安閑の日々

 かくしてオリヴィエの牧場での生活が始まった。部屋はリアの両親の部屋を使わせてもらうことになった。二つ並んだ寝台は狭い上に硬く、布団も粗末な薄いものだったが、染み込んだ干し草の匂いが不思議と心地よく、眠りを妨げることはなかった。


 服装については、さすがに鎧のままでは酪農には不向きなため、リアの母親の衣服を借りることにした。小柄なリアとは違って母親は長身だったようで、サイズはオリヴィエにぴったりと合った。飾り気のない綿や麻のシャツにもったりとしたズボン、またはオーバーオールといったいかにも作業着らしい服装ばかりだったが、オリヴィエは文句一つ言わずそれらを身につけた。元々華美な衣装になど興味はないのだ。


 牧場の朝は早く、朝は五時には起床して厩舎に向かった。家畜に餌をやりつつ健康状態をチェックし、搾乳や卵の回収を行う。それが終わるとすでに太陽は昇っていて、晴れていれば家畜を放牧し、その間に厩舎を清掃する。飼い葉の在庫が少なくなれば乾草や配合飼料を混ぜ合わせて作り、材料が足りなくなれば近くの農家まで買いに行く。その他、家畜のブラッシングや牧草の刈り入れなどをしているとあっとう間に夕方になり、夜になる前に家畜を厩舎に戻して戸締まりをする。その後三人揃って帰宅し、リアが作ってくれた夕食を食べて九時には就寝する。それが牧場の日課だった。


 仕事の大半は肉体作業だったが、平素から訓練で鍛えているオリヴィエには少しも苦ではなかった。何十キロもある干し草を運ぶことも、力を込めて牛や馬のブラッシングをすることも易々とやってのけた。


 また、馬の扱いに慣れていることもあって、暴れる馬を宥めて厩舎に連れ帰ったことも何度かあった。

 特にブレットは性格が臆病なためか、すぐに柵を跳び越えて逃げ出そうとするためマルコもリアも手を焼いていたが、オリヴィエはそのたびにブレットの背中に跨がって落ち着かせた。彼女が手綱を引くと、ブレットはそれまで暴れていたのが噓のように大人しくなった。粗末な作業着に身を包んでいても彼女はやはり騎士であり、その気迫が自然と馬を従わせていたのだろう。


 そういうわけで、二週間も経つ頃には、オリヴィエは牧場になくてはならない人財となっていた。マルコもリアもオリヴィエに深く感謝し、相応以上の対価を払おうとしたが、オリヴィエはあくまで適正な金額しか受け取ろうとしなかった。一刻も早く国に帰りたい気持ちはあったが、それでこの親切な老人と孫に過度な負担を強いることはしたくなかった。






 牧場での生活を始めてから早三週間、オリヴィエはリアと共にシオンの森を歩いていた。


 今は農家からの帰り道で、いつも飼い葉用の麦やとうもろこしを分けてもらっているお礼に、採れたてのミルクと卵をお裾分けに行ったのだ。荷物のなくなった身軽な身体で、二人は牧場に向かいつつゆっくりと森を散策していた。


 視線を巡らせて森の光景を眺める。トリトマの森ほどではないものの、シオンの森の景観もまた百花繚乱ひゃっかりょうらんで、スズラン、ミモザ、ワスレナグサなど、素朴で可愛らしい花が緑の中に点在し、控えめながらも見る者を楽しませてくれていた。


 花の中でも、一番多く見られたのはリナリアだった。桃色、白、黄色など様々な色の花弁を鈴なりに付け、灌木の陰でひっそりと佇んでいる。自らの存在を主張することなく、静かに茎を伸ばすその姿はかえって芯の強さを感じさせ、オリヴィエはその小さな花の中に確かな生命力を感じ取っていた。


「私の名前はこの花から取ったんですの」


 オリヴィエの隣を歩きながら、彼女がリナリアの花を見つめているのに気づいたリアが言った。


「私の母がこの花が好きだったようで、父はプロポーズの時にリナリアの花束を贈ったんです。普通、プロポーズと言ったら薔薇のような立派な花を使うと思うのですけれど、父は女心に疎かったようですわ」


「そんなことはないでしょう。リナリアも素朴ですが愛らしい花です。人目を惹く華やかさはなくとも、控えめに佇む姿には不思議と心惹かれるものがある……。私はこの花が好きですよ」


 オリヴィエが目を細め、愛おしむようにリナリアの花を見つめて言った。彼女の視線は花に注がれていたので、リアがそこで少し顔を赤らめたことには気づかなかった。


「それにしても、牧場の仕事というのはなかなか大変ですね」オリヴィエが花から顔を上げて言った。「朝から晩まで力仕事の連続で、ただ家畜を愛でるだけの仕事ではないことがよくわかりました」


「ええ……。私も慣れるまでは苦労しましたわ。最初は干し草を運ぶだけでも疲れてしまって、何度もへたり込んでは両親に叱られていましたの」


「若い女性であれば無理はないでしょう。ですが、今は一人前の牧人としておじいさんを支えておられる。ご立派だと思いますよ」


 実際、リアは働き者だった。小さい身体で一生懸命に干し草を運び、自分の二倍は体格がありそうな馬のブラッシングを熱心にしていた。それも少しも辛そうではなく、鼻歌を歌いながら楽しげにこなしていたので、見かけによらず壮健な少女だと感心していたのだ。


「私、牧場の仕事が好きなんです」リアがにっこり笑った。「元々身体を動かすのは好きですし、動物を見ていると癒やされますもの」


「そうですか。ですが、あなたのような若い女性であれば、都会で華やかな生活を送りたいと思うものでは?」


「街で暮らしたいとは思いませんわ。綺麗なお洋服なんて私には似合いませんし、社交の場に行くのも恥ずかしいですもの。ここは不便ですけれど自然が豊かですし、こうして森を散歩できるのも気に入っておりますの」


「なるほど。確かにこの森は落ち着きますね。ここにいると故郷を思い出します」


「騎士様の故郷……。エーデルワイス王国でしたわね。そこにもここと同じような森がありますの?」


「ええ。トリトマの森と言って、王城の近くにありました。この森と同じく、四季折々の花が咲き乱れる美しい森で、警備や訓練に行く前にはよく散歩をしたものです。他の騎士への稽古の場として使ったこともありました」


 話をしながら、オリヴィエはシャガのことを思い出していた。シャガは今頃どうしているのだろう。金騎士団の騎士に破れはしなかっただろうか。稽古の相手を失って途方に暮れてはいないだろうか。誰か代わりに稽古をつけてやる者がいればいいが、花騎士団の連中は彼を勝数稼ぎの踏み台程度にしか考えておらず、彼が強くなるのに手を貸そうとする者はまずいないだろう。見込みがあるとすればルドベキアくらいだろうか。


「……騎士様は、その方とお友達でいらっしゃいましたのね」


 数少ない騎士仲間の現状に思いを馳せていたオリヴィエは、リアに声をかけられて意識を現実に戻した。リアは微笑んでいたが、その表情は少し寂しげだった。


「こんな辺鄙なところで暮らしていますから、私にはお友達がおりません。もちろん動物のお友達はたくさんおりますし、祖父もいるので寂しくはないのですけれど、それでも時々不安になるんです。いずれ祖父が他界すれば、私はここで一人になってしまう。そうなった時に、一人で牧場を続けていけるのかと……」


 憂鬱な心境が伝わったのか、リアの足取りが自然とゆっくりになっていき、やがて立ち止まって草むらに視線を落とした。オリヴィエも立ち止まって彼女を見下ろす。二人の間を風が吹き抜け、足元に咲いた桃色のリナリアが揺れる。


「私……騎士様が来てくださって、本当に感謝しているんです」


 草花に視線を落としたまま、リアがおもむろに呟いた。


「祖父と二人でいた時よりも牧場の仕事もはかどっていますし、家の中も賑やかになりました。お料理も、食べてくれる方が増えたおかげで作りがいがありますし、こうして森を散歩しながらお話できるのも嬉しいんです。

 だから……もし騎士様がお嫌でなければ、ずっとここにいてくださっても……」


 手を後ろ手にし、恥じらいを見せながらリアが上目遣いにオリヴィエを見上げてくる。オリヴィエは当惑したが、すぐにかぶりを振って言った。


「申し訳ありませんが、それはできません。ここでの生活には私も心地よさを感じていますが、私には帰るべき場所がある。いつまでも牧場に留まることはできません」


「そう……ですわよね。すみません、わかりきったことを言ってしまって」


 申し訳なさそうに言いつつも、リアの表情には落胆が浮かんでいた。牧場での生活が気に入っているとはいっても、彼女はまだ若い娘なのだ。同世代との関わりがない生活に寂しさを覚えるのも無理はないだろう。オリヴィエはそう考え、リアの胸中を深追いすることはしなかった。

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