名の意味は

 近いと宣言した通り、タイムの家は空き地から五分ほど歩いたところにあった。

 そこは街外れにある酒場で、大通りから離れたところにひっそりと佇んでいた。外観は木造りでこぢんまりとして、看板代わりの巨大な樽が入口に掲げられていなければ民家と勘違いしたかもしれない。すでに夕方を迎えているにもかかわらず店内からは人の声がせず、人通りがないこともあって辺りはひっそりと静まり返っている。あまり繁盛しているわけではなさそうだ。


 タイムが母親を呼びに行っている間、オリヴィエとリアは店の前で待っていた。待っている間に店を観察すると、遠目で見る以上に店が寂れていることがわかった。壁の塗装は剝がれかけ、室外灯は切れかかって明滅し、窓硝子はところどころひび割れている。修復する余裕もないほど経営が逼迫ひっぱくしているのだろうか。この分では依頼の代金を支払うことなど土台無理だろう。タイムの落胆する顔を想像するとオリヴィエは少し心が痛んだ。


 五分ほど待った頃、入口の扉が勢いよく開いてタイムが飛び出してきた。勢い余って通りの反対側まで走ったところで迂曲うきょくして戻ってくる。


「あ、オリヴィエ! 母ちゃんに話してきたよ!」


「そうか。それで、母親は何と……?」


「うーん、やっぱりいらいは難しいって。でもけいこのお礼はしたいから、今から出てくるって言ってたよ!」


 タイムがそう言った時、再び入口の扉が開く音がした。オリヴィエはその方を振り返ったが、そこに立っている人物を見た途端に思わず息を呑んだ。


 母親ということで年配の女性を想像していたのだが、現れたのは意外にも若い女性だった。おそらく三十代くらいだろう。白地に緑の小花柄が付いた長袖のワンピースを着て、足元まであるスカートの上に前掛けタイプのエプロンを着けている。髪型は背中までまっすぐに伸びた黒髪で、服装も相俟って清楚な印象を与える。肌は貧血かと思うほどに白く、痩せた身体つきも相俟って今にも倒れてしまいそうに見えた。初対面の人間を前に緊張しているのか、落ち着かない様子でおどおどと視線を左右させている。


「あ……初めまして、私はこの子の母親のアニスと申します」


 アニスと名乗った女性が静々と頭を下げる。酒場の女将とは思えない、小さくか細い声だった。


「あなたがタイムに剣術の稽古をしてくださったと聞きまして……ご無理を言ってしまったのではないかと心配していたんです。この子が迷惑をおかけしませんでしたか……?」


 アニスが気遣わしげに言ってオリヴィエを見上げてくる。その控えめな物腰や弱々しい声音一つ一つが記憶にある人物と重なり、オリヴィエはしばらく言葉を返せなかった。


「騎士様……? どうかなさいましたの?」


 隣に立っていたリアが心配そうに尋ねてくる。その声でようやくオリヴィエの意識は現実に引き戻された。首を振って幻影を振り払い、努めて冷静さを保とうとする。


「あぁ……失礼しました。確かに剣術の相手はしましたが、迷惑などではありませんでしたよ。私としても気分転換になりましたから」


「そうですか……。よかったです。この子は見ての通り腕白わんぱくですから、目を離すとすぐにどこかに行ってしまって……。私がしっかり見ておけばよい話なのですが、仕事をしているとどうしても行き届かないことがあって……」


「仕事と言うと酒場ですか。ご主人と二人で経営を?」


「いえ……。主人は数年前に亡くなりましたから、今は私一人です。この酒場は元々主人が経営していたもので、主人がいた頃はもっと賑わっていたんですが、今は見ての通り寂れてしまって……。やはり私には女将など務まらないのかもしれません」


 アニスが寂しげな微笑を漏らす。つまり彼女は女手一人で息子を育てているというわけだ。そのために慣れない酒場の経営に乗り出したが、店は流行らずに修繕もままならない。彼女のどこか儚げな雰囲気は、この薄幸の境遇から滲み出ているのかもしれない。


「日々の生活にも苦労している状況ですので、稽古の依頼をするのはとても……。わざわざご足労いただいたのに申し訳ないとは思いますけれど」アニスが恐縮しながら言った。


「いえ……こちらこそ申し訳ありません。中途半端に期待を持たせるような真似をしてしまって……」


「いいんです。この子にもいい経験になったと思いますから。ほら、タイム、騎士様にお礼を言いなさい」


 アニスが自分のワンピースの裾を握り締めている息子に向かって言う。タイムは不満げな顔をしていたが、それでも黙って頭を下げた。


 その光景を見ているうちにオリヴィエはふと思いつくことがあった。地面に片膝を突き、タイムと目線を合わせて尋ねる。


「タイム。一つ聞きたいんだが、お前が剣士になりたいのは何のためだ?」


「何のって……さっき言ったじゃん。俺は弱い奴を守れるようになりたいんだよ」


「その弱い奴と言うのは、お前の母親のことを言っているのか?」


「そうだよ。ほら、母ちゃんって美人だろ! だから酔っ払いが絡んでくること多くてさ。俺、そういう時に悪い奴から母ちゃんを守ってやりたいんだ!」


「そうか……」


 彼があれほど稽古にこだわっていたのも、母親を守りたいという一心からだったのだろう。単なる憧れではなく、具体的に守りたい対象がいたからこそ強くなろうとした。そのひたむきさを知り、オリヴィエは自然と心を動かされていた。


「本当に息子がお世話になりました。では、私達はこれで……」


 最初と同じようにアニスが静々とお辞儀をし、タイムの手を引いて酒場の中に入ろうとする。

 オリヴィエは立ち上がって親子の背中を見つめ、少し考えてから言った。


「……先ほどの話を聞いて気が変わりました。やはり私に息子さんの相手を務めさせていただきたい」


 アニスが驚いた顔で振り返る。オリヴィエは再び膝を突き、不思議そうに首を傾げているタイムに向かって言った。


「タイム。お前の腕は悪くない。だが今のままでは実戦は不可能だ。本当に強い剣士になりたいのであれば、今までよりも厳しい訓練を積む必要がある。お前にその覚悟があるか?」


 タイムが一瞬狼狽うろたえた表情になる。だがすぐに力強く頷いて言った。


「うん! 俺は母ちゃんを守りたいんだ! 強くなれるなら何だってするよ!」


「そうか。ならば私も、微力ながら力添えをすることにしよう。昼間は依頼があるので動けないが、朝か晩、一時間程度であれば稽古を付けてやってもいい」


「本当!?」


「ああ。ただし今日のような生温い内容ではない。真剣こそ使わないが、私もお前を倒すつもりで全力で相手をする。それでも根を上げないと誓えるか?」


「ちかうよ、ちかう! 剣士様が本気で相手してくれるなら言うことねぇもん!」


「いいだろう。ならば私も騎士として、その誓いに応えるとしよう」


「やったー! サンキューな! オリヴィエ!」


 全身で喜びを示すようにタイムが諸手を挙げて飛び上がる。そんな息子とは対照的にアニスは心配そうな顔をしていた。


「でも……ご迷惑ではありませんか? 騎士様のお手を煩わせることになるのでは……」


「予定を都合すれば問題はありません。私としても、対戦相手がいた方が訓練に張りが出ますから」


「ですが、あの子はまだ子どもです。騎士様の相手が務まるとは思いませんけれど……」


「もちろん今すぐ対等に渡り合うことは無理でしょう。ですが、彼には可能性がある。彼の名前がそれを証明しています」


「名前、ですか?」


 アニスがきょとんとして首を傾げる。オリヴィエは頷くと、タイムの方に視線を移して言った。


「タイムの花言葉は、勇気、活力、強さ……。いずれも剣士に相応しいものです。あなたが息子さんにこの名前を付けたのも、息子さんが勇敢に育ってほしいと願ったからでは?」

「それは……」


 アニスが視線を落として黙り込む。オリヴィエは表情を緩めると、タイムの方に身体を向け、その頭に優しく手を乗せて言った。


「古来より、タイムの香りは勇気や活力を引き出すものとして知られ、女性は戦場におもむく男にこの花を贈ったそうだ。アニスさんがお前にその名前を贈ったのも同じ理由なんだろう。

 だからお前も、お母さんの期待に応えられるような強い男になるんだ、タイム」


 花言葉の話はタイムには難しかったのだろう。要領が得られない様子で眉根を寄せていたが、やがて破顔すると勢いよく頷いた。


「うん! 俺は強い剣士になる! タイムの花に負けないくらい強い剣士に!」


 正確な文脈ではないが、意味するところは伝わったようだ。


 オリヴィエは微笑みを浮かべると、タイムの花に似た薄桃色の髪を撫でてやった。

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