届かぬ想い

「……あら? あそこにあるのは何でしょう?」


 不意にリアが声を上げた。オリヴィエがその方を向くと、自分の背後にある灌木かんぼくの間に何か光るものが見えた。硝子の破片でも落ちているのだろうか。


 オリヴィエは灌木の近くまで歩いていくと、草木を搔き分けて光の正体を確かめようとしたが、それが目の前に現れた途端に驚いて息を呑んだ。見覚えのある剣がそこに落ちている。弓なりになった剣身、深緑色の柄、鳥の羽のような形をした白いつば。芸術品のように美しく精巧な姿は見紛うはずもない。愛剣エリアル・ブレードだ。


「……こんなところに落ちていたのか。道理で見つからなかったわけだ」


 愛剣を拾い上げながらオリヴィエが目を細める。牧場での生活を始めてから、オリヴィエは仕事の合間を縫ってはシオンの森に赴き、エリアル・ブレードが落ちていないかを探していた。ただ森は広く、目印になるような場所もない中で捜索をするのは困難で、いくら探しても愛剣を見つけることはできなかった。だからオリヴィエも半ば諦めていたのだが、何のことはない。愛剣は雨露の凌げる場所に身を隠し、主が現れる時を待っていたのだ。


 オリヴィエは鞘から剣身を抜くと、注意深く状態を確かめた。蒼炎の騎士の剣戟や火炎を受けたにもかかわらず、剣身には傷も焦げも付いていない。相変わらず刃こぼれ一つなく、光彩を反射して艶やかに煌めいている。何度か素振りをするとひゅんひゅんと音を立てて空を斬った。この分であれば問題なく使えそうだ。


「……さすが騎士様でいらっしゃいますわね。剣がよくお似合いですわ」


 リアの呟きが聞こえ、オリヴィエは素振りを止めて彼女の方を見た。リアはオリヴィエから少し離れたところでこちらを見つめていた。目を細めた表情はなぜか切なげだ。


「牧人の姿をしていても、あなたの御心は騎士のまま……。それをお引き留めする方が失礼でしたわね。先ほどのことは忘れてくださいまし」


 リアはそれだけ言うとオリヴィエに背を向け、一人で先に歩いて行ってしまった。片手を胸に当てて早足で立ち去る姿は、何かを堪えているようにも、振り切ろうとしているようにも見える。


 だが、彼女がいったい何を思い煩い、何を振り切ろうとしているのかについては、オリヴィエはどれだけ考えても想像が及ばずにいた。




 それからの日々は穏やかに過ぎた。日課である牧場の仕事をこなし、仕事が終われば家の裏手に出てエリアル・ブレードで素振りをする。訓練が終われば家に戻り、自家製のミルクや卵を使ったリアの手料理に舌鼓を打つ。そうした日々は平和そのもので、オリヴィエは自分がこれほど心穏やかな時間を過ごせていることに驚いていた。


 エーデルワイス王国にいた頃は、毎日のように同僚の騎士から揶揄やゆや嘲笑を浴びせられ、主人への報われない恋情を胸に狂おしい思いをしていたのに、ここではそうした事柄に煩わされることが一切ない。家畜と戯れ、森の新鮮な空気を吸い、人の温かさの中で平穏な日々を過ごす。その生活は確かに心地よいものだったが、それでも故郷に帰るというオリヴィエの決意に揺らぎはなかった。


 夜、自室の窓から外を眺めては、オリヴィエは遠く離れた故郷に思いを馳せた。花の咲き乱れるトリトマの森、白妙の王城、騎士団の訓練場、アイリスの部屋……。

 主人の姿を思い返すたびにオリヴィエは胸が痛み、せめて夢の中だけでも彼女に会えたらと願って眠りにつくのだが、見るのは決まってあの悪夢ばかりで、そのたびに冷や汗を搔いてベッドから飛び起きた。ただの悪夢だとはわかっていても、何度も見せられると正夢としか思えなくなり、オリヴィエはベッドから起き上がっては、ロベリアや蒼炎の騎士が部屋のどこかに隠れてはいないかと探さずにはいられないのだった。


 眠れない夜にはオリヴィエは部屋から出て、居間の窓からシオンの森を眺めることがあった。窓を開けると冷たい風が入り込み、擦り切れたカーテンがかさかさと音を立てて揺れる。闇の中で佇む森はひっそりと静まり返り、光と音をなくして眠りについている。時折思い出したように風が吹き抜け、その時だけ森は息を吹き返しては、眠れぬ夜を彷徨う子羊に優しい子守歌を投げかけるのだった。


 故郷にいた頃も、オリヴィエは宿舎の自室からよくこうして森を眺めていた。何も求めず、ただそこで自分を見守ってくれる森は聖母のようで、その深閑とした空気に身を委ねていると、淀みきった心が洗い清められていくように感じられた。そうした時間を過ごした後では、オリヴィエは日々の煩悶を忘れ、穏やかに眠るにつくことができるのだった。


 だが、今は森の優しさに触れていても、オリヴィエの心は少しも慰められそうになかった。我が身を襲った不条理に憤りを感じ、神を恨まずにはいられなかった。


 どうしてあなたは私のささやかな願いさえも叶えてはくれないのだ。多くを望んだわけではない。ただあの方のお傍にいられればよかったのに、なぜあなたはその機会さえも私から奪おうとするのだ。私がいったい、何をしたというのだ――。

 そんな悲痛な言葉が喉元まで出かかったが、他人の家で真夜中に癇癪かんしゃくを起こすほど、オリヴィエは赤子にも野放図にもなれなかった。


 憤りの代わりに息を吐いた後、オリヴィエは改めて森に視線を移した。シオンの森。盗賊紛いの真似をするディモルフォセカでも、花の名前を地名に使うという風雅さは持ち合わせているようだ。シオンの花言葉は『遠くにある人を想う』。今の自分にこれ以上相応しい言葉があるだろうか。




 一人追想に耽るオリヴィエは、居間の入口にリアが立っていることに気づかなかった。彼女がオリヴィエに声をかけようとして、その思い詰めた横顔を見て思い留まったことも。


 寂寥せきりょうを滲ませたその横顔に、故郷にいる誰かへの恋情を感じ取り、なぜかショックを受けたような顔をしたことにも、オリヴィエは少しも気づかずにいた。

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