第8話 変身

 仕事から帰ってきた後、私はアルセリアさんに魔法の勉強を……その前に、やるべきことがあります。


 彼女の前に買ってきた本を山積みにしました。


「……なにこれ?」


「朝、連絡した通り、魔法の勉強を始める前に“地球の常識”の勉強をします」


「どうして? 私は今すぐにでも貴方の転移魔法を身に着けたいのだけれど……」


「だって、貴方、転移魔法を覚えたら絶対にお忍びでこっちの世界に来るじゃないですか」


「うぐっ」


 図星を突かれたようです。


「……まあ、別に来ること自体は良いのですが、常識を学んでおかなければ色々と面倒なことが起きますから……こっちの貨幣すら知らないでしょう、アルセリアさん?」


「そうね……まあ、いい機会だから異世界の事を学んでみましょうかしら」


 良かったです。彼女も乗り気のようです。


 実のところ、地球の常識の勉強は建前で……本当は、彼女を数日放っておける口実が欲しかったのです。


「ここからが本題です……明日から私、ちょっと向こうの世界で用事を済ませてきます。試算するとおよそ三日は掛かるので、その間に地球の常識について……できれば、ここにある本を全部読めるようになるくらいまでには仕上げてください」


「……それで魔法の勉強のスケジュールの方は本当に大丈夫なの?」


「はい。魔法の勉強は四日あれば十分ですし……それに、万一アルセリアさんが私の期待以上の成果を出せなかった場合、私は強硬手段で無理やり学習させます」


 強硬手段と聞いて、彼女はうぇ、と嫌そうな顔をしました。その手段は、できれば私も行使したくは無いので……まあ、彼女の実力に期待しましょうか。


「あ、そうそう」


 話もまとまったところで、私は鞄の中から箱を取り出しました。


「何なの、それ?」


 箱を開けると、中からは白いクリームの塊に、彼女の瞳のように赤い果物が乗ったスイーツが姿を現しました。


「ショートケーキです。甘くて美味しいですよ」


 スプーンを渡すと、彼女は恐る恐るケーキの先端を削り取り、ほんの少し、口に入れました。


「……っ!」


 堰を切ったように、彼女はショートケーキを貪り尽くしました。


 食べ終わった後、彼女は「こんなの知っちゃったら、もう戻れないじゃない……」と、ショートケーキの味を知ったことに後悔しておりました。


 そんな彼女に、悪魔の囁き。


「もし、こっちの常識を覚えて、その上で転移魔法まで身に付ければ……向こうの世界に帰った後も、自分が食べたい! と思った時にショートケーキを買えるようになりますねぇ~」


「……いいでしょう。やってやるわ!」


 よしよし。想定通り彼女の勉強意欲に火を点けられたところで、私は風呂に入ることにしました。


   ◆◆◆


 シャワーを浴びながら、私はぼんやりと、明日から三日間、向こうの世界で何から始めるかについて考えておりました。


 そもそも、どうして三日間も向こうに行く必要があるのかと言いますと……


「王女様の勉強に、学生らの観察……あと、クーデター後の王国の様子についても見なくちゃいけないですからねぇ……どう考えても、身体が足りません」


 なので、向こうの世界に三日ほど滞在し、全力を尽くしてその問題を解決する所存です。


「……どうしましょうか」


 浴室に立てつけられた鏡に映る中年男性の姿に対し、私は一つの悩みを抱えておりました。


 日本人の容姿は向こうだと結構浮きます。服も、ジーパンとかを着て行けるような場所ではありません。


 となると、姿を変える必要があります。向こうの世界でも違和感が無いような姿に。


「うーん……前世の姿にしましょうか……いえ、それだと何の面白みも無いので止めましょう。やっぱり新しい姿の方が気分も上がりますし……」


 新しい姿、新しい姿……うーん……


 浴槽に浸かりながらどのような姿にするか考えていると、ふと、前世の関係者の姿が頭に思い浮かびました。


「……ま、ここは無難に……の容姿をパク……オマージュしましょうか」


 そういえば、彼女は今、どこで何をしているんですかね……そもそも、私が死んでから何年経ったのでしょうか……


「“変身”」


 私はそう唱え、息を止めて浴槽の中に沈み込み――



――湯の中から、光が溢れました。



 そして、大昔にアルキメデスが発見した原理に従い、浴槽の水位は一気に下がりました。


   ◆◆◆


 風呂から上がると、アルセリアさんは食い入るように本を読んでいました。


 私にも、ああやって食い入るように本を読む時期があったのだと思うと、少しだけ懐かしく、微笑ましく思えます。


「進捗はどうですか?」


 私の口から、いつもとは違う高い声が響きました。


「うーん……文字の法則性は掴めたからあと少しで読める気はするのよ。けど、時々読み取れない部分があって、難しいわ」


「今の段階でそこまで行ってるなら順調ですよ」


 彼女の隣をスタスタと通過しました。私の足音は、いつもよりだいぶ軽い物となっておりました。


「うーん……“今日は日曜日”……? 同じ字なのに……本当に、何この言語……」


「音読み、訓読み、熟字訓やらなにやら色々ありますからねぇ、日本語は複雑ですよ」


 私は冷蔵庫の上の段に仕舞っておいた高級ワインを取ろうとして……背を伸ばしても届かないので、仕方なく魔法で引き寄せて、手に取り……


 ここでようやく、アルセリアさんは「……ん?」と何かがおかしいことに気づいたようです。


「え? 誰?」


「嫌ですねぇ、私ですよ、私。坂庭久助……いえ――」


 背中まで垂らした薄紅色の髪とエメラルドグリーンの丸い瞳を持つ小さな少女にそんな名前は似合いません。


 新しく、どのような名前を付けるか考えて――そうですね。魔法使いの少女と言えば、この名前でしょう。



「――ドロシー。そう、ドロシーです。坂庭久助改め、私の名前はドロシーです。この姿の時はそうお呼びください、アルセリアさん」


「……もう、師匠がどんなに無茶苦茶な事をしても驚かないわよ」


 おっと、諦観されましたね。まあいいです。


 坂庭久助改めドロシーとなった私は、まず姿見の前でクルリと一回転をしました。


 次に、ダブルピースで笑顔……眉をひそめて怒り顔、と、喜怒哀楽様々な表情を作りました。


 どの表情でも非常に可愛らしく映ることを確認して、満足しておりました。


「うわ」


 後ろから、アルセリアさんの引くような声が聞こえたような気がしたのは、まあきっと気のせいですね。

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