厚顔なる誘い

 その後、オリヴィエは市場に行ってリアとブレットと合流した。リアは無事に買い物を済ませたらしく、新鮮な飼い葉が手に入ったと言って嬉しそうに笑っていた。他にも気になる雑貨やアクセサリーなどがあったらしいが、見るだけで我慢したと言う。自分のことよりも馬を優先させる辺り、実に彼女らしいとオリヴィエは思った。


 道中、オリヴィエはリアにレオポルトのことを話した。家名を吹聴していただけあって、リアもストレリチア家のことは知っていた。この界隈に住む貴族の中でも名門のようで、ノウゼン地方全域において影響力を持っているらしい。オリヴィエはその話を聞いて、彼が噂の新しい領主ではないかと思ったが、領主はまた別にいるとのことだった。


 ストレリチア家の中でも、レオポルトは好色家として知られていた。

 何でも、商用で赴いた街で行き場のない娘を見つけては、食事を奢った上に高価な衣服やアクセサリーを購入してやり、娘に散々恩を売ったところで『返礼』を求めるとのことだった。『返礼』の内容まではリアも知らないようだったが、金も家もない娘が差し出せるものといえば一つしかない。

 財力を利用して人の弱みに漬け込むレオポルトの卑劣さにオリヴィエは反吐が出そうになったが、一方で、見ず知らずの人間を易々と信用する娘達の浅薄さにも呆れた。そして自分がそうした無知な小娘と同列に扱われたことを思うと、余計に彼への憎しみが煮え立つのだった。


「……では、騎士様はストレリチア卿に目をつけられてしまいましたのね」


 街の外れに移動し、買ったばかりの飼い葉をブレットに食べさせながらリアが憂鬱そうに言った。ブレットは主人の心配など気にした様子もなく新鮮な飼い葉を貪っている。


「私が一緒でしたら声をかけられることもなかったかもしれませんのに……申し訳ありません」


「リアが気にすることではない。だが、やはりこの街に留まるべきではないのかもしれん。貧乏人がこれほど冷遇される状況で、まともな仕事にありつけるとも思えんからな」


「そうですわね……。でも牧場の報酬だけで資金は足りるでしょうか?」


「いずれ底をつくだろうな。ギルドは他の街にもあるようだが、ここからは距離がある。到着するまでは野宿することになるかもしれん」


「私は平気ですわ。こう見えて身体は丈夫にできているんです」


 壮健さを示すようにリアは胸を張ったが、その気丈な姿勢はかえってオリヴィエに居たたまれなさを感じさせた。牧場にいれば衣食住に困ることはなかったのに、野宿を強いるような事態になってしまい、マルコに申し訳が立たないと思った。


「わかった。だが出発は明日の朝にした方がいいだろう。私も夜に馬を走らせるほど乗馬に慣れているわけではないからな」


 宿探しや買い物で予想以上に時間を食ってしまったようで、辺りはいつの間にか暗くなっていた。露天商は次々とテントを片づけて引き上げていき、通りを行き交う人の数も減ったことで、昼間の喧噪が噓のように街は静まり返っている。青々とした海も今は漆黒に染め上げられ、闇の中に佇む巨大な帆船はまるで怪物のように見えた。


 一方で、宿のある街の方面に目を向ければ黄色いランプが温かな光を灯していて、夜でも変わらずに煌びやかな景観を呈している。宿の前には仕立てのよい制服を着たボーイが立ち、恭しく礼をしながら玄関の扉を開け、飾り立てた格好をした人々が堂々と中に入っていく。だが、自分達が同じように近づいたところで、ボーイは鼻先で扉を閉めるだけだろうとオリヴィエは考えた。


 宿から視線を外し、オリヴィエは路地の方に視線をやった。昼間から薄暗いそこは夜になるといっそう陰鬱な空気を漂わせ、何人もの浮浪者が生気をなくした顔で虚空を見つめている。彼らと居所を共にする気にはなれなかったが、他に行く場所があるとも思えない。

 せめてどこかの家の軒先で眠れないだろうかとオリヴィエが視線を巡らせていると、背後から声をかけられた。


「失礼……。もしや、宿をお探しでしょうか?」


 聞き覚えのない声だった。オリヴィエが振り返ると、背の高い年配の男が目の前に立っていた。金ボタンの付いた詰め襟のジャケットに折り目の付いたズボンを合わせ、手には白手袋を嵌めている。服の色はどちらも白で、襟や袖口に金色の線が入ったデザインが高級感を漂わせている。どこかの宿の従業員だろうか。


「そうだが、あなたは何者だ?」


「私はこの近くでホテルの支配人を務めている者です。宿をお探しでしたら、私どものホテルにいらっしゃいませんか?」


 支配人が直々に声をかけてくるとは予想外だった。だが、男の立派な制服を見るに、彼が経営しているのはかなりの高級宿なのだろう。そんな宿に泊まる余裕はない。


「確かに宿は探しているが、見ての通り我々は貧寒ひんかんの身でな。客引きなら他を当たった方がいいと思うが」


「いえ……それが、ぜひあなたをお招きするようにとある方から申しつけられたものでして」


「私を招く?」


 そのような酔狂な真似をする人間に心当たりは――いや、一人だけある。

 オリヴィエが訝しげな顔をしていたことに気づいたのか、支配人が説明を加えた。


「あなたをお招きになったのはストレリチア男爵でございます。男爵は平素から私どもの宿を贔屓にしてくださっていまして、今晩も滞在してくださることになっています。

 それで、男爵がぜひ晩酌を共にしたい方がいるとおっしゃり、白い鎧を着た女性を探すようにと……」


「……あれほどはっきり拒絶してやったのに迎えを寄こすとは……何とも厚顔な男だな」


 自分が路頭に迷っている現状を嗅ぎつけ、尻尾を振って駆けつけるとでも思ったのだろうか。だとすれば侮られたものだ。オリヴィエはこれ見よがしにため息をついた。


「……男爵に伝えておけ。私はお前の思い通りになるような女ではない。お前と寝室を共にするくらいなら、夜盗に襲われて落命する方を選ぶとな」


 極めて冷淡に言ってのけ、オリヴィエはリアを従えて立ち去ろうとした。

 だが支配人はなおも呼び止めてきた。


「お待ちください。男爵は私どもにとって賓客なのです。ご要望に添えないと今後の経営に差し障ります。どうか一緒に来ていただけませんか?」


「あなた方の利益のために餌になるつもりはない。そもそも、あのような恥知らずな男に床を提供する方が宿の品格を落とすのではないか?」


「それは……仕方がないのです。私どもも商売ですから」


 支配人が憂鬱そうにため息をつく。男爵の悪評は彼も聞き及んでいるのだろう。自らの宿が色魔しきまの巣窟になるなど彼としても不本意なのだろうが、上客には逆らえないというわけだ。


 オリヴィエは腕組みをして考え込んだ。ここで支配人の提案を突っぱねることは簡単だ。見知らぬ街の宿の経営など知ったことではないし、そのために自分が娼婦となる理由もない。

 だが、男爵の粘着質な言動を思えば、カズーラの街を出た後もしつこく自分を追ってくることは予想がつく。自慢の家名を使えば情報網を張り巡らせることなど造作もないだろう。自分の行く先々に手下を派遣し、あの手この手で進路を妨害しようとしてくるかもしれない。そんな雑事のために帰還が遅れるくらいなら、ここで芽を摘んでおいた方が賢明だと思えた。


「……いいだろう。男爵のところへ案内しろ」


 覚悟を決めてオリヴィエが支配人を見据える。支配人は目に見えてほっとした表情になったが、代わりにリアが仰天した顔になった。


「騎士様!? いけませんわ! ストレリチア卿は手癖が悪いんです! 宿になんて行ったら何をされるかわかりませんわ!」


「無論、奴の色欲を満たしてやるつもりなどない。だが下手に放置しても後が面倒になる以上、この場で示しをつけてやるだけだ」


「でも……」


「案ずるな。相手がどれほど卑劣な輩であろうと、私が屈することなどない」


 力強い口調で宣言され、リアは不安げな顔をしながらも口を噤んだ。オリヴィエは目顔で支配人を促し、支配人が頷いて二人を先導する。


 海から忍び寄る闇はさらに深まり、街を暗黒で呑み込もうとしているように思えた。

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