交わされたのは

「……あなたには大きな借りができてしまったようだ。何かお礼を差し上げたいところだが、あいにく金品のたぐいは持ち合わせていない。言葉でしか謝意を伝えられないというのは、何とももどかしいが……」


 手から伝わる温もりを感じながら、オリヴィエがそっと目を伏せる。優しく愛撫してくるイベリスの指先を感じていると、自分が自分でなくなっていくような例の感覚が蘇ってきて、自制心を働かせるためには彼から目を背けるしかなかった。もし、この感覚を抱いたまま彼の瞳に見つめられでもしたら、今度こそたがが外れてしまう気がした。


 大地に視線を落とすオリヴィエをイベリスはじっと見つめていたが、不意に彼女の手を撫でるのを止めた。包むように手を重ねたまま、そっと、囁きに口を開く。


「……いいえ。あなたにしか、差し出せないものがあるかもしれませんよ」


 オリヴィエが当惑して顔を上げる。イベリスが自分を見つめていた。重ねた手に力がこもり、一歩を踏み出して腰を抱かれる。あの晩、彼とダンスを踊った時のように。


 だが、そこから先に生じたことはあの晩とは違っていた。鼻孔を突く花の匂いがかぐわしさを増した瞬間、オリヴィエの唇に何かが触れた。

 接吻されたのだと、遅れて気がついた。


 目を閉じることもできず、オリヴィエは瞠目してイベリスを見つめた。まつげと睫が重なるほどに、彼の顔がすぐ近くにあった。花の香りは今やむせかえるほど強く感じられ、彼の存在を熱烈なまでに伝えてきた。唇を包む柔らかな感触は絹というよりは花弁のようで、オリヴィエは最初、自分が花に接吻しているのではないかと思った。無聊ぶりょうを紛らわせようと庭園を彷徨い、偶然見かけた美しい花に戯れをしたのだと。

 だけど、そうではないことは、荒々しく背中を引き寄せる彼の手のひらと、衣服ごしでも伝わる彼の心臓の鼓動、そして彼の唇から漏れ出す温かな吐息が、嫌というほどに伝えてきた。


 祝宴に彩りを添えるように、銀色の月光が頭上から降り注ぐ。幻は地上に羽を下ろし、甘美なる追憶は現実のものとなった。あの時以上に恍惚とした感覚がオリヴィエの五感全てに訴え、この一瞬を、永遠の写し絵として心に刻みつけようとしていた。


 長い長い接吻を交わしたところで、ようやくイベリスがオリヴィエから唇を離した。それでも彼女を解放しようとはせず、あの深淵を宿す瞳で、彼女をじっと見つめてきた。


「オリヴィエ……。私は、あなたを愛しています」


 はっきりと囁かれたその言葉が、媚薬びやくとなって身体中に浸透していく。霧がかかったようなあの感覚が脳を襲い、オリヴィエは自分がどこにいるかを忘れそうになった。


「あなたと別れたあの晩から……ずっとあなたのことが頭から離れなかった。もう一度、あなたに会えたらと……それだけを願って生きてきました。

 だから……この庭園で再びあなたの姿を目にした時、私は神が願いを聞き届けてくれたのだと思いました。あの晩の、私の願い……。美しい月の下で、あなたと、まみえることができたらと……」


 背中に回されたイベリスの手が震える。それはちょうどドレスの開けたところ、オリヴィエの肌が見えた部分に当てられていた。みだらに撫で回してくることはなかったが、熱を帯びたその指先は、彼女のより深い部分に触れることを欲していた。


「今日のあなたは、以前会った時とは随分違う……。あの時よりもずっと扇情的で、それはそれで魅了されますが……あなた本来の気高き美しさは損なわれてしまっている……。

 しかし……それでも私の目には……あの時と変わらず、燦然さんぜんとした輝きを放つあなたの姿がはっきりと見えているのです。これまで多くの女性と出会ってきましたが……あなたほど心を狂わされ、愛念を搔き立てられる女性を私は知らない……。私の心をかどわかしたその罪を……償ってはいただけませんか……?」


 吐息と熱を漏らした唇が、再びオリヴィエの唇を求めようとする。オリヴィエは一瞬、このまま時も場所も忘れて彼に身を任せてしまいたくなったが、辛うじて残っていた理性がそれを制した。彼の手を振りほどくほど力は出なかったものの、それでも少し身を引いて顔を背ける。


「それは……できない。以前にも申し上げた通り、私は騎士だ。あなたがどれほど心を寄せてくださったとしても……私はあなたと共に生きることはできない」


「……なぜです? 騎士の立場は、あなたにとってそれほど大切なものなのですか?」


「……ああ。何を以てしても……私からこの地位を奪い去ることはできない」


「ですが、それはあなたの本心なのでしょうか? 私の思い上がりでなければ、あなたの瞳には、私と同じ熱情が宿っているようにお見受けする……。あなたも心の奥底では、騎士の座を降り、女性としての幸福を得たいと願っているのでは?」


 オリヴィエは答えられなかった。女性としての幸福。愛する男とちぎりを交わし、その男の子を宿し、産み育てる。それは母メリアが娘に望んだ生き方だった。母への孝行を考えるならば、彼の誘いに乗り、熱に浮かされるまま交わる道を選ぶこともできただろう。


 だけど、オリヴィエには騎士として守るべきものがあった。国と民、そして主人。離れた場所にいたとしてもそれらを守る使命が消えたわけではなく、むしろ離れているからこそ、オリヴィエは彼の手を払い除け、一刻も早く使命を果たす場所に戻らねばならなかった。


 ただ――正直なところ、オリヴィエの心は揺れていた。彼から求愛を受けたのはこれが初めてではなく、あの宴の晩も同じように、耳元で愛の言葉を囁かれ、熱を帯びた眼差しで見つめられた。その時も一瞬、彼に応えたいという切望が込み上げはしたものの、それに呑まれることはなかった。

 あの時のオリヴィエは自律心を持った騎士であり、彼の誘いに心を惹かれながらも、丁重にそれを拒絶することができた。それだけの冷静さが、あの時の自分には備わっていた。


 だけど、今はどうだろう。あの時よりも強く身を焦がす感覚は、ずっと守ってきたはずの騎士の立場を捨て、一人の女として、彼の恋情に応えることを願っている。その証拠に、自分に注がれる彼の視線を感じてはいても、少しも顔を上げられずにいる。その瞳を見つめてしまったら、後戻りができなくなるとわかっているから。


 やがてイベリスの視線が下り、ローカットのドレスから覗く胸部の前で目を留めるのがわかった。オリヴィエは気恥ずかしさを感じながらも、肌を隠そうとは思わなかった。先ほどまでは忌まわしさを覚えさせた胸の膨らみも、彼の目を惹きつけると分かった今では、いっそ愛おしいとさえ思えた。

 イベリスは貴公子らしく欲望を露わにすることはなかったが、それでも彼の瞳は、オリヴィエのその部分に触れることを欲していた。

 そして彼女もまた、その部分だけでなく、自分のあらゆる箇所を彼に愛撫されることを願っていた。


 オリヴィエはやはり気づいていなかったが、それはギルベルトが目覚めさせた女としての本能が、再び疼き出した瞬間でもあった。

 ギルベルトが手に入れようとしても手に入れられなかった、オリヴィエの心――。イベリスはそれを、彼女と出会いを果たしたあの晩、すでに半分手に入れていた。

 そして今日、残りの半分を手に入れた。それを決定的にしたのは先ほどの接吻だった。彼が彼女の唇をさらった瞬間に、オリヴィエの中の本能は再び目覚め、彼女自身も制御ができないほど、狂おしく彼を欲するようになっていた。頭にかかる霧は次第に深くなり、瞼の裏に焼きついていたはずのエーデルワイス王国の光景が、蜃気楼のようにぼやけて消えていく。

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