未亡人の依頼

「ではそろそろ出発するか。上手くいけば夜になる前に境界を越えられる」

「ええ、そうですね。ブレットも元気になりましたし、この辺りで……」


 そこでブレットが急にいななきを上げたのでリアは口を噤んだ。ブレットはその場で頻りに足を踏み鳴らしたかと思うと、手綱を摑む間もなく道に向かって駆け出してしまった。道には一台の馬車が通りがかっており、ブレットがその前に飛び出したので御者が慌てて手綱を引いた。幸い、馬車はさほどスピードが出ていなかったのですぐに止まり、ブレットと衝突せずに済んだ。


「まぁ……申し訳ございません! お怪我はありませんでしたか!?」


 リアが慌てて馬車に駆け寄って御者に尋ねる。御者は背中の曲がった老齢の男で、薄汚れたシャツにズボンという百姓のような格好をしていた。黒塗りの豪華な馬車とは不釣り合いな装いだ。

 リアが近づいてくるのを見ると、御者は口に含んでいた噛み煙草を吐き出して露骨に顔をしかめた。


「まったく……どういう馬の扱いをしてるんだ? 後少し気づくのが遅れたら大事故になるとこだったじゃねぇか」


「申し訳ございません……。あんな風にいきなり走り出すことは滅多にないもので……」


「馬を使うんならきちんと調教しときな。下手な人間に乗り回されて怪我でもさせられたらたまったもんじゃねぇ」


「はい……気をつけます」


 返す言葉もないというようにリアが項垂れる。御者はふんと鼻を鳴らすと、ズボンのポケットから新しい噛み煙草を出して噛み始めた。

 

 傍から様子を見ていたオリヴィエはその態度に気色ばんだ。確かにこちらに否があるとはいえ、そこまで不愛想な態度を取られるいわわれはない。抗議すべきかと考えていると、馬車の後方から別の声が聞こえた。


「ちょっと、今の揺れは何なの? もう少しで卒倒するところだったじゃないの」


 オリヴィエが視線をやると、一人の女性が馬車の窓から顔を覗かせているのが見えた。大きなつばの付いたボンネットをかぶり、青紫色のリボンを顎の下で結わえている。衣服は同じ青紫色のドレスで、襟元や袖口にたっぷりとフリルやレースの付いた贅を凝らしたデザインをしている。顔には入念に化粧が施されており、白粉は元の肌の色がわからないほどたっぷりとはたかれ、唇に引かれた真っ赤なルージュは挑発的とも言えるほど派手だった。遠目からでは貴族の令嬢のようにも見える容貌だが、よく見ると目元や口元に染みや皺がある。実際の年齢は四十代くらいだろうか。


「奥様……申し訳ありません。いきなり別の馬が飛び出してきまして、急停止しようと手綱を引いたら揺れを起こしてしまいました。申し訳ありません」


 御者が女性の方を向いて軽く頭を下げる。煙草を咀嚼そしゃくするのは止めていたが、表情はしかめ面のままで、本心から詫びているわけではなさそうだった。


「まったく気をつけてちょうだい。あたくしは心臓が悪いのよ? 事故なんて起こされたら発作を起こしてしまうかもしれないわ」


「奥様の体調のことは承知しています。ですが、あっしは普通に馬を走らせていただけで、特に注意を怠っていたつもりはありませんが」


「言い訳は結構。大体あなたの運転はいつも荒っぽいのよ。か弱い女を乗せているんだから、もっと気を配っていただきたいわ」


「安全面には配慮していますよ。あっしがこれまで事故を起こしたことがありますか?」


「実際に起こしたことはないけれど、危ない場面は何度もあったわ。あなたの馬車に乗るたびにあたくしは心臓が止まりそうになるんだから」


「なら別の御者を雇えばいいでしょう。あっしはこの仕事に未練なんざありませんからね」


「まぁ……何てことを言うの? あなたがいないとあたくしが困ることは知っているでしょう?」


 夫人が非難するように眉を上げるも、御者は不機嫌そうに煙草を噛みながら顔を背けただけだった。この二人の関係は友好的とは言えないようだ。


「あ、あの、奥様、御者様を責めないでくださいまし。この方は普通に馬車を走らせていただけで、不注意だったのはこちらの方ですわ」


 リアが見かねた様子で口を挟む。今にも御者を怒鳴りつけそうだった夫人が表情を戻して彼女の方を見た。


「あら、ごめんあそばせ。見苦しいところをお見せしてしまって」


「いえ、構いませんわ。それよりも、このたびは私の馬が大変な失礼をいたしました。そこの川辺で水を飲ませていたら急に走り出してしまって、それで奥様の馬車と衝突しそうになったのです」


 リアがそこまで説明したところでちょうどブレットが彼女の傍に戻ってきた。口からニンジンの切れ端が見える。おそらく、これが道に落ちているのを見つけて飛び出したのだろう。主人が謝罪している隣で餌を咀嚼する姿は何とも呑気なものだ。


「そう……。随分と立派な馬をお持ちなのね。あなたがお乗りに?」


「いいえ。私はお世話をするだけで、乗りこなすことはできませんわ」


「あら、そう? では誰がここまで馬を走らせたの?」


「こちらにいらっしゃる騎士様ですわ」


 リアが身体をずらして後方にいたオリヴィエが夫人から見えるようにする。オリヴィエの姿を目にした途端に夫人は軽く息を飲んだ。


「まぁ……あなたは……」


 目を丸くして絶句する夫人の姿を見ながら、なぜそんなにも驚いているのだろうとオリヴィエは訝った。女の騎士が珍しいのはわかるが、それにしても反応が大袈裟だ。


「失礼、私が何か……?」


 オリヴィエが尋ねると夫人ははっと息を呑んだが、すぐに扇で口元を隠して取り繕うような笑みを浮かべた。


「あぁ……いえ、ごめんあそばせ。女性の騎士をお見かけするのは初めてでしたから、少し驚いてしまいましたの」


「そうですか。それよりも、此度こたびは馬が失礼をいたしました。私の監督不行き届きでご迷惑をおかけしてしまったようで」


「構いませんわ。些細なことですもの。それよりもあなた、お名前は?」


「オリヴィエ……と申しますが」


「あぁやっぱり! そうじゃないかと思ったわ!」


 夫人が表情を綻ばせて扇を揺らす。急に上機嫌になった夫人をオリヴィエは訝しげに見つめた。


「私をご存知なのですか?」


「ええ。カズーラの街に逗留とうりゅうしていた騎士様というのはあなたのことでしょう? あなたの評判を聞いて一度お会いしたいと思っていたのよ。あぁ、あたくしはベロニカ・アルムート・ロンギフォリア。夫は伯爵の爵位をいただいておりますわ」


 ベロニカと名乗った夫人が扇を揺らしながら優雅に微笑む。だが、伯爵という言葉を聞いてかえってオリヴィエの警戒心は強まった。

 レオポルトと言い、グロキシニアと言い、この地方の貴族にいい思い出はない。このベロニカという夫人が彼らと同類とは限らないが、極力貴族と関わりを持ちたくはなかった。なるべく早く話を切り上げた方がいいだろう。


「あなたが私にまみえたいと考えてくださったことは光栄です。ですが今の私は先を急ぐ身。お喋りをなさりたいのであれば別の相手を探してはくださいませんか?」


「あら、お喋りをしたいわけじゃありませんわ。あたくしはあなたに依頼をしたいのです」


「依頼?」


「そう。数日前にもカズーラの街に使いを出したのだけれど、あなたがすでにいないと言われて困っていたのよ。でもここでお会いできてよかったわ」


 ベロニカが安心した様子で微笑む。彼女がオリヴィエの姿を見て驚いたのも、自分の名を知って喜んでいたのも、彼女が自分を探していたからなのだろう。

 オリヴィエはようやく納得したが、彼女に期待を持たせるつもりはなかった。


「申し訳ありませんが、私はもう依頼を受けるつもりはありません。依頼を受けていたのは路銀を稼ぐためで、すでに目的は達しましたから」


「あら、本当? 困ったわね……。あなた以外にこの仕事を頼める人がいるとも思えないのだけれど」


「それほど難しい仕事なのですか?」


「仕事自体は荷運びだから簡単よ。でも危険な目に遭うかもしれないから、腕の立つ人でないと任せられないの」


「腕利きの者であれば私以外にもいると思いますよ。伯爵夫人直々の依頼とあれば、名乗りを上げる者は後を絶たないでしょう」


「ううん……。でも私はあなたにお願いしたいのよ。話だけでも聞いてくださらないかしら?」


「お断りします。今の私はしがない旅人に過ぎませんので」


 礼節を保ちつつも断固とした口調でオリヴィエは告げる。ベロニカに一礼し、ブレットの手綱を摑んで馬車から離れようとしたが、そこへ御者が馬車から降りてオリヴィエの前に立った。


「お前さん、ちょっと待ってくんな。とりあえず奥様の話だけでも聞いてくれねぇか?」


「悪いが私は先を急ぐんだ。あなた達とお喋りを楽しんでいる時間はない」


「そうつれないことを言うなよ。奥様はあんただけが頼りなんだよ」


「そんなことはないだろう。そもそも伯爵夫人であれば、第一に夫の手を借りれば……」


「その旦那様がいなさらねぇんだよ。何年も前にお亡くなりになったんだ」


 突然の訃報ふほうにオリヴィエは瞠目どうもくする。ベロニカが眉を上げて御者を睨みつけた。


「これ、ブルーノ! 家庭の事情を人様に明かすものではありません!」


「事実なんだから隠す必要もねぇでしょう。見栄ばっかり張ってても事態は解決しませんぜ」


「だけど……家の恥を晒すようなことをお話しするわけには……」


「報酬目当ての下衆げすい連中ならともかく、この方は例の話を聞いてもあなたをさげすみはなさらねぇでしょうよ。何たって高潔で名高い騎士様なんだからな」


 ブルーノと呼ばれた御者が悪びれもせずに言う。ベロニカは唇を噛んで黙り込んだ。これではどちらが主人でどちらが従者かわからない。

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