揺れる騎士道

 ギルベルトは煙草を吹かしながらオリヴィエの様子を見つめていたが、やがておもむろに煙草を灰皿に押しつけると、勢いよくソファーから立ち上がった。大股でベッドの方まで近づいてきて、オリヴィエの正面に立って見下ろす。彼がとうとう欲情を発散させるのではないかとオリヴィエは身構えたが、やはり彼は襲ってこようとはしなかった。無言でオリヴィエの隣に腰かけ、彼女を覗き込むようにして尋ねる。


「なぁ……オリヴィエ、お前は本当に騎士を続けたいと思ってるのか?」


 オリヴィエが目を細めてギルベルトを見返す。彼の顔に絶えず浮かんでいた酷薄そうな笑みは消え、代わりに彼女の身を案じるような色があった。


「お前は自分が騎士であることにこだわってるようだが、それがお前を幸せにするとは俺にはどうしても思えねぇんだよ。どうせ花騎士団に戻ったところで、自分より弱い男連中にこけにされるだけだ。そんな目に遭うくらいなら、ここで俺と暮らした方がよっぽど幸せになれるんじゃないかねぇ?」


「……私の幸福を貴様に論じられる筋合いはない。それに騎士の座を降りようとも思わん。私は生まれながらにして騎士であることを義務づけられていた。騎士を続けることは、私にとって言わば宿命なのだ」


「宿命、ねぇ。そんな大層なもんかねぇ? 俺に言わせりゃ、お前は大袈裟な言葉で自分を納得させて、古い生き方にしがみついてるようにしか思えねぇがな」


「貴様がどう解釈しようと知ったことではない。いずれにしても、騎士であることは私が自分で選んだ道。そこから外れた生き方をしようとは思わん」


「自分で選んだ……か。本当にそうかな?」


「何?」


 オリヴィエが眉を上げてギルベルトを見る。ギルベルトは口の端を持ち上げて薄く笑みを浮かべて見せた。


「お前のことは調べがついてるって言っただろ? お前の親父は大層立派な騎士だったそうじゃないか。お前を騎士にしたのもその父親の意向なんだろ? それじゃ自分で選んだとは言えねぇな」


「確かに私を騎士にするよう仕向けたのは父だ。だが、それは私自身の意志でもある。親に膳立てされた道を歩んできたわけではない」


「そうかな? お前はただ親の考えを刷り込まれてるだけじゃねぇの? 自分は騎士になるために生まれてきたんだってな。ガキの頃からそう言い聞かせられて、それを自分の考えだって錯覚してるだけなんだよ」


「そんなことは……」


「ないって言い切れるか? お前が自分の気持ちを偽ってるって?」


 オリヴィエは黙り込んだ。どうなのだろう。騎士を志した気持ちに欺瞞ぎまんがあったなど、今まで考えたこともなかった。オリヴィエが騎士になることは、彼女が勇壮なる騎士、アルストロの娘として生まれた時から決定されていたことだった。自分の子を騎士にすることは父の本懐であり、生まれた子が女であろうとその決定が覆されることはなかった。

 だからオリヴィエが物心ついた時には、彼女はすでに騎士として剣術と教育を叩き込まれており、騎士こそが自分の歩むべき道なのだと信じるようになっていた。身体が発育し、自分が女であることを意識するようになってもその気持ちは変わらなかった。自分は女である以前に騎士であり、騎士の道を全うするためなら女であることを捨てても構わない。ずっと、そう思っていた。


 だけど――それは果たして本心だったのだろうか。男達の嘲笑に絶えながらひたすら剣を振るう生活を続けていたが、それは本当に自分の望んだ道だったのだろうか。

 幼い頃、フリルやリボンの付いた可愛らしい服を着て、人形遊びをする同世代の少女を見るたび、母のメリアは彼女達を羨望の眼差しで見つめていた。それと同じ気持ちが、自分の中にも芽生えなかったと言えるだろうか。騎士ではなく、女として生きたいと願う気持ちが――。


 会話の途切れた寝室に沈黙が落ちる。外の闇は次第に濃厚さを増して室内にまで忍び寄ってくる。それはオリヴィエの身体を貫通して、高潔だった彼女の心をまでもを黒く染め上げていくように思えた。


「オリヴィエ……俺は、女としてお前を幸せにしてやれる力を持ってる」


 ギルベルトが不意に囁き、右手を彼女の肩に回して引き寄せてくる。オリヴィエは身体を強張らせたが、なぜか振り払うことはできなかった。彼の吐息が首筋にかかり、抑えた欲望が皮膚から内部に侵入してくる。


「お前は幸せにしてやる価値のある女だ……。強く、気丈で、信念を曲げない……。そんなお前だから……俺はお前が欲しいと思ったんだ。ただの娼婦じゃない……俺だけの女としてな」


 肩に回されたギルベルトの右手がゆっくりと開き、首筋から鎖骨の辺りを指で撫でられる。つい先ほどまでならば、そうした仕草は想像するだけで吐き気を催させただろうが、今はそれよりも先に痺れるような感覚が全身を貫いた。彼の指先が肌を這い回るたびに視界が朦朧もうろうとしてきて、抵抗する気力が次第に奪われていく。


「お前だって女なんだ……。本当はこんな風に……男に愛されたいって思ってたんじゃないのか……? 自分の欲望のままに……男に、抱かれてみたいってさ……」


 耳朶じだに息を吹きかけながら、ギルベルトが空いた左手を背中から鳩尾みぞおちに回してくる。そのまま胸を揉みしだかれると思いきや、彼は乳房に触れてこようとはしなかった。ただ、突起の下辺りに手を沿わせ、肋骨をなぞるように左右にゆっくりと滑らせていくだけだ。そうすることで、外側からじわじわとオリヴィエを侵食するかのように。


 彼の指先を感じているうちに、オリヴィエは頭に霞がかかったようになっていくのを感じていた。全身から力が抜け、ぐったりと彼の腕にもたれかかりながら、ただ彼に愛撫されるままになっている。時折漏れ出す嬌声は自分のものとは思えず、オリヴィエは自分が誰か知らない他の女になってしまったような気がしたが、そのたびに理性をかき集め、何とか本来の自分を取り戻そうとした。自分を見失ってはいけない。騎士として、今すぐこの手を払い除けなければならない――。

 だが、頭でどれだけ命じても身体はまるで言うことを聞かず、倦怠感が全身を襲い、催眠術にかけられたように瞼が重くなっていく。


 どうして自分がこれほど無力になってしまったのか、オリヴィエは自分でもわからなかった。彼が自分を押し倒しでもしてくれば力の限り抵抗するつもりだったが、こんな風に甘い囁きと共に愛撫を続けられると、なぜか恍惚とした感覚が込み上げてきて、もっとその指先を感じていたいと、そんな衝動に呑まれそうになっていた。

 自分を愛撫しているのが唾棄だきすべき悪漢であり、彼との関係は対等な男女のそれではなく、むしろ奴隷か囚人のように扱われていることも、今のオリヴィエの頭からは抜け落ちていた。そうした一切の事実を忘れて、ただ全身を包む気だるい感覚のまま、彼に身を任せてしまいたくなった。


 その時のオリヴィエは気づいていなかったが、それは女としての彼女の本能が目覚めた瞬間でもあった。

 男に愛され、求められたいという本能。その本能は彼女の中にずっと存在していたが、それが理性を凌駕することはなかった。彼女には騎士という揺るぎない基盤があり、それは強靱きょうじんな意志となって常に彼女を律していた。だからこそ彼女はこの二十三年間、一度も情欲に溺れることなく、純血を保つことができていた。


 だが、ギルベルトは知っていた。研ぎ澄まされた理性は諸刃の剣であり、わずかな綻びがあれば呆気なく瓦解することを。だからこそ彼は、オリヴィエの身体よりも先に心を支配することを選んだ。そのために騎士という彼女の基盤にくさびを打ち込み、そこで生じた綻びから彼女の内側に侵入しようとした。

 その試みは功を奏し、今やオリヴィエは彼にされるがままになる無力な女に成り下がっていた。たとえ両手を拘束する鎖がなかったとしても、オリヴィエはもはや彼から逃れようとは思わなかっただろう。


 ギルベルトは言葉と触覚を駆使して彼女の本能を目覚めさせた。そしてその本能は、彼に抱かれることを欲していた。彼はここでもやはり策士であり、どれだけ鍛え抜かれた理性であっても、激烈な衝動を前にしては、風に吹かれる灰燼かいじんのように、呆気なく霧散することを知っていたのだ。


 そうしてどれくらい愛撫が続いただろう。すっかり大人しくなったオリヴィエを見て、ギルベルトは自分がついに彼女を征服したことを知った。肌を撫で回す手を止め、オリヴィエを正面に向き直らせる。オリヴィエは少しも抵抗せず、彼に求められるまま従順に動いた。彼の視線が胸部に注がれるのがわかったが、もはや恥辱や怒りを覚えることもなかった。


 少し逡巡を見せた後、ギルベルトが彼女の顎に右手をかけて持ち上げる。彼の欲望もまた抑えがたいほどに湧き上がっていたが、まずは口唇こうしんから攻め入ることに決めたらしい。左手を彼女の腰に這わせ、荒い吐息を吹きかけながら顔を近づけてくる。

 三白眼の瞳が彼女の姿を宿す。獲物を捕らえたその瞳は、ひどく危険で――魅力的に見えた。


「……お前は俺のもんだ。オリヴィエ。お前の身体も、心もな」


 宣戦布告するような声音は、それさえも媚薬のようにオリヴィエの耳朶に甘く響いた。人形と化した彼女はもはや抗う術を持たず、求愛を受けた世の多くの女性がするのと同じ行動を取った。とろけるように目を細め、彼に求められるままに唇を開こうとする。

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