牧場の花

 その時、後方から音が聞こえてオリヴィエは振り返った。小気味よく地面を蹴るようなあの音は馬のひづめだろうか。


 そう考えていると間もなく実際に馬が茂みから飛び出してきた。立派な体躯をした白馬で、手綱と結びつけられたくつわを口にくわえている。


「ブレット! 待って!」


 茂みの奥から別の声が聞こえる。オリヴィエがその方に視線を向けると、一人の少女が茂みから飛び出してくるのが見えた。


 年齢は十七、八歳くらいだろうか。薄桃色の髪は肩の上辺りで切り揃えられ、頭頂部から毛先にかけて丸みを帯びたシルエットをしている。服装は薄茶色をした長袖のワンピースで、腰の下辺りに大きなポケットが付いていることからしてエプロンのようだった。ワンピースは膝が隠れるほどの長さがあり、スカートのすぐ下から焦げ茶色の布製のロングブーツが見える。若い娘にしては随分と地味な格好だ。


 森を駆け回る白馬を少女は懸命に追いかけていたが、疾走する馬の勢いには到底追いつけず、すぐに息を切らして膝に手を突いた。しばらくして顔を上げたところで、彼女を見つめているオリヴィエと目が合った。


「その子を捕まえてくださいまし! 牧場の馬なんです!」


 少女がオリヴィエに向かって叫ぶ。その声に驚いたのか、立ち止まって様子を窺っていた白馬がいななきを上げて再び駆け出した。木々の間を縦横無尽に駆け回った後、少女がいる場所とは反対側へ逃げ出そうとする。


 オリヴィエは横から馬の傍に回り込むと、胴体に片手を突いて馬に飛び乗った。馬は驚いて立ち止まり、身体を捩ってオリヴィエを振り落とそうとする。オリヴィエは馬の首に片手を回してしがみつき、その間にもう片方の手で手綱を取った。左右交互に手綱を引いて馬を落ち着かせようとする。最初は暴れ回っていた馬も手綱の牽制を受けて次第に動きが鈍っていき、やがて大人しくなって足元の草をみ始めた。


「あぁ……よかった。一人で走り出した時はどうしようかと思いました」


 少女が安堵した様子で息をつきながらオリヴィエの方に近づいてくる。オリヴィエは馬から降りて少女の前に立った。


 改めて観察すると、少女はなかなか可愛らしい顔立ちをしていた。頬は丸くふっくらとして、くりっとした瞳は栗鼠りすを思わせる。化粧はしていないようだったが、それがかえって純朴な雰囲気を醸し出している。こんな地味な格好をしていなければもっと異性の目を引いただろう。


「この子、普段はもっと大人しいんです」少女が言った。

「ただ性格が怖がりで、少し刺激を与えただけでも走り出してしまうんです。そうなると私の力では止められなくて……。あなたがいてくださって助かりました。本当にありがとうございました」


「礼には及びません。馬の扱いには慣れていますので」


「まぁ、そうなんですの?」


「はい。時々騎馬の訓練を行うことがあるのです。実戦で試したことはありませんが」


「騎馬……? そういえば鎧を着ていらっしゃいますのね。もしかしてあなたは騎士様ですの?」


「はい。花騎士団の騎士です」


「花騎士団……?」


 少女が小首を傾げてオリヴィエを見つめる。まるで今初めてその単語を聞いたような反応だ。エーデルワイス王国に花騎士団を知らない人間などいるのだろうか。


「それよりも、この馬はあなたのものなのですか?」オリヴィエが白馬の方を見やって尋ねた。「先ほど牧場とおっしゃっていましたが」


「はい。私はこの近くにある牧場で祖父と二人で暮らしておりまして、そこでこの子を飼っているんです。名前はブレットと言います」


 名前を呼ばれたことに気づいたのか、草を食んでいたブレットが顔を上げて鼻息を鳴らした。少女が目を細めてブレットのたてがみを撫でる。


「牧場……ですか」オリヴィエが訝しげに繰り返した。「私の記憶では、トリトマの森の近くに牧場はなかったような気がするのですが、最近引っ越してこられたのですか?」


「いいえ。私は生まれた時から牧場で暮らしています。それにここはトリトマの森ではありませんわ」


「何ですって? ではここはどこなのです?」


「シオンの森です。ノウゼン地方の東の端にある森ですわ」


「ノウゼン地方……? そんな地方はエーデルワイス王国にはなかったはずですが」


 どうもさっきから話が噛み合わない。オリヴィエが訝っていると、少女が不思議そうに首を傾げて言った。


「ここはエーデルワイス王国ではありませんわ。ディモルフォセカの領土です」

「何ですって!?」


 先ほどよりも強い口調でオリヴィエが聞き返す。少女がびくりとして身を引いた。


「どういうことだ……? なぜ私がディモルフォセカに……?」


 気を失う前に起こった出来事を懸命に思い出そうとする。蒼炎の騎士と死闘を繰り広げている最中、騒ぎを聞きつけて部屋から顔を覗かせたアイリス。蒼炎の騎士の刃が彼女を襲い、自分は主人の盾になろうと立ちはだかった。二つの剣が重なり合った時、突然眩い光が辺りを貫き――そうだ、あれから間もなく自分は気を失ってしまったのだ。あの一瞬にいったい何があったのだろう。


 オリヴィエが黙り込んでしまったのを見て、少女は困惑した様子で彼女を見つめていたが、やがて思いついた様子で言った。


「あの……もしよろしければ、私の家で詳しくお話を聞かせていただけませんか? 祖父は昔、王都で研究者として働いていたんです。祖父であれば何かわかるかもしれません」


「ですが、御迷惑では? 私はあなた方とは何の関係もないのですよ」


「そんなことはありませんわ。あなたは私を助けてくださったんですもの。お礼もせずにお見送りしたら祖父に叱られてしまいますわ」


 オリヴィエは腕組みをして考え込んだ。ここは敵国だ。下手に動き回れば金騎士団に遭遇する危険性もある。武器があればいざ知らず、今の自分は丸腰。できれば金騎士団に遭うのは避けたい。

 ならば先にすべきことは、情報を集めて事態を正確に把握することだ。この少女も敵国の人間ではあるが、悪人ではないように見える。彼女とその祖父がオリヴィエを金騎士団に突き出すような真似はおそらくしないだろう。


「わかりました。では、お言葉に甘えさせていただいてもよろしいでしょうか?」

「もちろんですわ。……あ、申し遅れました。私はリナリアと申します。どうぞリアと呼んでくださいまし」


 リアが小首を傾げて可愛らしく笑う。リナリア。パステルカラーの小さな花弁が穂状に連なる素朴な花だ。この少女にはぴったりの名前だとオリヴィエは思った。

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