第二部 高貴なるもの

第六章 故郷を想うは牧場の大地

目覚めた先は


 オリヴィエ……。オリヴィエ……。




 自分の名を呼ぶ声が聞こえてオリヴィエはゆっくりと目を開けた。長い眠りから覚めた後のように頭がぼんやりしている。ここはどこだろう。瞬きをしつつ辺りの光景を見ようとするが、なぜか霧に包まれたように視界がはっきりしない。




 オリヴィエ……。オリヴィエ……。




 再び例の声が聞こえる。どこか不安げな、か細い声。

 その声には聞き覚えがあった。十年前から何度も耳にしてきた声。アイリスのものだ。


 オリヴィエは首を捻って主人の姿を探そうとした。蜃気楼のようにおぼろげな視界の中に、瑠璃色の長い髪をした女性の背中が浮かび上がる。


「姫様?」


 アイリスはゆっくりと振り返った。オリヴィエの姿を見ると安心したように表情を綻ばせる。どうやら自分を探してくれていたらしい。心が喜びで満たされるのを感じながら、オリヴィエは自分も微笑みを浮かべて主人に近づこうとした。


 だが次の瞬間、二人の間を引き裂くように地面から青い炎が勢いよく噴出した。炎は瞬く間に凄まじさを増してアイリスを呑み込んでいく。アイリスは恐怖に顔を引きらせて絡みつく炎から逃れようとしたが、もがけばもがくほど炎は激しさを増し、ついには煉獄れんごくとなって彼女のドレスや肌を焦がしていった。


「姫様!」


 オリヴィエは血相を変えて駆け出そうとしたが、そこで誰かに左腕を摑まれた。急いで振り返ると、漆黒の鎧をまとった騎士が眼前に立っていた。


「あなたの桎梏しっこくは取り払われました。これからは私があなたの主人となりましょう」


 詩人のような声でそう告げると、騎士はオリヴィエを抱擁しようとでもするかのように彼女の腕を自分の方に引き寄せた。

 オリヴィエは彼の手から逃れようと右手を腰に伸ばしたが、そこにあるはずのエリアル・ブレードが見当たらない。焦燥を覚えつつ辺りを見回すと、いつの間にか傍に真っ赤な薔薇の花びらが積み上がっていた。花びらの中から何かがむっくりと起き上がる。金色の鎧。ロベリアだ。その手になぜかエリアル・ブレードが握られている。


「見つけたぞ、翠色の騎士。あの時の雪辱をここで晴らしてくれる!」


 兜の下側から覗く口元を歪めてロベリアは叫ぶと、嬉々としてエリアル・ブレードを振り上げた。

 オリヴィエは右腕を顔の前にかざして籠手ガントレットで攻撃を受け止めた。がいん。硬い音を立てて籠手にひびが入り、もろもろと崩れ去る。無防備になった肌を切り裂こうと再び刃が空を裂いたが、そこで右手からごうっと火の手が上がった。


「オリヴィエ……。助けて……。オリヴィエ!」


 炎の中から聞こえた悲痛な声がオリヴィエの闘志を呼び覚ました。漆黒の騎士の手を振り払い、ロベリアの追撃を掻い潜って自身も煉獄の中に飛び込む。だが、炎の中のどこを探しても主人の姿は見当たらない。


「姫様! どこですか! アイリス様!」


 声を限りに叫んでも耳を打つのは燃え盛る炎の音ばかり。剥き出しになった右手を舐めるように炎がちりちりと肌を焦がしたが、構う余裕もなかった。狂ったように主人の名を呼び、可憐な花が灰燼かいじんに帰すのを必死に食い止めようとする。


 その時、再び背後からごっという音がしてオリヴィエは振り返った。燃え立つ炎の中に生き物の姿が浮かび上がっている。両翼を広げた鳥。不死鳥だ。


「あなたが振り向いてくださらないのであれば仕方がありません。お望み通り、主人の元へお送りして差し上げましょう」


 爆ぜる火の粉に混じって落ち着いた声音が響く。次の瞬間、青き不死鳥が巨大な翼を広げて勢いよく襲いかかってきた。甲高い鳴き声が葬送曲のように耳朶じだを貫く。


 オリヴィエは踵を返して逃げ出そうとしたが、今度は反対側から弓状の閃光が向かってきた。ロベリアがエリアル・ブレードを振るったのだ。炎と風。二つの魔剣の力を受けてはもはや抗う術もなく、一瞬の逡巡の後、オリヴィエは自らの刃の方に向き直って運命を受け入れようとした。




 そこでオリヴィエははっとして目を開けた。瞬きをして前方を視認する。金色の鎧も青い不死鳥も見当たらない。代わりに見えたのは緑の光景だ。一面に広がる新緑の木々と、苔むした地面。どうやら森の中のようだ。うつ伏せに倒れているようで、ひんやりとした柔らかな土の感触が頬から伝わってくる。


 何度か瞬きを繰り返した後、オリヴィエは地面に手を突いて上体を起こした。今一度辺りを確認する。

 そこに広がっているのはやはり一面緑の光景で、森の背後には青々とした空が見える。最初はトリトマの森にいるのかと思ったが、森の近くにあるはずの王城は見えず、足元で咲き誇る花々の姿もない。いつも来ている場所とは別のエリアなのだろうか。


 止まり木の上でさえずりを交わす小鳥の声を聞きながら、オリヴィエは我が身に起こった事態について思いを巡らせた。

 どうやら自分は気絶していたようだが、なぜ森にいるのかがわからない。気を失う前、自分は王城にいたはずだ。夜、宿舎で眠りについていたところをシャガに起こされ、金騎士団の急襲を知らされた。加勢すべく起き出してグラジオ達と合流し、彼の命で王族の居住区画へと向かったことまでは覚えている。その先で対峙した男――蒼炎そうえんの騎士のことも。


 蒼炎の騎士――その名を思い出すだけでオリヴィエは身震いした。

 相対する前から手練れであることは予想していたが、彼の実力は想像以上だった。その俊敏な動きや華麗な剣さばきもさることながら、剣から炎を放つという魔術的な力を前に自分は全く太刀打ちできなかった。一方的に攻撃を受けた挙げ句、小娘のように軽口であしらわれただけだ。そのことを思い出すと屈辱が湧き上がり、オリヴィエは自身の無力さに打ちのめされそうになった。


 だが、今はそれよりも気にかかることがある。アイリスのことだ。

 自分が気を失う直前、蒼炎の騎士はアイリスに炎の刃を向けていた。今しがた見た夢のように。あれが正夢だったなどと信じたくないが、何はともあれ主人の身の安全を確かめなければならない。そう考えてオリヴィエは無意識のうちに腰に手を当てたが、そこにあるべきものがないことに気づいた。エリアル・ブレードがなくなっている。


 オリヴィエは急いで立ち上がって剣を探した。木々の間を覗き込んで縫うように視線を走らせるが、剣はどこにも落ちていない。それに兜もいつの間にか脱げてしまっている。鎧は身につけているとはいえ、自分が丸腰でいると思うとオリヴィエは急に心許なくなった。兜はまだしも、剣は何としても取り戻さなければならない。

 だがどこを探せばいいのだろう。そもそもここは本当にトリトマの森なのだろうか。

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