愛は散りぬ
夢の終わりを迎えた庭園内で、オリヴィエは一人呆然として佇んでいた。会話の途絶えた庭園内は痛いほどの沈黙に包まれ、さあさあと降りしきる噴水の音だけが空寂を埋めていく。
心を癒す水音。だけど、その優しい音色さえも、オリヴィエの心に空いた隙間までは埋めてくれそうにはなかった。
彼女は今、自分が後悔しているのをはっきりと感じていた。イベリスは自分を愛し、自分も焦がれるほどに彼を求めていたというのに、愛は成就することなく、今度こそ幻となって天に還ってしまった。
オリヴィエは身を切られるような痛みを感じたが、それでも駆け出して彼を探すことはできなかった。一時は精神を凌駕しかけた女としての本能であったが、最後に勝ったのはやはり騎士の魂だった。いやむしろ、アイリスへの愛が、イベリスへの愛に打ち勝ったと称した方が正しいかもしれない。
だけどいずれにしても、それは虚しい勝利だった。騎士の道にしろ、アイリスへの愛にしろ、どれほど得ようとしたところで、風に吹かれる花弁のように、手からすり抜けていくだけなのだから。
オリヴィエが勝利の虚しさに浸っていたところで、不意に背後から足音が聞こえてきた。
イベリスが戻ってきたのか? 一抹の期待を抱えてオリヴィエは振り返ったが、そこにいたのはイベリスではなかった。二人の人物がこちらに歩いてくる。一人は金の騎士。警戒した様子で周囲を見渡しつつ、隣にいる人物をエスコートしながら歩いている。
彼に連れられて歩いているのはリアだ。いつもの作業着風の衣服ではなく、若草色のワンピースを着ている。オリヴィエのドレスのように肌を多く露出したものではなく、シフォン製らしきふんわりとしたシルエットをしている。その色とデザインはリアによく似合っていた。
リアは不安げに庭園を見回していたが、オリヴィエの姿を見るなりはっと息を呑んで駆け出してきた。そのまま彼女の胸に飛び込み、背中に手を回してくる。
「ああ……騎士様! ご無事でよかったですわ! 私……騎士様が大変な目に遭われたのではないかと心配で……!」
涙目になって縋りつきながら、リアが感極まった様子で声を上げる。彼女自身も怖い思いをしただろうに、自分のことよりも先にオリヴィエを心配してくれた。そのことがオリヴィエは申し訳なく、同時に嬉しくもあった。
「……すまない、リア。心配をかけてしまって……。私なら平気だ。それよりも、お前は……?」
「私もどうもありませんわ。閉じ込められた時は怖かったですけれど……騎士様が近くにいてくださると思えば平気でした」
「そうか……。ただ、今回お前を助けてくれたのは金騎士団だ。彼らがいなければ、お前も今頃侯爵の手に落ちていたかもしれん。私が付いておきながら守ってやれず……本当にすまなかった」
「そんな……謝るなんて止めてくださいまし。こうして二人とも無事だったんですからよかったじゃありませんか」
「確かに今回は危難を免れた。だが、この先も同じような目に遭わないとも限らん。どうだろう、リア。この辺りで牧場に帰っては……」
「それはいけませんわ! 私は騎士様のお供をすると決めたんです!」
「しかし……今回のことでわかるように、私がお前を守ってやれない場合もある。お前の身に万一のことがあったら……」
「それでも私はお供したいんです! 騎士様のお側に……いさせてくださいませんか?」
リアが顔を上げて懇願するように見つめてくる。その濡れた大きな瞳を前にすると、オリヴィエもそれ以上邪険にすることはできなかった。しばし逡巡した後、決意を固めたように頷いて続ける。
「……わかった。ともあれ、早くこの屋敷を経つことにしよう。私達の目的地は遠い。こんなところで……立ち止まるわけにはいかないのだからな」
己に言い聞かせるように言い、遠い目をして空を見上げる。霧が晴れた紫紺色の空には、金色の粒子を散りばめたような満天の星空が広がっていた。光と光が糸を紡ぎ、大河となって空を横断していく。
光の粒が織り成すこの河は、遠く離れた故郷にもつながっているのだろう。あの人も自分と同じように、大河の先にいる一等星を見つめているのだろうか。
――オリヴィエ。
未だ頭を離れないかの人の微笑み。あの微笑みを守るためならば、他の何を捨てても惜しくはないと思っていた。今もその決意に変わりはないが、それでも今日、自分の中に生まれたこの感情は、私が魂の全てをかの人に捧げられてはいないことを伝えてくる。
私がこの先どのような道を進むべきか、今はまだわからない。だけど、少なくとも、かの人に
しばし天空を見つめた後、オリヴィエは視線を落とし、リアの手を取って歩き出した。柔らかな風が傍らを吹き抜け、白い薔薇の花弁が視界の端を舞っていく。
自分を誘うその花弁を見ても、オリヴィエはもう振り返ろうとはしなかった。
[第十章 幻夜に散りゆく愛の花 了]
[第二部 高貴なるもの 了]
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