悪の権化

 オリヴィエはしばし考えを巡らせていたが、ふと身体に寒気を感じた。普段、鎧を着ている時には暑さを感じることはあっても逆はない。

 違和感を覚えながら視線を落とし、そこで目に入った自分の姿を見てオリヴィエは息を呑んだ。いつも身体を覆っている白い鎧がなく、代わりに見たことのないドレスを着せられていたのだ。濃い紫色で、レースやらフリルやらでごてごてと飾り付けられている。身体にフィットしたデザインで、尻の丸みや腰のくびれがはっきりとわかり、おまけに胸元がローカットになっていて胸部が半分ほど見えてしまっている。

 女を強調するようなそのデザインにオリヴィエは吐き気がしそうになった。どこの誰が自分にこんな趣味の悪いドレスを着せたのだろう。


 オリヴィエは苦々しい思いでドレスを見下ろしていたが、そこで前方から足音がした。視線を上げると、鉄格子の向こうで二人の人物が小声で何やら話し合っている。一分ほど会話をした後で一人が引き上げ、もう一人が鉄格子の前に立った。槍を持っていることからして見張りの兵士だろう。交代のために申し送りをしていたようだ。


「おいお前、私をどうするつもりだ!?」


 語気荒く兵士に問いかける。兵士はオリヴィエの方をちらりと見たが、すぐに前方に視線を戻してしまった。

 オリヴィエは苛立って兵士に摑みかかろうとしたが、腰を浮かせたところでたちまち後方に引き戻されてしまった。後ろ手にされた手首から伝わる固い感触。どうやら両手を鎖か何かで拘束されているようだ。悪夢をなぞっているかのような状況に次第に不安が込み上げてきたが、それを断ち切るようにオリヴィエは叫んだ。


「今すぐ私をここから出せ! さもなくば容赦はしない!」


 先ほどよりも強い口調で呼びかけるもやはり兵士は無反応だった。何とか拘束を解こうと身を捩るも鎖はかちゃかちゃと音を立てるばかり。自分の抵抗を嘲笑うかのようなその音はオリヴィエの苛立ちを増幅させた。


「貴様……このような真似をして無事で済むと思っているのか!? 私をただの小娘と勘違いしているのではないだろうな!?」

「勘違いなんかしてねぇさ。俺はお前が誰かちゃんとわかってるぜ、女騎士さんよ」


 不意に別の声がしてオリヴィエは動きを止めた。鉄格子の向こうに視線をやると、石造りの階段を一人の人物がゆっくりと下りてくるのが見えた。階段を下りきったところでその人物は足を止め、じっとオリヴィエの方を見つめてくる。薄闇に包まれてその姿は見えない。


 オリヴィエが訝っていると兵士が静かに一礼し、鉄格子の前から身を引いた。兵士が開けた場所にその人物はゆっくりと歩いてくる。

 真正面から相対するような格好になったところで燭台が廊下を照らし、オリヴィエはようやくその人物の姿を目にすることができた。


 そこにいたのは若い男だった。年齢は二十歳前後くらいだろうか。痩身の上に黒いフロックコートを着て、その下に赤いシャツを着込み、襟元にビジューの付いた白いネクタイを合わせている。コートの袖や裾には金色の縁が入っており、高級な仕立てであることが窺える。髪は短い金髪で、地毛なのかスタイルなのかわからないが毛先が軽くカールしていた。

 だが、衣装や髪の色以上に目を惹いたのは彼の顔つきだった。三白眼の目はただでさえも攻撃的な印象を与えていたが、今は細められているせいで余計に獰猛さが強まって見える。さらに口元には人を食ったような歪んだ笑みを浮かべ、いっそう狡猾で危険な雰囲気を漂わせていた。まるでそう、人の血肉を食らうことで喜悦を感じる猟犬のような。


「お前は……?」


 オリヴィエは目を細めて男を見つめた。彼の正体に察しはついていたが、それでも確かめる必要があった。


「俺はギルベルト・ヘル・グロキシニア。グロキシニア侯爵家の後胤こういんにして当主さ」ギルベルトと名乗った青年が前髪をかき上げながら言った。

「お前もこの地方に逗留とうりゅうしてたんなら俺のことは知ってんだろう? そう、俺がこの一帯を治める領主様ってわけさ」


 やはり――。オリヴィエは目を細めて領主――ギルベルトを見つめた。地下牢に投獄されていることを知った時点から予想はついていた。自分を執拗に狙い、捕らえようとする人間は一人しかいない。


「貴様が噂の領主か……。領主の座を利用して貧民を虐げ、女を落花狼藉らっかろうぜきする放蕩息子……。その暴虐ぶりは悪漢という言葉でも手緩く、鬼畜と称するに相応しい……」


「おいおいそりゃ言い過ぎだろ。ちったぁいい話も聞いてないのか?」ギルベルトが眉を上げる。


「ないな。先代の領主、つまり貴様の父親については寛仁かんじんだという評判もあったが、貴様にその血は一滴たりとも受け継がれていないようだ」


「はっ、こりゃ手厳しいこって……。まぁいいや。俺は自分の生き方を恥じちゃいねぇ。領主としてやるべき仕事をしてるだけさ」


「貴様の行動はただの横暴だ。領主は絶対君主ではなく、領民を虐げる道理はない」


「虐げてるんじゃなくて、対価を払えって言ってるだけさ。俺に言わせりゃ親父はぬるいんだよ。ただみたいな地代で貧乏人を住ませてやって、挙げ句売り上げが足りねぇって泣きつかれたらすぐに地代を免除してやってた。そんなことばっかしてるから領民に付け上がられるんだよ」


「領主は領民の生活にも責務を負うもの。苦境にある領民に情けをかけるのは当然の配慮だと思うが」


「それが甘ぇって言ってんだよ。こっちが土地を貸してやってんだから向こうが地代を払うのは当たり前だ。金がないならどうにかして工面するのが筋ってもんだろ?」


「そのために女に身売りをさせたとしてもか?」


「さぁねぇ。俺は払うもんさえきっちり払ってもらえばいいんだ。その金をどうやって調達しようが知ったこっちゃねぇよ」


 ギルベルトの口調は飄々としていて全く悪びれた様子がない。これ以上無益な口論を続ける気にもなれず、オリヴィエは話題を変えることにした。


「……まぁいい。それよりも貴様、私を投獄してどうするつもりだ?」


「へぇ? それを俺の口から言わせようってのかい?」ギルベルトが口の端を吊り上げる。


「……いや、特段聞きたいとは思わない。貴様のもう一つの悪評を聞いていれば、貴様が何の目的で私を捕らえたかは想像がつく」


「そりゃ理解が早くていいこった。にしてもそのドレスはなかなかいけるな」ギルベルトが無遠慮な視線を向けてくる。

「あんな面白くもねぇ鎧よりよっぽどそそるぜ。あっちの娘もそれなりに化けたが、あいつはまだガキだ。俺の趣味じゃねぇな」


 その言葉を聞いた途端、辛うじて冷静さを保っていたオリヴィエの心は大きく揺さぶられた。両手を拘束されていることも忘れてギルベルトに詰め寄る。


「貴様、リアをどうした⁉」


「そう怒るなよ。ちょっと着替えさせてやっただけだ。ああ、心配しなくても着替えはメイドにやらせたよ。あいつのもお前のも俺は見ちゃいねぇ」


「そんなことはどうでもいい。リアはどこにいる⁉」


「だからそうカリカリすんなって……。せっかくのいい女が台無しだ」


 ギルベルトが肩を竦めて言い、ズボンのポケットから金色のシガレットケースを取り出して煙草に火をつけた。煙草を口に含んで白煙を吐き出し、口の端にくわえてから両手をズボンのポケットに突っ込む。そうした仕草の一つ一つに嫌になるほど時間をかけ、オリヴィエは苛立ちのあまりこの男を殴りつけてやりたくなった。


「あの小娘なら無事だよ」ギルベルトが煙草を口から出して言った。

「今は別の牢屋に閉じ込めてある。俺の計画じゃ、お前一人捕まえられりゃそれで十分だったんだが、部下の奴があっちの小娘も一緒に連れてきちまったんだ。帰しても面倒になりそうだったし、しょうがねぇから閉じ込めておいたってわけさ」


 オリヴィエは腸が煮えくり返りそうになりながらギルベルトを睨みつけた。この卑劣な男が自分を捕らえた事実よりも、リアを巻き込んでしまった己の未熟さが許せなかった。


「今すぐリアを解放しろ! あの子は何の関係もない!」


「俺もそうしてやりてぇけど、部下の中には飢えてる奴もいてなぁ……。俺の目が届かなくなったら小娘を襲っちまうかもしれねぇ。だからここにいた方がかえって安全なんじゃねぇかな」


「そんな弁解を私が許すとでも思うのか? そこにいる兵士に護衛をさせ、あの子を無事に家に送り届けると約束しろ!」


「約束、ねぇ……。じゃ、代わりにお前は俺に何を払う?」


「何?」


「人に物を頼むときは対価を示すもんだ。この世は等価交換だからな」


 等価交換。レオポルトも口にしていた言葉だ。確かに世の理には違いないが、卑劣な貴族がこぞって口にするとその言葉すら卑しいもののように聞こえてくる。


「……貴様の狙いは端から私にあるはず。それで十分対価になり得ると思うが」


「まぁな。でもお前はそれでいいのか? あの小娘を代わりに差し出して自分だけ逃げるって手もあるんだぜ?」


「貴様のような粘着質な男が私を逃すとは思えない。それに、私は旅先で何があろうとリアを守ると決めたのだ。その誓いを破るわけにはいかない」


「ふうん。ご立派なこった。だが俺としちゃあ、あんまり淡々と受け入れられても面白くないんだがね。嫌がってる女を征服する方が楽しみも増すってもんだ」


「貴様の下卑た嗜好しこうに付き合うつもりはない。それよりもいつまで無駄話を続けるつもりだ? 私に用があるならさっさと事を済ませるがいい」


「まぁそう慌てるなよ。今はちょっと挨拶に来ただけだ。こう見えて俺は忙しいんでね。お前の相手は、仕事が終わった後でゆっくりしてやるよ」


 ギルベルトはそう言って煙草を口に咥え直すと、オリヴィエの身体を上から下まで眺め回し、最後にたっぷり時間をかけて胸部を見つめた後、満足そうに口元を歪めて階段を上っていった。黙って控えていた衛兵が鉄格子の前に戻り、辺りは元の沈黙に包まれる。


 一人になったオリヴィエは、これ以上ないほどの屈辱を味わっていた。

 グロキシニア。人を食い物にして喜悦を味わう性悪な男。自身の悪行を悔いようともせず、むしろ自慢げに語る厚顔な男。あれほど反吐が出る男を前にしておきながら、自分はその口を封じるどころか、むしろ身体を晒して淫靡いんびな視線を向けられている。なんて無様なのだろう。自分があんな卑劣な男の玩具に成り果てようとしていることを思うと、オリヴィエは今すぐ舌を噛み切って自決したくなった。


 とはいえ、あんな男のために無益の死を遂げるわけにはいかない。私にはエーデルワイス王国に帰るという使命がある。こんなところで身罷っては、何のために数ヶ月にもわたって敵地での日々を過ごしてきたのかわからない。

 あの悪夢が正夢となる前に、私は必ずこの窮地を脱出する。たとえ悪趣味なドレスを着せられていたとしても私の魂は今も騎士。騎士は決して敵の前に膝を折ることなどしないのだ。


 オリヴィエはそう決意して瞑目した。品のないドレスも、忌々しい鉄格子も鎖も、無関心を装う衛兵も、一切を視界から廃して精神を集中しようとする。


 だが、どれだけ雑念を払おうとしても、ギルベルトの視線が今も身体にまとわりついているような気がして、どうにも思考に集中することができないのだった。

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