月夜の再会

 金の騎士に連れられ、オリヴィエは屋敷を抜けて庭園まで辿り着いた。

 衛兵との乱闘は庭園までは及ばなかったようで、生け垣や灌木が荒らされた様子はない。ノウゼンカズラを始めとした花々は変わらずに咲き誇り、屋敷の光が失われたことなど気づかぬように、鮮やかな色の花弁を暗闇に灯している。

 生け垣の間で時折光るのは金騎士団の鎧だろうか。闇の中で金色の光が瞬く様は星々の輝きを見ているようで美しかったが、その実態が敵であると思うとオリヴィエは落ち着かない気持ちになった。せいぜい令嬢らしく振る舞おうと堂々と歩こうとしたが、やはりピンヒールで歩くのは慣れず何度も転びそうになり、そのたびに金の騎士が助け起こしてくれた。金の騎士に手を取られながら起き上がるたび、オリヴィエは複雑な気持ちになりつつも礼を言った。


 庭園の中心部にある円形の噴水までオリヴィエを案内したところで、金の騎士は通報者を呼びに行くと言って去って行った。一人取り残される格好になり、オリヴィエは改めて庭園を眺めてみることにした。

 先ほどは逃走を図るのに必死で観察する余裕がなかったが、改めて見るとそこは素晴らしい庭園だった。生け垣や灌木は綺麗に剪定せんていが施され、どこを切り取っても絵になる光景が広がっている。闇夜を彩る花々はノウゼンカズラ以外にも様々あり、薔薇やダリア、そしてグロキシニアの花が競い合うように大輪を咲かせている。石畳の遊歩道の周りには貴族らしき人の姿をした彫像が等間隔に並び、石膏せっこうの顔に微笑みを浮かべながら、音のない囁きを交わしている。ここにかたどられた人々はおそらくグロキシニア家の一族なのだろう。永遠に変わることのないその微笑みは、侯爵家の歴史がすでに終焉を迎えたことなど少しも気づいていないようだ。


 オリヴィエはそれでいいと思った。死者に罪はない。彼らはただ沈黙の中で語らいを続け、夢の中で子守歌にたゆたい、終わることのない栄華を享受しながら、永遠の魂を生きればよいのだ。


 さあさあと降りしきる噴水の音を耳にしながら、オリヴィエはこれとよく似た光景を以前見たことを思い出した。


 あれはそう、エーデルワイスの王城で開かれた舞踏会の時だ。あの時も舞踏会に向けて念入りに剪定が施され、庭園は地上の楽園と見紛うほどの絢爛けんらんな様相を呈していた。自然界も宴に彩りを添えようとしたのか、夜空に雲はなく、銀色の月光が天からの祝福のように降り注いでいた。

 視覚だけでも十分過ぎるほどに美しいのに、そこにバイオリンの物悲しい旋律と、薔薇のかぐわしい香りが重なり、五感全てが相まって、見る者の心に忘れがたい印象を残していた。


 オリヴィエ自身、あの日見た庭園の光景は今も目に焼きついていた。だが、それは単に景色が美しかったからではない。あの夜の記憶自体が、生涯忘れられない追憶として、オリヴィエの心に深く刻み込まれていた。


 数ヶ月が経った今でも、場面一つ一つを鮮明に思い出すことができる。アイリスから頼まれて舞踏会に参加したものの、行き場をなくしてダンスホールを離れ、人気のない庭園に逃げ込んだ。水蒸気がもやとなって闇夜に垂れ込める中、今と同じように水飛沫の音を聞き、だけどそれに心を癒されることもなく、孤独と絶望に打ちひしがれていた。

 そこに、あの人が現れた――。


「……オリヴィエ?」


 そう、あの時も彼は自分の名を呼んだ。たった数度のことだったけれど、それでも彼の声音は耳朶じだに刻印されている。今も時折目を瞑ると、まるで彼がすぐ傍にいるように、彼の声が耳の中で蘇ることがある。


「……オリヴィエ」


 ああ、そうだ。この声だ。甘く、優しい彼の声。その声で自分の名前を囁かれると、まるで竪琴の音色を聞いているかのように陶然としてきて、何度も、何度も、その声で名を呼んでほしいと乞いたくなる。


「……オリヴィエ!」


 それにしても、今日はよくこの場にいない人間の声を聞く日だ。アイリスのあの声も幻聴だったとは思わないが、今、自分の名を呼ぶ声は、あの時よりもずっと明瞭に耳に届く。まるでそう、彼が現実にこの場にいて、自分の名を呼んでいるかのように。


「オリヴィエ……。私の声が、聞こえないのですか……?」


 そう呼びかけられて初めて、オリヴィエは自分を呼ぶ声が幻などではないことに気づいた。

 弾かれたように振り返ると、今まさにまぶたの裏で思い描いていた人が目の前に立っていた。白い薔薇から抜け出してきたような、純白の夜会服をまとった貴公子。


「イベリス……?」


 忘れがたい記憶と共に、自然と名前が口から零れる。濃霧のように漂う水蒸気が庭園を包み、彼の姿を半分覆い隠していたが、それでも彼から漂う花の香りが、彼が確かにそこに存在していることを伝えてきた。あの晩と同じ、見事な夜会服に身を包み、貴族らしい優美な佇まいをして。群青色の頭髪は月光を浴びて銀色の刺繍を施され、光を受けて天使の輪を描く様は、まさに天使が君臨したのではないかと思えるほどに美しかった。こちらを見つめる瞳は海のような紺碧を湛え、見る者を一瞬にして深淵へといざなうほど、静謐で、神秘的な輝きを放っている。


 オリヴィエは呼吸をするのも忘れて彼の姿に見入った。あの舞踏会の晩、初めて彼と出会った時よりも強く、彼の姿が瞳に刻印されていた。すでに鮮明だったあの晩の記憶が、まるで絵芝居のように輪郭を伴って意識になだれ込んでくる。

 彼に声をかけられ、手を取られ、共にダンスを踊ったこと。最初はたどたどしかった足取りが、彼に身を任せるうちに次第に自然なものになってきて、舞を踊る喜びを全身で感じたこと。だけどそれは一夜の夢に過ぎないと諦めかけていたところで、彼の強い腕で引き寄せられ、それから――。


「オリヴィエ……。お怪我は、ありませんか……?」


 イベリスがそっと口を挟み、オリヴィエの甘美なる追想は断ち切られた。イベリスは物憂げな表情を浮かべてオリヴィエを見つめ、そっと歩み寄ってくる。足音を立てるのもはばられるように静かに歩く様は、近づくとオリヴィエが消えてしまうのではないかと怖れているかのようだった。


 それはオリヴィエも同じだった。遠目で見ている限りは彼がすぐ傍にいるように見えるが、少しでも近づけば彼の姿は水蒸気に紛れ、蜃気楼のごとく消えてしまうように思えた。だから無意識に身を引いたのだが、その動きを封じるように背後にある噴水にぶつかった。さあさあという水音が優しく響く。静やかで、だけど確かな音の波となって耳に届いたそれは、彼女が見ている光景が、決して幻などではないことを伝えているように思えた。


 オリヴィエの眼前まで来たところでイベリスは立ち止まった。手で触れられるほど近くに来ても、彼の姿が霧散することはなかった。むしろ濃厚になった花の香りが、彼の存在をより強く感じさせてきた。


「なぜ……あなたがここに……?」


 やっとのことでオリヴィエはそれだけ問いかけた。夢想し続けた人が目の前にいるとわかっても、まだ、どこかでそれを現実と受け止めきれずにいた。


「実は……私は所用でこの国に来ていたのですが、ロンギフォリア伯爵の屋敷の前を馬車で通りがかった際、あなたともう一人、別の女性が馬車に連れ込まれているところを目撃したのです」イベリスが憂慮深げに話し始めた。


「あなた方は気を失っておられる様子でしたので、何か只ならぬ事態が起こっていることはすぐにわかりました。そこで、気取られない程度に距離を空けてあなた方を乗せた馬車を追跡したのですが、辿り着いた先がグロキシニア侯の屋敷だったのです。

 グロキシニア侯が好色家であることは存じ上げていましたから……何が行われようとしているかはすぐにわかりました。私一人の手には負えないと考え、金騎士団の皆様のお力を借りることにしたのです」


 なんと、それでは金騎士団への通報者というのはイベリスのことだったのだ。彼が折よくこの国に居合わせ、自分達が誘拐される場面を目撃していたなんて、そんな偶然の連鎖が起こったことがオリヴィエは信じられなかった。

 だが、現実に彼はここにいて、金騎士団と共に自分を救ってくれた。幸運だったというほかないだろう。


「そう……だったのか……。すまない、迷惑をかけてしまって……」


「迷惑などではありません。それで、お怪我は……?」


「間一髪ではあったが、大事には至らなかった。あなたの通報が早かったおかげだろう」


「そうですか……。それを聞いて安心しました。あなたがグロキシニア侯に穢されたのではないかと思うと……私は気が気ではなかったのです。だから金騎士団の皆様に無理を申し、共に駆けつけずにはいられなかった。あなたのお姿を拝見するまでは深憂が拭えませんでしたが……、本当に……あなたの純血は、守られているのですね……?」


「……ああ、私は奴に穢されてなどいない」


「そうですか……。あなたに傷がつけられなくて、本当によかった……」


 心から安堵したようにイベリスが吐息を漏らし、そっとオリヴィエの手を握ってくる。手の甲を滑る指先の感触は、同じ触れるにしてもギルベルトとは比べ物にならないほど、優しかった。

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