優しさに触れ

「それで、ここからエーデルワイスの王城まではどのくらい距離があるのですか?」


「ここはディモルフォセカの東の端にありますからな。先ほども申しましたように数千キロメートルはあるでしょう。……少しお待ちください。どこかに地図があったはずです」


 マルコが立ち上がり、ゆっくりと棚の方に行って地図を探し始める。オリヴィエはその背中を見つめながらもう一口ミルクを飲んだ。マルコの一連の話にはそれなりに説得力がある。彼が研究者だったというのも作り話ではないだろう。


「あぁ、こちらにありました。少し古いものですが、地名などは変わっていないはずです」


 マルコが棚から丸めた用紙を引っ張り出して戻ってくる。再び椅子に腰かけたところで彼はテーブルの上でそれを広げた。黄ばんだ用紙に地形と地名が描かれている。


「ここにあるのがシオンの森です」マルコが地図の右端にある緑色の一帯を指差した。


「わしらの牧場はこの近くにあります。そしてエーデルワイス王国はここに」しなびた指を二十センチほど左斜め上に動かす。

「直線距離では近く見えますが、実際には道が迂回しており、いくつか街を経なければ国境には辿り着けません。しかも王城はエーデルワイスの中心部にありますから、王城に到着するまでには数か月はかかるでしょうな」


「数か月……」


 それほど長い期間王城を不在にしたことなどない。自分がいない間にアイリスの身に何が起こるかと思うと、オリヴィエは気が気ではなかった。


「もっと早く戻る方法はないのですか? 例えばもう一度空間転移をするなど……」


「それは難しいでしょう。空間のひずみは狙って生み出せるものではないのです」


「では、馬を飛ばすなどすれば……」


「それでもせいぜい数日縮まる程度でしょう。それに馬も休まずに走り続けられるわけではない。餌も休息も必要です。

 それに旅をするとなれば資金が必要ですが、見たところあなたは金品の類いをお持ちではないようだ。となればまずは資金集めから始めなければならず、実際にはさらに多くの時間がかかると思われます」


「つまり……私は当分王城には戻れないと?」


「そういうことになりますな」


 何と言うことだろう。摩訶不思議な現象に巻き込まれただけでなく、長期間にわたって祖国から引き離されてしまうとは。


 自身の置かれた状況を理解した途端、様々な懸念がオリヴィエの脳内を駆け巡った。戦力を欠いた花騎士団、金騎士団の再来、そしてアイリス……。アイリスは今どうしているのだろう。突然姿を消した自分の身を案じてくれているだろうか。

 いや、それよりも自分が不在の今、彼女の身を護る人間がいないことの方が問題だ。ゼラの唯一の弱点として、金騎士団はすでにアイリスに目を付けている。彼女が再び狙われることは想像に難くない。オリヴィエは不眠不休で歩き続けてでも彼女の元に帰りたかったが、祖国から数千キロメートルも隔てられた状況で実現できるはずもない。


「ねぇおじいさま、このままでは騎士様があまりにもお気の毒だわ。何か援助を差し上げることはできないの?」


 それまで黙って話を聞いていたリアが祖父に問いかけた。マルコは元々下がっていた白い眉をさらに下げると、かぶりを振って言った。


「わしもそうしたいのは山々じゃが、この家に余裕がないことはお前も知っているじゃろう。わしら二人が日々生活していくので精一杯じゃよ」


「なら……せめてしばらく騎士様にここで暮らしていただくことはできないかしら? その間に少しでもお金を貯められれば旅の資金にできると思うの」


「ふむ……。まぁその程度であれば問題はないか。いかがでしょうか? 騎士様」


「いえ……そこまでご厚意に甘えるわけにはいきません。こうしてお話を窺えただけでも十分助かりました」


 オリヴィエは心から言った。この少女と老人が自分を欺罔ぎもうしているかもしれないという懸念はすでに消えていた。


「ですが、資金もなしに不慣れな土地を旅するなど懸命とは言えませぬぞ。ましてあなたは武器すらも持っておられぬようにお見受けしますが」


 マルコに痛いところを突かれてオリヴィエは顔をしかめた。確かに金銭も武器も持たぬ状態で敵地を放浪するなど正気の沙汰ではない。もし自分が潜伏していることを金騎士団に嗅ぎつけられようものなら、即刻投獄されて処刑されるのが目に見えている。


 とはいえ、この親切な老人と孫の申し出を受け入れることにも抵抗があった。彼らの厚意が心からのものであると今では信じることができたが、たかだか馬一匹を捕らえた程度で寝食の供を受けるなど、あまりにも厚顔に過ぎると思った。


「私達に迷惑をかけると考えていらっしゃるのなら、心配なさらないでくださいまし」


 オリヴィエの心中を汲み取ったのか、リアがにっこりとオリヴィエに笑いかけた。


「この家は元々私と両親、それに祖父母の両親の五人で暮らしていたんです。でも祖母と両親は他界して部屋は余っておりますし、二人暮らしでは少し寂しいと思っていたんです。食事だって、二人分と三人分ではそう変わりありませんわ」


「ですが……」


「お願いです。このままでは私達の気が済みませんの」


 リアがきっぱりと言ってオリヴィエを見つめてくる。純粋でまっすぐなその瞳を見ていると、オリヴィエは彼らの厚意を断る方が失礼な気がしてきた。腕組みをしてしばらく考え込んだ後、覚悟を決めたようにゆっくりと頷く。


「わかりました。ですが、ただ泊めていただくだけでは甘えが過ぎるというもの。ここに滞在している間、牧場の仕事を手伝わせてはいただけませんか?」


「もちろん構いませんわ。騎士様がお手伝いしてくださるのであれば私達も助かります」


「ではこうしましょう」マルコが皺んだ指を立てた。「騎士様が牧場の仕事を手伝ってくださった分、わしは賃金をお支払いします。そうして旅の資金を貯め、ある程度の金額に達すれば出発されるということでいかがでしょうか?」


「私の方に異存はありません。ですが、それではあなた方に負担を強いることになるのでは?」


「いえ、わしらとしても、ただ手伝っていただくのでは申し訳ありませんから、目に見える形で対価を受け取っていただいた方がいいのですよ」


「……そうですか。ならば、ご都合のよいようにしていただきましょう」


「わかりました。では、しばらくの間よろしくお願い申し上げます」


「よろしくお願いいたしますわ、騎士様」


 マルコが糸のような目をさらに細めて笑い、リアもにっこり笑って小首を傾げる。実直そのものの二人の笑顔を見つめながら、オリヴィエは彼らの善意を疑った自分を恥じた。

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