遂げぬ想い

 イベリスは無言でオリヴィエを見つめていたが、彼女の心境が沈黙のうちに変化したことに気づいたのだろう。再びオリヴィエを引き寄せると、彼女の頬に手を当てて顔を近づけてきた。熱い吐息が頬にかかる。ギルベルトが為そうとした侵略が、今、庭園で繰り返されようとしていた。

 だけど、ギルベルトの時とは違い、今のオリヴィエは傀儡くぐつではなかった。あの時と同じように目をとろけさせ、イベリスを受け入れるように唇を開いてはいたが、それは催眠によるものではなかった。本能に精神を支配されていなかったとしても、彼女はやはり彼を求めていた。


 だが、接吻は交わされなかった。イベリスの唇がまさにオリヴィエの唇を掠めようとしたその時、耳の奥から聞こえた声が、オリヴィエの意識を現実に引き戻したからだ。








 ――オリヴィエ!




 濃霧は一瞬にして吹き払われ、オリヴィエは急いで身を引いた。イベリスが動きを止めて彼女を見つめる。

 数秒の間の後、仕切り直すように再び顔を近づけてきたが、今度はオリヴィエもはっきりと首を振って制止した。彼の手をそっと振りほどき、彼から距離を取る。


「……すまない。やはり私は、あなたの恋情に応えることはできない」


 視線を落としてオリヴィエが呟く。片手で胸元を隠し、尻の曲線が見えないように体勢を変え、彼に愛念を生じさせる全てのものを視界から遮断しようとする。


「……なぜです? 今、はっきりと確信しました。あなたの御心は、私と同じ……。それなのに、なぜ私を求めてはくださらないのです?」


 イベリスの悲痛な声が耳朶を貫く。顔を見ずとも、彼が消沈しているのがわかった。

 オリヴィエは胸が痛むのを感じたが、情にほだされるわけにはいかなかった。


「……確かに、私の心はあなたと同じだ。できることなら、あなたに応えたいとも願う……。しかし、やはりそれはできない」


「それは……あなたが騎士だからですか?」


「そうだ。ただし、先ほど述べた理由とは異なる。私には……そう、愛する人がいるのだ。その方のお傍にいるためには、私は騎士でなければならない」


「その、愛する人というのは……?」


「……私がお仕えしている方だ。最後にお会いしてから数ヶ月は経っているが、未だに私の心を捕らえて解放してくださらない。まったく罪なお人だ」


「あなたにとっては、その方が……、私よりも大切だと……?」


「……そうだ。あなたの好意に応えられないのは私としても心苦しいが……こればかりは、自分ではどうにもならぬことなのだ」


 故郷の光景が蜃気楼のように茫漠としていく中、一つだけ色を失わなかったものがある。それはアイリスの姿だった。あの花が開くような笑みを浮かべ、月下美人の花を差し出しながら、オリヴィエ、オリヴィエと何度も呼びかけてくる。その無邪気な声音が、どれほど自分の心をかき乱すかも知らずに。


 だけど、オリヴィエはそれでいいと思った。あの方は何も知らず、無邪気で、お転婆で、花のように笑う愛らしい少女のままでいればいい。そんな彼女だからこそオリヴィエは何年も慈しんできたのであり、遠く離れた場所にいる今も、心の支柱となって自分を導いてくれるのだから。


 イベリスがじっとこちらを見つめてくる。紺碧の瞳には憂いが混じり、彼女の心を自分に向かせる方法を必死に探しているように見えた。

 だけど、オリヴィエはもう迷わなかった。小さくため息をついて顔を上げ、こちらを見据えるイベリスの瞳を見返す。


 深淵を宿したその瞳に見つめられても、オリヴィエの心が揺らぐことはもはやなかった。


 無言のまま数十秒は見つめ合っただろうか。やがてイベリスがため息を漏らすと、自分から後方に引いてオリヴィエと距離を取った。水蒸気が再び彼の姿を隠し、瞳に浮かんだ憂いも覆われていく。


「……わかりました。あなたとその方の関係を裂くような真似をするのは私としても本意ではありません。ここは身を引くことにいたしましょう」


 微笑みを浮かべてイベリスが言うも、その顔はやはり悲しみに満ちていた。

 オリヴィエはまたしても心が痛むのを感じたが、目を背けてはいけないと思った。騎士らしく表情を引き締め、彼を真正面から見据える。


「……私はこれで退散します。もう一人のお嬢さんは間もなく戻られるでしょう。女性の二人旅は何かと危険が多い。どうか……この先もお気をつけて」


「ああ……。このたびは、本当に大きな借りを作ってしまった。それをお返しする術がないのは、何とももどかしいが……」


「私のことはお気になさらないでください。あなたとこうしてまみえることができただけでも……私にとっては十分すぎるほどの幸福なのですから」


 憂いを帯びた笑みを浮かべ、イベリスが静々とオリヴィエに近づいてくる。彼がまた自分を抱くのではないかとオリヴィエは身構えたが、イベリスは彼女の身体に触れようとはせず、代わりに片手でそっと髪に触れてきた。指先は後頭部を撫でてからゆっくりと下に流れ、毛先に到達すると同時に離れる。


 髪を梳いた手をイベリスはじっと見つめた後、名残を封じ込めるように手を握り、そのままオリヴィエの脇を通って歩き出した。花の香りが鼻孔をくすぐったのも束の間、それは次第に遠ざかっていき、ついには残り香さえも消えた。振り返って彼を追いかけたくなる衝動を必死に堪え、オリヴィエは彼の足音が聞こえなくなるのを待った。


 やがて足音が完全に消え、水飛沫の音だけが残されたところでようやくオリヴィエは振り向いた。

 イベリスの姿はすでになく、ただ、彼の夜会服から落ちたように、白い薔薇の花弁が、風に乗って舞っているだけだった。

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