目に合うんだと、怯えていました。すると中川さんが池内さんの方に向かいました。

「主任、みんな聞いてるんで、もう……」

そして池内さんにそう言って止めようとします。

「なんで? みんな? メールは会社中に送られたのよ。この話は社内で内緒にするところなんて、その時点でないじゃない」

「でも……」

「なに? 中川さん、あなたもなの? で、メールの犯人はあなたなの?」

「いえ、ち、違いますよ」

「だったら何よ、この子かばうの?」

「だってこんなところで……」

中川さん頑張ってるけど、どう見ても池内さんの方が強い。そして、

「こんなところって、新井さんは全社員に公表されちゃったのよ」

池内さんのこのセリフ。そっか、新井さんは設備事業部の総務課だった。入ってきたばかりの後輩があのメールで辞めてしまった。だから池内さんはこんなに感情的になってるんだ。池内さんは続けます。

「なのにこの子は、石田に遊ばれてたって何かで知って、やられた仕返ししたんでしょ、自分だけ隠れて。おとなしぶって悪質なのよ」

普通の状態の私なら、池内さんのこのセリフに何か所か突っ込んでるところだけど、普通の状態ではありませんでした。完全にフリーズしてました。私もこう言われるんだと身に染みて。

 池内さんの迫力に中川さんも固まっていたら、和田さんが打ち合わせブースから出てきました。その顔は、いつから泣いていたんだろうって言うくらいぐちゃぐちゃでした。そのまま通路の方に出て行きます。トイレに駆け込んだかな?

 そのあと池内さんは和田さんを追いかけては行かず、少し冷静になったみたいです。和田さんのあの顔を見てかな? そして池内さんを見ている面々に向かって、

「メールの犯人かどうかはまだわからないけど、石田と関係があったのは事実よ」

と、また石田係長を呼び捨てにそう言うと出て行きました。

 静かにお昼休みが終わり午後の業務が始まると、健気にも和田さんの姿が席にありました。でも三十分ぐらい経ったころ、係長に呼ばれて小会議室へ。課長も遅れて入って行く。お昼休みのことが耳に入ったのでしょう。何を言われてるんだろうと思っていたら、本社総務の部長まで入っていきました。この人は役員です。大事になっている様子です。

 和田さんが出て来たのは三時前でした。ハンカチで顔を押さえながらでした。席に戻りましたが私物を持つと出て行きました。早退するのでしょう。

 就業前の湯沸し室で噂話が耳に入りました。出所は、おしゃべりな係長と仲の良い先輩。和田さんはメールの犯人だと疑われて追求されていたとのこと。和田さんは否定したようです、当たり前だけど。長時間に及んだのは、和田さんが泣いてばかりで話が出来ない時間が長かったからだそうです。かわいそう。そして、胸が苦しくなりました、罪の意識で。だって、私はメールの犯人を知っているから。その意識はそこにいた三人の先輩たちの噂話でますます強くなる。この三人はもう和田さんが犯人だと決めつけている。そして酷いことを言っている。

 もう何もかもぶちまけてしまいたいくらい。でも出来ない。メールで晒された堀口さんが犯人だと言っても、きっと誰も信じない。それをちゃんと説明するには、中野君のことも、そして私と石田さんのことも、全部曝け出すしかない。それでもそんな説明が出来る自信がない。それに、それが出来たら堀口さんを追い詰めることになる。そんなこともしたくない。ううん、違うね、そんなの全部言い訳。私は私が大事なだけ。私が晒されずに済んでいるならこのままでいたいだけ。和田さんがあんな顔で泣いていたのを見た今でも。……ずるい、ずるい、私も狡い。


 翌日から和田さんの悪評が社内で蔓延しました。この騒ぎに登場したばかりの和田さんの噂話は、まだサイレントになり切れずに漏れ聞こえてきます。いえ、やっと登場したラスボスに、みんな興奮が抑えきれないって感じかな。

 聞こえてくるのは、おとなしい顔してるけど云々、って言うのがほとんど。そしてそこから派生して、明らかに尾ひれ背びれな和田さんの交際歴、みんな幼稚でひどい。その和田さんは、その日休みでした。前日のことでなのかは分かりません、元から代休だったから。

 昼食時、和田さんと同期で、昨日池内さんから和田さんをかばおうとした中川さんが一緒なので、私達の所では和田さんの悪評に乗っかる話はなし。私達のところ以外でも同じ業務課の仲間のことなので、業務課では悪評って言うのはあまり聞こえてきません。ただ業務課でも、一部の先輩たちは過剰反応の様子。五年から七年くらい上の先輩たちのグループは、上司達の目も気にせず声高に悪く言っている。ほんとに、何でそこまで? って不思議に思うくらいに。その中に和田さんといつも一緒にお昼を食べている先輩たちも混ざっている、なんで?


 七月十四日 金曜日。ああ、フランス革命の日だ、ベルばらだ、なんて雰囲気は微塵もなし。そんな中、和田さんが席にいました、出社していました。でも悪意に満ちた声はそこここから聞こえてきます。昨日よりはかなりボリュームダウンしているけれど。耳に入った話では、サイレント部分では大騒ぎ。どこかにうちの会社のこの騒ぎの板が立っているとか(ウェブサイト上の掲示板)。そこの書き込みからは昨日、堀口さんや新井さんの名前が激減して、ほとんど和田さん一色だったようです。そんなローカルな板の話題に書き込むのは、ほとんどがうちの会社の人間のはず。そんなにみんな、人の悪口で盛り上がりたいの?

 お昼休み、宅配弁当の置かれたカウンターから、自分の分を取った和田さんが自分の席へ戻って行きます。一人で食べる様子。いつものメンバーからは追い出されたのか、混ざりたくないのか。思わず中川さんにこう言ってました。

「和田さん、一人になりたいんですかねえ」

同じように和田さんの様子を見ていた中川さんが私を見ました。そして私たちに、

「ちょっと声掛けてくる。それで、私達と一緒に食べるって言ったら連れて来てもいい?」

と、聞いてきます。私はすぐに頷きました。それを見て後輩二人は顔を見合わせる。そのあと頷きました。

 和田さんが中川さんと一緒にこっちに向かってきました。と言うことは、一人になりたかったわけじゃなく、グループから拒絶されたんだ。

「ごめんなさい、いいの? 私が一緒でも」

そんなセリフとともにブースに入ってきた和田さん。

「もう、そんなこと言わないの。さ、座って、食べよ」

と、普通の調子で言う中川さん。明るくもせず、優しい口調でもなく。この人は基本的にマイペース。調子のいいところもある。でも、根本はこういう優しい人。だから私は好きです。

 でも私は声を掛けれませんでした。精一杯微笑んで会釈しただけ。和田さんも控えめな笑顔で会釈を返しながら座りました。

「あ、お茶取ってきます。ユウちゃん行こ」

と、後輩の一人が言い、二人でブースを出て行きました。そんなぎこちない形で始まった昼食。でも中川さんがリードしてしゃべってくれたので、ピリピリした感じにはなりませんでした。元からなのかどうかわかりませんが、和田さんはほとんどしゃべらない。でも穏やかな表情をしているように見えました。穏やかでなかったのは私の胸の中。中川さんの話題が、メールの犯人は誰だ、酷い奴だ、って方向に行きがちだったから。そして後輩二人が乗っかりやすいその話題には食いついたから。和田さんを責める話じゃない、むしろ和田さんを慰める方向に持って行きやすい話だからなおさら。


 翌日の土曜日、休日の日勤中、朱美からショートメールが来ました。この三連休の私の予定を聞いてくる。そ、世の中は三連休、月曜日は海の日でお休みだから。私は今日は日勤のみ。明日、日曜日の夕方から夜勤で、そのまま月曜日は日勤。その予定を返しました。すると、仕事終わったら電話してくるようにと返ってきました。

 休日の日勤は結構忙しいです。夜間対応が必ず必要な、365日24時間対応のメンテ契約をしている客先の数はそんなに多くありませんが、日中だけの365日対応の契約先は多いので。多いと言うか、メンテ契約先のほとんどがここに含まれます。なのに人員は夜勤より二人多いだけ。メンテ課の外勤スタッフは、日勤の時間帯に関しては完全交代制なので、平日と同じ定数がいます。でも聞くところによると、定期メンテナンスは休日にしてほしいという客先からの要望が多いので、実際は休日の方が出勤人数が多いとか。

 この日も忙しかったです。そして疲れました。疲れたのは忙しかったからだけではなく、忙しい中でも聞こえてくるあの話題がチクチク胸に刺さるから。逃げるように会社を出たのは午後六時半ごろ。まっすぐ帰宅してシャワーを浴びて一息ついたら、スマホが点滅していました。それを見て朱美との昼間のやり取りを思い出しました。慌ててスマホを見ると朱美からのショートメール。着信は十分ほど前の十九時三十七分。

『まだ仕事中?』

朱美に電話しました。疲れて忘れてた、と、謝りました。朱美は怒るでもなく、今から行ってもいいかと言います。本当はいろいろ胸の中に抱えているので会いたくないんだけど。特にうちに来るって言うのは泊っていくってことだろうから、そんな密に今は一緒にいたくない。でも断れないし、誰か傍にいて欲しいって気持ちもある。そんなことを確かに思ったのに即答してました、いいよ、って。

 電話で朱美に夕食を食べたか聞くと、夕方あんたと合流するつもりだったんだから食べてるわけないでしょ、と、そこはちょっと怒り気味に言われました。なので朱美が来るまでに夕食を作らなきゃ。

 朱美はどうせ飲みたいんだろうな、と思いながらメニューを考えるけれど、本格的に料理する気になりません。冷凍庫内の大き目のビニール袋に目がいきました。それは祖父が時々送ってくる浜松餃子。

 お酒のあてはこれでいっか。フライパンと同じ大きさのお皿に凍った餃子をきれいに並べました。そして軽くラップして電子レンジで解凍。浜松餃子の入ったビニール袋を取り出した時に見つけた、いつ買ったのか思い出せない鱈の切り身。冷凍食品コーナーで年中売ってて時々買う物なので、そんなに前の物ではないはず。ちょうど二切れあったのでそれも取り出す。二人分だよね、と考えながら3カップ分強の水を小鍋に入れて火にかける。ニンジンを少し大きめの短冊状に切りました。ニンジンの大きさに合わせて玉ねぎも。

 小鍋のお水がグツグツ言い出したので、火を弱めて鶏がらスープの素とお醤油で味付け。鱈の切り身に結構な塩味が付いているので控えめに。そしてテフロン加工の蓋つき鍋に、カットして置いてある昆布を敷きます。その上からお米を、1カップ半より気持ち少なめ入れました。そこへ鱈の切り身とニンジン、玉ねぎも入れる。最後に小鍋で作ったスープを2カップ分ほど、そっと流し込みます。あとは蓋をして、弱火で汁気がなくなるまでコトコトするだけ、二十分程度かな? それで中華風パエリアが出来上がるはず。汁気の少ない中華風粥かもしれないけど。朱美もお風呂は済ませたと言っていたので、すぐに鍋を火にかけました。

 解凍の終わった浜松餃子。お皿の上にフライパンを伏せるように被せてひっくり返す。これでフライパンにきれいに餃子が並んだ状態に。これはそのまま待機。電子レンジが空いたので冷凍ブロッコリーを適量解凍。解凍後はさっき残したスープの中へ。生のブロッコリーなら最初からパエリアの鍋に入れちゃってもいいんだけど、冷凍ブロッコリーは一緒に長時間炊くと、色が悪くなって崩れちゃいます。なので別に味だけつくように炊きます。あ、ブロッコリーを入れる前にスープを少しだけ小鉢に取って冷まします。冷めたら片栗粉を適量入れて良く溶きます。これで下準備は終了。

 朱美が来たので餃子のフライパンに蓋をして火をつけました。

「ごめん、遅くなった」

と言いながら、ビールの入った袋を持ってキッチンに入ってきました。

「ううん、ちょうどいいぐらいの時間だよ」

パエリアの鍋を覗きながら、ビールを冷蔵庫に入れ始めた朱美にそう言いました。餃子のフライパンから音がし始めたので、火を強くして水を少し入れます。ブロッコリーを入れた小鍋にも火をつける。

「餃子かぁ、ビール足りるかなぁ」

朱美が傍に来てそう言います。6缶パック二つ持って来てたけど、それで足らないの?

「大丈夫、ご飯もあるから」

私はそう言ってパエリアの鍋を指します。朱美がそれをガラスのフタ越しに覗き込む。

「お、鯛めし?」

「残念、鱈でした。餃子に合わせて中華風の味付けにしたよ」

「OK、おいしそう」

そう言ってから朱美はキッチンの流しで手を洗ってうがいをする。

 餃子がいい感じになってきたので、小鉢のスープをもう一度良くかき混ぜてからフライパンに流し込みます。失敗することが多いけど、これで羽根付きになるはず。

 洗ってあったお皿をフライパンの上に伏せて、さっきと逆にひっくり返す。少し横に寄っちゃったけど、ま、75点くらい、合格。羽根は……、30点くらいかな、不合格。

 鍋からそっと鱈だけ取り出して、浅いどんぶり型のお椀にご飯をよそう。この時点でもうパエリアじゃないよね。そしてその上に鱈とブロッコリーを載せて完成。

「朱美、運んでよ」

パソコンデスクの椅子に座ってスマホをいじっていた朱美に声を掛けました。朱美の顔が少し暗く見えたのが気になりました。

「うん、ごめん」

朱美の返事を聞きながら、私はフライパンと鍋を洗っちゃう。朱美は返事した通り、リビングの座卓に料理を運んでくれる。おいしそう、なんて言いながら明るい顔で。

 ビールから食事が始まりました。

「彼は良かったの? せっかくの休みなのに」

食べ始めるなり朱美がそう聞いてきました。終わったことはまだ言っていませんでした。そう、別れたんじゃない、終わったんだ、いつかの長縄さんの言葉通り。

「言ってなかったっけ? 別れたよ、一か月くらい前に」

別れたと言いました。

「え? そうなの?」

「そうだよ」

そう言ってご飯を頬張りました。

「そうだったんだ、……なんで?」

「……、いいじゃん、もう」

「……そっか」

なんとなく二人とも沈んだ顔になってました。けど、手と口は動いてました。黙々と食べてる感じ。

「一か月か、ならもっと早く連絡したら良かった」

やがて朱美が食べながらそう言います。

「うん?」

何を言いたいのかわからず首を傾げました。

「あんた土日も結構仕事だし、休みの時は彼とでしょ? だから連絡するの遠慮してたの」

「ごめん」

「ううん、いいよ別に。今週は三連休だから一日くらい空いてないかなって思ってたら、こうやって会えたし」

そう言ってビールをコップに注いでくれます。

「うん? なんかあったの?」

「う~ん、ちょっとね」

「ちょっとって?」

こんな会話をしながらも、二人してバクバク食べてました。ま、もう九時前なので二人とも腹ペコだったから当然だけど。

 朱美は返事をごまかして、食事中は他の話になってしまいました。私は食後の洗い物をしてからビールを二缶持って座卓に戻りました。テレビを見ていたはずの朱美がスマホに目を落としています。

「はい」

そう言ってビールを朱美に差し出しました。すると、顔を上げずにスマホを見たまま朱美が口を開きます。

「私もダメかも」

意味が分かんない。私も? 何が?

「え?」

としか言葉が出ませんでした。

「カズ、他に付き合ってる子がいる」

想定外の朱美の返事。カズと言うのは朱美の彼のこと。高坂和也って名前。高校の時から付き合い始めた同級生って言ってた。二人はとても仲良しで、大学時代からもう夫婦みたいな雰囲気でした。二人でいるのが自然すぎて、傍で見てると羨ましくてイラついたくらい。だからほんとに想定外。

「うそ! うそでしょ」

声が大きくなってしまいました。

「ううん、……間違いない」

「確かめたの?」

そう聞いたけど答えませんでした。しばらく無言。テレビのドンパチ映画の音がうるさいので消そうかと思ったけど、ここで無音になると重くなりそう、やめました。

 しばらくすると朱美が顔を上げました。

「まあ、もうダメだわ」

笑ってはいないけれど、暗い顔でもありませんでした。

「なんで? ほんとにそうなの?」

「う~ん、ま、いいじゃん」

そう言うとビールを開けて流し込む朱美。

「え~、なんで? 話してよ」

「さっき梨沙もごまかしたじゃん、内緒」

うう、そう言われたら聞けない。私は終わった経緯を絶対に、絶対に、絶対に言いたくない、朱美にも。

「……わかった。じゃあお互い内緒ってことだね」

「そだね。でも梨沙が話すなら話してもいいよ」

なにそれ、ほんとは話したいんじゃないの?

「いいよもう」

「うん? なになに、そんなに話したくないことなの?」

「そう言うわけでもないけど」

「じゃあいいじゃん、教えてよ」

「はあ?」

「ほらほら」

朱美が笑顔になっている。

「あのね、あんたが内緒って言いだしたんだよ」

「そっか、なら先に話そうか」

「いやいい、もう聞きたくない」

「なにそれ、怪しいなぁ」

「もういいってば」

こんなどうでもいいやり取りをしながらその夜は終わりました。二人とも内緒は内緒のままで。

 翌日は二人とも思いっきり寝坊して昼食からスタート。そのまま私の部屋で思い思いにゴロゴロ。でも私は夜勤があったので午後六時までに会社に行かないと。かなり早い夕食を一緒に食べて出勤の準備を始めたら、朱美も帰り支度を始めます。こういうパターンの時、朱美は会社まで送ってくれます。

 会社に向かう車の中で朱美が運転しながらこう言ってきました。

「梨沙、大丈夫?」

「何が?」

そう返すと何も返ってこない。何か心配されることあったかな? そう考えていたら、

「彼と別れたこと以外に何かない?」

と、朱美がまた聞いてきます。ちょっと胸が痛みました。でも朱美がうちの会社でのことを知っているわけがない。

「ないよ、なんで?」

「う~ん、なんとなく。変だから」

何かいつもと違う様子だったのかな、私。朱美の勘の良さには時々驚かされます。

「何もないよ」

そう返すとまた何も言ってきません。そしてだいぶ経ってから、そっか、と、独り言のように言うのが聞こえました。独り言のようだったので、それには返事しませんでした。




 七月十八日 連休明けの火曜日。和田さんを加えた五人でお弁当を食べていました。するとブースの外から声が聞こえてくる。

「な~んか、石田臭くない?」

「うん、臭いです」

「あ、石田のお手付きたちが、四、五人この辺りでつるんでるって聞いたよ」

「え、全員お手付きなんですか?」

「そりゃそうでしょ、お手付き同士じゃないとこの匂いに耐えられないって」

私は物を投げるコントロールには少し自信がある。これでもソフトボールをやってたんだ。目の前のお茶の入ったコップを投げつけてやろうか。ノールックでぶつけてやるぞ。と思いながら耐えました。

 声の主は見なくても分かる。和田さんの悪評を今日もまだ声高に言い続けている先輩三人。筆頭は例の何もしない先輩、七年上の松本ひとみ。なにもしないのに会社にいられるのはその名前から、社長の親族じゃないかと一時は言われていたけど違いました。その代わり、課長の浮気相手だと言う話がある。そっちはもう噂ではなく事実っぽい。仕事しないくせにこんなことはするなんて。

 和田さんが両手でお箸を握りしめて頭を垂れていました。中川さんは和田さんの肩に手を置いて声の方を睨んでいます。ブースの衝立越しなので姿は見えないけれど、声で誰かは分かっているはず。後輩二人も身をすくめるようにして固まっていました。

 声の主たちの気配がなくなると中川さんが口を開きます。

「気にしなくていいよ、食べよ」

「ごめんなさい」

和田さんが小さな声でそう応じます。でも動かない。

「だから気にしなくていいってば。ほら、あんたたちも、食べよ」

中川さんは私達にも食事再開を促します。

「うん、食べましょ」

と、私は後輩二人に言ってからまた食べ始めました。後輩もそれで食事再開。遅れて和田さんも動き始めました。

「それにしても松本さんたち、なんか異常じゃない? 和田さんに対してしつこすぎるよね」

食べ始めると中川さんがそう言いだしました。確かにそう思うけれど、二階の堀口さんがどのくらいの間、どのくらいのことを言われていたのか具体的に知らないので何とも言えません。でも、

「ですよねぇ」

と、相槌をうってました。

「だよねぇ。和田さん、なんかもともと松本さんに嫌われてたとかあるの?」

こういうことを今普通に聞いてしまうところが中川さんです。和田さんは首を振るだけ。でもそのあと、

「ごめんなさい」

と、また同じことを言いました。

「もう、またそれ言う。今度言ったら罰金ね、一回百円!」

何かあったら、罰金、と、すぐに口にするのは中川さんの口癖みたいなもの。少し空気が明るくなりました。

「それ、私達もですか?」

と、後輩の一人が笑顔未満くらいの表情で言います。それでさっきからの緊張が解けていきました。


 次の日の昼食に、後輩二人の姿はありませんでした。今日は外食にしましたと言って出て行きました。ハッキリ言っちゃいます。和田さんと一緒にいる私たち四人は、昨日から松本一派からの嫌がらせを様々なところで受けています。仕事上でもそれ以外でも。私のマグカップは夕方の湯沸し室の床で砕け散っていたし。彼女たちが距離を取りたくなったのは仕方のないことかも。

 その日の夜勤で、私は松本さんの行動の理由を知りました、長縄さんから。同じ部屋にあるメンテ課からは、松本さんたちの行動に気付いたようです。なので教えてくれました。

「あの子、入社当時から石田さんに惚れてるのよ。それはみんなにバレバレだった。だから私も知ってるの。で、何度か告ってるみたいだけど全敗なのよね。断られるたんびにそれも見ててバレバレだったからすぐわかる。石田さんってやりたいばっかだけど、やりたいだけだから内緒にしたいわけでしょ? だからみんなにバレちゃうあの子には手を出さないのよね、多分」

相変わらずストレートな表現。私には、やりたいだけ、ってセリフは胸に刺さるんだけど。

「で、自分の周りで石田さんと関係のあった女には嫉妬するのよ。自分は手も出されないもんだから。あんな手あたり次第みたいな男のどこがいいんだろ。て、そんな男に自分から寄って行って手も出されないって、それもかわいそうだけどね。でも、それでも嫉妬するって、案外あの子もやりたいだけなのかもね」

ほんとにストーレートで辛辣だ。

「前にも話したけど、石田さんの騒ぎは何度かあったって言ったでしょ。あの子は智子のことも誰かから聞いたみたいで、それからはそのたびに智子の話を陰で蒸し返してたのよ。しかもかなり脚色して。あの子にしたら智子は先輩だから表立ってはやらないけどね、私には分かってた。だから今回も気にしてたのよ、あの子のこと」

長縄さんは二村さんのことを心配して、松本さんをマークしていたのでした。同じ部屋だから気付いたわけではなかったようです。




 七月二十一日 金曜日。後輩二人の姿は昼食時にありません。夜勤明けで私が休みだった昨日、他の課の同期の子たちと会議室で食べることにした、と言っていたそうです。

 長縄さんから聞いたことを二人に話そうかと思いましたが、きっかけがありませんでした。

 今日の午前中も、私たちには嫌がらせがありました。わけのわからないレアな修理案件が回されてきたり、モンスターリストの客先からのクレームがすべて振られてきたりして。そんな特殊なことを私たちに集中させるなんて、松本さんに出来るわけない。課長も絡んでいるのかも。それならいつまでも松本さんたちが声を出して騒いでいられるのも頷ける。その延長でまた昼休みに何かあれば話すきっかけになったのに。


 その週、私の周りではこれまで話してきたような変化しかありませんでした。十分深刻な変化なんだけど、それだけ。でも知らないところでは大きな変化、動きがありました。

 とりあえず何事もなかったかのように通常勤務を続けていた、いえ、続けさせていた石田さんを、和田さんの騒ぎがあった次の日、七月十三日に会社は一日拘束しました、会議室に。改めて聴取などをしたようです。

 七月五日のメール騒動以来の今回のことは、もう社外にも拡まり始めています、当然客先にも。デリケートな、個人のプライベートな話なので、問題に発展しそうなところはまだないようです。でも社内倫理が問われる問題。例の板では、石田という(実名が晒されている)節操のない人間を放置してきた会社の責任を問う、外部の人だと思われる書き込みも見られるようになってきた様子。これ以上話が拡がるのも会社は防ぎたいのに、大元の話がさらに増えたなんて大問題。いまさら神経質になり、翌週末までの一週間ほど、石田さんに対して自宅待機という命令を出しました。これは石田さんをどう扱うかその間に決めようと言う会社の処置。結論は内勤部署への異動となりました。社外の人間と接触させないと言うことでしょう。皮肉にも、八月一日から池内さんのいる設備事業部の総務課勤務となりました。

 そして騒ぎを治めるために積極的に動くことを会社は決定。その結果、新たな騒ぎを起こした池内さんには、何らかの処罰を下すことを決めました。石田さんが上司になるってことだけで罰のような気がしますが。そして、これからも社内で騒ぎを続けている者は、特定して処罰していく方針となったようです。

 でもこれらすべて、一般社員にはまだ公表されていないことです。石田さんの自宅待機すら、公には本人が申請した休暇という扱いでした。




 七月二十四日 月曜日。休日夜勤明けの中川さんがいないので、和田さんと二人でお昼を食べました。口数の少ない和田さんとなので、私も自然と口数が減ります。特に和田さんに対しては後ろめたさがあるので余計にです。でも全く会話なしってわけじゃなく、控えめな世間話はしながらでした。

 二人とも食べ終わり、お弁当箱に蓋をしたころ、和田さんが話し掛けてきました。

「高橋さん、その、ちょっと聞いてもいい?」

「はい、何ですか?」

そう答えると、びくついたように周囲を窺います。ブースの衝立に囲まれているので、見回しても何も見えないんだけど。

「その、もう少し小さい声で」

そして声を落として和田さんはそう言う。ただでさえ小さい声の人が声を落とすと、聞きとるのがやっとってくらいです。

「分かりました、なんですか?」

小声で聞きました。

「その、言いにくいんだけど、……高橋さんもだったの?」

聞き取りにくいんだけど、聞き取れました。そして、ほんのしばらくの間で、何を聞かれたのか理解しました。私は和田さんを見たまま固まります。なんで、なんで和田さんが、固まった頭の中でそのセリフが回っていました。

「ごめんなさい、変なこと聞いて」

その和田さんの声で、和田さんを見ていた目の視力が戻ったような気がしました。目を開いていただけで、束の間見えていなかったみたいな感覚。見えるようになった目に映った和田さんは泣き出しそうな顔でした。ひょっとしたら私が泣き出しそうな顔になっていたのかも。

「いえ、その……」

そんな音しか口から出ない。地面が揺れている。なんだか周りが暗い。そして寒い、……寒い。

「だ、大丈夫。心配しないで、絶対に誰にも言わないから」

「は、はい」

自分の声が自分の声じゃないみたい。お弁当箱の上に置いた私の手に、和田さんの右手が伸びてきました、スローモーションのようにゆっくりと、私にはそう見えていました。

「大丈夫?」

そう言う和田さんの声と共に触れた和田さんの右手。伸びてくるのを見ていたのに触れた瞬間、ビクッと手を引いてしまいました。和田さんも慌てて手を引っ込めます。そして、

「ごめんなさい」

と言います。あっ、また罰金だ、なんて思うはずもない。私の頭の中は、真っ白、空白、何もない。

「ほんとに安心して、誰にも言わないから」

和田さんの声が聞こえる。でも聞こえるだけ。

「ごめん、もうやめるね、またにしよ」

また和田さんの声。でも私はまだ凍ったまま。

「ね」

と、和田さんが微笑むのが見えました。やっとぎこちなく体が動きました。私は頷いている、コク、コク、コク、と、謝るように。


 午後は何とかこなしたって感じでした。気付いたら六時過ぎ。もう半分以上人がいませんでした。と、残っている人の中で和田さんと目が合いました。和田さんが私物を持って私の方へ来ます。

「帰る?」

そしてそう声を掛けてくれる。

「はい」

機械的に頷いていました。

 和田さんと一緒に会社を出て、池下駅に向かって歩きます。和田さんは茶屋ヶ坂から通っているので、東山線の本山駅で乗り換え。そこまでは一緒です。

「あの、高橋さん、ちょっとでいいから話できない?」

一緒に歩きながらそう言われました。すぐに帰宅してベッドに倒れこみ、そのまま闇の中に沈んでしまいたかった。でも和田さんにそう言われたら、

「はい、いいですよ」

と、答えるしかない。でも池下駅周辺は会社の人の目も耳も心配です。本山まで行くことにしました。

 本山駅を出て南側の住宅地の方に歩いていく和田さん。そして民家のような喫茶店に入ります。

「このお店、目立たないでしょ、高校時代友達と来てたの。ここなら先生に見つからないって」

席について注文を済ますと和田さんがそう言いました。確かに連れて来られないと見つけられないようなお店でした。

 そのあと、注文したアイスコーヒー二つが来るまで二人とも無言でした。アイスコーヒーが目の前に置かれてから私が口を開きます。

「すみませんでした」

和田さんはグラスに伸ばし掛けた手を止めて私を見ます。私は続けました。

「自分からは言えませんでした。本当にすみません。ごめんなさい」

そして頭を下げました。

「やめて高橋さん、気持ちは分かるから」

そう言われたけれど、頭を上げれませんでした。

「ほんとにいいから、高橋さんを責めようとか思ってないから」

私はゆっくり頭は上げました。でも俯いたまま、

「ごめんなさい」

と、また言ってました。

「だから、もうやめて、ね」

俯いたまま目を上げると、和田さんが私の顔を覗き込んでいます。私は顔も上げました。そしてまた言ってしまいます。

「すみません」

「もういいってば」

そして和田さんはグラスに手を伸ばします。和田さんがストローを吸うのを見て、私もグラスに手を伸ばしてコーヒーを飲みました。

 しばらく無言の状態が続きました。そうなると私には質問したいことが出てきます。和田さんはどうして私のことを知ってるんですか? ってこと。でも出来ずに黙っていました。すると和田さんから質問されました。

「高橋さんはいつから? と言うか、そっか、改めて聞くけど、石田さんとそうだったのよね?」

「……そうです、私もです。去年の十二月からです」

目を伏せて、コーヒーのグラスを見つめながら答えました。

「そっか。……騒ぎになってから、石田さんから連絡あった?」

「いえ、あ、一度だけ、メールは私が送ったんだろうって」

「それだけ?」

「えっと、違うって送り返したら、じゃあなって、それで終わりです」

「じゃあなって、それだけ? ひどいね」

「え?」

そう言って和田さんを見ると、今度は和田さんが目を伏せて言います。

「私は高橋さんと同じように違うって返事したら、そのあと別れようって、まだそう言ってくれた」

言ってくれたって……。和田さんもメールを疑われたんだ。そしてその時点ではまだ続いてたんだ。

「私、その時はもう終わってましたから。一か月以上前に捨てられてましたから」

また目を伏せていました。自虐的に捨てられてと自分で言って、自分で辛かったです。

「え? 一か月前って……、じゃあ、半年くらいだったの?」

「……はい」

和田さんは? って聞きたいけど、聞いてもしょうがないよね、そんなこと。

「それとメール、やっぱり高橋さんでもないんだね」

するとそう言われました。これが話をしたいって言った本題かな? 普通はそうだよね、メールの犯人だと思うよね、犯人を知りたいよね。私は犯人を知っちゃってるから、そっちに考えがいかない。そう思っていて返事が遅れたので、和田さんが続けてこう言います。

「ごめんなさい。話がしたいって言ったのは、それが聞きたかったの」

「はあ」

やっぱり、と思って、そんな返事を返してしまいました。

「あ、別にいいんだよ、高橋さんだったとしても。責めたりしないから、気持ちは分かるから」

「いえ、違います、私じゃないです、本当に」

返事が曖昧だったので勘違いされたと思って慌ててそう言いました。

「そうだよね、高橋さんにはあんなこと出来ないよね」

「はい」

「分かってる。堀口さんもメールは高橋さんじゃないと思うって言ってたし」

な、何で堀口さんが出てくるの? 和田さんと堀口さんってどういう関係なの? 堀口さんが言ってた? メールは高橋さんじゃないって? そりゃそうでしょ、メールは彼女なんだから私のはずない。そんなの彼女が一番わかっていること。って、いやいや違う、それ以前にもっと根本的な疑問が。なんで堀口さんが私の名前を? 知ってるってこと? いや、そうとしか考えられないんだけど、でもなんで? どうして?

 いや、ちょっと待って、逆もあるかも。和田さんがどうして私のことを知ったのかは謎のままだけど、私のことを知った和田さんが堀口さんに話したのかも。同じ立場の堀口さんに、私がメールの犯人じゃないかと相談したのかも。

「……堀口さん……」

混乱した私の口からそうこぼれました。それを受けて和田さんが話してくれます。

「うん、金曜の夕方、堀口さんが帰り道で待っててくれたの。あの人は最初に騒がれて辛い目にあってたから、騒がれ始めた私のことを心配してくれたんだと思う。大丈夫? って、声を掛けてくれたの」

私は黙って和田さんを見ていました。とにかく話の続きが聞きたかったです。疑問の答えが欲しかったです。

「それでね、今みたいに二人で喫茶店行ったの、ここじゃないけどね」

 そして和田さんは、堀口さんとの話をしてくれました。

「堀口さんは私を気遣ってくれた後、石田さんが何も処罰されないのが許せないって言ったの。堀口さんは営業部長とか、総務の課長とかに石田さんを処罰するように言ってたみたいなのね。総務課長には総務の新入社員の新井さんが傷付けられて会社辞めてるのに、それでも何もしないのかとまで言ったそうよ。でね、先週その総務課長に内緒で呼び出されて、石田さんと同じ部署にいるのが嫌なら、希望する部署に行かせてやるから言えって言われたんだって。で、堀口さんは本社総務の社長付きにしてって言ったって。社長に直接石田さんのことを訴えるからって。そしたら総務課長に、いい加減にしろって、騒ぎにしないようにって配慮を汲み取らないで騒ぎを起こすようなことをするなら、堀口さんの方が会社にとっては問題があるから、堀口さんの方を処分するって言われたんだって。もう、怖いくらい怒ってた、堀口さん」

そこでアイスコーヒーに和田さんが口をつけました。なので私も。一階には全然聞こえてこなかったけれど、上で堀口さんはそんなことをやっていたんだと、コーヒーを飲みながら思っていました。

「でね、堀口さんは一人で石田さんのことを追求するのはもう限界だから、私にも協力してって言ったの。もっといろんなところで石田さんの処分を求める声が上がれば、会社も無視できなくなるって。でもね、私は騒がれるの嫌だから断ったの。今でも十分辛いのに、これ以上は無理ですって。そう言ったら、負けだよって、私みたいに一方的に女の方が負けてるから、石田さんみたいに好き勝手やる男がいるんだって。でもね……」

確かに堀口さんの言い分にも一理あるかも。でも、私も辛い思いをしてまで自分から騒ぎは起こしたくないかも、ずるいけど。なんて考えながら続きを待ちましたが和田さんはそこで黙ってしまいました。黙って手に持ったままのグラスに目を落としています。私も黙ってその姿を見ていました。

 グラスについた水滴が、一つ、二つくらい、和田さんの膝に吸い込まれるのを見たころ、和田さんが再び口を開きます。

「私ね、ほんとにもうダメなの。親が怖いから会社来てるけど、ほんとはもう辞めたいの。親を納得させられる理由が見つかったら、会社辞めようと思ってるの」

「えっ、そうなんですか?」

正直驚いてそう言ってました。騒ぎになってからおとなしさ加減に磨きがかかったようには思いましたが、それでも平然と出社して、普通に仕事をこなしているように見えていた和田さんが、そこまで思い詰めていたなんて。

「うん」

和田さんが私の言葉にそう頷きました。

「そんな……。きっと今だけですよ、騒がれるのは。そのうち……」

私の無責任な慰めは遮られました、和田さんに。

「違うの、いろんなこと言われるのも辛いんだけど、それ以上にもうあそこにいたくないの。石田さんと出会ったところにいたくないの」

「……」

私は何も言えませんでした、意味が、和田さんの気持ちが分からなくて。

「私ね、ずっとこんな地味な見た目でうじうじした性格だったから、今まで彼氏なんかいなかったの。だから石田さんが初めての彼だったの」

「え?」

また驚いてそう声が出ちゃいました。でもそんな声を出しながら思います。和田さんは、地味は地味で暗いけど美人だと思う。そして決して前には出て来ないけど、おとなしいってだけでうじうじした性格とも思わない。ガンガン言いたいことを言ってくるクレーム客にも、おどおどしながら言うべきことを言ってる。明るく活発な先輩でも怖いクレーマーに何も言えない人が何人かいるのに。一切クレーマーと接触しない松本さんのような卑怯な人だっているのに。

 そう、私の目には和田さんはかなりすごい出来る先輩に見えていました。おどおどした話し方だって、熱くなってるお客さんへの対処法じゃないかと思ってたくらい。ある意味、尊敬していた先輩です。そんな人が今まで彼氏いなかったなんて。ひょっとしたら、物静かでか弱そうに見えながらも本当は芯の強いところのあるこの人に、男の人が近づけなかったのかも。そんなことを思っているうちに和田さんが続けます。

「去年の新人歓迎会で、三好牧場に行くグループだったの、私」

うちの会社は私のいる業務課のように、交代制の勤務をしている部署があるので全員休みって日がありません。なので各部署混ぜ合わせた三つのグループに分けて新人歓迎会をやってます。時期は夏、お盆休み中です。新人歓迎会としては遅い気もしますが、会社に慣れた頃ってことみたいです。去年と言えば私は海釣り大会のグループでしたが当日大雨。急遽ボーリング大会になり、そのあと飲み会でした。

「その時石田さんも同じグループで、初めて話したの。でね、そのあと食事とかに誘われるようになって、お付き合いし始めたの」

三好牧場で目をつけられたんだ。もう私も石田さんのことをそう言う風にしか見れなくなってました。

「そして五月の終わり、……恥ずかしいけど、高橋さんは同じだから言うね。石田さん、私と結婚を前提に付き合ってるって言ってくれて、それで、初めてホテル行ったの」

そう言って和田さんは、ほんとに恥ずかしそうに少し体を小さくしました。でも私の頭の中には、うそ、夏から付き合いが始まって、この五月までなかったんだ、って、また驚きが。私は……、あのホテル行くまで二か月なかったような。うん? そうなると、私って和田さんを口説いてる最中に口説かれて落とされちゃったんだ。ちょろいやつとか思われてたかも。なんか腹立つし恥ずかしい。って、ちょっと待って、五月の終わり? それって、私が石田さんを初めて拒否したころじゃん。私は拒否したことで悩んでたってのに、石田さんは気にもせず和田さんを落としてたんだ。なんだか私にも怒りが湧いてきました。

 でも、湧いてくる怒りは置いておいて、

「それを誰かに見られてたんですね」

と言ってました。和田さんの体がさらに小さくなりました。

「うん、池内さんが何度も見た人がいるって言ってたけど、行ったのは三回なの。全部見られてたのかな……」

そんなことってあるの? え~っと、五月の終わりからだと一か月とちょっと? その間に三回ってことを、何度もって言うからには少なくとも二回は目撃している。そんな偶然あるのかな? ないよねえ。十回行ってても偶然では二回見ることもないと思う。あのホテルの入り口の前は路地を挟んで工場か倉庫があった。しかもホテル側は壁が続いているだけで出入口とかなかったと思う。そう、人目なんてそもそもないところ。ほんとの偶然に一回見掛けただけの人が、何度もって言っただけじゃないのかな。

「結婚考えてるって言われて、そんなことしちゃったから、私、親にも、お付き合いしてる人が、いるって言っちゃったのに」

一段と小さくなった和田さんの声に注意を戻すと、和田さんの膝にぽたぽたと雫が落ちていました。アイスコーヒーのグラスからではなく、和田さんの顔から。

 さっきも親が怖いとか言ってたけど、厳しい家なのかな? それともいいとこのお嬢様なのかも。いえ、和田さんは私の一つ上だから、去年だと二十五歳。二十五歳で初めて出来た彼氏に裏切られてショックなんだ。それが一番辛いんだ。そんなことを思いながらハンカチに顔をうずめる和田さんを見ていました。かける言葉なんてありませんでした。

 雨の音で窓の外を見ました。夕方から降るかもって予報だったので折り畳みの傘は持ってます。と言うか、通勤用のリュックに入れっぱなしのやつだけど。でも、道の向こうの家がかすむほどの雨。傘ではびしょ濡れになりそう。

 泣いていても気付くほどの雨音に、和田さんも顔を上げて窓の外を見ていました。そして私と目が合いました。

「ごめんなさい、泣いちゃって」

そしてそう言うと、上の方が透明になったアイスコーヒーに口をつけます。和田さんが一口飲んで落ち着いたように見えたタイミングで、私は口を開きました。私が聞きたい話からそれていたので、もうこっちから聞くことにしました。

「大丈夫ですか?」

「うん、ほんとにごめんね」

「いえ、あの、ちょっと聞いてもいいですか?」

「うん、なに?」

「その、堀口さんが私のことを言ったって言うのは、どういう話からですか?」

そう、これが聞きたいのです。

「ああ、それはね、私が何もしたくないって言ったから。その、堀口さんに協力してって言われたことね。そしたら堀口さんがっかりしてた。そしてがっかりしながら、もう一人いるからその子に協力してもらおうかなって言うの。でもその子はまだ名前が出て来てないから声掛けにくいって。だから私が聞いたの、それは誰のことですかって。でもね、まだ知られていない子だから教えられないって言われた。でね、また私が聞いたの、まだ名前が出ていない人がいるって、その人がメール送ったのかなって。そしたら、それは分からないけど、その子じゃないと思うって、そう言うことする子だとは思えないって。そのあともう一回お願いしたの、誰か教えてくださいって、そしたら高橋さんだってやっと教えてくれたの」

やっぱり話の出所は堀口さんなんだ。それは分かりました。分かりましたけど、堀口さんはなんで知ったのか、それは謎のままです。和田さんはそれを聞いたのかな? 聞きたい。でも和田さんは話を続けています。

「でね、高橋さん、ごめんなさいね。私そう聞いてからもう一度堀口さんに確認したの、ほんとにメールは高橋さんじゃないと思いますかって。ほんとにごめんね、疑ってたわけじゃないんだけど、つい」

そう言ってから和田さんはもう一度、ごめんね、と言って私を見ます。

「いえ、いいですよ、当然だと思いますから。私も、和田さんもって聞いた時、一瞬は疑いましたから。でもすぐに、和田さんは絶対にそんなことしないって思いましたけど」

ほんとはそんなこと、チラッとも疑いませんでしたけどそう言いました。

「だよね、私も高橋さんはないって思ってたのよ。だからほんとに、ついなの。でね、堀口さんもそう言うし。と言うか、堀口さんは私もメールには関係ないと最初から思ってたから、私にもメールのこと確認しなかったでしょって、そう言ってくれたの」

そりゃ堀口さんは私と一緒でそっちに考えがいかないもん。多分、和田さんがメールの話をするまで全く考えていなかったんじゃないかな。メールの犯人が誰かなんて、考える必要もなく知っているから。

 和田さんの鞄からスマホの振動音が聞こえてきました。取り出してスマホを見た和田さんが、

「ごめんね、おかあさんから」

と言って、お店の隅に行きました。戻ってくると席につかず、

「雨がこのあとひどくなるみたいだから早く帰ってきなさいって」

そう言って帰ろうとします。私はリュックに手を伸ばしながら窓の外を見ました。さっきよりは小降りになっています。さっきの降り方を思い出すと、私も今のうちにと思いました。

 お店を出て駅への道中は会話なし。窓越しに見たより雨が激しかったから。そして駅で別れる時も、また明日ね、くらいの言葉で終わってしまいました。結局もう一つの謎は聞けませんでした。




 七月二十八日 金曜日。この一週間で和田さんや私達への攻撃はだいぶ下火になりました。耳に聞こえてくるものも、仕事上のことも。ま、完全になくなったわけではないし、例の板ではエスカレートしているようだけど。私や中川さんのトンデモ話もかなり出て来ていると聞くので気にはなっているけど、見るともっと気になりそうなので見ないことにしています。なのでかなり平穏な気分でいた午後、朱美からメールが来ました。土日の私の予定確認。今週は今夜の夜勤のあとは月曜の朝まで休み。その予定を返すと、明日の朝、会社まで迎えに来ると返ってきました。迎えに来られても夜勤明けだから午前中は寝たいんだけど、ま、いっか。と言うわけで、土曜日は朱美とまったり過ごしました。そして日曜日、真由を誘い出して三人で遊びに行きました。行き先は真由の希望で犬山城。城下町の通りがきれいな観光名所になっていると、話題になったことがあったので行って見たかったところ。いろんなお店を覗いて回り、食べ歩きに終始しちゃったのでお城には行かず。目的がその通りだったのでそれで充分。四十度に迫ったとかいう日だったので無茶苦茶暑かったけど、楽しんで帰ってきました。久しぶりに平和な時間を過ごした気分です。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る