第九章 薔薇が織り成す剣の舞

出立

 酒場での騒動があった翌日、オリヴィエとリアは予定より早く街を発つことにした。


 あの後、オリヴィエはリアを宿に連れて帰り、彼女が目覚めたところで事の顛末を全て話した。領主の策謀も、アニスの裏切りも。

 リアは神妙な顔をして黙って話を聞いていた。話を終えてもアニスを責めるようなことは言わず、ただぽつりと零しただけだった。


『そう……。では、もうアニスさんのお食事をいただくこともできませんのね』


 本当は他にも言いたいことがあったのかもしれないが、彼女はそれを口に出さなかった。アニスの裏切りに心を痛めながらも、彼女が必死だったことが推察できるからこそ非難できない。そんな葛藤はオリヴィエにもよく理解できた。


『出発は二日後の予定だったが、予定を早めて明日には街を発とうと思う。これ以上この街に滞在する必要はないからな』


 オリヴィエが表情を変えずに言った。アニスに五万ベリルを渡したせいで所持金は減ってしまったが、損失を補填するために滞在期間を延ばす気にはなれなかった。


『そう、ですわね……。露天商の皆様へのご挨拶は済ませましたし、明日の出発でも問題はないと思います。あ、でも……』


『どうした?』


『いえ……。よく考えたら、タイム君は今日のことを知らないのですよね? 明日も稽古があると思って空き地で待っているんじゃありません?』


 タイムには出発日の前日まで稽古を付ける約束をしていた。言わば明日は最後の稽古日となるはずだったのだ。早起きして意気揚々と空き地に走って行くタイムの姿が容易に想像できる。


『かもしれんが、あの子に会うことはできない。稽古は明朝の予定だったが、あの子が起き出すよりも前に出発した方がいだろうな』


『そうですわね……。きちんとお別れが言えないのは残念ですけれど』


 リアが視線を落としてため息をつく。オリヴィエも同じ気持ちだった。手作りの木剣を手に、空き地で待ちぼうけを食らっているタイムの姿を想像すると胸が痛む。だけど、あの空き地や酒場に足を向けることは、どうしてもできそうになかった。




 翌日、オリヴィエとリアは予定通り早朝に起き出して宿を出発した。テミスの支配人に宿泊の礼を言い、宿に預けていたブレットの引き渡しを終えた後で街の入口へと向かう。早朝だからか街に人の姿は少なく、海からゆっくりと上る朝日が柔らかく街を照らしている。陽光に照らされた海面は宝石のように瞬き、希望に満ちあふれた一日の始まりを天が届けてくれているように思える。


 視線を港湾に移せば出航の時を待つ帆船が並び、数名の船乗りが積み荷の上げ下ろしを行っているのが見える。

 さらに視線を上方に移せば、街道の生け垣に咲き誇るノウゼンカズラの花が目に入った。今日も花は色鮮やかに輝き、そよと吹く風が橙色の花弁を揺らしている。

 名誉と名声の象徴。この二ヶ月間で見慣れた花も、今後は目にすることはなくなるのだろう。


 馴染みになった街の光景を一つ一つ見やりながら、オリヴィエは少しだけ寂寥感せきりょうかんを覚えていた。

 今は静謐せいひつな空気が流れるこの街も、数時間も経てば露天商が市場を開き、港は船が汽笛を上げながら出航し、いつもの賑わいを見せるのだろう。その光景を二度と目にする機会がないのは残念だ。

 この二ヶ月間の生活を通してオリヴィエはこの街にある程度愛着を持ち、街の人々も、貴族の横暴から街を救ってくれた彼女に感謝していた。だから自分が再訪すれば街の人々は歓迎してくれるだろう。


 だけど、オリヴィエはその厚意に応えられないことを知っていた。この街には悲しみの記憶が眠っている。再訪して痛みを呼び覚ます必要などない。


 街の入口まで来たところで、オリヴィエはリアをブレットの背中に乗せて自分も鞍にまたがった。

 結局、タイムに会うことはなく、オリヴィエはそのことで安堵した。あの子は自分を恨むかもしれないが、仕方がない。むしろ自分を悪人と見做みなしてくれるのであれば好都合だ。そうすれば他の悪の存在に気づかずに済む。タイムは母親を慕っている。彼の中にある聖像を崩すような真似をオリヴィエはしたくなかった。


 安らぎよりも痛みを覚えさせる街並みを今一度見つめた後、オリヴィエは街から目を背けてブレットの横腹を蹴った。久しぶりに走れるのが嬉しいのか、ブレットは全身で喜びを表すかのように勢いよく駆け出していく。走行の速度はどんどん増し、賑やかな街並みも、立派な帆船も、海辺の街道もみるみる遠ざかっていく。


 それでもオリヴィエは足りず、何度も手綱を打ち鳴らしながらもっと速度を上げるようにブレットに命じた。

 執拗に馬を走らせるのは一刻も早く祖国に戻るためだと考えたが、それだけが理由でないことは、自分でも気づいていた。

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