第26話 嵐の前の静けさ
「……うぅ、寒っ」
自由都市リベリオンの門番を務めるクアルという名の門番は鎧越しに感じる夜闇の凍える寒さに身震いした。しかしまだ冷え込むような季節じゃない。
夜の空気が湿気り始めているのを、彼は肌で感じ取った。
「ひと雨、降りそうだな……」
彼は昔のことを思い出していた。
あの日の前日もまた、夜に雨が降っていた。
(……不吉な予感がする)
もしかしたらそれは、既に彼の中でジンクスになっているのかもしれない。
◆◆◆
「ああ、あったあった」
古今東西のあらゆる本が納められたとある一室で、ギルドマスターであるフェシウスは過去の資料を漁っていた。
「サージェス・ティグリー……なるほど。彼がウェルハイズ王国でクーデターを起こしたのは、“魔王の血統”を求めてのことか」
30年前のギルド登録者名簿。その中に彼の名前はあった。
・サージェス・ティグリー 魔法使い 男性
年齢:16歳 魂の格:5 成長適正:不明……
……種族:魔族(デーモン種)
「はぁー……彼女も、とんでもない置き土産を残しちゃったものだねぇ」
彼女――そして、置き土産。
それが誰のことを指しているのかは、彼のみぞ知ることだ。
◆◆◆
〈蛇狩り盗賊団〉に加わり、アジトで暮らすようになった転移者の学生ら4人はこれまでのテント暮らしと比べれば遥かに文明的な生活を送れるようになっていた。
アリの巣のように張り巡らされたアジトの訓練室で、盗賊団のリーダーであるカトリスと転移者の一人、水面鏡花は戦っていた。
「ふっ、はぁっ!」
槍技を流麗に、舞い踊るように連続で繰り出すが、カトリスはそれをひらりひらりと必要最小限の動きで避けていく。
「んー、ミナモ、筋は良いんだが自分の力を過小評価しすぎだ。もう少しだけ速度を上げてみな」
「無理よっ……! これが限界……!」
「おい、槍を止めるな。俺がいいって言うまでずっと攻撃し続けろってさっきも言ったろ? さもなくば――」
カトリスは急激に速度を上げ、動きを止めたキョウカの喉に掴みかかり、彼女を硬い地面に叩き付けた。
「うっ……! ゴホッ! ゴホッ……」
「……戦場じゃあ、動きを止めた瞬間にお陀仏だぞ。これで二回目だ。つまりお前はもう、二回は死んでる」
訓練室の硬い床に二回も叩き付けられた。背中にはきっと大きなアザが出来ているだろう、とキョウカは頭の隅っこで冷静に考えていた。
全身から伝わってくる疲労、そして苦痛。訓練は既に三時間にも及び、そのスパルタさに、キョウカの瞳には涙が浮かんだ。
「泣くのか? 自分から『訓練して欲しい』ってお願いしてきたくせに?」
カトリスの言葉でキョウカは涙を堪え、生まれたての小鹿のように足を震わせ、槍を杖代わりにして無理やり立ち上がった。彼女のプライドが軋む身体に鞭打ち、屈してはなるものかと彼女を立ち上がらせたのだ。
「はぁ、はぁ……」
「よく立ち上がれたな。偉いぞ」
「腹が立つわね……それで、過小評価しすぎってどういうこと? アレが本当に限界なの。例えるなら、翼が無いのに空を飛べって言われてるようなものよ……」
「違う。お前は自分で自分の肉体の限界を勝手に定めているだけ……お前の例えを使うとするなら、翼があることに気づいていないだけだ」
(翼があることに、気づいていないだけ……?)
「さあ、休憩は終わりだ。30秒も休憩すれば十分だろ」
「えっ」
その後、キョウカは追加で二回ほど、地面に背中を叩き付けられた。
訓練終了後、治療のため、アリサに背中を見てもらった。ちなみに彼女達も男性陣と同じように仲が深まり、名前で呼び合うようになった。
「わー、綺麗な背中……でも、キョウカちゃんの背中、ちょっと赤くなってるだけだよ? これなら冷やせばすぐに治ると思うよ」
そう言われ、彼女は困惑した。
「え、そんなわけないでしょ? あんなにバンバン叩き付けられたのにちょっと赤くなってるだけ? アリサ、嘘つかないで頂戴」
「ウソじゃないよー! ほら見て!」
スマートフォンのインカメを鏡代わりにしてキョウカが自分の背中を見てみると、確かにほんのり赤く染まっている程度だった。
「ほんとね……」
(……あんなに重い猪を一人で持ち上げられるわけが無いし、彼らに捕まった日だって、微かに彼らの足音が聞こえていたわ。そして地面に何度も叩き付けられて、背中がちょっと赤くなっているだけ……間違いなく、私の身体に異変が起きている)
考え事をしているキョウカの背中に、背後から魔の手が忍び寄っている。
「ひゃあっ!」
背中に突然冷たい物が当てられ、彼女は跳び上がった。振り返ると手に氷嚢を持ったアリサがキョウカの可愛らしい反応を見て悪戯っぽく笑っていた。
「わっ、キョウカちゃんってそんな声出すんだ……」
「い、今のはただの脊髄反射よ。背中に突然冷たい物を当てられたら誰だってあんな声が出るに決まってるじゃない」
「えー? 本当かなぁ? えいっ」
「ひゃあっ! ちょっとぉ……」
キョウカはこの数日間でアリサのことを多少理解し始めていた。
アリサは臆病な猫のような性格だ。
最初の頃は他人の顔色を伺うことが多いが、仲が良くなるとちょっとしたワガママを言ったり、皆を楽しませようとボケてみたり、キョウカが今されたように、他人に悪戯をしたりするようになる。
嫌だと思ったら嫌だと強く言えばいい。アリサは相手が本当に嫌だと思っていることは絶対にしない。そういう人間である。
だが、キョウカは嫌とは言わなかった。同年代の少女との関わり合いが少なかった彼女にとって、アリサの存在は新鮮だった。
彼女との関係を深めていく内に、自分も、もしかしたらクラスメイトとこんな風に普通の女子高生らしい学校生活を送りたかったのかもしれない……キョウカは故郷を愁いながら、そう思うようになっていた。
そのまま二人は、医務室のベッドの上で乳繰り合い……キョウカがじゃれ合いのつもりでアリサを押したのが原因だった。
二人の間の力の差は歴然であった。キョウカがじゃれ合いのつもりで軽く押した力は、アリサが倒れるのには十分な力であった。
そして、キョウカもまさかそれでアリサが倒れるとは思わず、体勢を崩し、一緒に倒れてしまった。
キョウカはアリサの身体に倒れ込む直前、彼女を押し潰すまいと、代わりに彼女の頭の両隣に手を突き――押し倒すような形になって、二人は顔を見合わせた。
「はぁ、はぁ……」
天井に吊るされたカンテラが唯一の光源である薄暗い医務室の中で乳繰り合い、二人は息を荒くして呼吸している。
普段から運動をしているキョウカは汗一つかいていないが、そうではないアリサは玉のような汗を額に浮かべている。そして汗は二人の間の熱気で蒸発し、キョウカの鼻腔に彼女の香りが届く。
(あ、良い香り……って、そうじゃないわよ! どうしてこんな状況に!?)
今の自分の状況を自覚したキョウカは心拍数が上がり、息を一層荒くした。
今、彼女らの耳に届く呼吸は、それが自分の物なのか、それとも彼女の物なのかすらも分からないほどに混じり合っていた。
紅潮した頬。潤んだ瞳。
二人は、どうしていいか分からず……
「椎名さーん、水面さーん、そろそろ晩ご飯の時間だよー」
医務室の外からイユの声が聞こえ、二人は慌てて顔を離した。そして医務室の扉がガチャリと開けられ、イユは「あ、いたいた……どうしたの? 二人とも」と二人の様子がやけにおかしいことを疑問に思った。
「ばばば、晩ご飯だって! 行こ、キョウカちゃん!」
「え、ええ、そうね! 行きましょうか!」
(何考えてるのよ、私……!)
そうして、イユ含め三人は食卓に向かった……
「あー、皆、話がある」
団の全員が集まる食卓でカトリスがそう切り出し、盗賊団のメンバーは皆耳を傾けた。彼の隣には、見覚えの無い一人の少女が立っていた。その子に関することだろうと皆は察していた。
「〈蛇狩り盗賊団〉に新たなメンバーが加わることとなった。それじゃ、自己紹介をしてくれ……」
「はい、分かりました」
桃色の髪、そしてエメラルドグリーンの瞳を持った小さな少女は一歩前に出て団のメンバーに一礼をした。
「この度、新たに〈蛇狩り盗賊団〉に加わることになりました、ドロシー・マリオネットです。医師として皆様の健康と安全をお守りしたいと思います。どうぞ、よろしくお願いします」
◆◆◆
赤、青、緑、紫……カラフルな試薬の入った試験管が並ぶ研究室の中で、白いローブを纏った男が――ウェルハイズ王国・国王代理、サージェスは魔法陣の上で一つの魔法を唱えた。
「賢者目録、第二篇」
それは、最初の賢者が創り上げたバランスブレイカー。
「――【
彼の頭の中に、最も身近に発生する大きな出来事が映し出される――それは、数分後の出来事であり、彼はそれを見て、ニヤリと笑った。
「第二篇の発動は成功……であれば、やはり、私にはその“資格”があるはず……!」
血が出るほどに手を強く握りしめたサージェスは、もう一つの魔法の詠唱をした。
「――賢者目録、第一篇――啓け、【
天に翳された彼の手の前に、光の本が現れる。今にも崩れ落ちそうなその本のページがパラパラと捲られ――
――しかし、光の本はそのまま、光となって崩壊した。魔法の発動に体力を大きく消耗したサージェスはその場に崩れ落ち、息を荒くして呼吸する。
「はぁ、はぁ……どうして……どうして、何度やっても成功しないんですか……!」
その時、カツン、カツン――と、研究室の入り口から誰かの足音がした。
「……ああ、やはり来ましたか……」
彼は既に、ここに誰が来るのかを知っていた。
「――アルセリア様」
アルセリア・フォン・ウェルハイズ。地球に居たはずの彼女が、瞳を紅く輝かせてこの世界の大地の上に立っている。
「ええ……貴方の暴挙を打ち砕きに来たわ」
◆◆◆
「用事が終わったので帰ってきましたよー……って、あれ? アルセリアさん?」
彼女の師が地球に帰ってきたとき、そこにはもう、既に彼女は居なかった。
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