博識の牧夫

 リアに連れられてシオンの森を抜け、五分ほど歩いたところで二人は牧場に辿り着いた。牧場と行っても広大な敷地があるわけではないようで、小さな厩舎に円形の木柵で囲われた牧草地が併設されている程度のものだ。好天のためか家畜は放牧されており、水飲み場で水を飲んだり、牧草地で草を食んだりしている。


 家は厩舎のすぐ隣にあった。こじんまりとした木造の家で、一階建ての茶色い外壁の上に赤茶色の三角屋根が付いている。建てられてから相当年月が経っているようで、ところどころ木の色が変わっていたが、その質素な雰囲気がかえって好ましさを感じさせた。


 ブレットを厩舎に繋いだ後、オリヴィエに家の前に待つように言ってからリアは一人で家の中に入っていった。

 待っている間、オリヴィエは改めて牧場を見回してみた。燦々と降り注ぐ日光の下で、馬は軽快に蹄を鳴らして牧草地を駆け回り、牛や山羊は尻尾を左右に振りながら足元の草を食んでいる。羊は日光浴でもしているのか、日当たりのよい場所で身を寄せ合い、鶏は虫でも見つけたのか、鶏冠とさかを揺らして歩きながらしきりに草をついばんでいる。生き物たちが好き好きに生命を謳歌するその光景は何とも牧歌的で、人間の浅ましさを日常的に見ているオリヴィエからすれば、何とも平和で羨ましい眺めだった。


「お待たせいたしました、祖父を連れてきましたわ」


 前方からリアの声がしたのでオリヴィエは視線を戻した。玄関の扉を開けたリアの後ろに一人の老人が立っている。リアと同じくらいの背丈しかない小柄な老人で、腰が曲がっているせいで彼女よりもさらに頭一つ分小さく見えた。服装は白いシャツの上に黄土色のオーバーオールを着ていて、手には軍手を嵌め、足元には黒い長靴を合わせている。服にも靴にもうっすらと土汚れが付いているのは仕事の途中だからだろうか。垂れ下がった白くふさふさとした眉と、糸のように細い目はいかにも温厚そうで、見知らぬ客に対する敵意はなさそうだった。


「孫から話は聞きました。このたびは馬を捕まえてくださったそうでありがとうございます」老人がゆっくりと頭を下げた。

「わしはマルコと言います。妻には数年前に先立たれましてな、今は孫と二人でこの牧場を二十年近く営んでおります」


「突然押しかけてしまい申し訳ありません」オリヴィエも礼を返した。

「私は騎士のオリヴィエと申します。お孫さんから、あなたが昔王都で研究者をされていたとお聞きし、何か情報が得られるのではないかと思い訪問をさせていただいたのです」


「あなたは花騎士団の騎士というお話でしたな。エーデルワイス王国にいたはずが、目が覚めるとなぜかディモルフォセカにいたと」


「ええ……。なぜこのような事態が生じたのか、まるで理解が及びません。研究者をされていたあなたであれば、何かこの事態を説明する逸話をお知りではないかと考えたのですが」


「研究者と言っても二十年以上も前の話ですから、お役に立てるかどうか……。まぁ立ち話もなんですから、ひとまず中にお上がりください。そこで詳しいお話を聞かせてくだされば、私もできる限りご協力させていただきましょう」


「助かります」


 話をしながらオリヴィエはマルコの様子を窺っていた。一見無害に思える人間が、腹の底では一物を抱えていることは珍しくない。この老人も好々爺こうこうやを装っていながら、裏では金騎士団と内通している可能性は否定できない。だから彼の言動を注意深く観察していたのだが、今のところ自分を罠に嵌めるような兆候は見られない。


 リアの厚意を疑うわけではなかったが、ここが敵地である以上、初対面の相手に安易に気を許すわけにはいかなかった。




 室内は外観よりもさらに質素な雰囲気だった。家具はいずれも木製で、テーブル、椅子、箪笥たんすなど必要最小限のものが並んでいるだけだ。壁や天井に取り付けられた黄色いランプが申し訳程度に部屋を照らし、狭い台所は銀色の両手鍋が一つあるだけですでにいっぱいになっていた。飾りといえば窓の下に置かれた手のひらサイズの鉢植えと、テーブルの上に飾られた白いカスミソウの花くらいで、華美なところは一切ない。だが、そうした飾り気のなさがかえって素朴な暖かみを感じさせ、空間に落ち着きをもたらしていた。


 マルコはオリヴィエを椅子に座らせ、自分はその向かいに腰かけた。リアが台所に行ってポットを用意し、しばらくしてから湯気の立つカップを三つお盆に載せて運んでくる。オリヴィエとマルコの前に一つずつカップを置いた後、残ったカップをマルコの隣に置いて自分はその前に腰かけた。牧場で採れたものか、カップにはホットミルクが入っており、立ち上る湯気が頬を暖めてくれたが、オリヴィエはすぐには手をつける気になれなかった。


 オリヴィエは自分の身に起こったことを搔い摘まんで話した。王城が金騎士団の夜襲を受けたこと、金騎士団の隊長である男と戦ったこと、彼の持つ炎の剣と自分の剣が交わった時、二つの剣が光を放ち、気がついたら見知らぬ森に飛ばされていたこと。マルコもリアも一切口を挟まず、興味深そうにオリヴィエの話を聞いていた。


 全ての話を終えた時には十分以上が経過していた。カップから立つ湯気はとうに冷めてしまっている。マルコがカップを口に運んだのを見て、オリヴィエもようやく自分のカップに手をつけた。ミルクを少しだけ口に含み、舌の上で慎重に転がす。特に異変はない。毒は入っていないようだ。


「……なるほど、それであなたは、数千キロメートルに及ぶ距離を飛ばされてしまったというわけですか」


 マルコがゆっくりと頷きながら言った。カップをテーブルの上に置いた後、テーブルの上で手を重ねて続ける。


「わしは引退した身ですから断定的なことは申し上げられません。ですが、憶測を述べさせてもらうならば、あなたはおそらく空間転移をされたのでしょう」


「空間転移?」


「はい。極限まで高められたエネルギー同士がぶつかったとき、空間に一時的にゆがみが発生し、近くにいた物を別の空間に飛ばしてしまう現象が何度か発見されています。あなたの身にもそれと同じことが生じたのではないかと」


「つまり……私とその騎士の決闘が、空間に影響を与えたと?」


「その可能性は高いでしょうな。卓抜した騎士同士の戦いともなれば、そこで生じるエネルギーは爆発的なものになる。それが超常的な現象を起こしたとしても不思議はありません」


 そう言われてもオリヴィエは賦に落ちなかった。そもそも剣に魔法が宿るなどということ自体が信じがたいのだ。そのうえ空間転移などという非科学的なことを聞かされても早々納得できるものではない。

 だが、現実に自分が見知らぬ土地に飛ばされている以上、その不可解な現象が起こったと受け入れるしかないだろう。オリヴィエはそう考えて実利的な質問をすることにした。


「空間転移が生じた場合、影響を受けるのは一人だけなのですか?」


「いいえ、一時的とはいえ、空間のひずみによって生じる引力は凄まじいものです。あなた一人だけが影響を受けたとは思えません」


「では、相手の騎士も私と同じように空間転移をしたと?」


「その可能性は高いでしょうな。エネルギーを発生させた者はひずみに一番近い場所にある。影響を免れることはまずできぬでしょう」


 となれば、蒼炎の騎士だけが王城に残された可能性は低いということだ。であればアイリスも無事なはず。確証が得られたわけではないとはいえ、あの悪夢のように彼女が煉獄の中で朽ち果てたわけではないと思うと、オリヴィエは自然と安堵が湧き上がるのを感じた。

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