正義の果て

 男達が起き上がらないのを確認した後、オリヴィエは大股で厨房を横切って客席の方に向かった。厨房を出ると再び視界は闇に包まれたが、それでも外の街灯のほの白い灯りが、店内を動く人物のシルエットを浮かび上がらせている。


 その人物は、壁にもたれかかっているリアの傍に屈み込んで何かをしていた。男達が粉を被ってむせている間、オリヴィエはリアを安全なこの場所まで運んでいた。手首の革紐を外す時間はなかったので避難させてすぐに厨房に戻ったのだが、今は拘束が解かれている。

 未だ気絶したままのリアをその人物はそっと抱え起こすと、彼女の腕を肩にかけて店を出て行こうとした。


「待て、どこに行く?」


 オリヴィエが声をかけるとその人物はびくりと肩を上げた。そのまま数秒立ち尽くした後、ゆっくりと振り返る。差し込んだ月明かりがその顔を白く浮かび上がらせる。やつれた顔にかかった長い黒髪、アニスだ。


「……流血沙汰が繰り広げられている場所にわざわざ戻ってくるとはな。私を領主に差し出せないと見て、代わりにリアを売り渡すつもりか?」


 低い声で言いながらオリヴィエがアニスに詰め寄る。アニスは項垂れてかぶりを振った。


「……売り渡すつもりなどありません。ここに招待するのも、元々はあなたお一人だけのつもりだったのですから……。

 来てしまった以上は彼女にも眠っていただかなくてはなりませんでしたが、どのみち後でお助けするつもりだったのです」


「だが、あなたのその殊勝しゅしょうな心意気も、奴らには届いていなかったようだ。奴らは私を捕らえるだけでは飽き足らず、リアのことも娼館に売り飛ばそうとした。あなたは我が身の可愛さあまり、二人の女を犠牲にしかけたというわけだ」


 アニスが唇を引き結ぶ。オリヴィエは抑えた声で続けた。


「……あなたは同じ女でありながら、私達を領主の供物にしようとした……。到底許される振る舞いでないことはわかっているのだろうな?」


 オリヴィエがわずかに剣を持ち上げる。そこでアニスの様子に変化が起こった。素早くリアの身体を床に横たえると、勢いよく床に土下座してきたのだ。


「お願いです! どうか……どうか殺さないでください!」


 床に這いつくばらんばかりの勢いでアニスが額を擦りつける。だがオリヴィエは剣を下ろさなかった。


「……あなたは許しを乞うつもりはないと言った。あの言葉は偽りだったのか?」


「ええ……私個人が許されるなどとは思っていません。どんな罰でも受け入れる覚悟はできています……。

 ですが……どうかタイムは、タイムのことだけは助けてください! 今回の件は私が独断でしたこと! あの子は何も知らなかったんです!」


 華奢な肩を震わせながらアニスが必死に懇願する。その悲痛な声色から、暗がりでも彼女が泣いているのがわかった。


 必死に命乞いをするアニスの姿を見下ろしながら、オリヴィエはまたしても母メリアの姿を思い起こした。予期せず父の機嫌を損ねてしまった時、母もいつもこんな風に平伏して許しを乞うていた。

 今のアニスは母にそっくりだ。自分一人が全ての責任を引き受け、泣いて許しを乞う以外に物事を収める方法を知らない。


 剣を握る力が強まるのを感じながら、オリヴィエはアニスを見下ろした。平伏する彼女の姿が記憶にある母と重なり、そのたびに胸が激しく掻きむしられる。目を背けたくても背けられない現実を突きつけられ、オリヴィエの心はいつになく激しく波打った。


「……タイムはどこにいる?」


 オリヴィエが唐突に尋ねた。アニスが狼狽えながらも答える。


「……ここにはいません。あなた方を厨房に運んだ後、知り合いの家に預けに行きました」


「では、あの子は今晩の騒動は見聞きしていないのだな?」


「ええ……何も知りません」


「……そうか」


 それだけ言ってオリヴィエは黙り込んでしまった。彼女の真意が読めず、アニスは不安と困惑の入り混じった顔でオリヴィエを見上げた。


 しばしの沈黙が流れた後、オリヴィエはおもむろに掲げていた剣を下ろした。アニスが虚を突かれた様子で顔を上げる。

 オリヴィエは彼女の方を見ずに剣を鞘に納めると、夕餉ゆうげの際に自分達が着いていたテーブルまで歩いて行った。床に放り出された荷物を探り、中から紐で縛られた布袋を取り出して戻ってくる。アニスの眼前まで来たところで立ち止まり、オリヴィエは彼女の前に袋を放り投げた。


「……五万ベリル。金貨で入っている」


 オリヴィエが低い声で呟いた。アニスが瞠目して息を呑む。


「それだけあれば、別の街に引っ越して生活を立て直すこともできるだろう。領主の手を逃れたいのであれば……一刻も早くこの土地を発つことだ」


 アニスが信じられないものを見るような目でオリヴィエを見つめる。オリヴィエは彼女と目を合わせず、黙って床に視線を落としていた。


「どう、して……?」


 掠れた声で問いかけられるも、オリヴィエは返す言葉を持たなかった。無言のまま闇を見つめた後、小さく息をついて続ける。


「……確かにあなたは私を裏切った。そのことで痛みを感じていないと言えば嘘になる。だが……あなたの行動は、息子を……タイムを守るためにしたことだ。他人に過ぎない私を利用したところで……あなたを責めることはできない」


 言葉を紡ぐ間にも、心が激しく波打つのを抑えられない。なぜ、こんなにも胸が疼くのだろう。彼女はタイムの母親であって、自分と血を分けた存在ではないのに。


「……今日のことはタイムに知らせるな。あの子は純真で、穢れのない魂を持った子だ……。そんな子に……あなたの過ちを悟らせてはならない」


「で、ですが……」


「……タイムは言った。剣士は悪を裁き、弱者を守る存在だと……。あの子にとって剣士とは正義の味方であり、その行動は常に道義的であることが求められる……。

 だがあなたは……息子のその心根を知っていながら……自ら正義にもとる行為をした! タイムが誰よりも守りたかったあなたが! そのことを知り……タイムがどれほどの悲しみに襲われるかあなたにわかるか!?」


 煮えたぎる悲憤を吐き出すようにオリヴィエの口から言葉が迸る。騎士として鍛え上げたはずの自律の精神も、今この瞬間だけは瓦解していた。


「……私はあなたを許すことはできない。だが、ここであなたの命を奪うことはしない。タイムはまだ幼く、母親が必要な年齢だ……。私はあの子から……母親を奪うことはできない」


 知らず握り締めていた籠手ガントレットから不意に力が抜ける。暴漢との戦闘を経ても疲れを知らなかった身体が、今は抜け殻のように頼りない。


「……タイムは有望な子だ。あのまま訓練を積めば、将来はいい剣士になるだろう。

 私にあの子の未来を奪う権利はない。それはあなたも同じだ。……もう二度と、あの子の名前をけがすような真似をしないでくれ」


 そこまで言ったところでオリヴィエは言葉を切り、未だ床に膝を突いたままのアニスに背を向けた。結局、彼女の顔を見ることは一度もなかった。


 彼女の顔を見ることも、自分の顔を見られることも、今は耐えられそうになかった。


 そうしてどれくらいの時間が経っただろう。やがて背後でアニスがしゃくり上げる声が聞こえた。自らの不甲斐なさを呪う、母とよく似た悲声。だが、その声を聞いてももう、オリヴィエの心がかき乱されることはなかった。


 彼女の心には何もなかった。憤怒も、憂苦も、悲しみさえも、一片すら残っていなかった。


「……ごめんなさい!」


 悲痛な声を響かせながら、背後でアニスが立ち上がる気配がした。そのまま足音を立てて駆け出し、勢いよく扉が閉ざされる。

 それでもオリヴィエは振り返らず、無言のまま床に視線を落としていた。闇と沈黙が支配する空間には一切の生者の気配がなく、食べ残した料理から漂う匂いだけが、そこに人間がいたことを知らせてくる。サーモンの香草焼きから立ち上るハーブの香り。タイム、そしてアニスの残り香。


 室内に漂うハーブの香りが消えたところで、オリヴィエはようやく振り返って入り口の方を見た。

 そこにすでにアニスの姿はなかった。床に放り出した金貨の袋も。

 リアは床に寝かされた格好のまま静かに寝息を立てている。その表情は、この酒場での乱闘も裏切りも感じさせないほどに穏やかだった。


 オリヴィエ自身、消せるものなら、この悪夢のような一夜だけでなく、あの母子に関わる全ての記憶を消し去ってしまいたかった。タイムとの稽古も、アニスの食事も、哀しみと共にまとわりつく母の記憶も。


 闇の中でしばし立ち尽くした後、オリヴィエはリアを背負って自分も店を出ることにした。

 扉を閉める直前、タイムの笑顔がちらりと脳裏をよぎる。どうやら約束を破ってしまったようだ。この別れは一時のことで、今生こんじょうではないと伝えていたのに。


(すまないな……。お前の成長を見届けてやれなくて)


 永久に届かなくなった謝罪の言葉を呟きながら、オリヴィエは酒場を後にした。




[第八章 母を守りし小さな勇気 了]

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