母の影
翌日から早速タイムの訓練は始まった。主な時間帯は朝で、オリヴィエがギルドに行く前に空き地に集合して稽古をした。
宣言通りオリヴィエは本気で相手をし、タイムは攻撃を打ち込むどころか近づくことすらできなくなり、その変わり様にかなり面食らっていた。それでも稽古を放棄することはせず、頭を
オリヴィエ自身、多少手加減をした方がいいかと考えることもあったが、それでは剣士を育てることにならないと考えて心を鬼にした。普通の少年なら三日で根を上げても不思議はない厳しい稽古をタイムは耐え、少しずつではあるが、走行や攻撃の動きも改善されていった。
夜に稽古をする場合は、終了後にアニスの酒場で
客の中には、アニス本人を目当てに来ている者もいた。儚げな未亡人ということで男心をそそるものがあるのだろう。中には公然と彼女に絡んでくる客もいて、酔っ払った振りをして彼女の肩に手を回し、店の外で会いたいと口説いてきた。そういう時にはタイムがすっ飛んでいって相手の男を引き剥がそうとしたが、少年が大人の男に敵うはずもなく、軽くあしらわれて酔っ払いの物笑いの種になるのが関の山だった。
オリヴィエは最初、騒ぎを起こすべきではないと思って静観していたが、あまりに度が過ぎる客に対しては示しをつけることにした。その客の方までつかつかと歩いていき、仁王立ちして言ったのだ。
「ここは娼館ではない。過剰な接待を期待するならよそへ行ってもらおう」
酔っ払いは最初、オリヴィエが女であることを見て下卑た笑いを上げ、身の程知らずにも彼女に絡んでこようとした。オリヴィエは酒場で剣を振り回す気はなかったが、それでも多少は痛い目に遭わせるべきと考え、肩を摑もうとしてきた男の腕を捻り上げて悲鳴を上げさせた。
そうした仕打ちを何度か受けるうち、酔っ払いはオリヴィエがあの男爵を退治した女騎士であることに気づき、
そんな風にして時は過ぎ、この親子とオリヴィエの関係は次第に気の置けないものになっていった。
タイムの訓練を始めてから二週間後の夜、オリヴィエとリアはいつも通り酒場で夕餉をご馳走になっていた。
時刻は七時を回ったところで、ちょうど夕食時に当たる。この時間なら席が埋まっていても不思議はないのだが、客は数組いるだけで店はいつも通り閑散としていた。店の経営状態はやはり
アニスはカウンターの向こうで簡単な食事を作っている。色白で痩せたその姿はやはり酒場には不釣り合いだ。不慣れな酒場など続けなくても、改装して別の店を開けばいいのではないかとオリヴィエは何度も思ったが、酒場を潰す考えは彼女には全くないようだった。夫が遺した店を守りたいという
だが、オリヴィエにはそれだけとは思えなかった。彼女は自分の意思よりも夫の意思を優先させ、夫の死後も彼に尽くすことに
オリヴィエがそう考えたのは、彼女と似た生き方をした女の姿を知っているからだ。記憶の端に
「騎士様ったら、またアニスさんのことを見ていらっしゃいますのね」
前方からリアの声がしてオリヴィエは意識を戻した。リアがサラダを食べる手を止めてこちらを見ている。
「このお店にいるといつもそうですわ。何度もアニスさんの方をご覧になっていて……。そんなにあの方のことが気になりますの?」
ミルクティーをストローでかき混ぜながら尋ねるリアの表情はなぜか少し不満げだ。
オリヴィエは自分も食事の手を止め、少し考えてから答えた。
「……ああ。ただ、アニスさん本人が気になるのではない。あの人を見ていると……別の人間のことを思い出すんだ」
「別の人間?」
「ああ。リアには話したことがなかったか? 私の母のことだ」
「騎士様の……お母様ですか?」
「ああ。数年前に他界したがな。アニスさんは少し母に似ているんだ」
「そう、でしたの……。すみません私、知らずに失礼なことを申し上げてしまって……」
「いや、構わない。感傷に浸るほどの思い出はないのでな」
そう、自分と母メリアの間に大して思い出などなかった。それは単に母と過ごした時間が少ないからではなく、母そのものの印象の薄さに原因があった。
オリヴィエの父アルストロは、多くの部下を騎士として育て上げ、自身も
そんな父と比べると、母はほとんど目立つことがなかった。母は仕事を持たず、家庭という閉じた世界に生きていた。父のために居心地のよい家庭環境を整えることに心を砕き、父の帰りがどれだけ遅くなっても寝ずに待ち、甲斐甲斐しく食事や風呂の世話をした。父の言葉には黙って耳を傾け、父が望む言葉だけを口にした。
それは外に出ても同様で、たまに夫婦で外出することがあっても母は自分の要望を一切口にせず、父が望む場所に言われるがままに付いていった。父が知り合いに声をかけられれば控えめな微笑みを浮かべてその場に立ち、話が済むのを黙って待っていた。
一言で言えば、母は父の影として生きていた。母がそんな生き方を選んだのは、母生来の気質もあるだろうが、それ以上に母が受けてきた教育の影響が大きかったのだろう。
母の家系は古風な考えを持っていたらしく、女は男を立てるべきという昔ながらの教育を施されていた。母はその教えを忠実に実行し、父が名声を浴びる傍らで、自分は影に徹して栄を欲しようとはしなかった。
オリヴィエを騎士にしたのも、父の意向が大きかったのだろう。栄誉の騎士である父が跡継ぎを遺そうとするのは当然で、母がそれに意見を差し挟む余地はなかったはずだ。
だから両親は協働して娘を騎士に育て上げた。父が実技、母が座学を担当し、『
だけど、オリヴィエは気づいていた。書物を通して騎士道精神をオリヴィエに叩き込む傍らで、母が娘を騎士にする道を望んでいないことを。街を歩く別の母娘を見つめる母の眼差しに、密かな羨望が混じっていることを。
母は、本当は自分を女として育てたかったのではないだろうか。同じ年頃の少女のように可愛らしいドレスを着せ、お人形遊びを教え、母娘で恋愛の話に花を咲かせるような、仲睦まじい親子になりたかったのではないだろうか。
だけど、母が生きてきた環境からすれば、父の意向に背いて自分の考えを押し通すことなど許されなかった。だから母は自分の真意を押し隠し、娘に男のような格好をさせ、始終剣を振り回させ、騎士の何たるかを
娘が理想とはかけ離れて成長して行く姿を見て、母は何を思ったのだろう。悲しかっただろうか。なぜ女を男のように育てなければいけないのかと、
母の心境に思いを致すたび、オリヴィエは自分が男に生まれていたらと思わずにはいられなかった。産まれた子が息子であったなら、母も葛藤を感じることなく、息子を立派な騎士にするために心血を注ぐことができただろう。男のために我が身を尽くすこと。それが母の知る最上の喜びなのだから。
しばし追想に捕らわれていたオリヴィエは、ふっと息を漏らしてアイスティーの入ったグラスを口に運んだ。思い出などないと言っておきながら、随分と長い間感傷に浸ってしまったようだ。リアは食事を再開していてオリヴィエの深憂に気づいた様子はない。
それでいい。自分には語るべき家族の記憶などない。オリヴィエにとって父は最期まで師であり、母は最期まで影だった。五年前、父が戦死した時もオリヴィエは泣かなかったが、母が父の後を追うように病死した時には哀しみすら生じなかった。
それは、何の孝行もできないまま母を逝かせてしまったことの後悔が、感情を鈍らせてしまった結果かもしれなかった。
「……あ、見てください騎士様。アニスさんがまた何か因縁をつけられているようですわ」
リアがカウンターの方を指差しながら言い、オリヴィエも追想を振り払ってそちらに視線を移した。カウンターには男が二人並んで座っており、声を潜めてアニスと何やら話している。アニスは話を聞きながらも困惑した様子で、時折首を横に振っては、男に何か言われて視線を落とすことを繰り返している。
「……何かお困りの様子ですわね。また言い寄られているのでしょうか」
「かもしれんな。あまり執拗であれば止めに入った方がいいかもしれんが……」
二人が会話をしていると、不意にアニスがこちらを見た。二人と目が合うとアニスははっとしてすぐに視線を落としてしまった。なぜか気まずそうな顔をしている。
「……どうかされたのでしょうか? 私達の方を気にしていたようですけれど……」
「わからん。助けを求めている様子でもなさそうだが……」
その後アニスは一度もこちらを見ず、男達が彼女に絡む様子もなかったので、オリヴィエもリアも自分の食事を再開することにした。リアは温かなスープを飲み、オリヴィエはサーモンの香草焼きを口にする。ハーブをふんだんに使った料理は香りがよく、風味豊かな味わいは母の手料理を
自分がタイムの稽古を引き受けたのは、アニスが母に似ていたからかもしれない。
アニスの料理を
母がオリヴィエに真に望んだことは、娘が女として幸福になることだったが、それは騎士の道とは両立しえないものだった。自分は結婚して子どもを持つことも、家に籠もって家庭を守ることもできそうにない。
だからこそオリヴィエは、代替の存在に恩を返すことで、母への罪滅ぼしをしようとした。本当なら母自身を幸福にしてやれればよかったのだが、それはオリヴィエが女として生を受けた時点で不可能だった。
自分が男に生まれてさえいれば――幼い頃から何度となく浮かんだ呪いの言葉が蘇るのを感じながら、オリヴィエは味のしなくなった料理を口に運んだ。
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