紡がれし想い
――オリヴィエ?
オリヴィエの
だが、声は小さくてほとんど聞き取れない。耳を澄ませても続く声は聞こえなかったので、最初は空耳だったのだろうと思った。だから彼女はすぐに意識を遮断し、再び欲望の渦に我が身を沈めようとした。
――オリヴィエ!
先ほどよりも明瞭に聞こえたその声を聞いた瞬間、オリヴィエの脳を覆っていた霞が一瞬にして吹き払われた。急いでギルベルトから身を引き、彼の唇が空を掠める。
当惑するギルベルトをよそにオリヴィエは精神を集中し、再び声を聞き取ろうとする。瞑目した視界に広がる闇。そこに小さく例の声が響き、声の主の姿も浮かび上がる。瑠璃色の長い髪、桔梗色のドレス。自分が長年にわたって仕えた、花のごとき愛らしき人。
――オリヴィエ! どこに行ったの? 私の傍を離れないでって約束したでしょう?
暗闇の中で、アイリスが辺りを見回しながら呼びかける。その手に握られた白い大輪の花には見覚えがある。月下美人だ。数ヶ月前、自分はアイリスと共にトリトマの森に行き、彼女からこの花を贈られた。その時に約束したのだ。いつまでも騎士として、彼女の傍を離れないと。
いや、違う。自分達の約束はもっと前に交わされていた。もう何年も前、彼女と出会い、彼女が自分の髪を結ったあの日から、アイリスと自分の関係は一度も断たれはしなかった。
それは今も同じだ。たとえ遠く離れた場所にいたとしても、自分のアイリスへの忠誠心に微塵も揺らぎはない。私は今も彼女の騎士であり、彼女は今も私の主人だ。その関係は、策士の
オリヴィエは小さく息をつくと、呆気に取られているギルベルトに向き直った。玩弄の対象を失った彼の両手は空中で不格好に静止している。その手が自分に伸びるよりも早くオリヴィエは立ち上がり、彼を見下ろして言った。
「……貴様は大した男だな、侯爵。たとえ一時でも私を
だが、貴様が使った術は所詮まやかし。私を永久に服従させることなどできはしない」
「へえ……そうかい? さっきまでの様子じゃあ、お前は俺に骨抜きにされちまったみたいに見えたがな」ギルベルトが怪しく笑みを浮かべる。
「それは貴様の妄念に過ぎん。私を掌握できる間は一人しかおらず、それは貴様ではあり得ない」
「へえ、じゃあ誰だってんだ? 例のお前の主人か?」
「その通り。私の心は常にあの方と共にある。貴様ごときで奪えはしない」
「ふうん。そうかい。でもさっきも言ったように、お前とそいつはもう何ヶ月も離れてんだろ? とっくに忘れられてもおかしくねぇと思うがな」
「いや、あの方は今も私のことを覚えていてくださる」
「何でそう言い切れる?」
「あの方の声が聞こえたからだ。私を呼ぶ、あの声……。確かにこの耳で聞いた」
「声だぁ? はっ。んなもんただの幻覚だろ?」
「幻覚などではない。お前のような卑しい男には理解が及ばぬだろうがな」
「ほう……。じゃあ何か? お前が鼻っぱしの強い女に戻っちまったのも、俺よりその主人を選んだからだってのか?」
「その通り。お前が私にかけたまやかしの術を、あの方が解いてくださったのだ。あの方は、お前など足元にも及ばぬほど優しく、気高いお方……。その声を前にしては、お前の甘言など雑音ほどの価値もない」
「何だと?」
さすがに
「……ここではっきり言っておく。私はお前に何も差し出すつもりはない。私の身体も、心もな。私の身体は私のものであり、私の心は……永遠にあの方のものなのだからな」
瞼の裏に映るアイリスの残像。それがゆっくりと消え、代わりに薄紫色の小さな花が現れる。アイリスの花? いや違う。アイリスの花よりももっと小さく、色素の薄いあれはシオンの花だ。
シオン。その名を聞いて、オリヴィエは牧場の近くにあるあの森のことを思い出した。空間転移をした自分が飛ばされ、辿り着いた場所。
夜。牧場からあの森を眺めながら、自分は故郷に、そして主人に思いを馳せた。シオンの花言葉――『遠く離れたあなたを想う』、その言葉を体現するかのように。
そこで不意に風が吹きつけ、闇の中に咲くシオンの花が吹き払われた。薄紫色の花弁が空を舞う中、次第に闇が払われて視界が明るくなっていく。
目の前に出現したのは、新緑と
そう、アイリスもきっと同じ心境だったのだ。自分と同じように森を見つめ、失われた騎士の存在に思いを馳せていた。花を愛するかの人の想いは、いつしかトリトマの森に咲くシオンの花に宿ったのだろう。
そして風が花をさらった時、花弁に溶けた想いもまた風に乗り、国境を越えてオリヴィエの元へと運ばれた。それが囚われていたオリヴィエの精神を解放し、彼女に騎士の魂を取り戻させた。
二人の絆は、今も断ち切られてはいなかった。花と風が紡いだ想いが、遠く離れた二人を結びつけてくれたのだ。
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