現れし宿敵

 王族の居住区画は城の最上階にある。寝室を始め、書斎、居間、化粧室、更衣室、礼拝堂等、王族の生活に必要な部屋は一通りこの階に集められている。階下の騒動はここまでは届いていないのか、三つ並んだ寝室はどれも静まり返っていた。聞こえる音と言えばオリヴィエ自身の足音と、エリアル・ブレードの鞘が鎧に当たって揺れる音だけだ。


 オリヴィエは注意深く辺りを見回した。柱の陰や彫像の裏側など、人が潜んでいそうな場所は一通り探したが蒼炎の騎士らしき人物の姿はない。他の金騎士団の姿もなく、侵入者の魔の手はここには及んでいないようだ。


 オリヴィエは寝室の扉に片耳を当てて室内の様子を窺った。一番奥にあるゼラの部屋からは大きないびきが聞こえてくる。多忙な公務を離れて束の間の安らぎを味わっているのだろう。その向かいにあるカトレアの部屋からは喘ぎと嬌声きょうせいが漏れ出している。また男を部屋に連れ込んでいるのだろうか。こんな非常事態にまで呑気な――。自然と拳に力が入ったが、ともあれ無事ならばよいと思い直して足早に部屋の前から去った。


 最後に確かめたのは一番手前にあるアイリスの寝室だ。扉に片耳をつけ、どんな些細な音も聞き漏らすまいと神経を集中させる。

 だが室内からは何の音もしなかった。単に寝入っているだけならよいが、すでに敵が侵入している可能性もある。


「姫様? そこにいらっしゃるのですか?」


 逸る思いで扉をノックして呼びかける。返事はない。もどかしい思いでドアノブを握るも扉には鍵がかかっていた。


「金騎士団の騎士が階下に攻めてきています。また姫様を人質に取るつもりかもしれません。どうかお目覚めになってはくださいませんか?」


 先ほどよりも大きな声で言って扉を三度叩くが、やはり中から返事はない。不吉な予感が胸の内側に広がっていったが、急いでかぶりを振って打ち消した。


(……落ち着け、私らしくもない。玄関ホールを突破した者がいない以上、姫様の御身おんみも安全なはず。何をそんなに焦る必要がある?)


 敵兵の急襲を前に狼狽えているのか。いやそうではない。相手がただの賊ならば、いかに多勢であろうと迎え撃って殲滅せんめつさせるのみ。今、こんなにも心が逸っているのは、やはり相手が『蒼炎そうえんの騎士』だからだろうか。


(……ロベリアは奴が尋常ならざる力を持っていると言っていた。その言葉の真偽はわからぬが、少なくとも相当な手練れであることは事実。おそらく、私がこれまでに戦った誰よりも……)


 未知なる強敵を前にした緊張感。普段であればそれはオリヴィエの闘志を呼び覚まし、高められた士気が平時以上の力を発揮させたことだろう。

 だが今のオリヴィエは、戦いに際した高揚感を抱くことができなかった。代わりに胸の内にあるこの感情は、形容するならば微かな不安だろうか。


(……いや、弱気にはなるまい。相手がいかに手練れであろうと全力で向かい、そして打ち倒す。それこそが、『翠色すいしょくの騎士』としての私の務めなのだからな)


 オリヴィエはそう決意すると、アイリスの寝室の扉に背をつけて敵を待ち受けた。






 待ち人は十分ほどしてから現れた。風が窓を叩く微かな音に混じって階段を上る足音が聞こえたのだ。

 音はゆっくりと、だが明確な意志を持ってこちらに近づいてくる。足音に混じってかしゃ、かしゃと金属が擦れるような音が聞こえてくる。耳慣れた音。剣と鎧が重なり合う音だ。


 オリヴィエは固唾を呑んで敵の出現を待った。両手を剣の柄に添え、いつでも抜き出せるように構えの姿勢を取って。

 だが、敵の足取りは焦れるほど遅く、あえて時間をかけることでこちらを消耗させる作戦のように思えた。


 一瞬足音が止まった後、角になった廊下の向こうから一人の人物が姿を現した。窓から差し込む月光が男の姿を照らし、廊下に長い影を伸ばしていく。


 まず目に付いたのは鎧の色だった。階下で見た騎士たちとは違い、漆黒の色をしている。闇よりも黒いその色は、そのまま床に伸びる影に溶けてしまいそうだった。だが、鎧の胸には金騎士団と同じ国章が刻まれており、彼がディモルセルカの刺客であることは間違いない。背はオリヴィエよりも頭一つ高く、細身の体躯が黒い鎧によってますます引き締まった印象を与える。兜を被っているので面立ちまではわからない。


「……お前が蒼炎の騎士か?」


 低い声で尋ねる。オリヴィエの位置からでは剣の形状までは確認できなかった。


「ええ、私をそのように呼ぶ方もいらっしゃいます。もっとも、あざなになど大して興味はありませんが」


 蒼炎の騎士が答えた。隊長ということでグラジオのように怒号を飛ばす男を想像していたが、実際には口調は至極丁寧で、声も詩人のように耳に心地よい。


「そういうあなたは『翠色の騎士』ですね。噂通り、美しい髪をお持ちのようだ。できれば兜を脱いだ状態でじっくり拝見したいものです」

「お前の目を楽しませてやるつもりはない。ここに来た目的はなんだ?」

「あなたの背後にある寝室に御用がありまして。もちろん不埒ふらちな目的ではありませんよ。この国の麗しい姫君と少々謁見したいと考えただけです」

「謁見だと? れ事を。姫様をかどわかし、交渉の道具に使うつもりではないのか?」

「そのような粗暴な振る舞いをするつもりはありません。私はただ、姫君にご進言を申し上げたいだけです。我が国との協定は、貴国の利益にもなると御父上を説得してほしいと。我々には頑なな態度を取られるあの方も、大事な御息女の頼みとあらば聞き入れてくださるかもしれませんから」

「姫様がそのような戯言を真に受けられるとでも?」

「姫君は花を愛するお方と聞いています。この国の美しい花々が血で汚されることは望まれないと思いますが」


 蒼炎の騎士の口調はどこまでも飄々ひょうひょうとして摑みどころがない。想像とはかけ離れた姿を前にオリヴィエは面食らったが、当惑を表に出すまいとした。


「そもそもお前たちはなぜこの王国にこだわる? エーデルワイス王国には金の鉱脈など存在しない。武力を用いてまで奪う必要はないはずだ」

「目に見えるものにだけ価値があるとは限りませんよ。この国に咲く希少な花々は、目に麗しいだけでなく薬の素材としても適しています。もし新薬の開発に成功すれば多大な富をもたらすでしょう。無論、その利益は貴国と折半するつもりです」

「聞こえのいい言葉を並べてはいるが、貴様たちがこの国を文字通り蹂躙じゅうりんしようとしていることに変わりはない。そんなものに協力する道理はない」

「ではどうなさいますか?」

「お前をこの場で倒す。二度とこの国の敷居をまたがせないようにな」

「あなたにそれができるとでも?」

「当然だ。私が誰の娘か知らないわけではないのだろう?」

「ええ。『銀風ぎんぷうの騎士』……。敵兵五十人を一人で倒したという伝説の騎士。そしてあなたも、先日我が部隊の十名を討滅されたのでしたね。いや、お見事です」

「わかっているのなら大人しく引き下がるがいい。そうすれば姫様の安眠を妨害せずに済む」

「淑女の夢を妨げるのは私としても本意ではありません。ですが、私も陛下に仕える身として、何の手土産もなしに帰路につくわけにはいかないのですよ」

「ならばどうする?」

「この場で剣を交えるしかないようです。あなたもそのつもりだったのでは?」

「ああ。翻意するならば見逃してやろうかとも思ったが、徒労だったようだな」

「ええ、我々は最初から相対する運命にあった。この先は騎士らしく、剣で語り合うことにいたしましょうか」


 蒼炎の騎士が静かに告げ、おもむろに鞘から剣を抜き出す。青紫色の剣身を持ち、つばの部分に蝶を象った長剣が現れる。ロベリアの剣だ。


「貴様、自分の剣はどうした?」

「もちろん所持していますよ。ただ、まずは小手調べとしてこちらを用いろうと思いまして」

「ふん、小手調べとは舐められたものだ……。まぁいい、こちらは全力で行かせてもらう」


 鞘からエリアル・ブレードを抜き出して掲げる。深緑色の柄は闇の中でも鮮やかに浮かび上がり、弓なりになった長い剣身が月光を浴びてきらりと光った。


「ほう。それが銀風の騎士の形見ですか」蒼炎の騎士が感嘆の声を上げた。「噂には聞いていましたが、実に美しい剣だ。血で染めるには惜しい逸品ですね」

「ああ。だがこれは単なる芸術品ではない。父と共に戦場を渡り歩いてきた生ける剣だ。お前は身をもってその切れ味を知ることになる」

「光栄ですね。では、とくとその味を堪能することにいたしましょう」


 何を言っても軽口でいなされ、オリヴィエはますます調子を狂わされた。気取った台詞の数々は夜会で女を相手にする男のようで、とても五十人もの賊を倒した騎士のものとは思えない。自分が女だから侮っているのだろうか。

 だがそれならば好都合だ。相手が私の真価に気づく前に、二度とその軽口を叩けないようにする。それによってディモルセルカの脅威を永遠に取り払うのだ。

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