第十章 幻夜に散りゆく愛の花

囚われの騎士

 オリヴィエは暗闇の中にいた。ここはどこだろう。その場で視線を動かすも視界に広がるのは暗闇ばかり。

 洞窟にでもいるのだろうか? 立ち上がって場所を確かめようとするも、腰を浮かせたところで引き戻される。どうやら後ろ手に縛られているようで、壁から背中を離すことができない。オリヴィエは困惑して眉根を寄せた。これは何だ? 私の身に何が起きた?


 その時、暗闇の中で何かがぽつりと浮かび上がり、オリヴィエはその方に視線をやった。それは植物の芽のようで、闇の底から顔を出したと思いきやゆっくりと茎を伸ばして葉を付け、間もなく小さな白い花を咲かせた。柔らかなハーブの香りが鼻孔をくすぐる。いつか食した料理でも嗅いだことがある。アニスの香りだ。


 アニスの花は次第に大きくなって人らしい姿を形成していく。やがてオリヴィエの前に白いワンピースを着たアニスが現れた。オリヴィエの視線から逃れるように顔をうつむけ、消え入るような声で呟く。


『領主様はあなたを所望しておられる……。私はこうするより他に方法がなかったのです』


 不意に風が吹き、アニスの姿が白い花弁となって吹き払われる。代わりに別の人間がオリヴィエの前に現れた。屈強な肉体を持つ三人の男。いつか酒場で戦った領主の使いだ。


『あの方は絶対にお前を逃がしゃしねぇ。欲しいものはどんな手を使ったって手に入れるんだからな』

『お前がどれだけ逃げたって無駄だ。早いとこ捕まっといた方が身のためだと思うぜ』


 それだけ言い残すと男達は液体となって落ちた。足元に広がる赤い染み。血? いや違う。この芳醇な香りはワインのものだ。

 いつかの酒宴の記憶が蘇る。あの酒宴で男達は、今と同じ忠告をしてきたのだった。あの言葉に対して私は何と答えたのだったか。あぁそうだ。私は決して捕らえられはしないと言ったのだ。領主が何人刺客を送り込んでこようと、剣のさびにするのみだと言って。

 あの言葉に偽りはなく、降りかかる火の粉を私は全て打ち払ってきた。酒場の暴漢も、茨の三銃士も。


 だが、敵は思わぬところから新手を打ってきた。その記憶を喚起するかのように背後にかすかな気配を察知する。振り返ると、棍棒を手にしたブルーノと、その背後で項垂れているベロニカの姿が見えた。


『あたくしはロンギフォリア家の末裔……。伯爵家の屋敷を守るためには、あの方の手にすがるしかないのです』


 ベロニカがオリヴィエの方を見ないまま呟く。彼女はそのままオリヴィエに背を向けて歩き出し、誰か別の人物と会話を始めた。オリヴィエはその人物の姿を見ようとしたが、闇に紛れた黒い衣服を着ているせいで判別がつかなかった。


 しばし小声で会話を続けた後、ベロニカが黒い服の人物から何かを受け取る。どうやら袋に入った金貨のようだ。彼女はその人物に何度も頭を下げると、ブルーノに促されながら暗闇の中に姿を消そうとした。


「待て! ベロニカ夫人!」


 オリヴィエは叫んで引き留めたが、そこで再び風が吹き、ベロニカの姿は紫色の花弁となって霧散した。風が止んだ時にはブルーノの姿も消え、痛いほどの沈黙と闇が辺りを支配している。


 そこで急に背後から影が差した。オリヴィエが振り返ると、先ほどの黒い服の人物がオリヴィエの目の前に立っていた。口に煙草をくわえているが、表情は闇に紛れて見えない。


『やっと会えたな……。女騎士さんよ』


 黒い服の人物が口元を歪めて笑う。次の瞬間、彼は巨大な影となってオリヴィエに襲いかかってきた。オリヴィエは咄嗟に逃げようとするも拘束のせいで身動きが取れない。

 影はあっという間にオリヴィエに迫り、邪悪な触手を彼女の身体に絡みつかせようとした。




 そこでオリヴィエははっとして目を開けた。硬直したまま目を瞬き、荒い呼吸を繰り返す。背中にはじっとりと汗を搔いている。どうやらまた夢を見ていたようだ。いつか、シオンの森で目覚めたあの日のような悪夢。

 だが、今回見た悪夢はあの時よりもずっと鮮明だった。まるであの邪悪な影が、今も自分にまとわりついて離れないかのように。


 何度か息を吐き出して呼吸を整えた後、オリヴィエは改めて状況を確認しようと周囲に視線を巡らせた。視界に広がる暗闇。あの悪夢とよく似た光景だが、目を凝らしてみると、そこが現実に存在する場所であることがわかった。


 まず目に入ったのは鉄格子。太く頑丈そうな造りで、人間の身体はおろか、腕さえも通りそうにない。さらに視線を横に移せば灰色の石壁が目に入った。欠けた部分やくぼみなどは一切見られず、隙間なく石が積み上げられている。床も同じ石作りで、ひんやりとした硬質な感触が足元から伝わってくる。床の端にはわらが積み上げられている。寝床代わりだろうか。


 どうやらここは牢獄のようだ。窓がないところを見ると地下牢だろう。狭く陰湿な空間は罪人を投獄するに相応しい。だが、自分がなぜこんなところに閉じ込められているのか、オリヴィエには皆目見当がつかなかった。


 意識を失う前の記憶を辿る。カズーラの街を出発した自分はリアと共にエーデルワイス王国に向かっていたが、途中で伯爵夫人と出会った。彼女から依頼を受けて荷運びの任を負い、帰路の途中で盗賊に遭遇した。盗賊は難なく倒したものの、伯爵家の屋敷に戻ってから彼女の従者に不意打ちを食らわされた。そこまでの記憶はある。問題は、その後で自分の身に何があったかだ。

 いや、自分だけではない。屋敷にはリアも一緒にいて、自分よりも先に気絶させられていた。リアはどうなったのだろう。

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